登
場人物は青島くんと室井さん、すみれさん。第三者視点からみた室井青島。まだ片恋のふたり。
トライアングル~恩田すみれの場合
1.
「玉砕、・・・しちゃったっ」
署に帰るなり、すみれの前に立ち、緩んだ笑みで報告をしてきた青島に、言葉が詰まったすみれはじっと見上げた。
髪はぐしゃぐしゃで、スーツの至る所が汚れ、顔色は疲労の色が濃く青白く、満身創痍といった形は、青島の朗らかな印象からは対照的だ。
血の気の失せた首筋や手が逆に男の匂いを持っていた。
「お疲れ、青島くん」
「・・はは。うん」
視線を彷徨わせ、虚ろに彷徨う手が行き所を失くし、足は縫い止められたように、その場に立ち尽くす青島の
合わない視線をすみれの黒い瞳がじっと追う。
「けっこ、あっけなくってさぁ・・、まあ、上手くいっても困るんだけど、でも、やっぱ、こっちの・・ここのね?整理がつかなくて、それで」
「・・・」
「幸せ、願ったら、間違ってない、そう思・・っ、でもさ、終わっちゃったんだなぁって思うとさ、俺の時間、全部、消えちゃって、なんもなくて、そんで」
「青島くん」
「けど、そう簡単に割り切れない。簡単に消えちゃう、んだもんなぁ・・・あんなに、俺・・・、必死でやってきたんだけどなぁ・・っ、それがっ辛くてっ、もぉ」
「青島くん」
「もちょっと長引かせたかった、けど、苦しいのもヤで、嘘吐くのもヤで、俺」
「青島くんっ」
少し強めに名を呼び、立ち上がったすみれが青島の両腕を掴んだ。
びくんと震えて青島の言葉が止まる。
真っ赤に腫らした目元が、此処へ来るまでも随分時間がかかったであろうことを窺わせた。
徒然に語っていた言葉の変わりに、青島が濡れた瞳ですみれに縋る。
わなわなと震えている口唇が、まだ吐き出しきれていない言葉を、溜息に変え、細々と漏れ出した。
くしゃりと崩れた顔、青島の伏せた睫毛から雫がぽたぽたと落ちる。
「がんばったのね」
刑事課は皆出払っていた。
遠くに聞こえる雑踏が、まるで違う世界の演目のように、何気ない色で取り囲む。
「すみれさん、俺、失恋した」
「・・うん、もう、聞いた」
へへ、と笑い返そうとする青島が、また失敗して俯く。
「かっこわるい・・」
「頑張っている人はカッコイイって表現するのよ」
くしゃくしゃの前髪が濡れた目元を隠しきれずに、隙間風に心許なく揺れた。
駄目押しに流れた遠くの電話が、危うい均衡を壊し
吐息で笑う青島の指先が、すみれの手首を小さく掴み、崩れそうな心を必死に耐えている様を伝えてくる。
「屋上、行こっか」
「さぼるの?」
「休憩と糖分はサラリーマンの正当な権利。・・だったわ」
語るものなど今更何もないだろう。
でも今、一人にされたくはない筈だ。色々と考えてしまって、少しでも気を紛らわせる時間が欲しくて、でもそれを言えなくて、胸が痛くて、頭も回らなくて。
気を紛らわす仕事をすることさえ億劫になる時ってある。
すみれの言い回しに何かを感じ取った青島は、ただこくんと頷いた。
メモを残し、二人連れ立ち、刑事課を後にする。
時がとまったかのように電話も鳴らない無人の室内は、人の気配も失った。
「ほら!誰もいない。ここなら悪口言ってもいいわよ」
「ワルクチなの?」
「あら、まだ惚けた台詞が出る?」
潮風に背き、そう言ったら、青島は両手の拳をきつく握り締めたまま、俯いた。
出会ってからずっと青島の心を占めていた男だ。
それがいつ恋に変わったのかなんて、本人だって知らないだろう。
そう簡単に長い記憶を消去することは出来ないと、すみれこそ知っている。
「出るよ・・」
拒むように、潮風が青島の髪を巻き上げる。
遠くを見つめた瞳は何を映すことなく太陽を反射し、熱い輝きも今は秘められ、海の色に染まり、青島がぽつりと呟いた。
すみれは黙って見つめ返した。
爆発するまえの熱を封じ込める理性は、その言葉に限界を知り、堰を切ったように溢れ出す。
「出る・・・出るよ・・・っ、出るに決まってんじゃん、まだ、たくさん・・・っ」
「・・・そう」
ふわっと、花びらが零れるように、青島が眉を顰めた。
「ふ・・ッ、ぅ・・っ、ぅ、う~~~~・・・・」
嗚咽が溶ける潮風に黒髪を掬い、すみれはフェンスに両肘を乗せた。
風が、ちょっぴりしょっぱい。
青島はその場を動こうとはせず、背後でただ、泣き殺す嗚咽が聞こえる。
男の人が泣くのを、すみれは初めて見た。
刑事だから、凄惨な現場は何度も目にしてきたけれど、こんな風に、青島が泣くのも、初めて見た。
「こっち来なさいよ。きれいだよ海」
「ごめん、ごめんなさいごめんなさい、でもおれ、まだ貴方といた時間が綺麗で、あまりに眩しくて、忘れたくなくて、失くしたくなくて、俺・・・っ」
それは、きっと、あの男に向かって言っているのだろう。
ここにはいない、青島を振った男。
青島には、見えているのかもしれない。
青島を誰より求め、誰より慕い、誰より近く過ごした。
「言わなきゃよかった・・っ。でも、忘れらんない、あんな、あんな・・輝いた時間くれて、どうしろってんだよ・・・っ、ばっかやろぉ・・!」
痛いほど青島の気持ちが分かった。
合いの手は入れず、すみれは背中を向けて東京湾を見つめ続ける。
きっと、青島の視界には今、すみれはいない。
「一緒にいたかった・・っ、もっと一緒に、もっとふたりで、ずっと・・・っ」
抱えるなにかを空に溶かしていく。そうやってひとは生きていくしかないのだから。
「こんなに、綺麗で、眩しい時間っ、どうすんの・・・っ、どしたらいんだよ・・!?」
叫ぶように、青島が、吠える。
「俺っ、だいすき、だった・・・っ」
背後に突っ立ったままで、恨みごとを晒す青島の嗚咽が、真昼の太陽に掠めた。
失った時間は、何処へ行くのだろう。
持て余した時間は、嘘になるんだろうか。
「それでも、きっと、あの男はありがとうって思ってるよ」
持ち上げた青島の顔はぐしゃぐしゃだった。
答えを願うように、すみれを見つめる。
「だってそうじゃない、青島くんしか見えてないじゃないあの男」
最初から、あの男は青島の虜だった。
青島よりもずっと、青島を求め、慕い、愛していた。
取り返せない時間に、今は泣いて、叫んで、そのための意味すらなくした空へ投げてやればいい。
同時に、室井はきっと何も知らない。知られないでいることを強く望んだ青島の葛藤さえも、知らない。
〝私、あなたの事何も知らなかった・・・〟
あのとき雪乃はただ静かにかつて愛した男を見つめていた。すみれもまた、知られる前に、未来を与えた男に別れを告げた。
恋とは、知らないことを知るための儀式なのかもしれない。
2.
「聞いたわ。色々」
「色々、とは?」
「そうやって、分かっているのに聞き返すのはキャリアのルールなの?」
腰に両手を当て、ぷんと膨れて見せれば、室井は行きかけだった足を止めた。
いつもの重そうな黒鞄を下げたまま、少し、身体の向きを変えてすみれを見る。
すらっとした背中が、男にしては小柄な体型を価値あるものに変えているのは、本人の努力なのだろう。
しばらく見ない間に、この男はまた一つ、貫禄を持った。
「貴方だって相談相手を必要としている頃じゃない?」
改めて真黒な闇にじっと見つめられ、その瞳奥に拗ねたような色を認め、すみれは同情してしまった。
同情、とはちょっと違うか。しょうがないなぁ、もぉ。
「個人名を上げた方がいいの?」
「・・・」
先に行け、と、控えていた部下に室井が小さく告げる。
ふぅ、と下を向いて瞼を閉じ、大きな息を吐くと、室井は今度ははっきりとすみれを窺った。
「どこまで聞いた。どう、聞いた」
「誰から、とは言わないのね」
室井を誰より案ずる青島が触れ回る筈がないという確信がそこにはある。確信というよりは、妄信だ。
「ボロ泣きだったの」
それだけ伝えると、室井は目を剥いて固まった。
「意外なの?同じ想いだとは思いもしなかった、なんて言いだす?」
「そんな初心ではない」
「でも、冗談だろう?って顔をしているわ」
苦悶に歪んだ眉を更に顰め、室井は玲瓏な瞼を伏せる。
「泣かせるしかできないな・・」
「なにそれ?昭和のメロドラマにでも成り切ったつもり?貴方じゃ脇役よ所詮」
「そうだ。脇役だ」
殊の外、しっかりとした重い口調で室井が言葉をかぶせたことに、逆にすみれがカッとなる。
「それで自分で悲劇に浸るわけ?ばっかみたい!ねぇ、なんで振ったの?!なんで突き放したの!?貴方だって好きなくせに!」
「どうしようもないことなど山ほどあるんだ」
「その“どうしようもないこと”は、振ってまで貫くことなの?」
「だったらどうしろってんだ!護り切れないんだぞ・・!」
「そんなのわかんないわよ、わかんないけど、なんとかしなさいよ・・!」
「無茶言うな・・ッ」
すみれに煽られ、つい感情的になってしまったことにハッとなり、室井は眉間を寄せて口唇を尖らせる。
仕切り直すように室井は窓の方を向き、空を映した。
どちらも口を開かない時間が、息遣いだけをリアルに感じさせてくる。
「何故、君まで泣くんだ」
「これは、貴方のためのものじゃないわ」
青島のために泣いているのだ。
「すまない」
「上に行くほど謝り方は覚えるのね」
室井がジロリとすみれを刺した。
室井が傷ついた顔をすることが許せなかった。でも、キャリアを持ちだしたら、こちらの負けとなる。
特に怒った風でもない室井に、言いたいことはそれではないだろうと窘められた気がして、すみれは狼狽えて俯いた。
「ごめん・・・」
「謝るのは、この場合、こちらの方だろう」
顔色は変えない。スーツも乱れない。
いつも通りに堅い顔に寡黙で気品漂う男だった。
心を読ませない分厚い壁が、そこにある。
「貴方も、辛いんだって、思ってていい?」
「・・・ああ」
だったら、すみれの役目は一つだ。
「彼が説得できなかったんだから、あたしにどうにか出来るなんて最初から思っていないわ。でもね、室井さん、きっと一つだけ勘違いしていると思ったから」
「勘違い?」
「私たちノンキャリは背負うものがなくて自由で、派閥も出世も枷となるものもないから、だから恋だの愛だのに現を抜かせるんだと思っているでしょう?」
「そこまでは・・」
「でもね、これだけは覚えておいて。自分のことばかりなのは貴方たちの方よ。出世も階級も派閥も、みんな自己保身じゃない」
「・・・」
「言うつもりもなかったって、泣いてたよ。言ったら迷惑かけるって、傷ついてたよ。貴方の立場を思って、貴方の将来を思って、泣いてたよ」
「君は、」
「最後まで迷ってたの。それでも言ったのはね、貴方と一緒にいたかったからだよ。戦っていきたかっただけなんだよ。分かる?貴方を支えたかったの!一緒に生きた貴方を!」
言葉を挟まない室井を放り、すみれは背を向ける。
「言いたいことはそれだけよ。せめて、忘れないでいてあげて。・・貴方の味方の話よ」
心残りはない。
言えるだけは言った。後は室井が選ぶことだ。青島もまた、それを願っていたからきっと、引き下がるのだ。
ほんっと、底なしに優しいんだから。
でも、室井と話していて――そして一つだけすみれも気がついた。
室井もまた、なにかを空に溶かしたのだ。
すみれはもう、振り返らなかった。
Happy endにはほど遠い。

20210626