FULLMOON MAGIC






「あおしま…」
「ん…」
 室井は、うっとりと瞳を閉じる青島の髪をそっと撫でた。
 汗をかいた額に貼り付いた前髪を掻き上げると、気持ちよさそうな吐息が漏れる。
 瞳をあけると、室井が気遣うような微笑みを浮かべるから、青島もまた、微笑みで返す。
 …こんなふうに。
 あつくて甘い時間を過ごしたあとの優しい時間が、青島は好きだった。
 まだ汗の残る体を、室井にすり寄せる。
 室井は、少し驚いたような笑みを浮かべて、胸深くかきいだいてくれる。
 …こんなふうに。
 抱きしめられていれば、少しの間だけ、忘れていられる。
 いつまでこうして、いられるだろうか…。
 お互い忙しい時間を分け合って、人の目を盗むように会って、躯を重ねて。
 甘いキスに酔って、あつい時間に震えて。
 そして互いに微笑みあう、そんな時間を…いったい、いつまで持つことができるだろうか…。
 いつもいつも、そんな不安が青島を苦しめる。
 この不安を、室井に気づかせないことで精一杯で、捨て去ることなどとてもできない。
 こんなに、好きなのに。
 好きだけでは、許されない。…そんな関係。
 苦しくてたまらないけれど、でもこうして抱きしめられていれば、少しだけ忘れていられる。
 甘やかな安心感が、胸を浸していくから…。
 いつしか浅い眠りに入っていった青島がぽつりと言った言葉が、室井に届いていたことなど、青島は気づかなかった。





「いつまで…いっしょに…」





 ぼんやりとした景色が、目の前に広がっていた。
 淡い色調の、水彩画のような風景。
 道の両側に、きれいな一軒家が並ぶ長い坂道を登る。
 後ろを振り向くと、海の煌めきが遠くに見えた。
『ここ…どこだろ…?』
 ぼんやりと辺りを見回しながら、それでもなにかに導かれるように歩いていく。
 美しく整えられた庭に、水をまく女性がいた。
 彼女は青島に気づいて、微笑みながら頭を下げた。
 ついつられて、青島も会釈を返す。
 彼女の後ろで、子供と遊んでいる男性がいた。きっと、彼の息子なのだろう、小さな手で、男性の腕にぶら下がろうと必死になっている。
 …幸福そうな、家庭。
 ちくり、となにかが胸を刺す。
 こんな幸福は、青島にはきっと永遠に得られない。
 いつかだれかと結婚したとしても、こころのどこかに必ず室井がいるから…。
 たまらなくなって、歩調を早めた。
 長い坂道は、まだ続いている。
 ぼんやりと歩くうちに、一軒の家の前で不思議と足が止まった。
 大きな、二階建ての家。
 茶色い屋根が陽光を跳ね返している。
 低い生け垣の向こうには、きれいに芝が整えられていた。
 …建てたばかりなのだろうか。
 表札に目をやって、凍り付いた。
 「MUROI」。
 …なんで、こんなもの、見ちゃったんだろう…。
 胸が苦しくなってくる。
 これは、夢だ。
 悪い夢だ。
 いつも抱える不安が見せた、見たくもない悪い夢。
 いつか室井は自分を捨てて…きっと誰かと家庭を持つ。
 きっとこんなふうな、立派な家に、きれいな奥さんがいて、もしかしたら子供なんかもいて、きっとかわいがって育てるんだ。ああ見えて子供好きなんだ。 俺、知ってるんだ。
 はやく、ここから、動かなきゃ…。
 でないと、もっと見たくないもの、きっと見る…。
 凍り付いた足を見つめながら、どんどん大きくなってくる耳元の血液の流れを聞く。
 イヤダイヤダイヤダ。
 ココカラハナレタイ。
 ナニモミタクナインダ…!
 じわりと涙が浮かびそうになった、そのとき。
 からりと音がして、その家の窓が開いた。
 …イヤダ!!
 ぎゅっと目をつぶる。
 …ミタク、ナインダ…!!
「あおしま…?」
 その声に、心臓が跳ね上がる。
 聞き間違えるはずもない、低く響く声。
 …ああ、この声も、好きなんだ…。
 掠れるような、でも長い時間を経て豊かさを得た楽器が奏でるような響きのある、声…。
 この声が、自分の名を呼ぶと…ぽっと灯火がともるような気がして…。
 そっと、目を開けた。
 掃き出し窓から自分を呼んだその人は、いつも見る姿とは違っていた。
 …老けてる。
 髪に、白髪が混ざってる。
 確かな時の流れが、彼に年輪のようなしわと、熟成した落ち着きを与えていて…。
 年の頃は…40台後半、くらい…?
 でも、室井だ。
 瞳が同じ。信念の光をたたえた、誰よりも強い瞳。
 でも、間違えるはずがない、これは、室井。
 誰よりも信じて、誰よりも愛してる、ただ一人のひと。
『むろい、さん…?』
 声が震えているのがわかる。
 そんな青島の様子を見て、室井は穏やかにほほえんだ。
「…まったく君は、私を驚かせる天才だ」
『室井さん…』
 室井は、家の中を振り返った。
「俊…ちょっとこい」
 …俊?
「おまえが昔言ってたの、来たぞ」
 むかし、言ってた…?
 ぼんやりと、室井が言った言葉を反芻していると、家の中から声が聞こえた。
「え~!?…ホントに来たんですか!?」
 この声にも、聞き覚えが、ある…。
 いつも聞いてる、自分の声…?
 室井が、青島を見て、笑った。
「…おまえも、俊だったな」
 ぱたぱたと、足音が聞こえた。
 誰かの影が、窓に映った。
 そして、ぐにゃりと風景が歪んだ。
 生け垣の緑。
 屋根の茶色。
 空の青。
 すべてが曖昧に、水に溶けていくように淡くなっていく。
 室井の言葉だけが、耳元に響いていた。
「信じていいんだ」
 室井は、確かにそう言った…。





 急に足下がなくなるような感覚がして、びくりと体をこわばらせた。
 …抱きしめていた体の動きに、室井が気づいたようだった。
「…どうした?」
「…むろい、さん…?」
 瞳をあけて、真っ先に映ったのは、自分をのぞき込んでくる室井の瞳。
 変わらない、強い瞳。
 でも、髪は黒い。
 しわは、いつもからかう眉間にだけ。
「…ああ、俺の室井さんだ…」
「…なに寝ぼけてるんだ」
「よかった…」
 ぎゅっと、背中に回した腕に力を込めて、胸に鼻を埋める。
「…どうした」
「ゆめ、みたんです…」
「夢…?」
「へんなゆめ…室井さんが、オヤジになってたよ…」
「…オヤジで悪かったな」
 不機嫌そうな声に、顔を上げた。
 そして眉間に指をやる。
「そんな顔、しないの」
「どうせオヤジだ」
 すねたような物言いに、くすりと笑って、そのまま頬を撫でてやった。
「でかい家にね、住んでました。坂の上の、きれいな家だった。ご近所さんも、いいひとみたいだった」
 夢で見た風景を話してやると、室井はまじめな顔で言った。
「その家には、きっとおまえも住んでる」
「…そうみたい、でした」
 室井が青島の手を握った。
「ずっと、一緒にいると決めてるんだ」
 その言葉の真摯な響きが、青島を溶かしていく。
「未来を、信じていいんだ」
「そう、ですね…」
 青島を強く抱き込みながら室井が言った言葉で、夢に見た室井の言葉がすとんと心に落ちてくる。
 …信じていいんだ。
 この人を。
 この人とともにある、未来を。
 それはきっと、幸福な未来に違いない。
 とろりと眠気が襲ってきた。
 …もうきっと、不安は襲ってはこない。





 今日の夜にかかる月は、満月。
 蒼く透明な光は、幸福な未来を見せてくれる。








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