馴れ初め話です。冒頭に一倉さんとオリキャラが出てきますがほぼ二人だけの物語。
時間軸はOD1後。若い二人で。室井さんが美幌から帰ってきた最初の春。OD1の翌々年になるのか?








零桜夜想曲






1.
何でこんなことになったのだろう。
室井は内心うんざりした溜息を吐きながら黒漆のお猪口で口唇を濡らした。
喉を焼く酒のアルコール度数すら気にならない。
伏せた瞼を持ち上げれば、視界の遥か向こうに、伺うような目線の青島の瞳がまたチラリとこちらを向く。
喉が締まり、視線が交差したまま眉間が寄った。



***

キャリアの飲み会は然程珍しいことではない。
腹の探り合いである出世ライバルとして、慣れ合うことはないが、情報共有も兼ね同期内で親睦を深めることは定期的に行われていた。
官僚は職務性質上、連携よりも単独行動が多く、意思疎通もずさんに成りがちなため、共に警察システムを担う盟友たちとの会合は推奨されている。
室井とて、何も好んで棘の道を走りたい訳ではない。
これも仕事の一環だと思い、出来るだけ顔を出すようにしている。

今回もそんな流れで、花の週末に予定を聞かれ、室井は諾了した。

交流に興味は薄く、合コンのような騒がしさは不得手だが、キャリアの飲み会にそういう下世話さはない。
政治や経済、省庁の動向などについて意見と情報を交わす。
尤も室井に言わせれば、情報交換という名目の上役や他局の噂や悪口は、五十歩百歩ではある。

桜の季節だった。
花見がてら、いつもの料亭に予約を入れ、馴染みの連中と共に連れ立つ。
いつもの流れだった。――その店の前で青島と遭遇するまでは。



「いやぁ、君、面白いね!そういう男はホントは嫌いじゃないんだよ!」
「そうそう!本音はな!」
「上のやり方にみんながケツ振ってる訳じゃないからさぁ」
「自分じゃやらないけど?」
「たりめー!何のためのキャリアよ!」


破裂したような爆笑が起き、更に場が盛り上がった。
青島の隣に座っている男が肩を抱き、顔を寄せる。
引き寄せられ、たじろいだ顔でありながら、それでも青島は笑みを崩さず、付き合い良く相槌を打っているのが室井の目に入った。
青島が返杯をすると、更に機嫌良く空気が華やいだ。

料亭の入り口で思いもかけず青島と再会し、向こうも驚いたらしく、置き忘れたように佇むその一瞬のタイムうラグが勝敗の分かれ目だった。
この人物こそが〝あの青島〟であることに気付いた一部の連中が面白がって騒ぎ立て
この宴会に青島をも引き摺りこんだ。
遠慮して逃げ腰になる青島を室井が仲介する間もなく、あれよあれよという間に、この状態である。


「思ったよりハンサムな男だったなぁ!」
「その顔であれだけ引っ掻き回したんだもんな、大した奴だよ!」

室井の視界が少しだけ暗くなる。
一倉が室井の耳元に口を寄せ、アイツ、とつつめいた。
呆れた口調に視線だけ送れば、口端を持ち上げる。
〝アイツ〟とは、今、青島の隣に座り、肩を抱いて盛り上がっている木澤という男だ。

「アイツ、毛色の変わったものが昔から好きだよな~」
「・・・・・」


室井と青島の派手な経歴は、官僚の間でも知らぬものはなく、酒の席で話題になることは多い。
特に、約一年前となる副総監誘拐事件で、青島が無線を使って派手に上層部を掻き回したことは、噂話の中でも伝説級だった。
大概の人間は、表向き階層構造を理解しない観念に眉を顰め侮蔑を露わにするが、キャリアの中にだって異質な者はいる。
中立で静観する者。密かに信者となる者。真似はしないが嫌悪感も抱かない者。
皆が一律に否定派ではないのだ。

報告書にも記載されずに消えた無名刑事の活躍は、主に吉田副総監の生還という派手な功績の裏で、確かに珍事として息づいていた。
あの事件で青島と室井が成し得た暴動は、一部の鬱屈した冴えない中堅キャリアにとっては、胸の空く対岸の物語なのである。


まだ完全な陽の入りに入る前の夕澄みに浮かぶ青島は、別れたあの日と何ら変わりない姿のまま、曖昧な空気に紛れそうに透けて立っていた。
幻を見ているかのような不確かさと、蘇る血の記憶の落差が急速に咽返るような情動を室井の内から沸き起こす。
その正体が掴めず、少しの緊張と戸惑いが、室井の口を留まらせた。
黙って視線を交わす二人の異様さに、周りにいた同期らが、青島の存在に気付いてしまった。


「若いのに中々度胸あんね!」
「馬鹿、捨てるもんなきゃ俺だって」
「結構下だっけ?」
「4つか5つ下って誰か言ってなかったか」
「え、そんな変わんないじゃん、若く見えんね~」
「捜一来いよ!手取り足とり教えてやるぜ」
「部長に睨まれるぞ」
「大体お前が教えることはアッチの方だけだろ」
「手取り足取り腰取り?」


誰かの音頭が囃し立てる中、矢継ぎ早に声を被せ、談笑が進む。酒も進む。
青島自身が口を挟む隙も無い。
青島は会話の中心ではなく、話題の中心だった。
自分のことで盛り上がる周囲に愛想笑いを振り撒き、青島がこくりと肯べくだけの相槌を打てば
また満足そうに皆の視線が集まる。


「・・・・・」

室井が何気なくそちらに伺いの視線を向けていると、また、青島の視線がこちらに流れ、視線が合う。
室井の頬が困惑を示し強張る。
座敷を越えて絡まる視線に、何やら不可解な感情が巻き起こり、酷く室井を落ち付かなくさせた。
それが喜ばしいものなのか不快なものなのかを判別吐かせぬまま、曖昧さだけが漂う。

その刹那、パンと小気味良い音を立てて障子が開き、コース料理がまた運ばれてきた。

ハッとして視線を流せば、空気が一瞬弾けたことで、青島の視線も外された。
室井は肩から大きく息を吐いた。
その顔に、一倉が苦笑いを零す。


「すっかり青島を取られたな」
「・・・・」
「友情ごっこも昔の話だねぇ。・・・いいのか?」
「・・・・」


だからと言って、今この席で室井が青島に救いの手を出すのも、なんか違う。
助けに入るだけの仲ではない気がした。
思えば明確に情動に走るのはいつも室井の方で、陽気な性格が誤解をさせるが、青島が室井を頼ることは、意外にも少ない。
青島だって一人の成人男性だ。介入しすぎであろうし、和んだ雰囲気なんだからいいじゃないかと考える。

籠もった空気に息苦しくなったのか、青島もネクタイを少し緩め、背広の前ボタンを開けているのが遠目にもはっきりと目に入った。
長い首筋から鎖骨の露出が、節度を保つべき酒席のギリギリのラインな気がする。


「こうして見ても、やっぱり目立つ男だな~。分かってんだろ?」
「・・・何がだ」
「あっというまにこの席の肝を持って行った」
「客人扱いだろ」
「でもすっかり人気者じゃねぇか」
「結構なことだ」


室井が粛々と応え、艶のあるお猪口を口元に運ぶ。

懐石料理に舌鼓打ちながらの酒は、開け放たれた障子の向こうに薫る桜を添え、風流で高貴な中で進んでいた。
華やぐ会場は、熱気に包まれ、背広を脱ぎ、袖を捲り上げている者も出て、和やかなムードが漂う。
黒々と光る木目調のローテーブルの上に、色鮮やかな旬の食材が整然と並んでいった。

キャリアである以上、地方勤務を経てきている者も多く、顔ぶれは毎回違う。
室井も例に漏れず、丁度一年前の今頃は北海道勤務を命じられていて、この時期の会合には参加を見合わせている。
料亭の庭園は老木である桜を名物にしていることもあって、毎年見事な花を紅々と咲かせ、密かに愛でるのを室井も楽しみにしていた。
だが、今夜はとてもそんな気になれない。


そんな室井の横で、一倉はいつもより上機嫌に辺りを伺っている。
今夜の酒の肴は旨そうだ。

「割と整った顔立ちなんだな、ほら、あの黒だかりの中にいても一つ抜けてる」
「昔と同じ顔だ」
「今気付いたんだよ」
「だとしたらなんだ」
「放っておくのか?」
「何を」
「妬かないのかって聞いてんだよ」

室井と青島の暴走を間近で見た男は、査問委員会以来、こうして時々妙な勘繰りを入れてくる。
的外れのようでいて、だが焦点の外れたファインダーに映っているような過去の造形を思い起こされれば、室井の目元に曖昧な困惑が浮かんだ。

「馬鹿を言う」
「木澤は男女問わず喰うって話は有名だろ」
「喰うってなんだ」
「言葉通りの意味さ」
「・・・それこそ馬鹿を言うな」
「馬鹿かどうかは――今夜の青島が身を持って知ることになるんだろうな」
「・・・・」

室井は益々眉間を寄せて、黙々と酒を流し込んだ。
腹立たしさがみぞおちの辺りでふつふつと煮えくりかえっているが、表には出さない。


「・・・?」

また何やら木澤が青島の肩を抱き寄せ、耳元に何かを囁いている。
少しだけ青島の眼が見開かれた気がした。

何故か青島の座席が室井からかなりかけ離れた場所であることも、さり気なく納得がいかない。
室井はいつでも話せるだろうと、皆に退けられ。ローテーブルの端と端に追いやられた。


「連絡取ったりしてないのか?」
「もう関係ない。所轄に関わる役職からは解かれた」
「仕事でしか話しない訳でもないだろう?」
「用もないのにか」
「揉め事に頼ってくるんじゃないか?」
「しないだろうな」
「へえ?」

一倉の片眉が上がる。明らかに疑っている眼差しだ。

「青島は元々自力で踏ん張る男だ・・・・私は用済みだ」
「お約束とやらはいいのか」
「それとこれとは別問題だろう」


隣の一倉の見透かすような視線は、的確に室井の思考を掻き回す。
付き合う義務はないのに、つい一倉のペースに従わされ、黙って耳に入れてしまう。
自然と自分の眉間が深まっていたことに気付き、室井は視線を反らした。
鬱陶しそうに往なし、誤魔化すように酒を口に運ぶ。

確かに木澤にはあまり良い噂は聞かなかった。
暴力団との付き合いがあるとか、裏社会にパイプがあるなどのドラマ染みたことから、上司に取り入るためなら何でもするということまで、エリートにしては紐 が緩い。
真相の程は定かではないが、容姿の淡麗さと好青年な風貌もあって、敵も多いが味方も多い。
そういう男だった。

好奇心も旺盛で、出世欲も高い。
派手な肉食系の交際関係は、確かに気に入った獲物は女も男も逃がさない獰猛さがあった。


「用済みって言う割には割り切れた顔してないな」
「何故そう思う」
「珍しいだろ、お前がそんな乱暴な呑み方をするなんて」


一倉が肘を吐いて室井をニヤニヤと見遣りながら、室井の手から徳利を奪い取り、自分の空いた杯に日本酒を注ぎ足した。
指摘され、思えば、先程から酒ばかりを流し込んでいる。
ペースを乱されるのは、いつも青島関連だ。

過去と現在の軸が入り混じる混濁が齎す酩酊感は、理性と記憶という鎧を纏っても、どこまでも侵食させられる熾烈な無防備さに晒された。
それが、室井の中にいつも焦燥のような憤懣のような、掻き立てをし
飢えを埋めきれずに立ち竦んでいることを、奇妙に自覚させてくる。
その印を付けたところで、何ら意味などないであろうに
絶えず押し寄せるその感覚に、室井は抗う方法も見失って深い溜息を吐いた。

「・・・、私はお守役になるつもりはない」


久しく馴染みの薄れていた感覚に、室井は自重し、箸に変える。

目の前には黒漆の器に色鮮やかに調理された瑞々しい懐石料理が、目を奪う美しさで盛りつけられていた。
高級官僚へと成長を遂げる卵である彼らが選ぶ料理は一流の物ばかりだ。
それなりの重役クラスと会食やら接待で付き合うことも多く、また、そのような世界特有の事件が起きた際にも敏速に対応出来るよう
舌を肥えさせておく必要性があった。
庶民性を追求する所轄とは、その意味でも対極にある。


一倉がお造りの紅葉鯛に箸を伸ばし、舐めるように口元へ運ぶ。

「しかし、大したタマだな、アイツも。これだけのキャリアに囲まれて物怖じせずに溶け込んでやがる」
「・・・優男だからな」
「それとも計算か・・・?お前を切り、取り入って次の階級の上手い汁を吸おうって下心だとするなら強かな男だ」
「青島はそんな下らないことはしない。誰にでも気さくなだけだ」
「でも楽しそうには見える」
「あいつは元々営業の人間だ。こういう席のノウハウは熟知してるだろう」
「へぇ、・・・そうか、そんなこと言ってたな」


一倉が感心したように再び青島に目を向ける。
そこでは談笑に興じている集団が額を寄せあい、頻りに議論を重ねている光景がある。

木澤と、木澤の取り巻き連中数名が輪の中心で、一様に視線を青島に向けている。
彼らに酒を注ぎ足しながら、青島が笑顔で相槌を打つ様子から、話の主導権は木澤なのだと察せられた。
確かに初対面にも関わらず溶け込んでいるようにも見える。
しかし、室井には少し畏縮しているように感じた。
湾岸署で見掛ける青島は、もっと、華が咲き誇るような笑みを見せる男だった。
今は、一種の仕事モードなのかもしれない。


一抹の寂しさと安堵のような不可解な感情が室井の胸を占め、何となく視線を動かせない。
すると、また、青島がチラリとこっちを見た。

上目遣いで戸惑ったような色素の薄い胡桃色の瞳とぶつかり合う。
思わず視線を反らしてしまった。
流石に不自然だったかと、再び戻すと、もう青島はこちらを見ていなかった。


「尤も俺に言わせりゃ、お前をタラしこんだ功績の方を評価したいがね」
「変な言い方をするな」
「お前ほどの難攻不落を攻め落とせるんなら、ここにいる連中なんかイチコロだろうな」
「落とされた覚えなどない」
「自分から落ちたんだもんな」
「・・違う」
「みんなが承知している事実だろ。まさかお前が降格覚悟で上に逆らうとは天地がひっくりかえっても有り得ないと思っていたさ」
「・・・言ってろ」


室井は興味なさ気に車海老キャビアを箸で摘まむ。
キャビアの塩味が程良いアクセントになっている一品で、上品さと高級さを演出している。
口の中に転がすようにして咀嚼する。


あれから一年が経つ。
今更一年前の事件について言及する気はなかった。
興味本位に英雄扱いされても、好奇の目で見られても、室井にとっては青島の事故の印象でしかない。
古傷を悪戯に掻き回して欲しくない。

あの時。
床が一面血に染まっていた。
まだ体内から流れ出たばかりの生温い血の海と、荒い息遣い、凭れる躯の重み。
全てが一瞬のことで、まるでシャッターを切るように焼き付けられている。

あの日の記憶を呼び覚まされる度、室井の根底から冷然と揺さぶられるそれは憤懣でも焦燥でもなく、純粋な悪寒だった。


余計なことまで思い出し、自分の迂闊さに腹を立てながら、室井は再び酒を含んだ。
そんな魂が揺さぶられた経験を、容易に他人になど教えたくは無い。


「あ~、ありゃかなり木澤に気に入られたなぁ」
「・・・どうして分かる」
「一目瞭然だろ。木澤の視線はさっきから青島を捕えたままだ」
「・・・・」
「アイツ、今夜本当にオモチカエリされるんじゃないか?」
「目的は」
「そんなの木澤に聞けよ。楽しみかたは人それぞれだ」


一倉が下卑た笑みを口端に乗せ、筍の木の芽和えを口に運ぶ。
室井も菜の花で合えた鯛に手を伸ばした。
箸を持つ形の良い細長い指先は、電灯に白く映え、黒漆に良く似合う。


伺うように青島の方へと視線を投げれば、確かに木澤が必要以上に至近距離で何やら囁き、それを青島が探るように肯いている。
訝しげな顔をしていると、ふいに青島がまた目線をこちらに向けた。

「・・ッ!」

――何か、気がかりでもあるのだろうか。
一年前、挨拶もせずに去って行った男に、話などないだろうに。
熱りも乗せない頬が少し堅くなる。


「所詮、ああいう木澤みたいなイケイケタイプが一番得するんだよ。恋でも仕事でも。数を打ってりゃ魚もかかる」
「・・・」
「ちなみに一番損するのはお前みたいに頭でっかちタイプだ」
「・・・」
「ま、どっちみち、もう会うこともないんだろ」
「大きなお世話だ」


鰆の桜蒸しを箸で崩しながら、一倉が青島がこちらを見ていることを承知で、わざと室井の耳に口唇を寄せて囁いた。
暫く青島の瞳を見つめてから、ゆっくりと視線を落とせば
透明の液体に映り込むライトの灯りが室井の漆黒の眼に反射した。


美幌から帰ってきて以来、会うのはこれが初めてだった。
お互い連絡を取るような仲とは思えず、風伝いに消息を辿った。
東京に暮らしながら、あんなに熱中した時代は白昼夢だったかのように、室井には穏やかな毎日が用意され、再び青島と巡り合う機会はなかった。
だが、室井の中ではあの熱く融合した時の狭間が今も色濃く燻り、我知らず息を乱している。

あれから、自分たちはどこへ向かっているのだろうか。
少しは近付けたのか、それとも遠ざかっているのか。

自分はまだ、青島に認められている男なのだろうか。その繋がりを誇りにしても良いのか、判然としなかった。
それは、願望、かもしれない。
あの事件以来の対面であり、怪我のことだってある中で、慕うことはおこがましい気がした。
青島が恨んでいないとも、怒っていないとも、分からないのだ。
一年以上離れていた乖離は、室井にどう距離を取ったら良いのかを測りかねさせていた。

時が経つほど、記憶は怪しくなり、まるで本当に悪い夢であったかのような不確かさを齎してくる。
消せない血の記憶が苛んでくる。

あの、燃えるような一瞬の邂逅。視界に広がる一面の血液。
ふいに、胸を掻き毟られるような窒息感が室井を襲う。
だが、あれで、室井の中に決して消えない記憶を刻まれた。
そしてそれは、同じように、青島の躯にも消えない刻印が、刻まれている筈なのだ。


「未練だねぇ」

一倉が黙々と生牡蠣を突き、これ旨いぞなんて呟いているのが遠くに聞こえる。
現実に戻され、室井はホタルイカの天ぷらに箸を伸ばした。

「気にしてるって顔だな」
「?」

気怠げに頭を上げれば、一倉が無言で青島に顎をしゃくる。
一倉がお見通しだというような顔をする。
少し腹立たしく思い、室井の眉間が更に深まった。


「気にさせているのは私じゃない。どうせ私と青島は今も一括りに危険分子なんだろう?」

そう言ってから、それを妄執しているのは自分の方であることに思い至り、室井は可笑しくなった。

無線で切々と届く少しノイズの入った青島の声。
血の衝撃とあの共鳴の瞬間の清浄さに、何故あんなにも栗立つほどの悦楽が走ったのか。
仕事に於いて、あれほど昂奮したことはなかったし、あれほど満ちたこともなかった。

息苦しいのに、消せない。
室井の感性はとっくに五感を越えた所で青島に囚われ、凌駕されてしまっているのだ。
何が大切なのか、護るべきものは何なのか。
突然室井の世界に表れた男は、霞みに消えるような真理を与え、突き動かされるように脊髄反射した共鳴は、室井に足りない原始的な何かを
まるで見せ付けるように目の前に広げて見せ、勝手に消えていった。
身勝手だと、こちらこそ身勝手に苦情を言いたくなるほどに。
青島といると、いつも違う自分を強引に引き摺り出される。


「どう足掻いても所轄――上のご加護がない存在は弱点なんだ。警戒されるのも当然さ」
「後ろ暗い札を付けて権力を誇示したがるのは、どこの世界でも蔓延るんだな」

その血印を持って、室井はのし上がる。
自分で望んで、その覚えさせられた味に飢えるほどに冒される。身勝手に。強欲に。

戒めのような烙印に低い声で呟けば、凡そ室井らしくない歪んだ笑みが微かに酒の水面に浮かんだ。


「それが嬉しいって顔だ」
「臆病なだけだ」
「身内で潰し合って得るものに虚しさを感じたら終わりだぞ。生命倫理もそうだろ」
「・・・そんなものと一緒にするな」


何をしてやれることもなかった。
それは、咎められることなんだろうか。
思えば、青島が具体的に室井に何かをしてくれたとは言えず、与えた影響というものは全て精神的なことに及んだ。
手繰り寄せた結末は、確かに青島がいなければ達成せざる未来であり、変えてしまったことは確かだが
そのことは、麻痺したかのように、室井にとっては空疎なことだった。

それでもイーブンでない気がするのは、何故だろう。


「保守派を臆病って表現するだけでもうお前はあちら側の人間さ。それが弱さだとでも言う気か?」
「何かあったらまた私の責任になる」
「ふーん、ヤツが自己責任を押し付ける男だと?」
「そんなことは言っていない」
「確かに木澤には良いオモチャになるだろうよ、粋が良くて、ああいう派手で目新しいもの好きだろ」
「青島はそのことを知らないんだ」
「そのこと?取られんのが嫌なんだろ?お・ま・え・が!独占欲晒すくらいなら堂々と戦ってこいよ」
「・・・私にもう、その権利はない・・・」


室井が俯き小さく項垂れた。

心の奥深くで、ほんの僅かでも、あの時の判断をもう少し早くしていたら、捜査員の派遣を待たせていたらと室井が嘆く様に
青島もまた、怪我の功名とは言え、それでも惨事の事実は別物と疎まれていたとしたら。
室井は謝っても謝りきれないだろう。
それが消せない悔恨の情を室井に突き付ける。

謝ることを望まれているとは思えない。
関わることを望まれているとも、思えない。
だからこそ、横たわる時間のヴェールが二人の間を曖昧にした。
透明な水面に一滴の墨を垂らしたように、じわじわと何かが澱んでいく。


「未練タラタラの男の台詞だな」
「いつもそうやって周りが囃し立てる」
「火中の虫も七十五日っていうだろ」
「何かが色々混ざってるぞ」

呆れた視線で室井はようやく苦笑で流す。

一倉は何も分かっていない。
分かってたまるかと思う。
変わらず永遠に続いていくものなど、この世にはないのだ。
朝が来れば必ず太陽が昇ることを疑わない人間に、ある日突然大事なものが消えてしまう現実の無常さは伝わらない。
きっと理解の範疇を越え、そこに慄き、怯える恐怖など、想像も出来ないのだろう。


再び盃に手を伸ばし、電灯を映す水面を見つめながら、目を伏せる。
流し込んでいるのは、酒だけではない気がした。

「その権利とやらが今も欲しいのか」
「・・・どうだろう」

室井は明言を避けた。

「止めとけよ。目立つことしたら今度こそその首が飛ぶぞ」
「・・・ああ」


同期のらしくなく優し気な助言に室井は静かに首を垂れた。

確かめるのが怖くて見舞いもせずに逃げ出すように美幌へ行った男に、今更何を言う資格もないんだろう。
だが、あの時確かに青島と共鳴したのは自分だった。
あの瞬間だけは、青島は自分のものだった。

その本能的な野蛮で狂暴な感情は、純粋ながら猛々しかった。
傍に近寄ったら、何か得体の知れない痴れた物に変色し、何より大事で護りたい青島を自分こそがめちゃめちゃにしてしまいたいような情動を兼ね備える。
きっと、近付いてはいけない。
近付かない方がいい。


「もう一品なにか頼むか」
「別にいい。コースだけで充分だ」
「食ってねぇ癖に・・・、悪酔いするぞ」
「・・・・・」


肴もそこそこに、室井はまた透明の液体をクイっと煽る。
湧き立つ何かを堪えるのには慣れていて、室井は馴染みの圧迫感と共に、自己を律する。

キャリアは感情を悟られることと、淫らに無礼講に走ることを由としない。
そう叩きこまれている。
鍛え上げられた美麗な姿勢。美しい所作。作法に乗っ取った冷静な立ち振るまい。
上に立つ者の基本である。
ここに集まっているメンバーも、その一線は保守していて、大衆居酒屋のような庶民風情の騒ぎではないのが室井にとって最後の救いだった。



多少不本意な視線で、頬杖を付き室井を観察していた一倉の瞳が、ふいに意地悪めいた色を乗せた。

「まるで恋煩いをしている青二才のようなツラの奴には、何か精力がつくもん喰っとけよ」
「ぬかせ」
「素直に認めた方が得をすることもある」
「自白を引き出す常套句だ」
「ならば交換条件だ。お前にイイコトを教えてやろう。・・・聞きたいか?」
「・・・・勿体ぶるな。お前の戯言はそろそろ沢山だ」


室井は酒に強く顔にも出ない。感情も表に出さない男だから、酒の席でその酔いを悟れる者はいなかった。
長い付き合いの一倉だけがその変化を読み取れた。

既に量はかなり入れているが、涼しい切れ長の視線を室井が一倉に向けると、一倉はそっと身を寄せた。
掠れた声で、間を愉しむかの如く、ゆっくりと耳元に吹き込む。


「さっき青島が席を立ってから10分経つ。木澤もいない」
「!」

言われて室井は目を剥いた。
鋭く奥座席に視線を投げると、こちらの会話に夢中になっている内に席を外したらしい。
勿論、室井は青島が席を立ったことには気付いていた。
手水場だろうと高を括り、気にも留めていなかった。いや、酒のせいか。
だが、いつの間にか木澤まで姿を消している。


「何故言わなかった・・・!」
「青島の情報を室井に逐一報告する義務があると?」

低く問えば、先程の、もう関係ないと言った室井の言葉を逆手に取り、一倉が嫌味を乗せる。
室井は眉間を寄せて嫌悪感を露わにした。
だが、今はそれに構っている余裕は無い。
青島だけなら気にも留めないが、木澤も一緒となると、話は変わってくる。
そして、一倉の観察眼が正しければ、もう10分近く二人は揃って帰ってきていないことになる。


「んで?どうする気だ?」
「・・・・様子を見てくる」
「デバガメは燃えるが趣味悪いぜ」
「〝青島の〟様子だ。10分近く戻らないのなら、具合の問題かもしれない」
「成程、上品な言い訳だ」


勿論室井だってそんな楽観を抱いている訳ではない。
何となく胸騒ぎがして、室井は中座した。
後ろから、揄うような一倉の含み笑いが聞こえたが、とりあえず喧騒で聞こえない振りをした。









2.
この料亭は警察官僚の他、主要官庁の要人らも利用するそれなりのランクある店だけに、プライバシーの保護は徹底されており、手水場も複数ある。
面倒な接触を避けるためである。


室井はまず一番近い手水場を覗いてみたが、人影はなかった。
この時点で胸騒ぎは確信になる。
青島だけの中座なら、帰ったのかもしれないとか、一服のための喫煙所とか、色々可能性は考えられた。
だが、木澤も一緒となると、そんな訳はないだろう。

近くの休憩所や喫煙スペースなども念のため回ってみたが、二人の姿はない。
一応帳場で外に出払った者がいたかどうかを問うてみたが、それらしい人物には気付かなかったようだった。

そもそも帰ったとは考え難い。
どんな事情があろうとも、青島が室井に挨拶なく退席することは、なんとなく不自然に思えた。
上司だからとか、礼儀とか、昔馴染みだからとか、そういう堅苦しい理由ではなく
青島なら、室井の存在を邪険にすることはない気がした。
・・・・それも理想論なのだろうか。


コツコツと、燦然と磨かれた大理石の上を自分の皮靴の音だけが鳴る。

遠くで鳴ってる囃子の音が、開け放たれた窓から夜会の賑わいを微かに伝えた。

角を曲がっても、人影一つなかった。
黄金色に統一された店内が、まるでひと気がないように鎮まり返っている。
逆に何か料亭全体が不自然な気がして、室井は振り返った。
等間隔で飾られている白木蓮の活花が、まるで人工物のように咲き誇る。

階段から下階の座敷をも一回りしてみたが、部屋は満室で、手水場にも二人の影は無かった。
規則的な足取りで二階に戻り、角で辺りを一望する。

どこへ消えたのだろう。
二人で消えるとしたら、どこか話し込める場所だろうか。

奇妙な胸騒ぎが沸々と巻き起こり、室井は神経を研ぎ澄ます。
閉め切られた障子の裏から、団体が楽しそうな宴を繰り広げている声が聞こえた。
四方に視線を走らせると、奥部屋の裏にも休憩所があることに気付く。
何となくそこへ向かう。


「・・・?」

何か聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。足を止め、耳に意識を集中する。

「・・・ッ、・・・、」

その奥部屋からだ。

室井は走り寄り、そっと近寄って障子の前に佇んでみた。
予約の札がかかり、ここは空き部屋の筈なのに、気配がする、店員か。
人の息遣いのようなものが聞こえる。
誰かいる。

刑事の習性で、まず背中を壁に付けて警戒態勢を取り、それから障子をそっと横にずらす。
電気は点いていない。
だが、確かに声はこの中だ。
啜り泣きの声がハッキリと聞こえた。

室井は体を傾け、部屋の中を覗き込んだ。
その瞬間目に飛び込んできた光景に、室井は絶句した。



***

「・・ぁ・・・っ、は・・っ、ゃ、ゃだ・・っ、やめ・・・っ」
「じっとしてろ。騒ぎを起こしたら困るのはそっちだ」

灯りも点けない部屋の中、絡み合う二つの影が咲き誇る茄子紫の桜の前で卑猥に揺れていた。
開け放たれた窓に夜桜が地の如く赤紫に染め上がる。

「く・・っ、は・・ぁ・・・っ、くそ・・っ、やめ・・ろっ、ぅん・・っ」
「暴れるんじゃない・・・大人しくしてれば悪いようにはしない」
「ふざけ・・・っ、ぁ、っく、こんなこと・・・っ、んむぅ・・ッ」

ネクタイで両手を頭上に縛られ、窓枠の桟につるされている男を、覆い被さるように男が貪る。
上半身に花明かりが射し込み、シャツを切り裂かれた胸元が紅紫のライトを反射し妖艶に浮かび上がった。
・・・青島だった。
覆い被さる影が下半身を淫らに擦りつけ、青島の脚を妄りに開かせる。

「ゃだ・・・てっ、変態ッ、くそ野郎ッ、やめろって・・・!ぁくぅ・・ッ!」


窓際から漏れる灯りに紫紺に縁取られた輪郭が揺れ、青島が喉元を晒して仰け反った。
明りに浮かぶもう一人の男は、勿論木澤だった。
破られた胸元を弄られ、時折むしゃぶりつかれるように口唇を奪われている青島が身体を揺する度
桟に括られた手首がギチギチと卑猥な音を上げる。


「活きがいいな・・・、本気で犯してみたくなってきた」
「冗談・・・ッ、男にカマ掘られるほど、飢えてねぇよッ、・・ィ、ツ・・・ッ」

木澤が青島の首筋に勢い良く齧りつく。
そのまま鼻息荒く熟れた口唇にむしゃぶりつくと、両手で身体中を弄った。

「ノンキャリの言うことなんか誰も信じない。でも俺に従えばイイコトしてやれるぞ」
「いらね・・ぇ、よッ、」
「・・はぁ・・ッ、助けを呼んでも誰も来ないぞ・・・、それとも室井を呼ぶか・・・?」
「ゃあ・・・・っ、ア・・ッ、・・・っ」
「イイ声出すじゃん。想像以上だ・・・もっと喚けよ、強請れよ男を。女みたいに啜り泣かせてやるよ」


仰け反る拍子に薄い細髪が不規則に揺れて、仄かな若紫色を放つ。
その余りの煽情的で芸術的な光景と、非現実的な衝撃に、室井は足が竦んだ。

春風が花弁と共に部屋へと舞い込み、揺らした枝目から月が室井の顔を照らす。
木澤が横目で一度だけ挑発するように室井を捕えながら、青島の胸を弄る。

「なんだよ・・・室井・・・・邪魔しにきたのか?それとも混ざりにきたのか・・・?」

木澤が青島の口唇を舐めながら囁き、その躯を腰から引き寄せる。
ザァッと風に花弁がさざめいた。


まるでそれは室井の感情を表すように渦を巻く。
室井は瞬きも忘れていた光景に眉間を寄せ、大股で二人に近付き、両手で青島を凌辱している木澤を青島から強引に引き剥がした。

「んだよッ」
「やめるんだ・・・!」
「チ・・ッ、イイトコだったのに」

面白そうに濡れた唾液を啜って、青島の肌を舐め、木澤は容易に離れた。

「恥を知れ!」
「なんだよ、無粋な男だな。混じりたいんじゃないのかよ」
「こんなことして唯で済むと思うのか!」


言いながら、室井は桟に括られているネクタイを外し、青島を解放してやる。
涙目で縋る様に見る青島の視線に、月が反射し、何故か合わせられない。
がくんと崩れ落ちた脇を支え、窓に凭れさせると、室井は自分の上着を脱いで青島の肩に掛けた。

視線を木澤に向けたまま、短く問い掛ける。

「大丈夫か」
「・・・なんで、ここに・・・・・」


頼りない青島の声に、言葉を失くす。
視線を合わせられずに、室井はそのまま身体ごと木澤を振り返った。


「自分のしたことを分かっているんだろうな」
「何怒ってんだよ?お前もしていることだろ」
「・・・・・」
「ああ、まだだったんだ・・・?、お先に」
「これ以上、我々を侮辱するなら――」
「訴えるって?男に襲われたって?ノンキャリに発言権なんかない。それにみんなやってることだろ」
「合意もなしにか!」
「分からないだろ。合意だったと言ったら?」
「そんなわけあるか!」
「へぇ。・・・・言い切るんだな」


じっと苛烈な視線が二人の中央で火花を散らす。
一歩も引かない双雄の威勢が、空気を一瞬にして破裂させた。
さわさわと風が桜を奏でる音が、しんと鎮まった部屋に舞い落ちる。
開け放たれた窓辺から、薄桃色の花弁がまた一枚、視界を舞った。


「・・・、そういうことか。でも分かってんだろ。強姦罪は男には適用されない。ましてや彼の沽券にも関わる。刑事、続けらんないね」
「貴様!」

「室井さん・・・ッ」

突如、傍で黙っていた青島が被せるように叫び、後ろから室井の袖を掴んだ。

「俺・・・、俺のことは・・・いいですから・・・」
「・・・ッ」


後ろから聞こえるかどうかのか細い声に、室井は歯ぎしりをした。

掴みかからんばかりの苛烈な激昂を、必死に制御する。
前触れなく文字通り暴発した激昂は、理性を堪えることを主とする室井でさえ扱いが厄介なほど苛烈に身体で渦巻いた。

確かに騒ぎにするだけ不利になるのは青島だ。
証拠も確保できない以上、大人しく引き下がる方が得策か。


「一つだけ聞く。何故青島に手を出した」
「ん~?・・・・興味あったから?ベビーフェイスは俺好みだし、オイシそうだしね」
「・・・・」
「実際オイシかったよ。どうせなら突っ込んでみたかったけど。それはまた次のお楽しみに取っておくさ」
「それだけか」
「ははっ、確かにね。・・・堅物だった室井を目覚めさせた男だぜ。査問、降格、左遷、そしてあの事件・・・室井の人事の裏には必ずソイツの名前があった」
「・・・・」
「今、誰もが欲しがっている旬の逸材だ。俺じゃなくてもいずれ誰かがまた攫っていくさ」
「・・・・」
「覚えておいた方がいい」


室井は言葉を挟まなかった。
今、口を開いたら、官僚という立場を忘れ下衆な言葉を吐き、折角留めてくれた青島の厚意を無駄にしそうだった。
その鬱屈した内部エネルギーが室井の細胞に満ち、一陣の烈風が吹き抜けるが如く、室井の背後から陽炎のように立ち上がらせる。
威厳と風格を礎にしたオーラが他者を圧倒し、瞳が静かに漲り、その威圧的な気配に
それまで飄々と嘲ていた木澤の軽口が封じられた。


「・・・ッ!驚いたな、お前がそこまで感情を露わにするなんて。・・・自分を降格させた人間の何が良かったんだよ?何故ソイツなんだ?」
「お前には分からないだろうな」
「ふぅん、惚れてんだ?」

室井の漆黒の眼に、桜の影が色付かせる。
そこには明らかな中傷の色も混じっていた。

「ほんとに驚いたな・・・冷酷なテキストタイプだと侮ってた。そんな顔を引き出すのがソイツってわけ」
「・・・・」
「俺には逆らわない方が利口なことは分かってるだろ。エリートと落ちこぼれ。上はどっちの人間を信じるか」
「その脅しは適当ではない」
「青島くんにこっちが誘われたんだと言ったら?・・・抱いてくれってせがんできた。お前は見たことも無い顔でな」
「青島が今夜参加したのは偶然だ。その偶然性でそんな計画に信憑性を持たせるのは暴論だ」
「どうして?所轄はすぐキャリアに取り入りたがる」
「彼が普段からそういう機会を狙っていたと、どう立証する気だ」
「・・・・」


木澤が室井の嫉妬を煽り冷静さを欠こうとしていたのは明白だった。
だが、抑揚すら乗せない室井の弾圧が、木澤のプライドを圧倒する。
室井は片手を翳し、背後に青島を下げる。


「刑事事件にしたいなら、立証責任はそちらだぞ。罪状を何にする気だ」
「なら民事で名誉棄損でも損害賠償でも」
「それこそ愚問だな。今日初めて会った相手とどんな不法行為が?」
「不法行為なんて一瞬で発生するぜ」

低く響く声で、益体も無いことを口にしながらも、その視線は一度も外れず、苦痛を示すほど強い震動で空気を鋭くピリピリとさせた。

「君こそ、あの事件の評価は表向きは所詮、下々の駄々だ。上やキャリアの反感を買うだけの人間に何故手を出す?」
「野心家はそうは見ていないみたいだぜ?」
「・・・・」
「局長以下、部長らの下で媚び売る奴らがみんな従順な配下だと思ったら大間違いさ」
「なら、君の強引なやり方は彼らの反感も買っただろうな」
「・・・ッ、お前ッ、俺たちキャリアの繋がりと、所轄のガキ、どっちを取るんだよ?!」
「愚問だな。刑事告訴に踏み切れなくとも、キャリアを突き落とす手段など幾らでもあることは知っているだろう」
「・・・ッ」


今度こそ木澤は絶句した。
キャリアはその連携に情は持ち込まないが、所轄を蔑視している観念は共通していた。
その意味で、慣れ合いは無くとも一定の盟友であり続けられるのだ。
それを、室井は惜し気も無く断ち切ってみせた。

それは木澤にすれば捨て身の攻撃であり、室井にすれば、今となっては何も動じることもない一石に過ぎなかった。
不本意にもそんな挑発は言われ慣れている室井にとって、こんなことは然したる問題ではない。
青島によって優等生のレールから外れた室井は、ある意味、度量の深い男へと成長していた。


暫く黙って睨みあっていたが、やがて木澤は両手を上げた。

「分かったよ、今回は引きさがる。俺の負けだ」
「〝今回は〟じゃない。二度と青島に手を出すことを赦さない」

木澤はひょいと肩を竦めて見せた。

「細かい男だな。それはお約束できないね。俺じゃなくたって、あの一件以来、お前が東京にいない間も話題は彼で持ちきりだった。利用価値を見出した者もい る。後は時間の問題さ」
「君もか」
「そうだね、割と使い勝手が良さそうだ」
「言いたいことはそれだけか」
「――了解。退散するよ」


木澤は口端を持ち上げ、背を向けた。
その背中に、室井はじっと瞬きもせずに、鋭い視線を逸らさない。

入り口まで来た時、木澤が振り返った。
廊下のライトの照明で、木澤の輪郭がイエローに縁取られ、浮かび上がる。


「忠告はしとくぜ。そんなに大事ならさっさと喰っちまえば良かったんだ。喰わないなら、誰にでも奪う権利はある・・・俺にもだ」

逆光に双眼だけが妖しく光った。




***

「は、ぁ・・・」

パタンと障子が閉まる音がして、木澤の足音が遠ざかっていくと、青島はようやく糸が切れたようにその場にペタリと崩れこんでしまった。
室井は黙って立て膝を付き、顔色を窺う。
少し青ざめてはいるようだが、意識は冷静なようだ。
ほぅ、と詰めていた息を吐く顔には、疲労の色が伺えた。


「立てるか」
「・・・・ぁ、すみません、大丈夫ですから・・・ぜんぜん・・・」
「怪我は」
「んん、ちょっと・・・びっくりしただけ・・・」


その肩に触れようとした手が彷徨い、触れることを躊躇わせ、そのまま室井は自分の膝に置く。

いきなり男に襲われたことへの動揺で極度の緊張を強いられたんだろう。
冗談めかして乾いた笑いを乗せるが、その身体は芯を失い、小刻みに震えているような気さえした。
引き裂かれたワイシャツが肌蹴け、素肌が丸見えだ。
室井は黙したまま視線を外した。窓の外には毒々しいまでの紅い桜が夜空に浮かぶ。


「くっそぉ、男に奪われちゃったぜ・・・」

口元を乱暴に拭い、青島が横を向く。
言い方は茶化しているが、その衝撃は震える声が表している。

キャリア同士の応酬は必要以上の圧迫感をも生み出していた。
過度の緊張を解くようにゆっくりと青島が乱れた前髪を梳き上げる。
さらさら空気を含んで流れる細髪が若紫に染まって妖艶に流れ、室井は更に頬を強張らせた。
見ていられないのは、何故なのか。

「荷物は」
「あ、まだ・・・部屋・・・」
「持ってくる。ここに座ってろ」
「ぇ、でも」
「いい。今日はもう帰れ。・・・送ってやるから」


事務的に言い残し、立ち上がる。
青島が何か言い掛けた気はしたが、気付かぬふりをした。


宴会場に戻ると、事情は伏せたまま、二人で失礼することを告げ、二人分の会費を支払う。
引き留める声や心配げな視線を多少感じたが、丁重に断った。
一倉にも一声掛けると、卑陋な冗談を掛けられたが、適当に睨みかえしておいた。

部屋へ戻る。

障子を覗けば、部屋は電気も付けられず、さっきのままで、ライトアップされた店の老木が、艶やかに紅紫に咲き誇っているのが真っ先に目に入った。
さっきの窓際下に座りこんだまま、ぼうっと空疎な瞳で外の夜桜を眺めている青島の姿が、光景に溶け込んでいる。
映る瞳が辛子色に艶めいて、遠くを見ているようで、その横顔が、ただ、綺麗だと思った。


「ぁ・・・すいません・・・」

室井に気付いた途端、愁いを帯びた瞳に人懐こそうな情が浮かび、綻ぶ。
照れ臭そうに室井を見上げるその瞳に、なんだか胸が締め付けられた。

あれだけ太陽のように眩しく皆を先導し、不可能も可能にする男が
何故だろう、室井には時々、必死に強がっている子供のような脆さを思わせる。


荷物を渡そうと室井が手を動かすと、一瞬だけ青島がびくりと反応したのが分かった。
身体に緊張が走っている。
他人の手に怯える心理を、室井が苦みを込めて奥歯を噛み締めた。
まだ衝撃から立ち直っていないのだろう。
青島をこんなにした悔しさと不甲斐なさに、室井は胸が痛んだ。
青島もまた、室井にそれを気付かれたことへ、少しぎこちない笑みを浮かべようとして失敗する。

もう一度。室井がぶっきらぼうに黙って荷物を手渡すと、今度は戸惑ったように受け取る。
伺うような視線に、怯えさせていることに気付き、室井は隣にしゃがみ、立て膝を付いた。
じっと見ると、青島も見返してくる。


「冷たい水も持ってこようか」

ふるふると軽く横に首を振る。
それから青島がゴソゴソと室井の掛けた上着を肩から滑らせ、上目遣いに返してくる。
黙って受け取ると、青島がぺこりと頭を下げた。
そのまま室井の視線がある一点で固まる。青島が怪訝な顔で首を傾けた。


「ここ・・・・、その、・・・歯形も付いてる」

口籠りながら、室井が自分の首元を指さしながら指摘すると、青島がサッと頬を赤らめたのが闇に浮かんでみえた。
慌てて手で覆い、ボタンの弾けたシャツで隠そうとするが、上手く隠れない。

随分と酷く噛みついたらしい。
幾つもの紅い残痕と、歯型が花明りに白々と浮かぶ肌に咲き誇る。
妖艶さと清楚さが入り混じるその情痕は、この上なく淫らに見えた。
さっきの木澤の荒々しい息遣いと、青島の悲鳴染みた嬌声が映像と共にオーバーラップし、室井は頬を強張らせて横を向いた。
チッと舌打ちのような音が聞こえ、青島がゴソゴソとモッズコートを掻き寄せている。
その手首も、少し赤らんでいた。


「相変わらずそのコートなんだな」

意識を反らすために掛けた気遣うその一言で、青島の中の警戒が解れたようだった。
小さな吐息が漏れ、それから、人懐こい、懐かしい瞳色に変わる。


「あ~・・・、官僚、アゴで使っちゃいました・・・」
「そこは気にしなくていい」
「・・・、久しぶりですね?」
「何で疑問形なんだ」
「だって、なんだか今更だ」
「確かにそうだ」

くしゃりと笑みを浮かべ青島が柔らかく瞼を伏せる。

「お元気そうで」
「君もな」

軽口の応酬に、馴染みの感覚を思い起こし、少しだけ安堵した溜息が室井の口からも漏れた。


「怪我が治ったようで良かった。全く君は・・・・いつも騒動の渦中にいるな」
「不可抗力」
「どうだか」

片膝を付いたままの室井が、今度は視線を逸らさず、しっかりと見据えた。

「・・・?」
「酔っ払いではなさそうだな」
「そりゃね、ペース配分心得てますから」
「・・・・怖かったか」
「・・・・聞くなよ」

ふいっと顔を背け、羽織ったコートの前をゴソゴソと掻き込む。
それを見ながら、片眉を上げる。


「早く来てやれなくて、すまなかった」
「・・・・」


鞄も胸元に抱き込んだ状態の青島が、ビクリと硬直して室井に視線を戻す。
室井もじっと見た。
奇妙な沈黙が、なんだかそれは、数年前の謝罪のようでもあると気付かせた。


「室井さんのせいじゃ、ないですよ」

交わす視線は、時も超えるのだろうか。
ただ、静かに黙って見つめ合った。










3.
料亭を出ると、春の匂いがする。
風が、二人の足元を吹き抜けた。
青島がタクシーを嫌がったので、歩いて駅へと向かう。

ついこの間まで真冬の気配であった都心は、まだ若く、春とはいえ夜はかなり冷え込んだ。
とっぷりと暮れた空には、真冬のような白月が冴え冴えと見降ろしている。
室井の半歩後ろを、青島が連れ立って歩いた。
黙って、てくてく歩く道すがら、会話はなかった。
少し遅めの歩調は、酒で火照っていた身体に心地良いリズムを刻み、夜風が柔らかく青島の髪をさざめかせる。

ふと、室井の足が止まる。

横道に交差する遊歩道が見事な桜並木を造形し、紫紺の宇宙に枝を伸ばしていた。
それをじっと見た。
その視線を辿り、青島の足も止まり、何となく二人でその盛花を眺めた。


「見事だな」
「きっれぇですねぇ。・・・さっきの料亭にも一本でかいの咲いてましたけど、並木になると迫力が違うな~・・・」
「桜ももう終わりだな」
「・・・ですね」
「見ていくか?」
「え?」
「桜」
「・・・・!」

びっくりしたような青島が、ポケットに両手を突っ込み、室井から空へ顔を上げる。
夜風に視線を彷徨わせた後、ようやく砕けた笑顔を見せた。



***

遊歩道は膝丈くらいの石張りのブロック塀で仕切られ、その上をアルミの鋳物フェンスが誘導するように囲っていた。
その向こうはなだらかな傾斜となっていて、川でも流れているのだろうか、微かに水の匂いが漂う。
等間隔に並ぶ桜並木と赤提灯が、桃色に闇夜を染め、奥へと続いていく。


「隣。・・・歩いたらどうだ」


室井が姿勢良く伸びた立ち姿のまま振り返ると、青島が息を呑む。
凛とした気配で佇む室井は、それだけで典雅の風格を発し、青島へ異論を奪わせた。
口角を上げ、青島がトトトと追い付く。
室井はそれを見てから、ゆっくりと前を向いて歩を進めた。
視線を落とした先には二人の足先が並んだ。

擽ったり視線を感じ目を向けると、何か話しかけたそうな青島の瞳もチラリと室井を窺ってくる。
だが、前を向いても口火は切ってこない。
遠慮されているのか、こちらの出方を確かめたいのか。
それを幾度か繰り返した後、苦笑を口の奥で噛み砕きながら、堅い顔を向けた。

「なんだ」

話したいんだろう?
室井の瞳がそう促しを乗せる。
それに青島もついに微苦笑した。

「えと・・・、室井さん、今って・・・」
「通信局だ」
「何するとこ・・・?・・・え、まさか、ひゃくとーばん・・・?通報すると室井さんが出んのっ!?」
「・・・出ない」
「なんだよ・・・あ!分かった、サイバーテロとか!ミッションインポッシブル・・・『君の任務は・・・』って」
「君の妄想は何処へ向かってるんだ。・・・体系はともかく、私の仕事は運営実施・統括管理などだ」
「地味っすね~」
「――」

敷物を引いて花見を楽しむ客も列を成し、その楽しそうな団らんの横を、二人で歩いていく。

「捜査したいでしょ」
「現場に関われないと確かに勘は鈍りそうだ」
「ちょっと・・・!」
「相棒でいるのが怖くなったか」
「むぅ。喧嘩売ってます?俺こそ足引っ張ることばかりですいませんね」


憎まれ口に、室井が密かに笑みを滲ませる。
その珍しい表情を横目に入れた青島が目を見張り、それから視線を反対の方へと投げた。

桜は見頃を迎え、満開だった。
八重に群がる薄桜色のソメイヨシノが役目を終えたように、沢山の花弁を地面へ敷き詰めていく。
後から後から降り落ちる桜の声なき声に、どこか哀調を思うのは日本人だからだろうか。
桜の魔力に心が操られる。

こうして二人きりで話せる日がまた来るとは、どんな運の悪戯だろう。
あれから月日は流れた。
赦されることはなくても、変わってもいいものはあるのかもしれない。

「君こそ、怒っていないのか」
「なにを?」
「結局、降格になった。君を裏切り、君を傷つけ、そうまでした出世も散った。上へ行く約束は果たせてない」
「俺のせい・・・・でしたね」

驚き、室井は目を見開いて顔を見る。
すると青島は仄かに色付くような当惑を浮かべた。

「そこはそんなに焦ってません」
「・・・・」
「ほんとですって」

両手を広げてぐるんと振り返る。

「いつかは行くでしょ、遠回りは必要な階段なんですよ~、どってことないです」
「君に・・・怪我を」
「治ったし」
「君の怪我を痛むこともさせてくれないのか」
「そんなの・・・」
「悪いと思うことくらい、認めてくれないか」
「・・・かったいね、相変わらず」
「私は君に何もしてやれない」
「自販機くれたのに?」
「・・・・・」


へへ、と笑う青島が、もう拘ってすらいないことを知る。
そういえば、いつかもこうやって、同じ鬱屈を吐きだし合ったなと思う。
変わっていない。
あの頃の風は確かに吹いていて、その中で戦ったものも、感じたものも、みんな青島が持っている。
何も変わらない青島に、きっと変わったのは室井の方なのだ。
離れた時間も、お互いを試された過去も、そんなものは極些細なことで、淡泊だが変わらぬ何かをお互い宿している。
青島とならやっていけると室井が理屈なく感じるのは、強く共鳴している時ではなく、むしろこんな時だ。
贖罪を求められすらしないことも、青島の中での室井の存在の大きさや形は何も変わっていないことを、室井は言葉の節から感じ取った。

「・・・・ありがとう」
「・・・、あーっと、・・・でもキャリアも大変ですね、あんな堅苦しい飲み会」
「意味はある。だが堅苦しかったか?」
「俺たちの飲み会って言ったらもっと下世話なワイ談と恋バナのハキダメ」

何故か会話の糸口を探ろうと彷徨う青島の、もどかしさが手に取るように室井に伝わる。
穏やかな気配のまま、室井はそれに付き合った。

あの事件が隔てたものは、極些細なことで、青島にとってはもう病むべきことですらないのかもしれない。
元々青島の中で室井は然程重要じゃないのかもしれない。
だがそれは、ある意味、執着を持たされた室井を置き去りにされたような、一抹の寂寞を論理包含してもいる。
大怪我を乗り越えたのにも関わらず、何も見せない青島が切ない。
綺麗だと思うその魂の真理が、室井には眩しい。
違う世界を選び合った。
違う道を尊重し合った。
時代は終わっていく。
含意するのは、孤立と独立なのだ。
変化に対応できない者は朽ちるのが世の常だ。分かっているのに。

むしろそれを寂しいとも感じている自分自身を自覚し、室井の方が困惑に引き摺り込まれそうな恐怖に苦みを感じた。
距離感すら見失いそうなそれに抗う自由も、隣に沿う青島のリアルな感覚に惑わされていく。


無尽の桜が息を詰まらせるほどに視界に散っていた。
時折風に流れ、無秩序な散乱に浮遊感さえ呼び覚まされる。


「皆に変わりはないか」
「ああ!えぇえぇ、相変わらずですよ~、和久さんなんて毎日俺にお小言ばっか。付き合わされんの。室井さんのことも気にしてたかな」
「・・・そうか。中々挨拶も出来ていない。不義理をしているな」


思えば和久とも、あの病院で別れたきりだった。
あの時、先へ進む背中を押してくれた青島に声を掛けず立ち去ったことを黙し、室井の矜持を保守してくれている。
所轄のシステムを否定するような任務を命じたのに、それでも室井に負託する。

温かい絆と温もりに支えられ、自分たちは見守られている。
それは、以前の自分には考えられなかった基盤であり、それを可能としたのが、青島の存在なのだろう。
そして、踏み越えていけという下命なのだろう。

終わらせていく勇気は切ない苦みと共に、桜の季節に添って散り終える。

キャリアの世界にいると、つい忘れがちな人の体温というものを、青島は室井に思い出させた。
だからこそ、室井には青島が――。


「あんた、あのまま北海道行っちゃったから、病院運んでくれたこと、お礼も言わせてくんなかったし」
「・・・・礼を言うなら、私の方だ」
「・・ぇ・・・」

青島の髪が風に乱れて夜に透ける。
ふいに何の脈略もなく切りだされた過去の凄惨に、見るとはなく漆黒に映り込んだ群れ咲く桜が、どこか室井の胸をざわめかせた。

「・・へ・・へんなの。何で礼?」

室井は答えない。

血の海の残像が彩られる。
思い出すたび、室井の中には息を殺す戦慄が今尚走り抜けた。
何とも淫蕩で蠱惑的な嗜虐的な快感をも抱かせる一方、決して相容れない溝を生み出すのだ。
その背徳的な感情を認めたくなくて、室井は瞼を伏せ、眉間を深めた。
今なら口を吐いて出てしまいそうだった。
暗がりに、浮かび上がるように粉雪のような桜が次々と落ちてくるのが視界に入る。

大切でありながら、自分こそが真っ先に矢を放った人間だった。
きっとそれはこれからも変わりない。
今更言えることなど、ありはしないと思っていた。
だが、今再び、向き合うのなら、口にするのは謝罪よりも謝礼がいい。
それを青島が望んでくれるなら。


遊歩道は奥へ向かうにつれ、ひと気がなくなり、提灯だけが赤く風に揺れていた。
桜の欠片がひらひらと舞い上がる。

数多の感情を必死に呑み込んだ室井が、ただそれしかないというように、呟くように言葉を発した。

「一年前のあの事件の時・・・、死んだかと思ったんだ」
「はは・・・生きてます・・・」
「もう、私の心臓を止めるような真似だけはするな」
「・・・・」
「無茶はするな。君は少し――無鉄砲な所が多すぎる」


きょとんと、虚を突かれたような顔をして、青島が室井を見た。
室井もその視線を戻す。
踏み込みすぎているその発言にも飄々とした顔を崩さない。
絡み合う視線に、静寂が訪れた。


「さっきの、気にしてます?」
「するだろう、普通に」
「気にしなくていいですよ、むしろあんなのがキャリアにいて、室井さんの足引っ張んなくて良かったって心境」
「あんなのに安々やられるか」
「・・・でしょうね・・・」

少し風が舞って、桜がハラハラ視界を遮り、乱れ舞う。

「〝俺の部屋へ来れば優遇してやる〟だなんて女口説くみたいな台詞言ってんなぁと思ってたら、まさかあんな強硬手段でくるとはねぇ。くっそ」
「そこまで言われて何故ノコノコ付いていった」
「俺が付いていったんじゃなくて、付いてきちゃってたの!」

キャリアってわっかんね~と言いながら青島も立ち止まり、桜を仰ぐ。
二人の距離は数歩以上の距離がある。
見上げる青島の瞳に桜が映る。その淡い栗色の髪がさわさわと揺れた。

「今度会ったらね、俺、一発お見舞いしてやりますから」
「キャリア数名を相手にか」
「・・・増えてますけど」

一片ずつ舞い散る桃色の欠片が、花屑となって視界も地面も埋め尽くしていく。

「悪いがキャリアは喰うか喰われるかの強食の世界だ。所轄の慣れ合い意識で勝てるか」
「怖っえ~」

青島がからからと笑った。
笑ってくれる、それだけで、室井はこんなにも胸が痛い。

「いいんだ、汚れ仕事は俺がやる。あんたはそのまま、そのまっさらな道を登って行ってください」

室井が、殊更ゆっくりと身体ごと振り返る。
丁度桜の木の下で、白い街路灯に照らされた桜が夜空に淡く浮かび上がる。
1mほど間隔を残したまま、二人は向かい合った。


「君を隠れ蓑に、私がのさばっていく男だと思うのか」
「・・・・」
「同志だろ」

一陣の風が吹き、千々に舞う桜の欠片は音も無く沁み込んだ。
まだ冷たい春風が、効力の途切れた室井の前髪も崩して靡いた。
ただ、哀しくなるほど春の終わりを告げた欠片が、ひとときの謳歌を告げ、消えていく。

照れ臭そうに青島が俯き、モッズコートのポケットに両手を入れる。
俯いたせいで、室井には表情が良く見えなくなったが、微かに笑みを浮かべたようだった。
おどけた足付きでぽんっと飛び跳ね、背を向ける。
柔らかそうな茶色の髪が頭上で風に踊っている。


「俺・・・ね、あんたが何も言わずに美幌に行っちゃってから、色々考えたんですよ。見限られたのかなとか、あの時嬉しかったのは俺だけかなとか」
「――」
「ま、そんな訳ないって解釈してましたけどね」

肩越しに顔だけ室井を見て、へへっと笑顔を見せる。
眩しく笑う顔に、室井の目が惹きつけられる。

「良かった・・・。あんたが変わってなくて」
「早々人間が変わるか」


唸るような低さで往なした声は、思った以上に掠れていた。
青島が思うほど、室井は夢想家でも純潔でもない。
地面に向かって伸びた枝に青島が指を伸ばし、そっと花弁のブーケに触れているのを、室井はただ焼き付けるように見つめた。

青島の優しさに、勘違いしてしまいそうになる。
青島にとってもまた、今も自分は特別で、あの時間を拠り所に生きているのだと。

同じことを思ってる。いつでも想っている。
真紅の惨劇と辛苦の衝撃が、一面に腐食し、室井を息苦しくさせる。
どうして青島はこんなに室井を慕ってくれるのだろう。どうして認めて信じてくれるのだろう。
室井が良いと、全身で訴えてくる。
それが、どんなに室井を喜ばし、漲らせるか、青島こそが知らないんだろう。
そして、我知らず室井を裡から搔き乱していることなど。

グッと握られた室井の拳は、まるで自制の証だった。
目の前を舞う桜のように、気を抜いたら狂乱に持っていかれそうだ。

「その・・・、怪我の調子はどうだ」
「腰の?室井さんが気にするようなものじゃないですって。大丈夫ですよ、もう一年も前のことなんですし」
「少し引き摺っている。庇っているんじゃないか」
「!」
「警察官を甘く見るな」

くしゃりと青島が照れ臭そうに顔を崩す。
コテンと傾けられ、桜の間で柔らかそうな茶色の髪が舞った。

「ちぇー、鋭いなぁ・・・。でも平気なのは本当ですよ。夏の間はホント気にならなかったのに、冬に入って冷えてきたら、朝とか夜とかは後遺症で少し・・・ ね」
「・・・そうか」
「だから・・・・さっきも・・・、踏ん張りが効かなかったりして」


室井が呆れたような嘆息を零したのを見咎めた青島が、チラリと横目を流し、ちょっと頬を膨らませる。
多くを語らなくても、青島には瞳から伝わるものがあったし、それは室井も同じだった。
だからこそ、青島も誤魔化されない。


「あんた・・・、俺を置いていくの、そんなに心配・・・?」
「・・・・」

揄うように、むしろ何言ってんだかという慈しみを込めて青島が首を傾げた。
その言葉に、全てを見透かされたような室井が、観念したように、片眉を上げる。


「大丈夫、ですよ。俺は最初っからあんたのものだ」

ザァッと花嵐が巻き上がった。



誘われたように足先が動き、室井が殊更重い足取りで青島へと近付いていく。
目の前まできて、そっと青島に手を伸ばすと、青島は少しだけ見開いた目で固まった。
肌の温度さえ知れるような不自然に近いその距離に青島が怯えを乗せた瞳で、だが、引こうとはせず、じっと見返す。

室井の長い指先が、そっと伸び、青島の髪に乗っかった桜の花びらを手に取る。
それを見て、青島が儚く笑った。


「もっと鍛えろ、傷は筋肉がカバーする。あの程度のキャリアに対抗できなくては、この先の警官は務まらないぞ」
「失敬な。俺だってねぇ、ちょっとは腕上がってるんですよ」
「・・・・」
「ホントですって」
「じゃあ何であんなことになる」
「あれは――!」


ここまで意気揚々としていた青島が、少し気配を動揺させている。
訝しげな視線で、促しも込めて室井が漆黒の眼を強めれば、青島ははにかんだ。
今日の青島は妙に素直だ。


「あ、あれは――あんたに迷惑がかかったらどうしようかと思ったんですよ・・・」

一度火が付いたら勝気で、暴走する男が、室井の前では従順さを覗かせる。
思わぬ答えに室井が瞠目した。

「だから・・・っ!今夜はあんたの同期だって言うし、俺が反抗することでなんか不利になったり・・・とか、居辛くなったりとか・・・色々考えちゃったんで すよ」
「馬鹿か君は」
「だぁって・・・・!俺、譲れないことはあるけど、室井さんに恥掻かせる真似だけはしないようにしようって・・・」
「ッ」
「そしたら、それが隙になって先手取られちゃって・・・、まさかあんな手段に出てくるとは・・・思わなかったし」

口論なら勝てると思ったんだけどな、と青島が悔しそうに横を向く。


振り散る桜吹雪のように、ひとひら、ひとひら、舞い落ちて、一面に敷き詰められる。
裏切っても、突き放しても、傷つけても、こうして直向きな信頼と願望を寄せてくれる存在に、これ以上ない慕情が息苦しいまでの強烈な感覚と共に満ちた。
室井の中の枯渇していた何かが波々と満たされ、崩れ落ち、眩む程の眩しさを発する。
こんなにもこれは自分を震わせるものだっただろうか。

うわ言のように、室井の口唇が薄く開いた。

「どうして・・・君はそこまで・・・」
「そんなのあんたが・・・」


二人のコートの裾が風に煽られ、足元を桜の渦を巻いて通り過ぎた。
青島が流れる髪の向こうで、口唇を噛み締めて、俯く。
喋りすぎたとでも言うように、隠された前髪の奥でチッと舌打ちが聞こえた気がした。
ここにきて隠されようとしていることに、室井がグッと拳を固める。

はらはらと、桜と共に何かが室井の中から零れ落ちて。
桜の清楚な色は、禍々しさなど一切億尾にも出さないのに、人の業を淫らに曝け出す。
脳裏に過ぎるのは、熟れた桜の吹雪の造形をした血の海だった。
燃えるように甚だしく、溺れさせるように舞って、室井の深部へ降り積もる。

ただただ愛おしく、室井は黙ったままその腕を引き寄せた。
小さく呻き簡単に傾いできた身体を柔らかく受け容れる。


「・・・むろ・・・ぃ、さ・・・?」


ただ、信頼が満ちて。
視界には若紫の破片が無数に舞っていた。
咲き満ちて、狂いそうな息苦しさと愛おしさだけが湧きあがる。
この躯に触れた自分以外の男が居た事実が憎々しい。

室井は腕を背中に回し、その胸に思いの丈で抱きしめた。

今になって行き場を失っていた想いの熱が、溢れ、蘇り、零れ落ちる。
まるで見当違いの解釈をしていたことが、いっそ滑稽なほどだった。
自分を拓かせ、何か熱く滾るものを灯してくれる何かを持っている。そんなのは彼だけだった。
この熱が、眩しい。この熱が、欲しい。
自分を自分たらしめ、果ては願いの場へと躍進させてくれるような、そんな漲る珠玉のような気がした。

これは、俺のだ。
どんなに遠くなっても、どんなに離れていても、共鳴したままの魂は変わらず、室井だけに捧げられる。

そう気付いた瞬間に、室井は浅く息を殺し、細く長い指先を青島の顎に掛け、そのまま室井は無意識に口唇を寄せた。

「・・ッ、ぇ、ぁ・・・っ」

突然の室井の変貌に驚いた青島が腕で突き放すように抵抗するが、留まれず
頬を叩こうとした手も難なく取り上げ、手首を素早く掴み、苦情まで一瞬だけ口唇で封じる。


「こ、こんな往来で人が見てたらどーすんですかっっ」
「誰もいない」
「そういう問題じゃ・・・っ」
「キャリアに口論で勝てると本気で思うのか、おまえは」

いきなり公道でキスをされたことに、驚きと羞恥を隠せない青島が動揺するのを、妙に冷静で、だが野生染みた目で室井が見つめた。
自分に接触してくる男を、青島が信じられない思いで見つめ返してくる。
冗談も笑いも浮かべてはいない瞳に、青島の身体が凍てついている。


「逃がしたくない」
「逃げたのはあんた・・・ぅ、・・んん・・・っ」

苦情を言いそうな口唇を室井が先に塞ぐ。
胸倉を掴むその手を室井は簡単に往なして背中に捩じり上げた。
両手を拘束し、ろくに抵抗も出来ない身体に身を寄せ、被せるように口唇を濡らすと
青島は拒絶を全身で露わし、世界を閉じるように視界さえ閉ざした。

「・・・ッ、ぅ、ん、・・んぅっ」

哀願する声が桜に閉ざされる。
泣きそうで潰れそうな思いが胸を圧迫し、粉雪のような紅い破片の視界に詰まって室井の呼吸を止める。
舌の先で輪郭を辿られ、弾力を確かめるように舐めあげられ、青島は震えた。


室井の脳裏に、先程の木澤と青島の淫戯が掠めた。
花明りの中、紫紺に染まり妖艶に絡まっていた肉体。
言っていることは憤慨したが、彼は一つだけ真っ当なことを言った。
奪われるのを指を咥えてみているくらいなら、先に奪うべきなのだ。

視界に木澤によって破られたシャツから覗く肌理の細かい若い肌が花明りに浮かぶ。


「・・ぁ、ゃ、ゃだ・・・、待ってっ、室井さん・・・っ」
「本気で厭なら本気で抵抗しろ。そのままでは誘っているとも取れる」

息を乱し、少し潤んだ飴色の瞳が、キッと強気の凛光を差し、室井を強く睨み上げる。
強がりの天邪鬼にしか見えない挑発は、室井の雄をより刺激し、桜の中で妖艶な笑みを浮かばせた。
月を背に、室井の顔が影掛かる。

室井はゆっくりと青島の耳朶を口に含んで囁いた。

「君はもっと・・・自分がどう見られているかを自覚した方がいい。もう渦中の人物なんだ」
「言ってる意味が・・っ、分かりません、けど・・っ」
「まだ痛い目をみたいのか」
「早々オトコを襲う物好きなんかいるか・・・っ」
「だったら、私が分からせてやる」

室井はそう言って、青島の首の下、鎖骨付近に顔を埋め、少し強めに吸いついた。
ビクリと痙攣したように痛みに青島の躯が敏感に反応する。
そこは、先程の木澤が歯形を付けた場所でもある。
上書きするようなその行為に、青島の顔が真っ赤に染まった。

だが、生来の強気な性分が、屈服を由とさせない。
闇に艶めく辛子色の瞳が、室井に挑むように光る。

「成程・・・木澤の言うとおりだ。無自覚なのも、罪だな」
「・・、何、考えてんですか」
「ほんと、活きが良い・・・」

それがどれほど男の本能を掻き乱すか。

室井の目が薄っすらと眇められた。
負けん気の強さで挑む瞳を堪能しながら室井が青島の腰を引き寄せる。
乱暴に抱き寄せた躯は微かに震えていた。

柔らかいうなじの肌を口唇で辿られ、青島が眉尻を下げて顔を背ける。
その貌さえ、室井を痛いほどに劣情する。
後ろ手に拘束された右腕を解放しないまま、室井に晒される形になった白い肌を、滑らかな感触を見せ付けるように手を滑らせた。

「ァ・・ッ、駄目、だめだったら!」
「君となら、地獄の果てに堕ちてみたって悔いは無いだろうな」
「誤魔化さないでください・・・っ」

本能的な格差が原始的な怯えを抱かせ、青島は足元を竦ませた。
それをまた、雄の本能で、或いは支配者の天賦で嗅ぎ取った室井が、貌を僅かに傾け、紅く熟れた口唇を何度も啄ばむ。

「今夜を逃したら、また君は私の前から消えて・・・・、そして遠くで俺のために無茶をするんだ」

室井の漏らした吐息は恨み言のように、夜の闇に白く浮かぶ。

「こんなやり方・・・っ」
「君を誰にも触らせたくない。取られたくない。そのためなら多少の無理はもう覚悟の上だ」
「~~っっ、だからって・・・!・・ぅ・・ん・・っ」

一旦外れた口唇が持ち上げられ、また青島の口唇を塞ぐ。

「君を失うのは、もう御免だ」


聞いたこともないくらい甘く低い声で囁き、室井は手首を取っていた手を外し、その筋肉質の厚い胸板に青島を抱き込んだ。
強靭な男の腕で囲まれて身動ぎをする青島の後頭部に指を埋め、そのまま、濡れた口唇をもう一度塞ぐ。
青島が顔を左右に頑是なく振る。
避けようとしたキスをそのまま押さえ込まれ、態勢を崩した状態で襲いかかるキスが、室井の匂いを放って青島を凌駕した。

「ぅん・・っ、ち、が・・っ、」

何度も柔らかく重ねられ、柔らかく抱きこまれ、青島は封じ込められた躯で哀願するように震える。
重ねた口唇の隙間から、微かに殺した息が漏れる。
何処か縋るような仕草にも思える腕で抱く男の、傲慢で咎めるような行為に、真摯な感情が溢れさせられる。

耳元に口唇を寄せ、ボロボロのシャツに晒された首筋を熱い口唇で辿られ、罵声が闇に消えた。

「狡、い・・・っ」

まるで観念したかのように甘い吐息と共に青島が天を仰ぎ、堪え入るような声を漏らすと、室井が顔を上げた。

「俺が、厭じゃなかったか」

舞い散る音さえ聞こえそうなその闇夜に、哀しみがそれぞれ宿る二つ視線が交差する。
辺りに人影はなく、闇の宙に桜が舞っていた。
見つめ合った瞳は、微妙に擦れ違う二つの心の震動を共振させていく。
深い深淵の中で絶望の色を宿した動揺が桜色に染まり、零れ落ちた。

黙ったままじっと見据えていると、案の定、優しい青島の方が困惑を見せる。
じっと青島が透明な瞳に室井を映した。
室井だけしか映っていない瞳が、艶々と桜の中に映え、呑み込まれそうになる。

「避けなかったことが、答え、かな・・・」
「――」

言ってから俯いた青島の目元を、少し汗ばんでうねった前髪が覆う。
照れていることを感じさせた。
室井の冷たい指先が青島の頬を霞める。

「ならば・・・ならば私は、・・・・俺は自惚れていいか?」


一人称を言い変えたことで、これが官僚としての室井ではなく、一人の男として――人間として向き合っているということを、青島に明確に悟らせた。

男の繋がりは、社会的な理想郷であった。
それを今宵、室井が崩していく。
詫びもなく、その逃げ道であった言い訳を、鮮やかに散らし、断ち切って見せた。
その覚悟をさせたのが青島だというのなら、これは何と悪い冗談なのだろう。

でも、出会った時から自分たちはこんな風に相手の領域まで侵略していきそうな、強い引力があったように思った。


「どして・・・俺・・・?」

狂おしく渦巻く激情を胸の奥底に押さえ込み、口唇を堅く噛み締め、青島が指を幾度も意志の力で封じ込めた。

「さあ、な」
「言ってよ」
「気持ち一つだけで俺にぶつかって来たところ・・・だろうか」
「・・・・」
「大抵の人間には出来ないことだ。その根性に・・・こっちは芯から揺さぶられる」

青島は自身の胸元を鷲掴み、息苦しそうに浅く呼吸をひとつ吸った。

「知るかよ・・・」

冷たく春にはまだ早い風が二人の間を通り抜けた。
桜が、音も無く闇に散っていた。

「これだけは、分かってくれ。いい加減な気持ちで口付けた訳じゃない」

同意もなしにということは同じでも、木澤とは違うことを、青島には伝わるだろうか。
それともこれも、男の身勝手ということになってしまうのか。

じっと待てば、青島もまた、室井を静かに見つめ返した。
喉がひりついたまま、青島もまた声が発せない。
こうしていれば、皮肉にも二人の共鳴が極自然に輪郭を彩ってしまう。
しまったと、青島こそが思っていると思えた。だがそれも、室井にしてみれば都合よく利用させてもらうファクターに過ぎない。

桜が咲く頃、大階段の下で約束をした。
それを、桜の季節に壊される。
願ってはいけない様々な願い。溢れ出す青島への想い。・・・どうしようもなく深い情愛が、鋭利な痛みを伴って無防備な悲哀を連れて桜を抉る。
ただ、好きなだけでも赦されないのか。傍にいたいと願うことが、傲慢だったとでもいうのだろうか。

室井の背中を追うように舞う花弁がこの胸の焦燥を嘲笑う。
この想いと共にこの身が朽ちることが出来るなら、本望だ。


「俺・・・・は・・・」


簡単に一言で済ませられる返答を、こうも長引かせるその時間で、青島の躊躇いも、戸惑いも、全てを嗅ぎ取れてしまった室井は、同じく胸が締め付けられた。
青島の利他的な心が室井をいつだってざわめかせる。
出会った頃からそうだった。
自分たちは目を見れば、大概のことが通じてしまう。
今宵、これは室井が仕掛けたゲームだったかもしれないが、青島の内部に燻る熱も確実に探り当てた。

青島の言いたいことは、室井には一瞬で分かった。

言葉じゃない、態度じゃない。理屈じゃない何かが確かに伝えてくる。
瞳が全てを物語る。
探る様に重ね合わせた日々が、やがて桜の開花と共に花開き、心も囚われた数年前の春。
季節は巡って、またこの季節がやってきて。
自分たちは向き合っている。


後ろ髪を鷲掴みにして、顔を上げさせると、その桜を映す見開いた瞳に魅入りながら、室井はゆっくりと顔を傾けた。
もう、止まれない。

吸い寄せられるように、桜色の口唇を奪い返す。
自分以外の男の刻印など、必要ない。
青島の中に刻まれるのは、室井だけで良い。

少し濡れた口唇が震えている。
なぜ、避けないのか。
それはもう、聞く必要はなかった。

後頭部を押し、室井は深く深く口付ける。

「ふぅ・・・ッ、・・っ、ふ・・・っ」

甘い吐息が室井の熱を加速する。
何もかも共有し共鳴しあった筈の片翼は、だが何も手に入れていなかったことを室井は悟る。
同じ胸の痛みも、それをどうしてやることもできなかった不甲斐なさも、持て余すほどの熱を持つ焦燥も。

もう逃がす気は無い。忘れることも、赦さない。
青島の全身が、室井を好きだと告げていた。
桜の烙印が、二人の上に降り注ぐ。

力強く口付ければ、青島がバランスを崩し、足元がふらついた。
そのまま抱き込む様にして背後のフェンスに青島の背中を押し付ける。
ガシャンという金属の音が遠くに聞こえた。

「・・・んっ、・・っ、・・ぅ、・・んぅ・・・っ」

酸素が足りなくなった青島が少しだけ身動ぎをするとキシリと金属の音が鳴る。
室井は逃がさぬよう乱暴に身体で押さえ付け、顔を両側から挟み込むようにフェンスに指を掛けた。
顔を斜めに傾け、強くその口唇を奪う。

これは、このままこの手から消えてしまう筈だった。
捕まえてどうなるとも答えも付けられなかった。
それを思うとき、室井は時間さえ呪いたくなるほどの強烈な感情に囚われる。

フェンスに引っ掛けた指が震える。
衝撃で震える身体が、フェンスを軋ませる。
重なる口唇が燃えるように熱くて。離れ難くて。

目の縁に、肌に残された情痕が桜と共に夜の空気に浮かび上がっているのが入り、いっそ怒りとも取れそうな苛烈な嫉妬が室井の内から沸き起こる。
閉じ込められたまま、目を閉じた青島に、室井は熱い舌を半ば強引に潜り込ませた。

「んぅ!・・んぁ・・、」

もう、青島は明確な抵抗はしてこなかった。
髪が揺れ、室井のスーツを申し訳なさそうに掴み、上向き、必死に室井の口唇を受け止めていた。

甘い唾液と、微かな懐かしい煙草の味。
視界に広がるのは、紅い桜だけ。
桜の花が妖魔に燃えあがる。

ただ、一面の視界を紅が覆い尽くす。
これが二人で出した答えなのか。
血の記憶を塗り替え、名残りの花弁が、春の終わりを告げ、夜の闇に燃えあがる。

濡れた口腔が灼けつくように痺れ、室井の感情に呼応するように、花嵐が巻き上がり、桜吹雪が感情を否応にも煽った。

ひっそりと共鳴の余韻を残す匂いは、いっそ紅く灼け、飢えが視界を覆って、曝された恐怖も、貪欲な雄の欲望も、皆、甘い吐息に蕩けて崩れていった。
アイシテル――そんな陳腐な単語など簡単に凌駕する狂暴なまでの感情が、無尽の花弁の中に散っていった。







4.
僅かに外した口唇の隙間に、春の風が乾いていく。
さっきまでの情動が嘘のように鎮まり返っていた。
銀色の糸が濡れた紅い光を繋ぎ、呑みきれない液体が顎へと伝う。
魅入られるように、挑むように、見つめながら、室井は唾液で光る青島の口唇を指先で辿った。


「君に掛かると、いつもこうだ。抑制が効かなくなる・・・」

そっと濡れた口唇を噛み、瞼を落として、室井がフェンスを握り締めたままだった指先に力を込める。
遣り切れない想いが音となったかのように、フェンスが冷たい金属音を立てた。

「んな・・・殺し文句・・・ッ」

青島が左手の甲を口元に当て、泣きそうな声で横を向く。
通りがかる人は誰もいなかった。
荒い息で上下する青島の肌の上で、紅い痕と桜の花弁が重なり落ちる。

青島が黙ったまま瞼を伏せると、それを追いかけるように、室井が口唇を寄せた。
少し焦点の合わない瞳が至近距離で艶めき、音にならない吐息で、名を呼ばれた。

桜色に染まる空気の中で、花明りに縁取られる青島の髪が、若紫の光を発し、妖艶に揺れていた。
そのあまりの無垢と愛おしさに室井の胸が潰れそうに痛む。
こんな貌でせがまれて、果たして男だからというだけで自制を保てる男が何人いるか。


「・・・、意外と・・・手ェ早い、んですね」
「あんなの見せられた後じゃな」
「いられるわけ、ないじゃん・・・、一緒に、いられない、よね、俺たち・・・」
「・・・・」
「これ・・・を、最後に・・・」

皆まで言わせず、被せるように制して、小ぶりな頭を両手で掴み、室井が額を押し付ける。

「青島」

少し堅い声で遮ると、青島が口を閉ざした。

「・・・はい」
「今の俺には、このまま君を攫う力はない。だが、もっと、もっと、君に相応しい男になって必ず迎えに行く」
「・・・」
「待っていてほしい」

返事は返ってこなかった。
瞼を上げれば、呑み込まれるほど近くに透明な瞳があって、室井だけを映している。
今は、それだけで身体が震えた。
それだけで、充分だった。

「待つ・・・理由が・・・・ないですよ」

桜が二人の頭上からひらひら舞い散り、落ちていく。
鷲掴みしている指の隙間から青島の細髪がさわさわと風に揺れる。
髪を梳き、瞳を室井が覗き込む。すっかりと冷たくなった指先をそっと握れば、青島はピクリと震えた。
青島は透明な瞳に室井を映して、無垢なまでにあどけなかった。
室井はただまっすぐにその瞳を見つめ、再び顔を傾け、囁いた。

「今夜を終わりにしたくない」
「・・・っ」

青島の殺した息が戦慄いて、室井はそっとその口唇を誓いの如く塞いだ。
柔らかく感触を確かめ、腕の中に閉じ込める。

「どうなるか、分からない。でも、もう、勝手に終わらせるな」

耳元に室井が口唇を押し当てる。
青島の頬が微かに桜色に染まっているのが見える。
この先、この結実を持った自分たちがどんな渦に巻き込まれていくのか、分からない。

「俺を放したくない?」
「誰にも渡したくない」

ただ強く、消えないように抱き締める。
涙目の青島が、宙を見上げて、紅い口唇を震わせた。

「・・・もう一度・・・」
「奪い去れない男に、これ以上言える言葉なんかあるか」
「・・・」
「来年も、再来年も、ここで桜を見よう。毎年この日に君と桜を見れるのは、俺だけだ」

室井の肩に、青島の髪に、ハラハラと天から桜が通り抜ける。
少し濡れたように艶めく青島の瞳が、月を反射した。
ややして、押し殺した吃音と共に、掴み取るように青島の両腕が力任せに室井の背中へと回る。

時が、息が止まった。
室井はきつく、ただきつく抱き締め返す。
呼応するように、桜吹雪が巻き上がる。

「・・・、あんた、東京にいるとは限らないだろッ」
「この日だけは必ず帰ってくる。君に会いに此処へ来る。命尽きようとも必ず攫いに来る」
「・・・怖い、こと言うなよっ」

桜の魔力だろうか。
この身が滅びようとも、その魂だけは片割れを求め、必ず青島の元へと返ってこれる気がした。

「いつか、何もかも気にせず一緒にいられる未来が来ると・・・・いいですね・・・」

そんな日は未来永劫訪れることはないのだろう。
だが、青島の夢見る呟きは、何だかそんな日を夢抱いても良いような気にさせた。

年一度、ここへ舞い戻ってこよう。桜の合図と共に。
魂を、愛しき相方の元へ。

室井は抱き込む腕にただ力を込めて応える。
ただ、今だけの温もりを感じて。

肩の向こう、桜が花嵐を起こして宙へと舞い上がっていた。
あんなに苛んでいた血の記憶は、怯える魂が融合することで桜の契りとなって、喪失の恐怖をその抱き締める腕に込めさせる。



名残の花が敷き詰められ一面桃色に染まっていた。











happy end

index

零れ桜・・・・咲き満ちてこぼれ落ちる桜の花
桜の季節のお話でした。桜の綺麗な面ではなく、死体とか妖魔とか、少し怖いイメージの方を意識してます。
この二人はまだ若いし、このあと容疑者だのOD3だのがあると考えると、あんまりベタベタな成就にはしない方が良い気がしてこんな話になり ました。

20160412