登 場人物は二人とオリキャラ。バレちゃった最悪バージョン。(最悪なのは私の頭の中だ)
中盤かなりバイオレンスな表現が含まれます。暴力的な展開が苦手な方はブラウザバックしてください。










鏡の中の道化師







朝9時。
官舎の室井の部屋で、遅めのブランチを差し向かいで取りながら、青島は大きな欠伸をした。
昨夜はほとんど寝ていない。
自宅ならそれこそ夜までダラダラしてしまう所だが、規則正しいリズムを崩さない室井は、帰宅がどんなに遅くとも、夜更かしをしようとも
定めた時刻に起き出した。
その徹底ぶりに、流石だと舌を巻く一方で、やはり育つ世界の違いを認識させられる。


ぱくりとホウレン草入りの卵焼きを頬ばる。
室井の部屋へ泊まりに来た翌朝は、必ず和食だ。

「眠い・・・・」
「目覚ましに後で濃い目の茶でも入れてやろうか」


もう無理だという青島の言い分に聞く耳を持たなかった本人が、やけに爽やかに返答してくるのが、何か不条理な気もする。
でもまだ、それに真っ向から反論するだけの元気も勢いも無い。
こうしてもそもそとベッドから抜け出せば、手間を掛けた朝食に、朝の風と陽射しが窓辺から射し込み、テーブルを白く光らせ
生まれたての空気の清々しさが身を包む。
久しく味わうことのなかった家庭の匂いは、酷く多情で、甘えたな気分にさせた。

室井の部屋の朝の風景を目にするようになって、まだ日は浅い。
まるで旅館にでも泊まりに来ているような素朴な初心さ、ここに居ることを許されている唯一の人物であることが、どうにも歯痒かった。


室井と、こういう関係になるまで、かなりの紆余曲折があった。
気持ちを伝えられるとも思っていなかったし、気持ちが伝わるとも思っていなかった。
こんな余計な感情など、抱いていること自体、室井への嘲りであり、侮辱だと責めていたから、苦しいだけの片恋だった。
好きだなんて、一生言うことも聞くことも出来ない間柄だと思っていた。

なのに、どういう奇跡が起きれば、こういう未来が造りだせるのか。

一度だけでも言葉にしてみたかった愛の言葉は、二人の人生をも根こそぎ変えてしまった。
この室井が応えてくれた想いが未だ妄想の最中のような様相を呈す。
好きだと言えば、好きだと返してくれた、この奇跡。
週末をこうして二人で過ごせた、不思議な幸運。
二人で共有する、家庭的な情景を創造する朝に、非現実感ばかりが押し寄せる。


「別にいいです・・・・」
「朝、弱いんだな・・・。刑事なのにどうする」
「夜中に普通に寝てればね・・・・」

何とも気の抜けた反論を口にするが、多分、室井の耳には届いていない。


室井の匂いが移るベッドの上で
掠れた息と共に、普段は絶対口にしない言葉を耳元に吹き込まれ、熱い荒息を漏らしながら余すことなく肌を辿られ、灼けるような熱を刻まれる。
逃がさぬとばかりに回される汗ばんだ男の腕に、吸い付くように収められた躯は、意に反して力無く戦慄くだけで
卑猥な反応を返していく。
両脚を大きく開かれたまま、信じられないほど深くまで押し入られ、啜り泣きのような声を喉が枯れるまで上げ続けていた。

与えられる強烈な記憶は抗い難く、意識が朦朧としていく中で
肉も心も、今だけは繋がっている安堵感は、こんなにも浅ましく、飢える程に彼を必要としていることを、思い知らせてくる。
この美しく気高い存在に捕らわれ、もっと深く、もっと強くと融合を求める想いは、隠しておきたかった弱さも醜さも、みんな暴き出した。
その、羞恥もなくこのひとの前に開かさられる未知の本音も躯が、返って青島を内から烈しく蕩けさせてしまう。

こんな時間が一生続くわけないと、哀歓の渦に身動きが取れなくなる。
余りに幸せすぎて。
抱かせることよりも、同じ強さを抱く想いに、時々窒息しそうになる。

だから、多少無理をされても、余り文句は言いたくない。


青島が口籠って、何とも言えない眼を室井に向けると
目の前の室井は、ラフな格好とはいえ、背筋も作法も美しさを讃えた凛とした風情で最後の米を口に運び、箸を置いた。
両手をスッと胸前で合わせてから、腰を上げる。
それら音の無い動作がまるで、全て鈴生りのように澄み渡った美しさを持つから、嘆息する。

口の端だけで、愛おしさを思わせる僅かな笑みを向け
室井は、寝癖混じりの青島の髪をくしゃりと掻き回し、官舎に備え付けのコンパクトキッチンへと背を向けた。

子供扱いっていうか、慈しまれているんだなぁと思う。

清潔そうな長い指先が、青島の終えた食器も幾つか持って、目の前を通り過ぎる。
ブラックのシャツから無駄な肉のない、鍛えられた胸元が覗き見え、そのままその後ろ姿を視線が追う。
少し伏せた睫毛が、影を作っていた。


「――・・・」

大人の男の色気と無防備さを同居させる素の姿に、青島は言葉も失い、俯く。

スレンダーながら、完璧なラインで引き締まった腰骨からの下肢が、みっしりとした強靭な筋肉で覆われているのが見て取れる。
普段はスーツの下に隠されているだけで、このようなラフな格好になると、それは瞭然だ。
余分のない逞しい筋肉が、気品ある立ち姿を可能にするのだ。
目のやり場に困る。

もぐもぐと咀嚼しながら、横を向いて頬杖を付いた。

俺じゃなくても、男として格好良い人だと、多分、誰もが思う理想形だろう。
同じ男として、俺にはこんな色気と艶と貫禄ある魅力は出せない。
天と地がひっくり返っても、あと4年経っても、俺には到底無理だ。

そんな人が、夜は闇に溶け込ませたその厚い胸板に青島を引き込み、その身を纏う清廉な空気を一変させ
耳元で、卑猥な言葉と共に青島を煽り、あの指先が淫らに激しく肌を暴いていくなんて、誰 が想像するだろう。
青島だって、ベッドに組み敷かれるまで、考えもしなかったことだ。

あの、闇に浮かぶ、獣のような燃える漆黒の瞳の美しさが、忘れられない。


「まいったなぁ・・・・」
「何がだ?」
「いぃえ~、こっちの話です」

肩を竦めて応答し、青島は人参のお新香と一緒に、秋田の米をてんこもり口に放り込んだ。







ピューという湯を沸かす音がする。

「今日は夜まで居られるんだろ?」
「居させてくれると助かりますが?」

おどけて応えると、室井が向かい合わせの台所から柔らかい視線を寄越し、水道を捻る。
水音が弾ける中、室井が何かを言い掛け口を開く。

「じゃあ、おまえ・・・・」


突然、玄関から来訪者を告げるベルが鳴り響いた。

「誰だ・・・?」

室井が濡れた手をシンクから出して口の中で呟く。

「あ、俺、出ましょうか?」
「いや、いい」


程なく食事を終えた青島に短く答え、室井が手を拭きながら玄関へと向かった。
それを、なんとなく中腰のままに見送る。


さり気ない行動ではあるが、そこに現実がある。
室井の行動が全てを物語っている。
青島の奥底に小さな棘が疼くのが分かった。

二人の関係を誰にも知られてはならないのだということ。
青島はただ、食器を洗っていた室井の代わりに対応しようと気を利かせただけであるが
室井がそれを認めないことが、二人の現実なのだ。
室井もまた、外聞を警戒し、青島がこの部屋へ来ていることを周囲に知らせたくないのだろう。


公になることは確かに二人の関係の終焉を意味するし
室井がそれを望んでいないことの表意ではあるのだが
許されない関係であることが、今も時々青島を追い詰める。

室井に身体を開かれ、余すことなく受け容れる間柄になってから、この部屋へも上げて貰えることは激減した。

それが何を意味しているのか、考えるまでもない。
ただ、時折幸せそうに微笑む傍ら、済まなそうに青島を見るその眼で、青島は全てを呑み込んだ。


好きだと応えさせた結末の始末を付けられぬ分際で、今尚惹かれていく。
不透明な先に全てを賭け、突き進むだけの若さなどもう持ち合わせてもいないのに
それでもこの手を手放せないのは何故なのか。
何も見えないままに、手探りの何かを今も信じて、二人の行く末を、室井の肩に賭ける意味って何なのか。


「はぁ・・・」

宙に浮いたままだった腰を、ぱふんと椅子に落とした。


どんな理想を唱えたって、二人がやっていることは非社会的と言われるものだ。
青島の存在が室井を追い詰めているのが、紛れない事実だった。
それでもごく稀に、こうして呼んでくれる。
それだけで室井の気持ちは充分伝わった。

悪いことをしている訳じゃない。
でも、悪いことだと批難されるようなことを強いているのは、俺の方かもしれない。
こうして時々、陽の当たる路に影が射すように、音も無く忍びよる罪を思い知らされる。
人様に迷惑を掛けている訳じゃなくても、人論に悖ることはあるのだ。

振り返らない室井の背中が、リアルな現実となって青島の心を掻き毟った。


室井がいなくなった部屋の明かりが、朝なのに急に薄暗く感じる。
こんなことでもなければ、あのひとは、誰に隠すことなく、堂々と恋も結婚も出来るのに。




「おい・・・、何で連絡もなく来るんだ?」
「おめどがまた降格処分どご受けたとかしゃべっから」

ふと、思考に埋もれていた意識が、剣呑な声色に阻害される。

「それはもうちょっと前の話だって」
「滅多に連絡も寄越さんと」
「俺が帰ってるとは限らねのに」
「いたじぁねか」

「心配しただけなんよ」
「あ、ちっと待ってくれ、今・・・・・」


なにやら玄関が慌ただしい。
複数の声がする。
何だろうと思って再び腰を上げていると、どたどたと上がり込む足音に続き、勢いよくリビングの扉が開かれた。

思わず固まる。
同時に、向こうも固まった。

年老いた白髪交じりの男性だ。
日に焼けた素肌が浅黒い。
続けて、黒髪を後ろで束ねた小柄な女性も入ってきて、目を丸くする。

――あ。

瞬時に察する。
これは、ご両親だ。室井さんの。


「おい・・・っ、勝手にはるなって」

後ろから、持たされた荷物を抱えて、室井も部屋へ入ってきた。
その口調が少しだけ訛っている。
こんな遠慮のない懇意で、電話口で話しているのを、一度だけ聞いたことがある。


「どうも・・・・」

ペコリと青島が頭を下げた。
人懐こい青島とは対照的に、その男性はニコリともせずに軽く返礼し、口の中で小さく呟く。

「お客さん・・・だずのか」
「そういうわけだから、日を改めて――」

室井が明らかに動揺した口ぶりで退席を願う言葉を口にするが、中老の男性は、青島をじっと見つめた後
くるりと部屋を一瞥する。
その鋭い視線は、何処か室井に似ていると思った。







「慎次」

奇妙に張り詰めた空気を割って、低く、刺すように中老の男性が凍て付いた口を開く。
顔だけを振り返らせると、顎をしゃくり、青島を武骨に指し示した。


「誰えだ。何でこんた朝早くにおめどの部屋で飯喰ってんだ」
「あ~・・・・彼は――」
「見た所、若いようだども―― 慎次の友人にしては不釣り合いだべ。詐欺紛いのことや、勧誘ならお断りすど」


その台詞は、室井に向けられているようで、視線を向けたままの青島に投げかけられたものだと分かる。
凄味に呑まれ、口籠る。

「ええと・・・、いいえ」
「どちらさまだかね?」
「あ・・・・と、俺・・・は」
「慎次の仕事か何かの方ですか?」
「そういう訳では・・・」
「あぁ、仕事には守秘義務があるということですか」
「そういう・・・訳でも・・・」
「すると、友人でもなく、仕事でもないのに、泊まりに来ているということですか」


何と応えれば良いのだろう。
畳み掛けるような問い掛けに、青島は口を噤んだ。

この男性は、『泊まる』と既に断定している。
誤魔化す気ならそれなりのカードを出すし、打ち明けるつもりなら、俺の口からではない方が得策だ。
青島は縋るように背後の室井へと視線を向けた。

室井も釣られるようにこちらを見る。
二人の視線が男性を越えて絡まると、それだけで、親の勘なのだろう、その男性は眉間の皺を深めた。



「アンタ、何の用件でここに?」
「――・・・」
「ご存じの通り、愚息も良い歳でしてね。多忙を期す中、見ての通り女の影もあるようですし、淫らに日常に上がり込むのは少し遠慮して頂けませんかね」


視線をチラリと、意味深にキッチンに並ぶ歯ブラシや洗濯物、開け放たれたままの寝室に向け、気迫を覗かせた。
いつもの精彩さを欠き、考えあぐねている内に、青島も返答のタイミングを逃してしまう。
男が頬肉を強張らせたのが分かった。


「父さん、幾らなんでも失礼だろう」
「休日まで上がり込んでいる野郎相手に?」
「――・・・」

室井が、持っていた鞄を置いて口を開く。

「丁度良い、話がある。いつか言わなきゃと――」
「今日訪ねてきたのは我々の方だ。話なんかある筈がね、慎次。・・・大事な話なら尚更」

言葉を被せ、男性は青島に視線を合わせたまま、背後の室井に向かって、遮るように大きめの声で口を挟んだ。

「――、報告が遅れたことは悪ぃ。いつか秋田に行ぐつもりで・・・」
「思っているだけで先延ばしに出来るような話なら、大したことはね!」
「揚げ足を取らねでぐれ」
「今はお前の、先延ばしに出来るような話をしている、ほんたら場合じゃね。後にしろ」


聞く耳を持たず、男はそう言い放ち、室井を一蹴する。
それまでおろおろと黙って見守っていた青島の方へ改めて向き合い、殺気に近い抑圧感と鋭利を思わせる眼を向けた。


「親がいい歳した息子の交友関係にまで口を出すのも憚られるんですがね、ちょっとご事情を説明願えますか」
「え・・・・あ・・・」
「どういうご関係で」
「・・・・・」

条件反射のように、青島はまた室井へと視線を送ってしまう。
その仕草が、自らの責任を室井に擦り付けようとしているようにでも見えたのか
男性に怒りの感情が湧いたのを肌で感じた。


ツカツカとキッチンサイドに立ち尽くしたままの青島に男性が近づく。

無言で青島の胸倉を掴み上げると、そのまま拳を振り上げた。
ゴンと骨の当たる鈍い音がして、瞬く間に青島が後ろに吹っ飛び、壁に叩きつけられる。

壁にぶつかる鈍い音。
背後で唖然とする複数の息呑む風。
事態を呑み込む隙もなかったため、反応が遅れた。

キッチンラックが揺れて皿が鳴る金切り音が鋭く静寂を破った。


「ぐ、ぅ・・・ッ」

キッチン脇に置いてあったゴミ箱に崩れ、派手な音を立てて青島が雪崩れ込む。


「父さん!何を!」

慌てて、もう一度殴りかかろうとした父親を室井が引き剥がすと、そのまま父親には目もくれず
室井は青島の前へと跪いた。

「すまない、大丈夫か」
「・・・ィ・・・テテ。・・・ええと、はい、だいじょぶ、ですから」
「ああ、赤くなってるな、冷やさないと・・・・」
「いいから。いいですから、室井さん」

やはり動揺しているのだろう、立ち上がろうとする室井の腕を掴み、必死に背後の中老男性を見上げる。

「俺のことは、いいですから。先に・・・・」

室井が青島の視線を捕え、それから後ろを振り返った。


「父さ・・」
「アンタ、うちの慎次に何をした」
「何を勘違いしているんだ。いきなり殴るのは・・・・」
「勘違い?最近の慎次の不審な行動に、アンタが関係しているのと違いますか」
「・・・ぇ・・・?」
「不審って――」

思わぬ指摘に気勢を削がれた室井を置き去りに、男性は青島から視線を離さない。

「何でここにいるんだと説明を求めているんですよ・・・!」
「・・・・・」
「この部屋に!こんな朝早くから!何の用事が合って来たのか、それだけのことが、答えられないんですか・・・っ」

「ちょっと待ってくれ」

尻もちを付いたままの青島が呆然と気迫に呑まれる横で、室井が立ちあがった。
どんどんエスカレートしていく男性の激しい憤懣を、何とか諫めようと室井が会話を遮る。
しかし、そんな室井を片手で肩を押し退け、男性は仁王立ちで青島の前に立ち塞がった。
まだ暴発のような衝動が治まらない腕で、青島の胸倉を粗雑に掴み上げ、立ち上がらせる。


「人様の家に訪ねてくる者とは思えない身形で、そこに我が物顔でかかっとる上着だの、換気扇の下にある灰皿だの、その辺の理由を説明しろと言うとるん です!」
「!」


息を呑む。
まだ数える程しか来た事のないこの部屋が、既に二人の関係を匂わしているのは確かだった。
だが、その僅かな事実を掬い取った親の目線にも舌を巻く。
そして、思わず視線をその場所に送ってしまったことで、そのことを肯定してしまったことにもなると、やってから気が付いた。


「みんな貴方様のでしょう?それとも、慎次に女の影があるという解釈でよろしいかな?だとした御無礼を」

・・・ワザとだ。
確信する。既に大凡の解釈を付け、この男性は青島の逃げ場を断っているのだ。

思えば、単なる友人や後輩が泊まりに来ただけとも捉えられるこの状況を、この男性は最初からあっさりとその可能性を否定した。
昔堅気で性的マイノリティなど疎いだろうにだ。
その根拠が、恐らく早朝というこの時間と、部屋に紛れる私財と、そして何より二人の視線なのだろう。
大した用事もなさそうなのに、休日を二人きりでここで寛いでいるだけに見えるその滲む気配が、多分、彼を悟らせてしまった。

油断した。
もう少しタイミングが良ければ、お互いが傷つかないよう上手く対処も出来たのに。


俯いたことで、整えてもいなかった髪が、幸いにも無造作に青島の目元を覆い隠していく。


「ちょっと落ち付いてくれ」
「そうよ、少し声が大きいだべ。朝からご近所迷惑よ、あなた」


中老の男性に寄り添うように、困った顔を見せながら、男の腕を擦る女性の手を乱暴に振り解き
男性は鼻息荒く、胸倉を掴んだままの青島を、シャツから引き倒すように、もう一度撒かれたごみ溜めの中に、放り投げた。
バランスを取れずドササと音を立て、再び青島が生ゴミの中へ身体を埋もれさせていく。


「おいっ!乱暴はやめてくれッ!」

怒りを表わにした室井も咎めるが、その制止の声も聞き流し、男性は青島を上から見下ろした。

「アンタ、昨日ここに泊まったんですね」
「・・・・・」

断定だった。

このまま男の挑発に乗って、室井に女の存在が在ると口を合わせることも出来る。
しかし、それをすることこそ、二人の関係を半ば疑っているこの男にとっては最大の狙いだろう。
それを切り札に、関係を清算させるか、或いは、二人を必要以上の距離を踏み越えないようにする牽制の腹づもりであるか。
いずれにしても、虚偽を口にさせることで青島の印象を自ら下げるよう促しているのだ。
青島自身から愚弄な発言を引き出し、それを室井に聞かせることで、密かに誓い会った筈の言葉を妄想だと証明させようとしている。
それを室井の前でさせることで、公然の羞恥と、男性自身の嚥下を期待している。

つまり、嘘を吐くタイミングすら、先手を打たれた。


「・・・っ」

見た目の武骨さからは程遠く、頭の回転が速い。
流石に室井の父だと称賛すべきか。
どうするか。
どうしたらいい。



数秒で心理を巡らせ、青島はグッと腹に力を込めた。
今、一番しなければならないこと――


「答えてください。そうなんですね」
「・・・・・はい」

もう一度念を押してきた男性の問い掛けに、澱みない視線と肯定の返事を返す。
怒りで真っ赤に火照っている顔に、逸らさずに視線を真っ直ぐに向けた。
ゆっくりと撒かれた塵の中から抜け出し、痛みを伴い少し血の滲んだ口元を袖口で拭う。


「仕事は」
「同じ・・・・警察官です。所轄ですけど・・・・」
「同じなんて言葉は使わないで頂きたい。・・・・所轄の人間が、何故うちの愚息とお知り合いに?」
「仕事で・・・・」
「仕事で関わりがあった上司の家に寄生するんですか、アンタは」

「おい、オヤジ・・・ッ」

隠しもせず侮蔑の色合いを乗せる言葉遣いに、室井が反応し、割って入る。
しかし、男性はその室井の肩に手を掛け、更に、庇うように自身の背後へと押しやった。


「慎次はキャリアとして本庁に努める、お国の大事な人材でもあるんですよ。その辺、アンタ分かっていますか」
「はい・・・」

そんなことは分かっている。
分かりすぎる程に、分かっている。


青島は切れた口唇を噛み締めた。
血の生々しい味が、事態の深刻さを味覚でも伝えてくる。
だが、瞳の強さは失わない。
強気な態度が相手の本音も矜持も引き出すのだ。


「ちょっと待ってくれ、父さん」
「おめどには後で聞く。黙ってろ」
「そうじゃなくて、彼は――」

「室井さん、いいんだ、室井さん」
「青島――」

何か言い訳を口にしようとする室井より早く、青島がそれを制する。
室井にこのまま喋らせ、腰の怪我の話でも引き合いに出されたら、それこそ話が迷走していく。
今は、余計なことを挟まず、シンプルな議論を続けた方が良い。


「所轄の人間が、気易くこの官舎に入り込み、ましてや泊まり込むなんて、常識外れだと思いませんか」
「・・・・はい」
「非常に無礼な行動ですよね。大人として恥ずかしくないんですか」
「・・・・」


言葉を返せない青島に、男は鼻から大きな息を吐いた。
そんな父親の腕を引き、振り向かせ、室井が口調を荒立たせる。

「所轄の人間だって、仕事が立てこめば24時間行動を共にすることもある・・・!」
「おめどは一課の統括者なのにか」
「父さんに仕事の機微は分からないだろ!」
「なら彼は何のためにここに居るんだ。おめども、捜査の指揮者なら全体を見渡す義務があるんじゃねのか」
「それは――!」


ゆっくりと、黙したままの青島へ、男は冷笑一つ見せずに、顎をしゃくった。

「お前なんかよりも、彼の方がずっと肝どご据えているようだぞ。見ろ、言い訳ひとつも出来ねでいる。・・・遊ばれたな、慎次」


青島を侮蔑の視線で射抜きながら、隣の室井へと口を開く。
チラリと室井も青島へ視線を流すが、表情一つ変えずに、また男へと視線を戻した。


「俺たちのことは俺たちが決めるから――」
「もうすっかり彼は冷めているようじゃねか。命乞いも懇願もしねで」


不甲斐なさか、不本意な現状にか、頬を紅潮させ強張らせる息子を、男性は痛々しげな眼差しで見下した。

今はこちらが昂奮すればするだけ、男性の荒ぶれた激情に火を注ぎ、室井の訴えが言い訳染みたものへと成り下がっていく。
一方的に決めつけられた喧嘩では、よくあるミスリードだった。


それら親子を静かに見届けながら、青島も、もう一度男へと視線を向けることで、続きを促す。
自分がこの場の主導権を握っているつもりでありながら誘導されたことに、男性は少しだけ眉を顰めた。


「貴方たちがどういう付き合いをしてきたかを大袈裟にするつもりはありません。要求は唯一つです。黙ってここから出て行ってください」
「・・・・」
「そして二度と慎次に関わらないで頂きたい」

「違うんだ父さん!」
「黙っていなさいと言った!」

被せるように低く怒声で威圧し、袖を掴み喰い下がる室井の肩を押し退け、自らも身体を横に開き、玄関へと向かう道を開ける。

「さあ、早く!」

青島の胸倉を片手で乱暴に引き寄せることで退席を促す。

二、三歩、足がよろけた。
その腕の強さは、老齢ながらも鍛えられた田舎の屈強な男らしいしなやかな強さに漲り
そこに、心底青島を拒絶する鋭さが痛いほど感じられる。

無念なのか屈辱なのか、よく分からない感情の渦に、青島は歯を食いしばった。


グイと、汚れ物を投げ捨てるように男性が青島をシャツごと引っ張る。

「・・・っ」

何も言えず、青島がたたらを踏んで、その横暴な動作に大人しく従う。
縺れた拍子に、足元に転がり出ていた空き缶を数個、蹴飛ばした。

カラカラと乾いた場違いな音が隅へと転がっていく。


音を追って何気なく振り返った男の視界に、男に引かれながら足を縺れさせてバランスを崩している青島の襟元が入った。

「・・・!!」



元々だらしなく第二ボタンまで外してあった襟口が撚れ
その胸の隙間に、肌に浮かび上がる朱色の刻印が幾つも視界に曝け出され、朝の清らかな空気を不釣り合いに澱ませていく。

それを間近で確認した男の顔が、頂点まで沸騰したような怒りに覆われる。
グイっと襟首を粗雑に手繰り寄せ、胸元を広げて情痕を白日の元に晒して見せた。

「・・ぁ・・・っ」
「貴様・・・ッ!慎次を誘ったのか!この下衆が!!」


間髪入れず、平手で青島の頬を張り付ける。
パァンという派手な音が響き、避ける余裕もなく、青島がまたよろけた。
キッチンラックにぶつかり、そのまま体制を崩して、ズルズルと座りこむ。
尻もちを付いた拍子で、ぱさりと栗色の細髪が、青島の頬を打ち、流れる。

ラックの角にぶつけたのだろうか、額がじんじんと脈打った。


「なんて淫乱な手を使うんだ!貴様は娼婦か!」
「いい加減にしてくれ!」

庇うように堪りかねた室井が、父と青島の間に両手を広げて座りこむ。
男性は、今度はその室井の胸倉を掴み上げた。


「おめどは・・・っ、こんなのに!こんたのに誑かされて・・・!ほんたらことどごしとるす場合かッ。こっちゃある親不幸モンが!!」
「俺は誑かされた訳じゃない!」
「まさか見合いも断ったってしゃべるのも、これが理由か!他にええ人がいるのかと待てども結婚の報告どころか、付き合いの報せもしてこんと!」
「伴侶は自分で決める!」
「こんたことで遊ばれてるおめどに嫁いでくれる女子がおるか!」
「なんだと!」

「ちっと、おめさん、もうそっちゃあるくらいに・・・、ほら、慎次も」


流石に暴力沙汰になりそうだと思ったのか、それまで黙って見守っていた背後の女性が、口を挟んで仲裁を図る。

この中老の女性は、さっきから不安げに事の成り行きを背後から見守り、おろおろとした様子で主人である男と青島のやりとりを交互に目配せしていた。
それは恐らく場の流れを機敏に感じとり、頃合いを見計らっていたのだろうと思う。
気弱な気配は感じられず、室井に似た凛とした芯を思わせた。
この事態を旦那に全てを任せていることからも、威厳と風格のある人柄だと感じとれ、聡明な女性である気位の高さと気品を放つ。

きっとこの女性が室井の母親なのだろう。
小柄で、顔の輪郭が室井に似ている。
家庭をその細腕一つで護り抜いてきた、教育的な方なのだと思えた。
小さな花柄のブラウスが、少し色褪せている。
何となく、室井が育った片鱗が透けて見えるような気がした。


「おめどは黙ってなさい。息子を穢されたのに、黙っていられるか」
「んだども、おめさん、なんぼがは慎次の話も――」
「穢されたとはどういう意味ですか父さん!」

室井が聞き捨てならないというように、激昂した口調を抑えながらも、歯向かい、後に引かない。
親だからだろうか、青島のことだからだろうか
珍しく、室井が感情を露わにしていることに、男性が更に憤りを暴発させていく。


寄り添うような妻の労わりにも目もくれず、男性は青島を汚らわしいものを見るような侮蔑の視線で、顔を歪める。

「こんたのに騙されて・・・・」
「俺は騙された訳じゃない!」
「じぁあそこっちゃある歯ブラシも、おめどに女がいるってことでええんだな!」
「・・・・あれは違う」
「異動だの降格だの、悪い知らせしか寄越さんと、心配して来て見れば、こんたどこっちゃある馬の骨とも分からね奴に嬲られて!」
「嬲られてって・・・!」
「しかも男だと?!目どこ覚ませ!!」


部屋の空気を切り裂くような怒声が発せられ、男の手が天高く振り翳される。

その刹那―――これまで無抵抗だったのが嘘のように、青島が無言で疾風の如く立ち上がり、その手が振り下ろされる前に、室井と男の間に割入った。
パァンと肌を打つ音が響き、青島がまた横面を叩かれ、張り飛ばされる。


「青島ッ」

驚いた室井が咄嗟に支え、青島を庇うように抱きかかえた。
横を向く青島の目元を細髪が覆い隠し、表情を誰にも悟らせない。が、打たれた頬がみるみる赤らんでいく。

「・・・ッ」



し・・んと辺りが静まり返る。
張り詰めた空気が朝の食卓を一変していた。



「アンタ」

呼ばれて青島が横髪を頬に張り付かせたまま少し顔を上げ、前髪の奥から男を虚ろに見上げた。

「この淫売が・・・・ッ」
「・・・ッ」


本当は違うと言いたかった。

でも、何て?
この愛に全てを掛けているのだと、そんな少女染みたことを口にして、何になる?

この愛が、俺たちを強くし、だからこそ、足りない物を補うかのように、惹きあった。
だけど本当は、そんなこと間違っている。
警察官であることを考えれば、多分、社会モラル以上に。
本当に必要なら、こんなやり方じゃなくても、良かった筈なのだ。

真実から逃げて、逃げ続けて、それでも逃げ切ることはできなかった。
それを止められなかった弱さが、俺たちの罪で、運命だと言うならば
それは、何の言い訳にもならないいし、軽蔑される類のものだ。
そして、今この向けられる憤怒が、償う機会を与えられたのだと解釈しないことを、見逃してはくれないだろう。

都合の良い解釈だけで、人生を渡っていける程、俺たちはもう、楽観者ではないし、多くを見過ぎてしまっていた。


「あだりめに、男の精気を吸い取って媚びを売りそうな顔どこしとるすよ・・!意地汚い・・・ッ」
「やめろッ!」
「おめさん・・・!」

二つの声が重なる。
三歩下がって後ろに控えていた女性が、男の背中を窘めるように擦った。

「なんぼが落ち着いてけれな。血圧が上がってしまるすから・・・」
「血圧はええ!」
「それに人様の御子息どご悪くしゃべるもしがらもねわ」
「全く・・・!親の顔が見てみたいもんだす。面汚しが」

吐き捨てるように呟いた侮蔑の言葉は、冷たく朝の空気を劈いた。










恐ろしく重たい沈黙が部屋を支配していた。
荒い息遣いだけが部屋に木霊する。
気詰りの緊迫した空気が、永遠にも続く睨み合いを成立させ、無言の時間を経過させた。


青島は頬に手を当てながら、目の前の老夫婦の様子を漫然と瞳に映す。

中老の女性が不安げな顔をして男性の腕を擦り、怒りを宥め
鏡合わせのように、室井の手が青島の両肩を抱き締める。
向き合うように支えている偶像は、正に正邪の世界だ。

それは、まるで、二つは写し鏡のようだと思った。


自分たちは、目の前の老夫婦の影だ。
支え合う相手がいるというのは、戦いの場に於いて一人じゃないことを意味する。
今、主観の相違が真っ向からぶつかり合い、中央で火花を散らした。見た目は遜色ないまま今、二対の単位が、人生を軸に向き合っている。

だけど、この差はなんだろう。
ここにあるのは、シンメトリーでありながら、対義的なものだ。
半身であることは、どちらも同じであるのに
老夫婦は社会的にも法的にも認められた、正統な後継者の共闘を許される。
反して、自分たちのこの綻びは――。

まるで白と黒、善と悪。
相対する対義のものが、、ここに凝縮し、映し出されているようだった。
鏡の中の自分の現実を見ろと。

これが現実なんだ。



肩に乗る室井の手は熱くそして、静かに激昂していることを伝える。
同じく、目の前の男性も、未だに怒りを収めきれず、憤りの限界を越えていることが見て取れた。
写し鏡のようなシンメトリーの対図は、それらが同類であることを示してもいる。
親子なのだ、同じくそろそろ室井の限界も近いだろうことを青島は察する。
・・・・幕を下ろす頃合いだ。


「慎次の降格まで、アンタの責任じゃないだろうね!?」

男が幾らか感情を収めた口調で口を開いた。

俯くことで、前髪が顔を隠してくれる。
嘘も、罪も、そして――


「それは――」
「そう、です。俺がヘマをして、庇ってもらいました」

弁明を言いかけた室井の言葉の上に被せ、青島はハッキリと宣言した。
真横で室井が息を呑んだのが分かる。
同時に、また空気が張り割けるような怒りが眼前から発せられたのを肌で感じる。


「違う、俺たちは――」

――言わないで。

青島は視線を室井へ向けた。
その視線で室井が察し、虚を突かれたように押し黙る。


「すいませんでした」

室井の腕を解き、深々と青島が頭を下げた。


「もう、何度も、尻拭いしてもらいました。その度に、室井さんだけが処分を受けてましたけど、俺に甘い顔をするのを知っていたから、キャリアであることを 脅しにして、ちょっと調子に乗りました」
「!」
「すいません、俺たち、ご推察の通りの関係です」
「あんたが誘ったのか」
「あ~・・・、口説いたのも俺からでした。何度も押し掛けて、交際も半ば無理矢理・・・なんだろうな。承諾してもらいました」
「身体の関係までか・・・・ッ」
「――・・・、男から見ても素敵ですから。俺が、室井さんを誘って、強引にこういう関係に持ち込んだんです」


何を言い出すんだとばかりに室井の眼が見開かれている。

もう一度チロリと、男にとっては意味深に見える形で、室井に視線を送る。
だが、室井には、先制のためのコンタクトだ。

――俺に任せて

きっと伝わる。


案の定、そんな青島の敢然とした態度と瞳に、室井が先読みをし、室井の動きも止まる。
無謀なことでも奇抜なことでも、青島がこういう眼をして仕掛けたことには、必ず意味が――魂胆があることを、もう室井は経験上知っている。
青島も、室井のその眼を見て、自分の策謀に彼が乗ってくれたことを悟った。


「でも、室井さんはずっと嫌がっていて、俺を説得しようとしていましたけど・・・・・。でも、諦められなくて・・・最後は強引に」
「貴様ッ」

男性の拳が、これ以上ないほど赤らんで下を向いて握られているのが目の縁に入る。

「もう何度も救ってもらっていることを口実に押し倒して、一度だけって言って身体の関係を遂行したんです。 男なら誘えば反応しますしね・・・」
「く・・・ッ、この・・・ッ」
「そうすれば誠実なこのひとが俺を見捨てれなくなることも・・・計算の内でした」
「よくも大事に育てた息子を・・・ッ」


怒りに支配され、真っ赤に紅潮した顔で拳を脂汗で光らせ、尚も掴みかかりそうな男を、女性が横から引き寄せる。

品定めするような視線だった彼女の眼もまた、憐れみと軽蔑の色に変わっていた。
その瞳は悔しさからだろう、薄っすらと膜を張っているのが見て取れる。
頬を強張らせ、同じように恐ろしいものを見る拒絶の視線は、真っ向から暴言を吐かない分、男性の態度よりも返って鋭さを持つ。

青島は、痛みに顔を歪ませ、場違いな哀しい自嘲の笑みを、気付かれずに下を向いて浮かべた。


「浅はかでした」

もう一度深々と頭を下げた。


「目当ては金ですか」
「・・・・」
「金なのかと聞いている」
「・・・違います」
「出世ですか」
「それも――」
「アンタ、結婚は?」
「――、妻と。・・・・子供が、一人」

室井の眼が見開かれる。
何でという目の強さが横から突き刺さる。


「奥さんや・・・ご家族は、このことを知っているんですか」
「知りません」


男性は怒りに感情を抑えられないようだった。
慇懃無礼な口利きがそれを物語っていたが、横を向き、目を強く瞑りながら、歯を食いしばる。

当然だろう。
由緒正しい気高い血統で育てられ、国家の中枢に属するエリートに成長した、自慢の大切な愛息子なのだ。
将来を嘱望していた筈だ。


「その奥さまとは別れるつもりなのですか」
「・・・いえ、妻とは別れません」


横で、同じように困惑したような室井の気配も感じた。
そこへ振り向かない視線に、全てを賭ける。


「好きな気持ちだけで動きました。悪い事だとは知っていましたけど、諦めきれなかった・・・」

語尾は、演技ではなく、少し潰れていた。
言っていることは、強ち、嘘じゃない。


ここまで言い切ると、青島は、口を閉ざした。
後はただ、男性の気勢が落ち付くのを待った。
もう視線を合わせることはせず、ただ、穏やかな気配で、そこに立つ。



「自分は何も捨てないくせに、慎次のキャリアは捨てさせる訳ですか・・・」

やがて、擦り切れるような嗚咽を噛み締めた歯の隙間から漏らしながら、男性が口を開いた。

「出て行ってください。慎次と別れること、金輪際二度と関わらないことも約束してください」



顔を上げ、口を一文字に引き結んだままスッと頭を一度下げると、青島が黙ったまま玄関へと足を向ける。

「青島っ」

室井が引き止めようと、青島の二の腕に手を伸ばす。
その刹那、男性が攫うように室井の二の腕を引き寄せた。
室井の手は、虚しく空を掻き、青島に届くことはなかった。


「おめどは実家に連れて帰るからな」
「何でだ、仕事がある」
「降格処分まで受けて、一族の恥晒しをまだ続けるのか」
「男が一度引き受けた仕事を手放せっていうのか!」

室井が腕を捩って男の拘束を振り解く。

「一人めの口を聞くのは結果どご出してからにしろといつも言ってきただべ」
「俺もう四十近いんだぞ、いつまで親面するんだ。仕事のことにまで口出しされたくない。みっともない・・・!」
「みっともねのはどっちだ!仕事どごちゃんとするなら、口出しは出来なぁ。でもこっちゃあるままなら連れて帰る。身どご固める覚悟をしておけ」
「結婚相手くらい自分で決められるッ」
「こんな馬の骨に遊ばれているのも分からず傷物になった男に、決められるもんか」
「だから政略結婚か!親にまでそれを言われるとはな!」
「由緒ある恥ずかしくね家柄を宛がわれることの、何が不満なんだ!」
「俺は自分に恥じたことなどしていないッ」

「室井さんっ!」

虚しい言い合いをする親子喧嘩に、突如青島が叫んだ。

二人がハッと口を止め、視線を寄越す。
まだいたのか、という侮蔑の視線を送る男性に対し、室井は何故、という瞳を見せた。

その漆黒に広がる眼を、ただじっと見つめる。
――だめ。それ以上言ったら、だめ。


室井が苦汁を呑み、グッと口を強く一文字に引き結ぶ。
下で握る拳が、力を込めすぎて震えているのが視界に入った。
それらを見届けて、青島は横を通り過ぎた。


擦れ違い様、男が心底軽蔑の眼差しで目を眇め、吐き捨てるように呟く。

「事と次第に因っては、ご自宅の方に損害賠償を請求させて頂きますので」
「・・・な・・・」
「うちの弁護士と相談の上、追って連絡します」
「ちょっと待ってください、実家は関係ない!」
「なら裁判にしますか。貴方に支払う能力があるんですか」
「・・・ッ」
「下々の者は自覚もないようだ。貴方はそれだけのことを、うちの息子にしたんですよ」
「・・・・・」
「淫行罪なんて洒落にもならない・・・ッ」


吐き捨てるように、唾と共に男が呟く。
口唇を噛み締め、もう一度頭を下げ、玄関へ向かう。


「それは俺に対する侮辱でもあるぞ、親父!」
「いい加減、おめども目を覚ませッ。親戚連中に何て言い訳するつもりんだども!」
「男に淫行罪が通用するか!」
「だったら名誉棄損でええ!」
「どうやって立証するつもりだ!」
「お前は室井家の子息として、正しい血筋の方と、子を成す義務がある。自覚を持て!」


追い打ちを掛けるように、聞えよがしに背中に投げられた台詞は、青島の全てを貫いた。
振り切るように足を速める。


「青島ッ、待て、行くな!」

背後に室井の声が掛かるが、ちょっともう、持ちそうにない。
唇を噛み締め、靴を適当に引っ掛ける。
そのまま、部屋を飛び出した。

バタリと鋼鉄の扉が背中で閉ざされる。

「・・ぉ・・しまッ!」

室井の声が扉越しに途切れて漏れ聞こえた。
横目で少しだけ頬に笑みを滲ませた。

最後に耳に届いたのが、貴方の声で、良かった。









室井は、追い掛けてはこなかった。
鞄もコートも置き去りにして飛び出してきたので、とぼとぼと道なりを歩いていく。
どうせ国内は陸続きなのだ。
足を交互に出していけば、いずれ何処かに漂着する。


これは、デモではない。
いつか起こり得る想定内の出来事だった筈だった。

なのに最後に父親が叩きつけた言葉が頭を離れない。
室井の気持ちを疑ってはいないが、両親の説得には、強く出れない所もあるだろう。
そういう堅気と躾の行き届いた高等な育ちをしてきたのが、よく分かる。
自分とは住む世界がまるで違うのだ。

ケータイも処分しようかなと思いながら電源を落とした。


何とか自宅へ帰り付いた時には、その日が終わろうとしていた。
本日の太陽が鉄骨の向こうに沈んでいく。
真っ赤に染まる空と、対象的に藍色を深める東空の陰影が、やけに強く目に映った。

哀愁漂う夕暮れの街を、子供たちが甲高い声を上げて家路へと青島を通り過ぎていく。

ほんの少しだけ佇んで、燃える夕陽の赤さを瞳に映していた。
が、やがて部屋へと足を向ける。
オレンジに伸びる長い影がひとつ、コンクリに伸びていく。

歩きすぎて痺れた足を、引き摺るようにアパートの階段を登り、倒れ込むように扉を開ければ、やっと辿り着いたいつもの部屋に
ここに来てようやく張っていた気が抜けていくのを感じた。



~~~~~~


シャワーを浴び、さっぱりとした身体で冷蔵庫を開ける。
ロクな食べ物が入っていなくとも、缶ビールだけは常備済みだ。
朝食べたきりではあったが、空腹は感じていない。


肩に掛けたタオルで水滴を拭いながら一本取り出す。
カシュッとプルトップを引っ張る音に誘われ、半分くらいを一気飲みする。
冷たい液体と炭酸の刺激が喉を潤し、心地良く満たし、青島はようやく自分の身体の状態を自覚した。

腫れた頬と瞼を冷やそうと、冷凍庫を開ける。

しまった。この時期じゃまだ氷を作っていない。
コンビニに買いに行ってもいいが、何だか今は、何もかもが面倒だった。


「もういいや・・・・」

ポツリと独り言を漏らし、ビールの残りを煽る。
今夜はただ、全てを放棄し、このまま深い眠りで意識を失いたかった。



その時、扉の向こうで何やら物音がした。

ガタン

扉を開ける音だ。

外の主は施錠に気付くと、ややしてチャリンという鍵の揺れる音と、鍵穴に金属が入る音がする。
流し台から顔を覗かせ、呑みかけのビールをそのままに、青島は玄関へと向かった。
鍵に手を伸ばすより先に、ガチャリと解錠され、途端に扉が開く。

室井がいた。


「・・ぁ・・・・」
「全 くおまえは・・・ッ」

開け様に問答無用で怒鳴られ、抱き締められる。
背後でバタンと音を立てて扉が閉まるのが室井の肩越しに見えた。


「何で・・・ご両親は・・・」
「おまえの方が大切だからに決まっているだろうッ」
「・・・・っ」

言葉に詰まって何も言えない。

「・・・どれだけ心配したと思ってるんだ!」
「で・・・でも・・・・、折角東京まで来てくれたのに」
「いいんだ」
「滅多に会えないんでしょう?」
「一日中お守したからもういい・・・っ」
「でも・・・」
「ケータイも切りやがって・・!」
「あ・・・」

「おまえを放って俺が平気でいられるとでも思うのか・・・ッ」


我武者羅に掻き抱く室井の腕は、加減もない男の力任せで、酷く手荒だった。
室井の汗の匂いと整髪料の香りが鼻孔を付き、力強い抱擁がその体温を伝えてきて、息が、止まる。


「全くおまえって奴は・・・っ」

室井の両手が、粗暴に青島の濡れた髪ごと後頭部を掻き寄せ、力任せに胸に何度も掻き寄せる。
容赦ない強さに肺が圧迫され、空気が口から洩れた。


「おまえはっ、俺に男の甲斐性もさせてくれないのか・・・っ」

声も無く、呆然と、顎を室井の肩に上げて抱きしめられたままの青島の眼が細められた。
室井の背中に、迷った末に、たどたどしくそっと手を回し、コートの背中を握り締める。
呼応するように、抑えきれない激情を押し殺すように、荒い息を吐きながら室井の手が青島の肩を擦り、腰を引き寄せ
力任せに抱き寄せた。


「馬鹿野郎・・・ッ!」

独り言のように口の中で悪態を吐き、濡れたままの髪の毛を乱雑に掻き回した後、室井はもう一度腕の中に確かめるように抱き込み、力を込めた。


「俺を!惚れた奴も護れないような不甲斐ない男にするな・・・っ」

めちゃくちゃに青島を抱きこむ室井の背中をそっと擦り、青島は黙したまま甘えるようにその肩口に頬を乗せる。


「あべこべだ・・・・!口説いたのは俺だろう!引き留めたのも俺だった!何度も縋って気持ちを押し付けた・・・!嫌がるおまえを組み敷いたのも俺だっ た・・・!!全部ひっくり返しやがって!!」

室井が青島の首筋に顔を埋め、更に力を込めて全身で抱き寄せる。

「まるであべこべだ・・・!!」


泣 きそうな声で叫びながら、室井はただただ、きつく青島を抱き締めた。
その腕は、むしろ室井の方が縋っているようで、消えていく幻影を畏れる子供のような切なさを滲ませ
青島の身体に隙間なく纏わりつく。

抱きつかれたまま、青島は室井の後頭部と肩口をぼんやりと見つめた。


「いいんですよ・・・・これで。ご両親にとって、室井さんは宝物ですから」
「だが君の尊厳は・・・っ」
「ああいう形でバレちゃった以上、今は言うだけ傷つけちゃいますから」
「おまえに嘘を吐かせてもか!」
「室井さんには出来ないでしょ。だから俺の役目でした」
「そういうことを言っているんじゃないッ」


怒声なのか泣き声なのか判然としない室井の声は昂ぶり、言葉ではない室井の遣り切れない苦しみを伝えた。
ああ、またこのひとを困らせている。


「・・・。ああいう形でしか、ご両親を救えなくて済みません・・・でした・・・」
「馬鹿野郎・・・っ」

再び漏れた罵声は切なく、玄関に立ち尽くしたまま尻切れた。
もう、室井の声は、喉を詰まらせ嗚咽のようであった。
ただめちゃくちゃに青島を掻き抱く。


あんな風に――ああいう形で、騙していたかのような形で最悪に関係が発覚してしまった以上
一番に考えねばならないのは
自分たちのことでもなく、社会的責務でもなく
残酷な真実を知ってしまった室井の両親の気持ちを、どう護るかだ。
大切なのは、自分たちの仲でも未来でもない。

彼らの心の平衡を保つためにも、今は感情を・・・彼らの怒りをぶつける対象が必要だった。

青島を罵倒し、軽蔑することで、整理の付かない彼らの心の平穏を保てるのであれば、それが先決であり、正解だ。
真実を、彼らが深く噛み締めるのは
もっと頭が冷え、気持ちも落ち着き、事態を把握してからで良い。

それが、道行きならぬ恋を選んだ最低限の礼儀だと思っていた。


そういう心理戦は、勿論室井だって充分熟知しているマニュアルであったろうが
実の両親ともなると、また勝手も違うだろう。
謀事の卓越さはあっても、肉親となると、室井のような竹で割ったような人間には、嘘を吐くことすら、やましいことのように感じてしまう筈だ。
それは、親子間の風通しの良さを示してもいるが、厳格な家長制度に強いられた家庭環境でも同じことが言える。
あの両親を見て、室井には、難しいことだと思えた。

だからこその、青島の存在がここで役に立つと思えた。
その役目を、自分が成すことで役立てるなら、拳の一つくらい、大したことない。


「二度とこんな真似をするな・・・っ」
「ちょっと、娘さんを貰いに行く彼氏の気分でした」
「俺にも少しは格好付けさせてくれ・・・!」

激昂する室井の口調とは裏腹に、青島の声は沈み、酷く凪ぎ、掠れるような音で発せられる。
これも、いつもとあべこべだ。



室井がそれまで消えさせまいとばかりに、狂暴なまでにぎゅうぎゅうに締め付けていた腕の力を、少しだけ解く。
そっと青島が小首を傾げ、室井の頬を慰めるように撫ぜた。
その手を、室井が取り上げしっかりと握り直す。


「どうして一人で戦おうとした」
「・・・・」
「答えろ。俺には知る義務がある」
「――。・・・ああいう場合は、こっちが仲良しであるほど、嗜虐心を煽っちゃいます。叩き潰す対象は一人の方が良い」
「どうしてそこまで親父に言わせた・・・」
「完膚無きまでに相手を憎ませた方が、彼らに救いが残される。ご両親を護るためには俺が貧乏くじを引くのが一番です」
「何故、俺に弁明をさせなかった・・・っ!」

室井の声は低く、その怒りは青島に向けられているようで、多分、自分を責めている。

「ご両親にとって、室井さんは穢れることのない誇りなんです。一点の曇りも、きっと彼らは今は受け容れられません。・・・・理想を崩さないであげなよ」
「・・・ッ、君ってやつは・・・!」
「親父さん・・・、臆しなくぶつかってきてくれて、助かりました。ああいう場合、口を閉ざされちゃう方が救いがなくなっちゃうんですよね・・・。真っ直ぐ で良いお 父さんなんですね」
「おまえ・・・っ、それをあの一瞬で見抜いて判断したのか・・・!」

室井の頬が激昂に強張り、戦慄いている。

「厳格な良いお父さんでした。室井さんに・・・良く似てた・・・」
「あそこまで言われて、よく、そんな視点で人を・・・ッ」
「俺でも役に立てたかな・・・・」
「充分だ・・・ッ」


室井が離れた身体を再び強く抱き締める。
後頭部を掻き寄せ、雫の垂れる束になった髪に指を差し込み首に押さえ付け、強く問い掛ける。

「俺をそんなに信用できないか」
「口下手の室井さんに任せていたら、朝になっちゃいますよ」
「男のプライドくらい、持たせてくれ・・ッ」


どこまでも臆さず隠さず、真っ直ぐな真実の言葉は、時に躊躇いなく人を傷つけもする。
全てを有りのままに告げることだけが、正解ではないのだ。
稚拙なままに、相手の心境を顧みず明け透けに打ち明けてしまえば良いというものではない。
認めて貰おうと努力することと、誠実であることは、必ずしも一致しないのが現実だ。
それもまるで、鏡合わせの様に、あべこべに映る。

相手の理想を尊重することもまた、慕情になっていく筈だ。
・・・・・今は、伝わらなくとも。



室井が押し殺した吐息を漏らし、顔を上げる。

その眼は、痛ましい程に、悲痛を帯びていた。
室井の両親を護ることを優先したために、一番大事な相方のこのひとの気持ちを二の次にしたのも、また事実だ。
一編に全部は護れない。


「怒った・・・?」
「これで怒らない奴がいたらお目に掛かりたい」
「・・・、ごめん」
「君のアドリブには、いつも肝が冷やされる」
「・・・・合わせてくれて、ありがとう、ゴザイマス」


視線だけで察してくれたのは、やはり信頼されている印なのだと分かる。
青島が礼を言うと、室井の漆黒の瞳が、更に悲哀の色を帯びて歪んだ。


「礼なんか・・・・。礼を言いたいのはこっちなのに」
「・・・・」

ゆっくりと首を振って見せる。

室井に、親を軽蔑させるような言葉も、親を否定させるような言葉も、吐かせずに済んだ。
仮に青島を切る未来が訪れても、親子の縁を切るような最悪の結末も回避させられた。
結果は上々だ。



暫く見つめ合った後、室井がそっと手を外した。
青島の腫れてしまった頬をそっと包む様に触れる。

「・・・イイ男が台無しじゃないか・・・」
「勲章」
「俺はいつもおまえを傷つけてばかりいる・・・・」
「そんな顔、しないでください・・・。こんな役目、他の奴に譲れませんて」
「馬鹿・・・」
「あんたの憎まれ口は優しいね・・・」

瞼を落とせば、室井がそっと傷ついた青島の頬へ口唇を押し付ける。

「す まなかった。痛かったろう?」
「室井さんがご両親に愛されている証拠です」
「惚れたヤツ一人、護れないなんて・・・・」
「室井さんの方が痛そうですよ・・・。俺のは・・・気に病むことじゃ、ないです」
「俺はいつも・・・・一番大事な所で後手になる・・・・・」


身体を離し、室井の目を覗きこむと、苦しそうな瞳がまだ揺らいでいた。
哀しみを宿した漆黒の宇宙が、全てを呑み込む様に深まる。


「護れなくて・・・・すまない」

もう一度、ゆっくりと首を振る。



室井がそっと口唇を寄せた。

それを見て取ると、青島は指先を乗せることで、柔らかく留めた。
何故、と言わんばかりの顔で室井の眉間に皺が寄り、険しい顔になる。

「青島・・・?」

ゆっくりと息を吐き、極力感情を乗せないようにして青島は口を開いた。
帰り道、ずっと震えていた指先が、今凍えてその口唇を辿る。


「それでも、俺らにとっても良い機会だったとは思いませんでしたか?」
「・・・・どういう意味だ」

ただ好きなだけなのに。
好きだっただけなのに。
そんなに悪いことをしているのか。
そんなに、罪深いことなのか。

こんなに、批難され、叩かれなきゃいけないほどに。


「いいんですか・・・?これは、引き返す最後のチャンスを、ご両親が下さったのかもしれませんよ」
「・・・!」
「或いは、覚悟を試す餞なのかも?・・・今なら戻れるって」

二人ぼっちとは、なんて心細いのだろう。

室井の両親が見せた世界は、明らかなもう一つの現実であり、自分たちが描く未来像との鏡像だ。
目も眩みそうな幸せに惑わされ、小粋だなんて言っていられる時代に
静かに押し寄せる別れの季節を選ぶことでしか、示せない愛もある。


いいの?という意味を込めた視線を室井へと向ける。

すると、ほんの少し、空気を切り裂くような怒気を室井から感じたかと思った矢先、グイッと腕を引かれる。
険しい顔をした室井に乱暴に引き寄せられ、戸惑いのような躊躇いの吐息を漏らす口唇を、噛みつくように塞がれた。
顔を斜めになる程に傾け、後頭部を鷲掴みにしながら、強く痛いほどに吸い付いてくる。
グッと震える口唇を分厚い舌で押し開かれると、身体が震え、瞼を閉じた。


室井は、確かめるように一度だけ口腔を掻き回すと、強く舌を根元から強く吸い上げ、切れんばかりに歯を立てた。
僅かに解放された。
痛む頬を両手で掴まれ、動く口唇が触れ合う程の距離で室井の強い瞳に射抜かれる。


「俺が告白した時に言ったこと、忘れたのか」


余りに低く、声色を一変させたことに驚き、震える吐息を漏らし、青島は室井をただ見つめ返す。
室井の艶めく瞳が潤んで、ルームライトの光が宙の星屑のように反射した。
怒り様なものが支配してることを感じさせた。


「・・・言った筈だ。二度と放さないと。その覚悟をしてきたからと」
「・・・・」
「長年の想いを遂げた時の俺の気持ちが、おまえに分かるか」
「・・・・っ」
「絶対手に入らないと思っていたお前が応えてくれた時の気持ちが、おまえに分かるか!」

グッと青島の顔を掴む手の平に力が籠もる。

「涙を流しながら俺を受け容れてくれたおまえの・・ッ、一つに繋がる熱さと感触と・・・!その安心感が、どれほどの感動だったか、おまえに分かるの か!!」
「むろ・・・ぃ、さ・・・・」

一粒だけ零れ落ちた青島の涙が頬から散る前に、再び室井が勢いよく口唇を重ねる。


気持ちが溢れて、大切にしたくて、どうしようもなくなって、救いを求めるように、その手を取ったんだった。
戸惑いながらも選んだその時の、絶望と失意と、仄かな歓喜の鬩ぎ合う、言葉に出来ない気持ちなど
到底説明なんて出来ない。


「・・・ッ、好き、だ、おまえが・・・・おまえだけ・・・・っ」
「・・ぅ・・っ、俺・・・っ」
「ああ・・・、ちゃんと、伝わっているから・・・ッ」


その気持ちだけが、二人に残された唯一つの道標だった。

この件に於いて、この先も、青島が、室井のためにしてやれることなど、きっと何一つない。
孤高の戦いに、このひとを向かわせるのは、青島だ。
護りたい。この生活を、ではなく、このひと自身を。・・・・護れるだろうか。何も持たない俺が。


「他に何も要らない・・・・そのくらい好きだ・・・・」
「・・・っ、だ・・め、」
「俺を好きでいてくれ・・・・じゃないと・・・もうおかしくなる・・・」
「むろ・・ぃ、・さ・・・・っ」

感情が溢れ、口唇が震え、嗚咽が漏れそうなのを止められない。

青島の手が室井の首に回され、口唇を自ら重ねていく。
密着しあう身体が熱く、回される腕は力強い。

室井の手が、柔らかく髪を梳き、室井の口唇が、激しい口接とは裏腹に、柔らかく青島を解きほぐしていく。
挑むように、何度も何度も重ね、青島の口唇を覆い被せていく。
今、帰ってこれたこの腕が、まだ自分のものであることを確かに知る。
満ちていく何かを無視することも、もう出来ない。

今、ようやく尖らせていた気が緩むのを感じた。

本当は怖かった。
別れることになる未来も。
あんなに真っ向から、存在ごと否定されたような怒りをぶつけられることも。


「掴んでいないと・・・本当におまえはすぐにいなくなってしまう・・・。きっとおまえなら、俺のために消えることだって綺麗にしてみせるんだ・・・」
「失う怖さなんて、初めて知ったよ」

顎を取られ、上向かされ、喘ぐように青島が漏らす。

嘘じゃない。
でも、気付かれないために、口に乗せた甘い言葉は、本音をそっと包み込んでくれる。

――ごめん。ごめん。大切なもの、必要なもの、いっぱい壊してごめんなさい――・・・


「大丈夫だ。離さないから――」

青島は縋る腕を強め、室井の背中をきゅっと掴んだ。
応えるように、角度を変え、室井が口唇を重ね直す。


今だけ。今だけ。
誰にとも分からない言い訳をして、今だけだと、抱き締める。
愚直なままに欲しがってしまう心に負けて、逃げ切れなかった愚盲さに染め上げて、手放すことの出来なかった見返りに
きっと二人で堕ちていく修羅の道に迷いこませていく。
一番大切だったものなのに。

俺はこれだけでいいから。どうか、このひとを。このひとの未来が満ち溢れていますように。
そんな勝手な願いを叶える神など、きっといないだろうと分かっていて、キスの合間に祈りを込める。


身体を密着させ、顎を逸らし口唇を自ら開き、誘い込んだ舌を離さないように絡めていく。
途端に、室井の舌が勢い付き、口付けも烈しいものに変わった。
貪るように口唇を重ねられていく。

「行かせない、どこにも」

痛みを伴う程の強さで舌を吸われ、痺れを感じる程に絡み合わせた粘膜の熱さに、身体の力が抜けていく。
少しの息継ぎだけで、直ぐに塞がれ、荒い息遣いと粘性の水音だけが響いた。


室井の手が愛おしそうに青島の濡れた髪を指に絡め、熱い口付けの最中、僅かに口付けを解く。

濡れて銀色に光る糸が二人の口唇を繋いだ。
親指で、室井が青島の口唇を拭い、そのまま両頬をしっかりと挟んだ。
真っ直ぐに瞳を覗きこむ。


「愛してる・・・」

青島の眼が見開かれる。

「愛してる。おまえだけを」

ふるふると青島が首を振る。
身体が、震える。

「駄目。言っちゃ、駄目です。その言葉だけは――」
「無理だ。そして、言うのは、おまえにだけだ」
「室井さ・・・っ」
「愛してる」


怖くなって離した手も身体も引き留められ、室井の腕が青島を拘束する。
抗議の声も吸い取られ、何度も吸い付くように口唇を柔らかく擦り合わせ、その度に室井が囁く。

聞きたくない。でも甘い響きに逆らえない。
身が裏腹に震えるほどに栗立ち、足元が覚束なくなる。
青島は頑是なく首を振り、顔を背けた。
そんな青島を室井は両腕を抑え、抵抗を塞ぐ。

何度も柔らかく繰り返される口付けと、愛の言葉が、青島を取り巻き、身動きも失わせていく。

初めてだった。
好きも大好きも何度も聞いたが、愛していると聞いたのは、初めてだった。
それは、こういう関係だから、一生聞くことはないし、室井もそこまで覚悟を決めれないと思っていた。
室井の性格からして、そこまで男の悔悟と責務を匂わす重たい言葉は、言えないんじゃないかと――


「愛している」
「・・・っ」

良く分からない感情が胸の奥を締め付け、込み上げる。
身体を捩って、身動ぐ。
こんなこと、言って貰える資格はない。
こんなこと、言わせちゃいけない。
惜しみない愛情に、底の無い闇が口を開けている。


「一日掛けて、親父を説得してきた。認めてくれた訳ではないだろうが、納得してもらっている」
「・・・・嘘・・・・」


少し潤んだ目をまんまるにする青島の腫れた頬を優しく擦り、背中を壁に押し付け、顎を持ち上げ、室井が瞳を覗きこむ。

「おまえにあそこまでさせて、俺が何も出来ないんじゃ、おまえを迎えにも来れない」
「・・・!」
「心配するな。・・・おまえが必死に護ろうとしたもの、壊してない。親子の縁を切るような真似も、親父の尊厳を潰す不幸も、勘当にされるような物別れに も、していない」
「・・・ぁ・・・・」
「まだ時間は掛かる。でももう大丈夫だから。おまえの痛みは、無駄じゃなかったから。俺が、その想いを無駄にはしない」
「・・・ッ」

「愛している・・・・」


口唇を震わせて横を向いた。
その頬を室井の手が包み、また顔を戻され、口唇を重ねられる。
レクイエムのように愛していると囁やかれる愛の調べは瑞々しく、その腕に抱かれ、想いが天から降り注ぐ。

赦されたくは、なかった。
赦されて良い筈がない。
倖せなんか、いらないのだ。
このひとさえ、大切に出来るのなら。

このひとは、こんなにも真っ直ぐで穢れない愛情を注げる人だ。
誰に対しても嘘も偽りもなく、誠実なままに。
言葉ではなく態度で示す、その想いが全部、伝わればいいのに。
お父さんにもいつか、この人の心が届けばいいのに。
こんなにも純潔で、清涼な魂と情熱に、何にも澱むものも歪むものも含まれてはいないことを。

それを穢したのが俺だというのなら、このひとだけでも、分かってあげて。
どうか。どうか。



堪え切れずに漏れる嗚咽を必死に押し殺しながら、腕で口元を覆い、キスを嫌がり、最後の足掻きで青島は再び横を向いた。
その手を優しく捕られ、頬に口付けられる。
力が室井に吸い取られるように、身体の支えを失った。
両手首を取られたまま、膝を折った。
口唇を噛み締め、下を向く。

まだ濡れている前髪が、涙か雫か分からない水滴をぽたりぽたりと落とし、床に染みを作る。
そのままパラパラと腫れた目元を隠してくれた。


二人ぼっちとは、なんて心細いのだろう。

この恋に、理性的な判断が出来なかった弱さを、罪状のように胸に刻み付ける。
多くの人を、こんなにも巻き込み、困らせ、惑わせていく。
傍に居たいと願うだけのことが、こんなにも罪深い過ちだ。
誰のせいでもなく。

だけど一緒に居ることを決めた。
失うことで生まれていくものもあるのだと、今はただ、そんな夢物語に
そう託して、受け容れていくしか、出来ない。

それでも、二人で紡いできた確かな眩しい過去があること、そして、少なくとも一人ではなく二人きりであるということ。
それだけは確かなものだった。










happy end?

index

警察官の二人に、片やエリートキャリアであるだけに、甘い未来は厳しいかも、と思いました。青島くんってこんな風に誰に対しても自己保身の見えない援護を しそうなイメージです。
親ならこのくらいはやってほしいです。親だけは善悪も真実も関係ないからってお話でした。痛い・・・。

20150803