付き合っている二人の物語。時間軸は特に決めてません。登場人物は室井さんと青島くん。あと
話の展開上オリキャラが出てきますがほぼ二人の物語です。
抱くに抱けない室井さんの葛藤。悶絶してこそ室井さん。
この季節に合わせてあっつい真夏のお話になりました。
純情円舞曲
1.
「バカにしないで!」
バチーンと派手な音を立てて弾けた平手打ちは、正面から受け止めるのが男のギムだと思っている。
ーーーー
「んで、ばっちーん、ですよ、ひっどくね?」
「三回もデートを重ねて友達のままでと言われて、叩かない女の方が心配だ。女に同情する」
「デートって!違いますよぅ内訳が。うち二回は相談。最後の一回が・・・・食事です」
「変わらない」
「期待持たせるようなことしてないですもん」
「どうだか。どうせ愛想良くエスコートしたんだろ。誤解されて当然だ」
「え!なんで!素気なくする方がオトコの風上にも置けなくない?」
くりっとした栗色の眼が瞬いて室井の目の前で揺れる。
フェミニストな青島らしい口ぶりに同意するのも癪で、室井は肩を竦めるだけに留めた。
ここは青島のアパートだった。
築年数の古さは至る所で見受けられるが、それは官舎においても遜色はない。
青島の趣味に彩られた、少々煩いくらいの独特の空間が、室井は好きだった。
早上がりの夕刻、時間が空いた隙を練って室井が来訪し、程なくして青島も帰宅した。
真夏の陽射しは長く、七時を回った今も西の空は藍白い。
「君ならもう少し口が達ったんじゃないか」
「ん~・・・まぁねぇ。でも、オンナノコってデリケートですもん。男にはよく分かんないや」
そっと青島の手を外させ、室井は頬を抑えていた濡れタオルを外す。
「見事な手形だ。これは明日も腫れるな」
「うえぇえ・・・?マジでぇ?みんなに何て言おう・・・」
「そのまんまでいいだろ」
「そのまんま」
「〝女に叩かれた〟」
「なんかものっすごい誤解されそうなフレーズ」
意地悪だと睨み上げる顔が子供がお預けを喰らったかのようで、室井は可笑しくなる。
表情に出やすい男だと思われがちだが、青島は外面が良いだけで、ここまで無防備なのは室井の前だけだということを
室井は付き合い始めてから知った。
現場で渡り合う時とは違う、明らかに警戒心を解いた多彩な顔が、室井の脳裏に次々と焼きつけられていく。
そこに嬉しさと当時に反発する自分を感じている。
室井は青島の前でも外でも、気張る肩の力を抜くことはない。むしろ、青島の前でこそこれまで以上に赤裸々に子供みたいな闘争心が湧いている。
青島の前では、戦う男として同じ世界が見たかった。
慣れ合いも舐め合いも、冗談じゃない。
そこまで室井に意地を張らせるのは、無論青島のその一気に懐いてくれた態度にある。
それは同じく無防備な情熱なのだが、傍目には堅苦しい男に見えているのだろう。それはもしかしたら、青島にとっても、だ。
表に出さないだけであることを、多くの人間は知らないだけだ。
室井もわざわざ訂正したりはしない。
それは愛情においても表れた。
情熱的に、狂乱の如く、いつも破滅的な愛に身が引き摺られる。
大切なものほど、室井は制御を失った。
青島みたいに、甘えられない。無防備に委ねられない。ましてや平手打ちを正面から受け止めることなど。
だが、そうそうコントロールできる類のものでもなく、ましてや青島の前ではそんな弱音は吹き飛ばされる。
室井の感情は元来人並み以上に鋭敏である。
そもそも憤怒も敵意も失った人間に、出世する資格はない。
毅然たるスーツの下に包んでいる淫猥な熱は、今も解放を失い爛れていた。
「少し切れてるな・・・。爪が掠ったか」
クイっと青島の頤に手を掛け、頬を電灯に翳す。
「浸みる・・・」
「浸みるのなんか当たり前だ」
氷嚢でも作ろうかと室井が背を向けた時、その背中に、青島が後ろ向きにぱふんと凭れかかってきた。
「どした」
「俺、どうすれば良かったですかね」
しんみりとした口調は、冗談めかして話をしていても空元気であって、彼が傷ついていることを伺わせた。
こんなところが青島だなと室井は思う。
――練馬の桜交番で勤務をしていた時に面倒をみたことのある女性から、相談があったとのことだった。
近所の男に、待ち伏せされたりしつこく連絡先を聞かれたりして、困っているとの話だ。
女性にその気はないし、その男性は既婚者でもある。
ストーカーに発展する一歩手前の潜在層は、線引が難しい。
まだ被害が表面化していないだけに、疑心暗鬼だと一蹴され、通常取り合っては貰えないし理解もして貰えない。
しかし近所などの目は確実に好奇に色付く。
噂などで追い詰められるストレスは、行き場などどこにもない。
名すら知らぬ男側の配慮のなさは、犯罪というよりはマナーや御近所付き合いというローカルの問題だった。
「また傷つけちゃった。上手く立ち回っていたつもりだけど、彼女は傷を重ねただけかもしれない」
室井が何を説かずとも、恐らく青島はもう多くを悟っているのだと思えた。
男運の無い、世渡り下手の彼女から、幾度か相談に乗るうちに告白めいたものを受けてしまった不甲斐なさが青島を項垂れさせている。
どうやったって彼女の気持ちを満たすことは出来ない以上、今度は青島が彼女を追い詰める担い手になってしまった。
こんなつもりじゃない。だけど、思わぬ方に事態が転ぶことなんて、よくある。
人の親切や信頼が必ずしも良い結果を生みだすとも限らない。
そのことを割り切れず、青島は痛みを決して手放さない。しょうがない、とは思わない。
何でも受け止めてしまい、拙くも強くもあるそこが、室井には瑞々しく映る。
自分はそんな風には思えない。
些細なことは流すよう教育され、越権接触はタブー視されてきた室井にとって、所轄の縁故は官僚世界との違いを目の当たりにする。
「別にどこも間違ってない」
「でも」
「所轄は地元を密着なんだろ。想定範囲だ」
「オトコの沽券のモンダイなんですよ」
「だったらダラしない男ってことでいいんじゃないか」
「室井さん、俺んことイジメてたのし?」
彼女のプライドも庇うつもりで発言した言葉は、結局青島が見て見ぬふりをしようとしていた、女の前で良い顔をしたい男の下心を暴きださせた。
その誘導尋問に気付いた青島が頬を膨らませる。
「引っ掛かる方が甘いんだ」
構え、というように室井に背中だけ押し付ける青島を、背中だけで感じ取る。
「警察官は言葉一つで万能の期待をされる。だがこっちは神じゃない。ひとつやふたつ、要求に応えられなくて当然だ」
「室井さんもこんなことあった?」
「しょっちゅうだ」
室井はこんな風にここまで全面的に晒せられない。それは堅実ではなく脆弱だと室井は思う。
素顔は見せるが、滅多に甘えてはこない青島の背中を少し微笑ましく思った。
青島に頼られるのは、素直に嬉しい。
「一度聞いてみたかったんですけど」
「ん?」
「室井さんは何で刑事になったんですか」
かつての熱い想いを懐かしむように、青島には見せない背中越しで室井の目が細められる。
「・・・・忘れてしまったな」
至らぬ若気の熱さ裏腹に、上手に人と向き合えなかった入庁当時より、自分は少しはマシになったんだろうか。
あの頃、人を傷つけ、肩肘張っていた。
管理職となり、統括する役目を担ってみたって、その裏はあの頃のもどかしさばかりだ。
今まさにそこに存在する青島に、懐かしさと共に苦さを思う。
刑事キャリアが少ない青島の背中は、まるで室井の雲路だ。
青島のその道の先に見えるのは、室井が取りこぼしてきた欠片であり、その化身が自分であったことに室井は逆に自己肯定感を強めていく。
あの無骨な時代を受け容れられるのも、青島がいるからだ。
それでも身動きできないだけで唸っていた時代よりは一歩進んでいると思った。
一緒に清算されていく。
それを思う時、青島に対する愛しさも狂おしさも、何もかもが綯い交ぜになって、室井を苛烈な熱に逆上せさせる。
何もかもを超越して、こんなに人を愛おしいと思ったことはなかった。
傍に居たいと心から思う。
傍に置きたいと心から欲する。
青島のいない人生岐路なんて、もう、怖くて想像も出来ない。
「綺麗なものばかりを見た大人が上になっても何も導けない。きれいごとを言えるのもまた、穢れを知っている人間だ」
噛み締めるようにゆっくりと語る室井の言葉を、青島は黙って聞いていた。
濡れタオルを握り締めている青島の手が少しだけ力が籠もり、触れ合う背中が小さく震える。
「泣き虫め」
「泣いてない」
「気の済むまでいてやる。ここには誰もいない」
「んだよ、カッコつけやがって・・・」
青島の中に誰にも見せない孤独を感じ取ったのは、付き合いだしてからだった。
正論だけだと思っていた青島が泣いてくれるから、しこりとなっていた室井の過去も涙に滲んでいく。
自分も傷ついていたことを、こんなに時が経ってから自覚する。
青島と出会って、室井は自分の時が確かに動き出したことを感じていた。
青島といると、未来が見える。
「おまえは幾つになってもおまえのままだな」
「頼りないって言ってる?」
「いや・・」
室井が小さく笑う。
口調もぞんざいになっている青島に、不器用も悪くないもんだと思った。
一生敵いそうもない。
「だからこそ俺はまっすぐ歩けてこれたんだと思う。ありがとう」
「カッコよすぎて、なんかもぉ、ほんとムカつく・・・」
もう、こんな風には二度と誰かを愛せないだろう。
だが。
「で、その女とはもう切れちゃうのか」
「んなわきゃ、ないでしょ、リベンジです。こんな中途半端で引き下がれるか」
「そう来なくちゃな。だが代案はあるのか」
「それがまだ・・・。引っ叩いたら風のように逃げられちゃって。また叩かれそう」
「どうせ追い掛けるんだろ」
「相手方との交渉の方が先ですね」
「そっちの方が山場だぞ」
「ん・・・、来週ケジメ付けてきます」
「・・・そうか」
多くを語らず、室井が呟けば、青島が睫毛に雫の残る瞳で肩越しに振り返る。
しっとりとした艶が電灯の影に光った。
水晶の中央に、自分が映り込んでいるのが見える。
室井は急に喉が渇いた気がした。
「ねぇ、室井さんは妬かないんですか」
「・・・・」
仕事にか、それとも女になのか。
急に空気を変えた青島の色を含んだ口調に、室井はいたたまれなくなる。
青島の視線はただそれだけで、急に空気も変えてしまう。
爛れた頭の奥底まで容易く乱され、室井はぎこちなく薄い口唇を噛む。
「充分、妬いている」
実に嘘くさく、面白くもない返事だと、自分で思った。
「引き留めないじゃん」
「一番最初に引き留めたが」
「俺が他の女に告られても平気なの」
窓の外には夏虫が鳴いている。
「仕事に私情を持ち込んだら、成立するものか」
「・・・おっとな」
「やり方に口出しされたくないだろ」
「口出しじゃなくて・・・説教はヤだけど、構われたいです」
「フクザツだな」
「なーんか室井さんって余裕ですよね~、俺にゃ出来ない」
「・・・・」
それは違う。
それは青島の思い込みだ。自分は決してそんな綺麗な人間ではない。
彼を欲しくて欲しくて仕方がないのはこっちの方なのだ。しかも青島よりずっと以前からだ。
青島の見せる全てに魅せられて、どれだけ焦がれ、どれだけ飢えた欲望に足掻いてきたか。
邪な情を含ませ、傍に置きたいという気持ちに、どうしても抗えなかった。
溺れる恐怖に尻込みした千夜を越え、必死に口説き落としたのは、そう遠い話ではない。
そんな室井の熟れた葛藤を青島は抱えたこともないだろうに、そんなことを言って退ける青島をチラリと見た。
濡れタオルを頬に当てたまま、今度は膝に顎を乗せている。
目尻にはまだ雫が残りキラリと電灯を反射した。
ズルイのはどちらなのだろう。
室井が見合いをしても、文句一つ言わず呑み込む男は、恐らく室井のためならば、その恋心さえ利用し、踊らせて見せるのだ。
その度に室井がどれだけ煮え滾る思いを飲み干し、理解しがたい獣のような衝動を内部で唸らせているか。
群がる女も男も蹴散らして、これは俺のものだと子供みたいなことを喚き散らしたくなる。
だが、現実的にそれが出来るとも思えなかった。
きちんと保守的に生きること。それが青島の望む室井への最上級の愛情だったからだ。
室井は大きく溜息を吐いた。
他人の恋路に介入し、自己感情のままに振る舞う姿を目の当たりにしたら、自分と比較してしまうのも当然と言えた。
余計なことをしてくれる。
「いちいち嫉妬に狂ってたらこっちの身が持たない。それだけだ」
冷静で、堅実に生きる武骨な官僚。
青島にそう思われるのなら、それはそれに越したことはない。
室井は賢者の顔をして横目を向ける。
「信じているだけだ。疑うよりいいだろ」
「そんなもんですかね」
室井の告白に青島は、いざとなったら室井が青島を切り捨てるという条件であることを引き合いに、半ば強引に承諾させた。
勿論それに納得した訳じゃない。
曖昧な告白の返事は、だが、欲する己の熱の強さに負けたのだ。そして、青島を手に入れられるのであれば、何だって良かった。
だが今夜、その曖昧な情愛を、青島は一歩踏み越えている。
ルール違反なのはどっちだと思う。
今夜の青島は最初からどこか無防備だった。
こんなに脆い姿を見せられたら、抱き寄せてしまいたくなる。自分を知らしめ、刻み、室井がいなくては立てない程に抱き込んでしまいたくなる。
室井は限界を感じて立ち上がり、くしゃりと青島の旋毛辺りの髪を玩んだ。
「・・・帰るんですか」
「ああ、すまない。今日はこれから目黒署の方に行かなきゃならない」
「目黒。一週間前の死体遺棄?」
「ああ。俺はただの助っ人だが」
室井は現在三つの特捜を掛け持ちしていた。
夕食くらいは共にと思い訪れたが、今夜も流れた。いや、流した、のかもしれない。
帰宅時間が重なっただけでもマシなのだ。
こんなことはしょっちゅうだった。青島と付き合いだしてからも、職業柄、まともな共有時間を取れる方が珍しかった。
それが、俺たちの恋の在り方だ。
「ねぇ・・・あのさ」
その声が心細そうに響き、室井の手がピクリと動く。
緩めていたネクタイを締め直す手が、僅かに止まる。
振り返ると絆されると分かっているが、室井は逆らえない。
案の定、振り向けば透明な瞳が室井を映していて、室井の心臓はドキリと跳ねあがる。
室井のスーツの裾を掴んで、青島が見上げている。
縋るようなその瞳に、吸い寄せられる引力に、抗えない。
「やけにあっさりですよね」
あっさりなんかじゃない。
青島の言いたいことも真剣味も伝わったが、室井は敢えて明言を避けた。
自らの中の決壊を恐れ、一旦視界を閉じる。
それはあまりにも危険な無意識の挑発だった。
「何だ突然」
「っと・・・その、」
青島の指先が触れている箇所が熱く感じる。
自分のスーツの衣擦れの音がやけに耳触りに聞こえた。
エアコンの風向きが変わり、揺らした風から青島の匂いが不意に強く感じた。
「その・・だから、」
その言葉の先を、聞いてはいけない気がした。
こんな脆い姿を見せられたら、このままここにいたら何をしてしまうか分からなかった。
姑息な手段だと分かっていて、その熟れるような肉を求め、身体が疼く。
室井は青島の瞳に映るのが怖くなった。怖いと思ったのは、初めてだ。あんなに望んでいたことなのに。
きっと、今夜、何かを台無しにしてしまう。
室井の拳が、ただ強く握られ、スーツを引っ張ってくる青島の手にそっと手を重ねた。
そのまま指先を解き、強張って動かしにくくすらなっている自分の指先に痺れを感じながら、握るのではなく、室井はするりと手首を掴み、強く引いた。
急に腕を引かれて驚いた青島は、バランスを失い、スッと膝を折った室井の腕の中に傾れ込む。
その不安定な身体を胸元に引き寄せた室井の身体に、青島が雪崩れ込んできた。
「あっさりなんかじゃない」
「・・ぇ・・?」
室井は体重をかけ、二つの身体は折り重なるようにして床に倒れ込む。
青島の色素の薄い瞳が、髪が、肌が、柔らかそうに揺れていた。
乱れた前髪が額にかかり、元々童顔の彼を更に幼く見せる。
自分の名を乗せる口唇が紅く誘った。
室井はゆっくりと指先を開き、そのふっくらとした肉厚の弾力に、そっと指先で触れた。
この髪も、この肌も、全部自分のものであったなら。
匂いに、体温に溺れて、どこまでも溶けあってしまいたい。
苛烈な渦が、崩れる程に片隅で嘲笑っているのを感じた。
誰にも渡したくない。
だが、彼を失うことが、身を切られるより強いことを、室井は本能的に察していた。
生存本能が、手放すなと警告している。
虫の音が、不意に鳴き止んだ。
僅かに眉根を寄せて室井を見上げる青島の髪に五指を差し込み、そっと顔を近付ける。
抗うこともせず、青島は近付いてくる室井をその飴色の甘い瞳に映していたが、やがて震わせながら瞼を伏せた。
顔を傾け、口唇に熱い吐息がかかる。
その瞬間、直感のようなもので、室井は動作を止めた。
――ああ、そうか。きっと、青島は知っている
室井の弱音も怯えも、見透かされている。
〝妬かないのか〟
その問いで、きっと室井に水を向けられた。これは青島の相談事じゃない。
恋愛経験の豊富な青島が、今更男女の縺れに動揺するとも思い難い。
鋼のように室井の筋肉が委縮する。
本当は室井こそ、縋りたくて救われたくて、今夜ここへ足を運んでしまったことを、青島が悟らない筈がない。
室井がひた隠しにしている穢れた飢餓にも、きっと勘付いている。
青島に、室井の怯えも恐怖も、伝わらない筈がないのだ。
心を通わせ、曝け出すものが多くなるほどに、二人の輪郭はぼやけていく。
自分の弱さと、そこに付けこもうとしている卑しさに、それさえも受け止めようとしてくれる慈悲深い愛情に、室井の喉が微かに唸った。
室井はそのまま青島の肩口に頭を埋めた。
「少し、このままで」
ストーカーをしてくる輩と比較されても不満だが、自分は一体、どこまで青島に踏み込むことが赦されているのだろう。
確かな繋がりを確約しなかった交際は、今になって内面に亀裂を生じさせている。
もう限界なのだ。
青島の柔らかい髪が室井の頬を擽る。
この肉の中で、蕩揺ってみたいと荒々しく欲する。
蕩けて形を失って、二人の境目すら分からなくなるくらい、溶け合ってしまいたい。
どうして自分たちはこんな恋しか与えられなかったのか。
ギリギリまで競り上がった室井の感情が溢れて飽和する。
戸惑ったような青島の両手が、やがて室井の背中に回って、青島が全てを受け止めようとしてくれていることを知った。
青島は愛情を持って抱いていることを、同時に、室井は愛情を無下にする思いを抱いていることを、目の当たりにした。
「・・・、悪い。つい・・・」
「つい?」
綺麗な瞳が室井を映している。
吸い込まれそうなその淡い栗色に、ただ劣情を恥じる。
この状況を説明する手立てが面倒で、室井は青島の前髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「友人付き合いなわけ、ないだろう」
それだけ言って、室井は身を離した。
***
見送りに付いてきた青島の、ぺたぺたという裸足の音が、エアコンのない廊下の蒸し暑さを伝える。
「今夜は徹夜ですか」
「仮眠は取る」
「うん・・・身体、ちゃんと休めてくださいね」
靴ベラを所定の位置に掛け、室井は振り返った。
「また来る。話はその時聞いてやる。さっきの続きもだ」
口籠って視線を下げる青島に、室井が短く問う。
だが、青島は寂しそうに俯いただけだった。
「あんたは一体誰の味方なんだろうね。付き合うって何だろう。あんたと俺。居なくても本当は同じなんじゃない」
それはおまえだろうという言葉を何とか飲み下した。
胸が痛かった。
青島が出来得る限りの中で、いや、多分全身全霊で室井を大切にしてくれていることは、充分すぎるほど分かっている。
それを責めるなんて出来ない。
だけど、湧き上がる感情を揺さぶるほどの、足を掬うほどの煽情が、今は形だけは酷く親密な顔をして成り立っていて
その実、色も味もない滑稽な関係に、高笑いのような酷い焦燥と違和感が身を腐蝕した。
やっとの思いで鎮め封じた渦が、再びうねりを上げた。
どうしようもなく、胸が潰れそうだった。
「何を言って欲しいんだ」
「そういうことじゃなくて」
「しょうがないだろ、俺たちの立場からしてこの辺りが限界だ。それは君も」
「違うよ・・、あんた自身のことですよ」
「君に心配されるようなことはない」
「・・・・」
青島が言葉を選べず傷ついた顔を見せた。
「青島、それは反則だ・・・。傍にいることを認めてくれた時、俺は嬉しかった。だが、あの日より俺たちは遠くなった気がしないか」
青島の手がスーツから飛び出たシャツの裾を、もどかしそうに握っている拳が白く力んでいた。
夏の暑さに麻痺した神経が、迂闊にも現実味を失った二人の関係にどう対処したら良いのか分からぬままに言葉を零させる。
じっとりとした熱が不快感をワザとらしく増長させた。
「あんたが欲しいのはあんたの中の俺が思い通りに動くことで、きっと、俺じゃ、ない」
「・・・・」
「さっき、引っ叩いた彼女に同情するって言ったけど、友達でいましょうっていうのと、俺らは、どう、違うの」
「――」
夏の蒸し暑さが、じわりと脳を侵蝕する。
何かがもどかしくて、でも、言葉が見つからない。遠慮しているのは、一体どちらなのだろう。
ねめつける青島の瞳が逆光で、闇に隠れていた。
「室井さんに届くには、俺、どうしたらいい・・・?」
そっと青島の手を引き、室井は下から掬うように口唇を重ねた。
少し渇いた口唇が痛む心とは裏腹に柔らかく濡れる。その弾力をより確かなものとして実感させた。
「・・充分傍にいるだろう」
充
分な時間を取って答えた室井の言葉は夏のコオロギの声に掻き消された。
****
静かに扉は閉ざされた。
今まで重ねてきた優しい言葉が、思いやる熱が、多分きっと今ので全て壊れた。
真っ直ぐに向かおうとしてきた青島の想いを、今、正面から受け止めることを、脳が拒否して、避けて、逃げた。
最後の最後で糸が切れた。
青島の想いを避けたのは、初めてだ。
室井は眉間を指先で押さえ、奥歯を食いしばった。
だが後悔はない。優しいだけでは、多分、もう、青島の側にいられない。
触れた口唇の温度がまだ残っている。身体中にさっき組み敷いた青島の肉の感触が蝕んでいる。
忘れたくても、忘れられない。躯を芯から熱くする青島の墓標で、室井の身体に少しずつ青島が刻まれていく。
それが歓喜を持って室井を玩び、青島から遠ざけていく。
この想いを捨てることが出来るなら、最初からこんなに悩みはしなかった。
恋とは一体誰のためにするのだろう。
蒸し暑い真夏の大気がじっとり身体中に纏わりついていた。
昂ぶった身体は当分冷えそうになかった。
あれが欲しい。誰より、欲しい。
2.
「ああもう分かったよ!分かったんで!だけど最初に色目を使ってきたのはあっちですから!」
「何か言われたのか?」
「言われちゃいねぇけどさぁ!そりゃ勘違いもするよ!俺は悪くない」
男の言い分は青島にも半分理解できた。
会社帰りを見計らって、家族には知られないよう配慮し、相手の男性を待ち伏せしたのだが、交渉は難航している。
騒ぎにすることは本意ではないらしく、男は青島が刑事だと分かると、大人しく付いてきた。
定年かそこらの年配の男性だった。
少し道を外れた細道で、女性の言い分を言葉を選んで伝えると、男は明らかに煩そうな顔をした。
男にしてみれば、妻には知られない形であわよくばメル友くらいは、という心づもりだったらしい。
思慮深さに欠けるが、挨拶だけなら町内会の範疇だし、青島も男なだけに気持は分からないでもなかった。
若く綺麗な女性が毎朝ニコリと微笑んで会釈してくれたら、男なら単純に嬉しいに決まっている。
「だけどアンタさ、奥さんいるんだからさ。どっちにも悪いだろ」
「今どきメールでそんな目くじら立てるようなことか?普通だろ?」
「今どきのメールだからリスクもあるんだろ。振りまわされる周りが可哀想だよ。・・・考えなよ」
男はバツの悪そうな顔を顰め、隙あらば逃げようとしているのか、こちらが踏み込めば一歩下がる。
面倒には金輪際関わりたくない無責任の典型だった。
オイシイとこだけ頂こうと策謀していた狡さが見え、青島は溜息を漏らす。
恐らく好機があれば、女に責任を押し付け肉欲に負けてしまうタイプでもある。
「アンタの方が年上なんだし、男の方がオンナノコ、リードしてやんなきゃ」
「リード?」
「世間体とか、社会常識とか」
下らないという顔をして男の様子が横柄な態度に変わった。
「大体警察沙汰になるようなことまだしてないだろ」
「だから俺も刑事としてじゃなくて、知り合いってことで来てる」
「何、お前もあの女に惚れてるとか?」
「そんなんじゃない」
「だったら口出すんじゃねーよ・・・」
チッとあからさまに面白くなさそうに顔を背け、男が舌打ちをする。
乱暴に短髪を掻き上げ、顎をしゃくった。
「あの女が言いつけたん?」
「・・・・ご近所の目があるだろ。マンション暮らしじゃ分からないかもしれないけど、彼女はここが地元で生まれた時からこの街に住んでいるんだ」
「だから?」
「ご近所がみんな知り合いなんだよ。変な噂は彼
女
の居場所を奪う」
「こっちだって家庭があるんで!何、カンチガイしちゃってんの?」
粘着質に付き纏っていながら、いざ追及されると逃げ腰になる。
ストーカーの典型だ。
刺激するほどに、女性への報復も考えられ、青島は途方に暮れた。
「変な噂立てられたら、アンタだってここに住みにくくなるでしょーが」
「俺は昼間仕事している。そんな、街になんか関わってないし」
「だから!奥さんが噂の渦中に置かれんだって」
知るかよと男は殊更面倒くさそうな眼を寄越した。ワザと大きな溜息まで吐いて見せる。
最初は警戒していた丁寧語も、いつしか疎放になっていた。
大体、定年間近な年代で、どうして性欲旺盛な衝動を隠しもしないのか。
そう言えば昨今、シルバー不倫なるものが流行っていると聞く。
草食系男子と叫ばれた時代は若者文化なのか。
刑事として色んな修羅場を見てきたが、不謹慎にも、ガッツリ殴り合いをしてくれていた方が、余程分かり易いと青島は思った。
この手の人間には多分何を言っても明確な証拠でも突き付けない限り、のらりくらりと責任を逃れ、じわじわと引き摺っていく。
「とにかく!もう彼女のことは放っておいてやれよ」
「彼氏じゃないなら引っ込んでろっての」
「だったら正攻法で行け。好きな女、怖がらせちゃったらダメでしょ」
言いながら、これはどんな冗談だろうかと思う。
屈折した愛を抱いているのは、こちらも同じだ。
正攻法で攻められない自分が、この男に何を説く義理があるだろうか。
青島だって一番大切なことは何も伝えていない。
一番欲しいものが足りなくて、付き纏っている。
「ムズカシイよな・・・恋って」
そんなことを考えていたら、ポロリと本音が零れた。
その言葉に何かを察した男が、両手を広げる。
「あぁああ!めんどくっせ!マジんなっちゃって!ばっかみてぇ」
「・・・・」
「・・・いいよ、手を引いてやんよ!」
「・・本当か?」
「元々そんなつもりじゃなかったし。たかが性欲処理のために警察囲って手間暇なんてかけてらんねぇっての!アホらしくなったわ」
「・・・・」
「その代わり!お前、二度と来んなよ!」
「アンタが去るなら来ないよ」
「あ、そう!じゃ、そうして!俺、昔っからケーサツ、大っきらいなの!!」
話は終わったとばかりに男がついに片手を上げて去っていく。
「約束したぞ!」
「ご勝手に!もう付き纏わねぇよ、とりあえずはな!一発ヤれねぇなら、興味ねぇもん」
苛立った気持ちをぶつけるように、アスファルトを乱暴に鳴らしながら、男が大股で去っていく。
その姿をじっと見送った青島は、背中が雑踏に見えなくなってから、大きく一つ溜息を落とした。
3.
青島はぼんやりと朧に揺れるキャンドルの炎を見つめていた。
〝帰らないで〟
もしその言葉を言って、彼が頷いたらどうするつもりだったのだろう。
「・・・・」
分からなかった。ただ帰ってほしくなかった。
一緒にいたかった。
あの夜、室井の黒い瞳の底に宿っていたものは何だったのか。
恋人というポジションに収まっているらしい現在、多分唯一その問いを掛けても差し支えない立場にいるのだろう。
それを言ってしまったら、終わりだと思っていた。
でも、あの夜の室井の突然の来訪は、きっと室井に何かがあって青島を頼ってきたのだと思われた。
それを、土壇場で呑み込まれた。
呑み込ませたのは、俺なんだろうか。
ここのところ、室井の眼はいつも何かを瞳の奥底に滾らせた深い色をしている。
バーテンが三杯めの琥珀色の液体を入れたロックグラスを滑らせる。
ダブルのスコッチは普段あまり呑まない酒だ。
だが今夜は馴染んだ酒は呑みたくない。
独特の煙のような香りが鼻孔を擽った。
ひょっとしたらといつも不安の中にいた。
彼の優しさに包まれている事を気付かないほど鈍感ではない。
室井の中の、自分にだけ向かう貪欲なまでの欲する執着は、消えはしないことも、分かっている。
それでも実質、何の足しにもなれなかった。
自分が力になれるなんて、おこがましかったんだ。
困っている時助けあわない間柄は、共鳴させたライバルには相応しい距離感で、室井のけじめが感じられるが、でも今は節度や礼儀以前の問題だ。
何かが欠けている。
喉を焼くアルコールが、思考を散漫にさせる。
初めて室井に口付けられら夜、嬉しさや歓びよりも、男同士なのに違和感を感じていない自分自身に驚いた。
それはまるで、極自然に信念を唱え、約束に共鳴し、ぶつかり合った熾烈を損なわない自然さで青島を支配した。
それまでノーマルに生きてきた青島を心底困惑させた。
恋を始めると決めた相手との接吻ならばこそ、むしろ歓迎すべきことなのだが、ここまでなのかと、驚いた。
それから、幾つも幾つも柔らかいキスを重ねた。
室井のキスはいつも切なくなるほど、優しかった。
こういう時、腹を括ってしまうと大胆になるのは室井の方で
艶やかに雄の匂いを隠さない室井に、たじろいだ。
ならば、この先の行き着く場所なんか、ひとつなのだろうか。
カウンターに置かれたキャンドルが風を受けて妖しく揺れる。
それを瞳に映す青島の眼は、哀切に揺らめいていた。
喉を詰まらせ、青島はゆっくりと頭を振る。
目の前で蝋燭の炎を反射しキラキラ揺れる琥珀色の液体を、一気に飲み干してみる。
熱い。
その勢いのまま、またバーテンに同じものを注文する。
バーテンは表情一つ変えずに再びダブルのスコッチを注いだ。
心配されたのか、チェイサーとして炭酸水も添えられた。
それを眼に映しながら、歪んだ苦笑を漏らし、青島は両肘を付いて頭を抱える。
いつか、ここが限界だと室井に断ち切られる日がくる予感がした。
そういう青島の第六感は、大抵外れたことがない。
そこまで織り込み済みで、室井の告白を受けた。
というか、あまりに直向きに熱情を訴える室井に絆されたと言う方が正しい。
あの時、何かがまた始まったんだと思ったんだ。
室井は青島を確かに欲していたし、青島もまた、室井のために捧げられることに幸福感を抱いていた。
だが、お付き合いというものを続けるほどに、その曖昧な関係に疑問とズレが付き纏う。
踏み込まない関係は綺麗だけどどこか胡乱だ。
その意味が分からなくなる。
裏腹に、何かを求める心ばかりが熱くなって。
もっと貴方の傍にいたい。
髪にも肌にも、触れていたくて、今も、濡れた瞳に 、声に、指に、心が震える。
静かな笑顔を自分に向けてくれたら、それだけで息が止まりそうになる。
誰よりも、想うのは 貴方のことばかりだ。
「ちっくしょ・・・好きだな」
男同士なのだ、デリケートな部分を含むとはいえ、思っていることなど単純に決まっている。
帰らないでと言って引き留めて、それに頷いた彼を、自分はどう慰めるつもりだったのか。
肉欲に溺れてしまえば、この僅かな、けれど確かな奇妙な痛みは消えるんだろうか。
抱くか、抱かれるか。
でも肉欲に委ねるのは、何か違う。
去り際の、いっそ無機質な室井の眼は、彼独特の玲瓏なオーラを纏って何も映し出さない。
あれから室井と一切連絡は取れていない。
風の噂とメディアの情報で、本部が煮詰まっているらしいと聞いた。
青島にとって不安なのは、いつか離れていく未来を堪えるだけの恋が胸の内にないことだ。
恋は一人で完成するものじゃない。
ワルツを踊るように、二人で創造する。だから恋は人の数だけ形が違う。
溢れてどうにもならない感情が、相手に受け止めて貰うことで深みを増して満ちるのだ。
確かなものが欲しい。でもそれが何かは分からない。
受け止めて貰えなかった何かが溢れて零れていく。
きっと置いていかれんのは俺の方だ。
恋も、仕事も。
「・・・室井さん・・・」
思わず呟いた言葉は、オールディーズの生演奏に掻き消される。
***
コトリと硝子が当たる音がして、呑みかけのグラスが視界に揺れ、氷の音に促されるように視線で辿れば、一人の男が隣に立っていた。
「隣。いい?」
「・・・・」
駄目だという拒否すら受けつけず、男は流れるような動作で青島の隣のバースツールに腰掛ける。
青島は一度だけ訝しげな視線を向けたが、気怠くそっぽを向いた。
「一人?」
「・・・・」
「待ち合わせ?・・・ではないよな。さっきからそこでずっと見てたんで」
「・・・・」
男が親指を立てて後ろを指して見せる。
年齢は青島よりも10歳くらい上に見えた。上質そうなスーツに身を包み、高級ブランドの腕時計がキラリと反射する。
かなり羽振りの良い職業に付いている人間だ。
刑事という職業知識ではなく、青島の場合、営業時代のスキルで査定する。
多くのサラリーマンを見てきた手前、本物かそうでないかは、見分けられた。
これは、本物の方だ。
一流大学 を卒業して有名大手企業でバリバリ働いてるサラリーマン。この若さで多分管理職に付いている。
室井もそうだった。
そういう人間には特有の、匂いがある。
そんな人間に欲しがられた違和感が、胸を抉る。
〝おまえがいい〟
あのたった一言で青島の中の何かが決壊してしまった。
興味がなくなり、青島はリアクションもせず視線を戻し、グラスを口に運んだ。
青島の喉が生き物のように上下し怪しくうねるのを、男が見ているのを感じ取る。
昔から人に見つめられることには慣れている。
青島は素気なく無視をした。
忘れるために飲んでいたスコッチの馴染みのない味が短い安らぎを齎す。
「常連?さっき、バーテンと話してたろ」
「・・・・」
「呑み方からして、君、営業やってるでしょ。一人酒は深酒になるって知らない人間じゃない」
親しげに話しかけてくる男は、馴れ馴れしさはあるものの、胡散臭さは感じさせない。
ナンパのテクニックは高いなと思いながら、男に声を掛けられる面白さに、青島は少しだけ警戒を解いた。
視線は向けずに口だけ薄く開く。
「一人でいるなら目的は一つだろ。相手間違えてんじゃない?」
「お互い様だろ」
「まあね」
隠しもしない白状に、青島は頬杖を付いたまま視線だけ向けてニヤリと笑って見せる。
「イイ男は一夜の相手もミスらない」
「間違えたつもりはないけど」
「へぇ?」
「さっきの話、悪いと思ったけど聞こえちゃった」
「悪いと思ってんなら流すのが礼儀だ」
「ツライ恋しちゃってんだ?」
「そ。釣れない相手にへとへとなの俺」
普通の恋愛だったなら、もっと大胆に攻められた。
いや、どうだろうか。青島は昔からアプローチされることが多く、それほど相手に困ったことはない。
アプローチなんて、聴き齧りのものばかりだ。
室井は好きだとは一言も言わなかった。
君がいいと絞り出すように告げてきた。俺の何が良かったのか、青島に問い返す勇気さえ削ぐ低い、声だった。
決して踏み込めない深淵みたいなものが、そこに近付くほどにリアルに感じる。
それが男の礼儀だというのなら、青島は幾らだって尊重できた。
室井にとって自分の存在が意味あるものならば、幾らだって貪られて良かった。
だけどこれじゃあ、青島の方が縋りついているみたいだ。
何のために気持ちを抑えて我慢してきたのか、分からなくなる。
「傍に居たいっていうからさ、俺、それだけで結構嬉しかったのに、今じゃ友人と変わんねぇんだもん。いや、もうそれ以下」
「純愛なんていうつもりか」
「だって口説いてきたのあっちだぜ」
「そんなかんじ」
「そ?」
男がグラスを空け、バーテンに青島と同じものを注文する。
青島はぼんやり片手で頬杖を付き、男を観察した。
その視線を分かっているだろうに、男はこちらを向かない。
恐らく彼も、見られることに慣れた人種だ。
端正で目鼻立ちのはっきりした濃い顔の男だった。肌の色も浅濃く、精悍な印象を抱かせる。
ラストノーツの薫り方も上品で、慣れていると思わせた。
これは女に苦労したことはない。
ロックグラスが置かれ、バーテンが席を外してから、男はゆっくりとそれに口を付ける。
そのまま、青島に視線を向けた。
落とした照明の元で、二人の視線が初めて混ざり合う。
「勿体ないな」
「何が」
「君、結構色男なのに」
「そんな使い古された口説き文句を使うようじゃ今どき誰も落ちないぜ」
「信じない?本気で言ったのに」
「・・・・」
軽い感じが今の鬱屈した気分には妙に似合ってて、青島は少しだけ口端を持ち上げた。
人は人に癒される。
思っていた以上に疲弊していた自分に気付き、青島は警戒を解放した。
今夜は何もかもが面倒くさい。
視線を伏せ、グラスを見つめる青島の瞳色が憂いを刺し、哀しみを宿す。
その顔を見た男が、意外な顔をする。
「へえ、結構などころじゃない、かなりの上玉だな」
「・・・・やめろ」
恋人のような自然さで、男が頬に手を翳す。
室井にこんな風に触れられた手を思い出す。あの少し冷たい神経質そうな手。
まただ。また室井のことを思ってる。
室井が同性で、男が相手となることは青島の中では然したる問題ではなかった。
室井が官僚じゃなかったら、事はもっと簡単だった。
「男なら誘えよ」
「そういう話じゃないんだよね」
「ヤることヤっちまえばそれなりに征服欲満たされる、男なら」
「・・・・アンタ、セックスに答え求めるタイプ?」
「ベッドに理想持ち込んでんのはそっちに見えるけどね。・・・何、まだなの?」
「うるせぇよ」
「マジで!?」
時々後ろのステージで繰り広げられる生演奏が二人の会話を打ち消した。
ひそひそ声で話す会話は、気だるく続く。
「純情なんだ」
「揄ってる?」
「恋は上手くいかないのを含めて恋だ。限界まで擦り減らして一人の人間に直向きになる時間は無駄じゃないと言っておこう」
「へえ、もっと手数打てって言うのかと」
「目に敵う相手がいないだけ」
「見込みないと思ったら乗り返るのが俺のポリシーだった頃もあるよ」
「それだと熟した恋は味わえない」
「いい恋してんだ?」
「してきた。過去形だね」
「・・・口説き文句としては最高だ」
「見る目ない女の尻なんか放っておけよ」
女じゃないんだけどねと心の中で突っ込んでおく。
悔し紛れに煙草を取り出し、口に咥える。
それをまた男がじっと見ているのが分かった。
馴染みの味が口に広がる。
失敗したと思った。違う煙草にすれば良かった。
少し、青島の顔が歪む。
男も正面を向き、グラスを静かに傾ける。
この空気は、悪くないと思った。
だからだろうか。言うつもりのない胸の内がするりと言葉になる。
「目を見た時、何か、いつも違うもの感じてた。特別視されんのも嬉しくて。だけど近付いていく内に何か歪んでく。自由で居て欲しいし、好きなように愛して
ほしかった、んだけどさ」
「・・・・」
「でも駄目だった。どうしてかな」
「自由愛は無関心と同義だぜ」
「痛いとこ突くね」
「愛に理想を求め始めたら快楽なんて得られないだろ」
「理想がないと、壊れちゃいそうなんだよ」
「お前、可愛いな。なんか気に入っちゃった」
「オトコに気に入られても嬉しくないよ」
「本当に?」
ぱちんと手首を取られて引き寄せられる。
その指先に持っていた煙草を取り上げられた。それを今度は男が咥える。
「そんな顔をして煙草を吸うことも無い」
不満を露わにする青島を、男は妖艶に受け流した。
「仲良しごっこでも失いたくないものはあるんだよ」
男の手を面倒くさそうに青島は捻って抗った。
若いころのように泣きたくなるほどに誰かに入れ込むようなリスクは犯したくない。
あのひとに、犯させたくないのだ。
未来のこんな心配をさせるのではなく、今の恋を楽しんでほしい。
未来は必ず訪れるものではないと、大人は誰でも分かっている。
いつかは、とか、いずれは、なんて、TPOに因って幾らでも消えてしまうのだ。
明日もまた太陽が昇るなんて、信じられるほど子供じゃない。
今を生きているから、未来じゃなくて今を楽しんでほしいのに。生きている内に。
そんなこと、全部、駄目にさせている。
照明を限界まで落とした薄暗い店内は、煙草の煙と地を這うような人の声、アルコールの匂いが充満していた。
そこそこに混んでいるがカウンターは二人きりだった。
黴くさい隠微な雰囲気が身体をぼんやり包み込んだ。
外はきっと今夜も熱帯夜であることを、エアコンの強さが物語る。
「俺にしてみない?」
「あんたオトコじゃん」
「物は試し」
お互いに、そこまで踏み込む気はないと分かっていての応酬だ。
一夜限りの出会いの席は、そんなギャンブルが渦巻いている。そこが醍醐味でありスパイスだった。
この魅力的な初対面のポジションを維持しつつ、最大限近づける距離はどこまでか。どこまでならセフレのような下世話な結末に転落せずに甘い蜜だけ触れられ
る か。
まるであのストーカー潜在層の男と同じ自分に、青島は可笑しくなる。
人を批難出来る分際じゃない。
「俺は人を見る目だけはあるんだ」
「・・・今回はハズレたね」
「きっと、そうでもない」
男の声が掠れて聞こえた。
だが今夜はこのきな臭さも、希薄な優しさも、胸の奥に沁み入った。
視線に誘われるように、青島は男に目を向ける。
口籠る青島をじっと見据えた後、男はそっと視線を解放する。
そのままグラスを口唇に運んだ。
数口グラスを運び、青島が視線を外そうとした頃合いを見図り、男は横目を向けた。
揄われている。というか、手の平で遊ばれているのが分かる。
むっとして、ふいとそっぽを向く。
そんな子供染みた抵抗に、男は大人の笑みを浮かべた。
「女だけじゃなくて男でも言い寄られてそうだな」
「・・・・何で?」
「男に好かれそうなベビィフェイス。折れなさそうな勝気な目。ホントは甘えたがりだろ。男の性を叩く潜在能力がある。そしてその寥々な感じ。危険な香りが
似合う・・・」
青島がもう一度前髪の奥から視線だけ向ける。
人を拒みそうな青島の潔癖な瞳も肌理の細かい肌も、キャンドルに美しく光った。
「当たった、だろ?」
「・・・はずれ」
くすりと笑みを口の中で押し潰す。
男には、これは、大事にしすぎて伝わらない。そんな惚気話に聞こえた。
バカみたいな話だ。
なんとなく、相手は女じゃない気がした。或いは相当年上の熟女との不倫か。
いずれにしてもアバンチュールで危険な恋をしている男の瞳だ。
その甘い蜜に絡め取られて、身動きできなくなっている。
恋はどこかで自分本位に割り切らないと、溺れ死ぬ。
そんな恋をしている男を哀れにも思えたし、同時にそこまでの情熱を向ける彼の危険な瞳が、男を奥底から劣情する。
「俺ね、割とテーマパークとかに燃えるタイプなんだよね」
「夢の国?モラルを切らないで恋をしようなんて甘いんだよ」
オールディーズの生演奏が店の奥のステージでまた始まる。
ざわめく人々の縫う声が、逆に此処を隔離した。
「躯重ねちまえよ。アンタみたいなのは抱いてくれって言った方がいい。相手のリードで溺れることで愛を信じられるタイプの典型だ」
「俺、オトコ」
「セックスは挿れるか挿れられるかの違いと、抱くか抱かれるかの違いは同じじゃないぜ」
「吐き出すもんは同じだろ」
「得られる快楽の深さが違う。・・・試してみるか?」
「・・・・・溜まってんのはそっちじゃね?」
「枯れるには早いだろ」
「・・・確かにな」
言い方が可笑しくて、青島はちょっと苦笑した。
見ず知らずの男に慰められているらしい。
人の世は、それほど捨てたもんじゃない。
皆が足早に通り過ぎていくコンクリートの中で、確かに人は存在していて、時折袖が触れ合う。
ここは旅人が雨宿りをする一里塚のようなものだ。
もう終わりなのかもしれない。
そもそも終わりってどこだろう。
始まりだって、明確な基準があった訳ではなかった。
男女間なら離れた所が別れ所だろうが、同性で職の理想を一致させている場合、何が違ってくるのだろう。何が別れになるのだろう。
何の問題を抱えているのかも曖昧に澱む。
愛が擦れ違った今が、正真正銘別れの証拠なのかもしれない。
雨が上がれば、みんな通り過ぎていくのだ。
「怖いんだよね。あのひとの世界を変えてしまうのは」
「それで引き下がってダメにしてたら元も子もないぜ」
「俺、子供みたいなこと言ってる?」
「・・・・そこも可愛さの一つだろ」
「ばぁか」
一緒に居る意味はあっても、共に過ごす意味が希薄だ。
仕事の関係に依存はないが、そこに恋愛も持ち込ませたのは、室井の方だ。
だけどその理由がうすっらと靄に呆けていく。
助けにもなれないのなら、切り捨てるべきだ。あのひとも。
こんな一里塚でいつまでも留まっている暇はない。
それが出来ないのは、室井の気真面目な性格と意外に深い情由来の建前なのだと思われた。
別れ時なのかもしれない。
もしかしたら室井はもう別れたつもりなのかもしれない。
あの夜、いつもみたいに室井は青島を受け止めてはくれなかった。
きっと、何かの限界はそこまで来ている。
男女なら明確な交遊も、同性だと社会面が強すぎて、こんなにも分からない。
そこに不満はないのに、不満にさせられる。
青島の瞳が遠くを見るようにあえかな色に染まる。
憂いを乗せた気怠な表情は、見る者を惹き付けた。
「上玉だな・・・」
「ぇ・・?」
「酒も。飲むなら、そんな顔をするな」
「どんな顔だっての?」
「無防備すぎる」
どんな顔をしていたか分からないが、それでも酷い顔をしていることは分かった。
「じゃあ見なきゃいい」
「ほんと、勝ち気だな」
「従順なのがお好みなら他当たれ」
「勿体ない。そんな生産性の無い恋なんか止めちまえよ」
「止めるかどうかが選べる時点で、それも理想だろ」
「理想的な恋愛?」
「愛されたいだけだよ。いや、愛したいのかも」
「ほんと・・・可愛いな」
青島の視線がテーブルに落ちたその刹那、男の顔が陰になり、音もなく近付く。
口唇に何か柔らかいものが触れた。
「んな・・・ッ、なっ・・ッ」
パッと手を跳ねる。
それでも男は手首を捕え、青島の耳元に口唇を近付けた。
息が掛かり、柔らかい青島の髪が揺れた。
「だから掻っ攫われる。いや、攫われるのは君の方だな」
「なん、で・・・っ」
「スキだらけ」
「・・・っ」
珍しい失態だった。
自分は思う以上に弱ってるのかもしれない。
いつもなら代わせたモーションだった。
周りの目が気になった。
ここはバーカウンターだ。
腕を引き寄せられて、青島の目が泳ぐ。
「放せよ・・っ」
青島が小声で鋭く牽制するが男は虹彩を妖しく染め上げる。
「逆に聞くけど、そいつはおまえをちゃんと満足させてやれてんの?」
「・・・ッ」
のらりくらりとシーソーのように蕩揺っていた男の視線が時を得て、青島に焦点を定めている。
「来いよ、どうせそうやって相手の前でも意地張ってんだろ」
「煩せえよッ」
「一晩、楽しませてやる」
「は・・・っ?」
「抱かれるセックスの意味、教えてやるよ」
「お前ッ、ゲイなの?」
「気に入っちゃったって言ったろ。その先は、付いてくれば分かるよ」
「誰が行くかッッ、名前も知らねぇのに!」
「こういう場所で名前なんて、言うだけ野暮だろ」
「そうだけど・・・っ」
スッと男の方から青島の耳に口唇を寄せた。
「俺、夏木っていうの」
囁くようにこの季節に相応しい名を口にし、青島の髪にキスを落とす。
ドキリとして心臓が跳ねる。
「好きだよ」
どうして見知らぬ男の口からは、簡単に聞けるのだろう。
一番聞きたい男からは一度も聞いたことがないのに。
ふっと陰りが射すように曇った顔に変わった青島を、夏木が目敏く察し、その瞳で捕えてくる。
手首を取られたまま、夏木に頬を指先で撫ぜられた。
「悪いようにはしない。俺なら満たしてやれる」
「ちょ・・っ、待っ」
「試す価値、あると思うけどな。飛ぶくらい最高に善い味、教えてやれる」
「・・ば・・っ」
「寂しがらせるだけの相手なんか止めちまえ。俺にしとけ」
「勝手なこと・・・っ」
再び、風がそよぐように夏木が動き、また口唇を掠めて触れられた。
戸惑う青島の瞳を間近に捕え、夏木は妖しく笑って見せた。
その時、青島の真後ろで、カウンターにドサリと重たい鞄が置かれた。
「チェックを」
聞き覚えのある低いバリトンボイスに、青島がビクリと振り仰ぐ。
そこには、見慣れた顔の男が立っていた。
こちらのチラリと一度だけ視線を向けた男は、それ以上の言葉を発することもなく、渋面をしてカウンター奥を見据えている。
「・・ッ」
時間が、心臓が止まる。
どこから見てた?
いつから居たんだ?
青島の顔が凍り付いて固まった。
途端に浮ついた気持ちも酒も、どこかへ飛んでいく。
確かにこの店を室井に教えたのは青島だった。
大学時代からよく通い詰めた酒場だと、馴染みの酒と共に待ち合わせでも良く使った。
でも、逢えないって。
電話もなくて。
今、俺、何された?
何言われた?
しかも相手は男だ。
スマートにカードで会計を済ませると、室井は無言で立ち去っていく。
外で青島が室井に親しげに声を掛けることは、禁じられている。誰が見ているか分からないからだ。
どうすることも出来なくて、でも、未練がましく青島はその背中を視線で追った。
硝子扉が閉まった時、青島は堪え切れず、スツールから立ち上がる。
こんなことで、こんな形で終わりにされることが途端に怖くなった。
駄目だ、俺、全然吹っ切れていない。
でも。
追いかけようとして、でもその足が立ち竦む。
「もう、いいや・・・」
止まった足は重たかった。
愛情は見せるけど、踏み込まない室井に、これ以上追い掛けたって仕方がない。
先に焦れるのは結局いつだって青島だ。
あの徹底した厳格な室井には、どこまでいったって敵わない。届かない。
悲しいとは違う絶望感が胸を虚脱させた。
室井との恋は優しくて哀しい愛だ。
切ないだろ、そんなの。
でもそれは青島にはどうすることもできない。
本当は、室井のようなエリートキャリアには、踏み込ませてはいけないのだ。
室井にはもっと絢爛な恋をさせるべきなのだ。
主導権がこちらにあったこれまでの恋と違って、もうどうしたら良いかわからない。
「何?行く気になった?」
馴れ馴れしく肩を抱いてくる夏木の手を気怠げに振り払う。
そんなところもかわいいんだけど、という男をとりあえず睨みつけた。
「人目がある」
「どうせみんな自分のことにご執心さ。誰も見てない・・・」
手慣れたエスコートでカウンター横のインテリアの茂みに半ば強引に連れ込まれる。
夏木が青島の後ろの壁に手を付き、頬から口唇を降らせた。
このまま流されそうだった。
人の温もりと言うものは、どうしてこんなにも人の心の奥まで浸みこむのだろう。
「やめろよ・・・」
「意地を張るなよ」
「張ってない」
「甘えるのが下手だな・・・、知らない相手なんだから委ねりゃいい」
男に興味ないよ、相手が違うだろ・・・色んな苦情がどれも上滑りしていく。
「俺、も、どうしたらいいのか、分かんなくなっちゃった」
「今夜だけ、忘れさせてやる」
そっと嫌がる手を労うように軽くいなし、夏木に正面から口付けられる。
身動ぎをする身体をゆるりと壁に押し付けられた。
目を見開き口付けを受ける青島に視界に、端正な顔の男が瞼を伏せているのが見える。
抗おうと、鈍い思考で判断した手がその胸を押し返すが、難なく壁との隙間に塞がれた。
有名ブランドの香水が強く薫る。
覆い被さるように夏木が青島を上向かせ、上から口唇を塞ぐ。
押さえられた身体は動かせず、暗がりの空気に青島の甘い息が上がる。
「ん・・っ、・・・っ」
夏木のキスは言うだけあって巧みだった。
経験が少ないとは言わない青島でも、触れる強さや角度に、簡単に誘われる。
男相手に、こんなことをするなんて。
男相手に、流される。
違和感と拒絶感だけが渦巻いていた身体が、口唇の熱さに溶けていく。
ずっと室井に捨てられるのだと思ってたけど、何だよ、裏切ったのは俺の方なのか。
オールディーズの生演奏はバラードに変わり、薄暗い店内はノスタルジックなメロディと哀惜を煽る声色に染まる。
吸い付くような夏木の口唇に塞がれ、お互いの唾液に濡れた青島の口唇が紅く光った。
擦り合わせるような口付けの合間に熱い息が青島の口端から漏れて、甘い息と共に夏木の口腔に吸われていく。
眉を潜め、受け入れきれない青島の口唇を、大胆に奪っていく夏木の手が、頼もしくさえ思えた。
少し仰け反るように受け止める青島の喉が、唾液を呑み込み、生き物のようにうねる。
「ん・・っ、ぅん・・・っ」
青島の両手首を壁に押し付け、夏木が奪うように顔を傾ける。
その時、突然鳴り響いたケータイバイブに、ビクリと青島の体が跳ねた。
口唇を重ねたまま、カウンターの上に置いたままのケータイの待ち受けが、薄っすらと開けた青島の横目に入り、目を眇める。
そこには今は一番見たくない名前が表示されていた。
一瞬で、胸の奥がざわつく。
「出なくていいのか?」
水音を立て、ほんの少しだけ触れたままの夏木からの意地の悪い問いかけに、青島は首を振って手首を掴まれたまま俯いた。
だが温い足掻きは簡単に閉じ込められる。
抵抗する気も失せていく。
男の成すがままに、三度引き寄せられ、今度は深く口付けられた。
壁にさっきより強く押し付けられた背中を抑え込まれ、夏木が壁に手を付き覆い被さり、淫乱に口唇を擦り合わせてくる。
男とキスをするなんて、室井以外初めてだ。勝手が分からず後手になる。
我慢して、我慢して、背伸びして、呑み込んだ。
それを受け入れてくれるのなら、室井が見ていたのは俺じゃない。俺じゃないんだ。
でも、そんな切なく哀しい恋をさせているのは、俺だ。
一緒にいて、幸せなのに。
口唇から込み上げる想いを押さえ込もうと、青島は自ら夏木の口に口唇を押し付けた。
応えるように、夏木の口唇に塞がれる。
たった一つで良かった。たった一度でいいのだ。
何か確かなもので繋ぎとめられれば、それだけを信じて、俺は耐えられた。
なのに、たったひとつも擦り抜けて。受け止めても貰えなかった。
ケータイのバイブが鳴りやまない。
知らない男の口唇は、馴染みの煙草の味がした。
強請るように夏木の口唇の動きに合わせて青島は夢中で擦り合わせる。
呼吸もままならなくなる恐怖を忘れたくて、思わず夏木の肩に縋り、喘ぐように薄く開けた口は誘いになった。
腰から抱きこまれ、分厚く滾る男の舌に深く侵略される。
「ふぅ・・っ、ん、ん・・・ぅ・・・」
心と身体の動揺に付けこみ、夏木の強引さが青島の魂を難なく貫き、奪い取った。
内壁を辿られる感覚に青島の背筋が戦慄く。歯列を確かめるような動きに目を堅く閉じる。
抱き込まれた腰が密着し、脚を軽く夏木の膝で割られて自由を奪われた。
これで終わるんだと思えた。
室井に見限られた先に、自分の存在価値すら、見失う。
寂しい。心細い。
でも、どういう付き合いをしていったらいいのか、もう分からない。
怖さを認めたくなくて、青島は夏木の口唇を必死に追う。
夏木の指先が青島のネクタイを緩め、首筋を愛撫されながら、青島の目は堅く閉じていた。
委縮した心が咽び、目の前の熱に縋らせる。
青島は顔を傾け、形の良い夏木の口唇に必死に吸いついた。
絡まる舌を無防備に差し出し、嬲られる。
明け渡しているつもりなのに、身体は強張っていた。
後頭部を押さえ込まれると、奥まで舌を、吸い上げるように絡み取られ、喉の奥を舌先で刺激される。
痛みに近い息苦しさに、青島の眉が切なげに寄せられる。
「へぇ・・・電話一本で相手を泣かせるなんて、大した相手だ。よっぽどイイ女なのか、それとも」
「!」
薄く開けた視界の目の前で夏木の瞳がギラついた。
少し惚けた青島の瞳に膜が張り、それは男を吸い込むように光る。
「OK、だね?」
「・・・・」
「おっと・・!逃げるなよ、今更。ここまで誘っておいて恥を掻かせないでくれ」
実のところ、夏木は相手に事欠かない。
この顔立ちと経歴のお陰で、男も女も抱いてきた。
夏木には今のキスで大体のことが察せられた。
それは経験上の知識といって差し支えない。
この男には、自らのエリート意識を持つ人間が心底煽られる自由と資性がある。
あまりに挑発的で無垢な原石に、そこから狂わせられてもいい予感がする。
「お前、相手、男だろう。可愛いカオしてんもんな・・・、だがまだ生娘だ。違うか?」
「は、ずかしーこと言ってんな・・っ」
「さっきの話、抱かれてないって意味だろう?」
「俺が抱くって、可能性だって」
「初心だな。こっから先は俺が教えてやる」
「いらねぇよ・・っ」
「そんな我慢強い野郎がイイのか?」
慌てて顔を逸らすが、顎を取られた。
不味い、と少しだけ青島の意識が我に返る。
隙を見せれば、食いつかれる。身の裡から。
零れた雫が青島の睫毛を黒々と光らせた。
その光の粒を、夏木の指がそっと拭う。
夏木の口唇が青島の口唇にかかる。
穢れなく艶めく青島の瞳は妖しく濡れ、男であろうと女であろうと触れたくなるほど魅力的で、透明な色に魅せられる。
劣情をこれでもかと煽られた夏木の顔が至近距離まで近づいた。
青島が少し引き剥がそうと向けてきた手首を取り上げ、顔横に押し付ける。
空かさずもう片手も押し付け、覗き込んだ。
「本気で欲しくなった」
「・・・・」
「怖がらなくていい」
「怖がってない」
「甲斐性のない男より、俺の方がずっと幸せにさせてやれる」
「初対面の相手にいう台詞にしては陳腐だぜ」
「我慢強いセックスが好み?」
「変態だな。女には呆れられる」
「いいね、その眼。誘われるよ」
そう言ったと同時に、夏木は青島の口唇を塞いだ。
「ぅん・・っ、んぅ・・っ」
先程までの誘うキスではない。
雄として、相手を奪う、制圧のキスだ。
両手を捕えられているため抵抗できない青島の口唇を、酸素を欲して上向いた隙を狙い、夏木が吐息ごと奪った。
応戦しようと試みる青島の仕草まで、全てを知り尽くした男のキスだった。
大きく見開いた青島の透明な瞳いっぱいに、夏木が入り込む。
それを恍惚と眺めながら、夏木はうっとりと目を細めた。
征服されたくない青島の意地もあり、それはすぐに喰い尽すような獰猛なキスに変わる。
夏木が分厚い舌で大胆に内壁を嬲れば、敏感に青島の躯がそそけ立つ。
それが嬉しくて、夏木はますます劣情を掻き立てた。
「・・・ぁ・・っ、ふッ、むぅ・・・ッ」
簡単に暴かれた弱点を巧みに付いてくる舌戯に次第に酸素が奪われ、息苦しさが青島の眉を潜めさせる。
きつく閉じた目尻から流れる雫が、青島自身の胸の内を錯誤させ、その顔に、悩ましく呻く青島の声に、夏木が貪欲に煽られる。
「んぅ・・っ、ふ・・・ぁ・・・、・・っ」
緩く首を振る。
忙しなく雄の獰猛さで塞いでくる口接に、膝が少し崩れた。
呼吸が追い付かない。
だが、解放されない口付けに、青島は身体を戦慄かせるだけだった。
喘ぐ息が、熱を孕む。
流されたくなくて、夏木のスーツを引っ張ったが、しがみ付くだけになった。
室井に枯渇していた心が強淫にでも求められる情動に安寧を見出してしまう。室井では与えられなかった何かが夏木にはある。
「堕ちて来いよ・・・・俺に・・・」
「そしたら・・・楽になれる・・・・?」
小さく囁き合う声に、濡れた水音が混じる。
頭部を抑えている夏木の指に青島の柔らかい髪が絡まり、始まりのキスの動きに靡いた。
青島の手が夏木の肩から頭部へと周り、その髪を掻き混ぜる。
吸い上げるように青島の舌を口唇で挟むと、夏木は歯を立てて刺激した。
「・・・ぅん・・・っ、・・っ」
この口接を解くだけの気力は今の青島にはなかった。
去っていった室井の真っ直ぐな後ろ姿だけが脳裏に浮かんでいた。
あの高潔な背中を追い掛けていた眩しい季節は、もう遥か昔だ。
無防備な口腔の隅々まで男に嬲られて、それでもう構わなかった。
夏木はスーツの裾から手を差し込み、ワイシャツの裾が波打って見た目から男を誘発する。布の上から夏木の手が青島の躯を嬲り始めた。
無駄な肉のない綺麗なラインに唆され、そこかしこを見知らぬ手が這い回る。
こんな風に男に触られたことのない青島の躰は、ただ無防備に震えた。
ぴったりと隙間なく密着した肉厚は、まさしく男のもので、ついに主導権を握った夏木の舌が青島のふくよかな膨らみを思う存分制圧した。
薄っすらと空いた青島の目尻が潤んでいく。
「・・ッ・・・、んぅ・・・」
舌の輪郭を辿られるように弄られ、スーツの中から躯を嬲られ、意思とは逆に栗立つ肌に、青島はただ堪え、身じろいだ。
息苦しいのはキスのせいだと思いたかった。
***
「お客様、人目に付きますので」
声と共に夏木の口唇から解放される。
人の気配に瞼を上げれば、そこにバーテンが立っていた。
「・・・ザンネン」
ゆっくりと夏木から解放される。
夏木は平常であったが、青島は息を荒げて乱暴に口唇を袖で拭う。
思わず膝の力が抜けて、青島はとすんと壁に背中を預けた。
それを夏木が引き寄せる。
「すいません、お客様。今宵はここで引き下がって貰えますか」
「俺?何で?」
「彼は私の大切な友人でもあるのです」
「バーテンごときが客に指図を?」
「私はここのマスターでもあり、彼の友人でもあります」
「・・・・、了解」
夏木は引き際を心得ているらしく、大人な素振りで青島を解放した。
唾液に光る青島の口唇を親指で拭う。
「なら部屋を取るけど?」
それは青島に向けて言った台詞だった。
その時になって、青島は自分のスーツが淫らに肌蹴ていることに気付き、慌てて掻き寄せる。
そんな青島の頬に一度キスを落とし、夏木は青島を壁に預け、背を向けた。
二、三歩行き、顔だけ肩越しに振り返る。
「ゴチソーサマ。今度会えたら運命だ。その時は名前教えてくれよ」
その背中をじっと見送る。
夏木が去っていった後、バーテンが青島を見る。
「どう・・して・・・」
「普段は介入しませんがね・・。相手が違うんじゃありませんか。いいんですか」
「関係ない」
「ならこれ以上は申しませんが。貴方、龍村さんとも知り合いなんでしょう?」
「・・ぇ・・、は?・・・龍村・・・?」
久しく聞いた事の無かった名前を出され、青島は二三度瞬きをし、虚を突かれる。
何故その名がここで出るのか。
いや、学生時代から通い慣れたこの店で、何故マスターがその名を口に出せるのか。
軽く動揺を見せる青島に、マスターが遣る瀬無い表情で肩を竦めた。
その眼は冷たく感情がないように思えた。
「六本木のバ―経営者で彼を知らない者はいませんよ」
「・・・・」
「見過ごしたらこちらの立場が悪くなる」
「!・・・帰る」
乱暴に袖口で濡れた頬を拭った。
どうせ、逃れるなんて夢の話なのだ。
高らかに堅牢な灰色の建物が室井と青島の間に立ちはだかっていた。
この東京に住む限り、そして、警察に属している限り、俺たちは囚獄の中で生きていく。
3.
アパートに辿り着くと、家の前に室井がいた。
合鍵を持っている筈なのに、入ろうとしていない。
「なにしてんすか」
「・・・・」
ただ黙って青島を見つめる瞳は、怒りでもなく呆れでもなかった。
別れ話でも言いに来たんだろうか。
それともその鍵を返却に来たのか。ポストにでも突っ込んでおけば良いものを、しないところが室井なのだろう。
室井の眼には何やら厳格さが宿り、宇宙のように底が見えない。
ぎこちない空気がじめっとした大気に合わさり、重く身体に纏わり付いた。
尻ポケットから鍵を取り出すと、ノブに差し込む。
青島が解錠する様子を、室井もただ見つめていた。
らしくなく手が緊張する。
扉を開けると、青島はその扉の上部に手を掛け、少し扉に凭れる格好で室井を見た。
街燈とアパートの照明だけの明るさは、とっぷりと暮れた廊下には薄暗い。
ひと気も無く鎮まり返る郊外の街は、微かに海の香りが漂った。
夏の暑さから解放されたとはいえ、まだまだ気温は高かった。湿度の高い夜風が生温さと息苦しさで二人の間に充満する。
小首を軽く傾げ、どうすんの、と青島は判断を室井に委ねる。
暫し見つめ合った後、室井は真っ直ぐに伸びた姿勢でその扉を潜った。
その綺麗な背中を、青島はただ見つめた。
「説教?」
「・・・説教される憶えがあると」
「妬いてんの」
「妬いてるって最初に言わなかったか」
電気を点け、エアコンを入れる。
むっとする暑さに眉を顰め、青島はネクタイを乱雑に寛げた。
真夏日を連日記録しているこの季節、一日中窓を閉め切っていた部屋の暑さはじっとりとシャツを肌に付着させる。
「メシなんかないですよ」
「必要ない」
「あ、そ」
視線を合わせたくなくて、青島は背広の上着を適当に放ると、そのまま室井に背中を向けた。
キッチンへ向かう。
その背中を室井の声が追った。
「話がしたい」
「・・・手短にお願いします。疲れてんで」
きっと、このままでは埒が明かないことは、短くない付き合い上、室井には察せられた。
じわじわと、挑発に乗らずに理論で突き崩していくのを得意とする室井の聴取は
自己保身を持たずどこまでも嘘で踊らせることのできる機会主義論者とは相性が悪い。
衆愚政治でしかないキャリアの、そして男の狡さを戒めるのはこんなところでもだ。
「言いたいことがあるなら言え」
「特には」
「ある、と思う」
「ないよ・・・」
焦れる心はまだ冷えない真夏の室内の中で、じっとりと高まった。
シャツの中を汗が滴り落ちる。
ふいに室井が動いた。
キッチンに逃げようとしていた青島の手を取り、リビングに戻す。
「ちょっ・・、痛・・っ、っと・・!なんですか・・・っ」
部屋の角を掴んで青島が抵抗を見せるが、室井の勢いに敵わない。
ズルズルと引き摺られ、そのまま部屋の奥まで追い詰められた。
見限られる恐怖を見透かされたくなくて、青島は不満を露わにして強く睨む。
じっと睨み合う。
「俺に言うことあるだろ」
「ないですよ」
「もっと俺を責めろ」
「・・・え?」
こんな時まで室井を責めない青島に、室井は胸が苦しくなる。
「こういう時ほど俺を責めればいい」
「・・・・」
「君といると、俺は自分に足りないものばかり見せ付けられる。それで良いと思っていても自信がなくなる」
「弱音を吐きたくないなら・・・・こんな近くまで近付かなければいい」
ぽん・・・と、青島が頼りない指先で室井の肩を押した。
威嚇でしかないことは、その力の無い手で分かった。
くしゃくしゃに乱れた前髪の奥から睨み付ける輝きを失わない瞳は、どこか怯えを秘めている。
「怖いことを言うな」
ワイシャツのボタンを二三個開けた青島の襟元から、汗ばんだ肌が艶やかに覗いていた。
釘付けになるその視線を室井は意思の力で持ち上げ、青島をしっかりと見据えた。
余りの澱みなさに、逆に青島が視線を下げると、少し束になった前髪が視線を隠した。
「今更俺たちが離れられると本気で思うか」
「さぁ?一緒にいる意味の方が疑問ですけどね」
「君から俺を取って、それで君は平気か」
「平気じゃないって言わせて、どうしたいの、あんた」
「――」
「もういいよ・・・」
手の甲で室井の手を嫌がり、室井を押し退けると、顔を背けながら青島が玄関に足を向ける。
室井と同じ空間にいるのが今はしんどかった。
応えて貰えない心に何度問い掛けたって、今は無駄な気がした。
見せ付けるように弱さを突き付ける問答が、辛辣に突き刺さる。
堕ちてしまった自分がひたすら卑しく汚いものに思える。
視界を滲ませる雫を青島は乱暴に袖で拭った。
その二の腕を擦れ違いざまに掴まれた。
「青島」
「・・っ、捨てて、いいですからッ」
「違うんだ・・・!」
「何も違わないよ!」
室井の長い指先が掴む腕に食い込み、青島の顔が痛みに歪んだ。
「ッ・・、放してください」
「待ってくれ、違うんだ」
「何がだよ、もう話は終わったよ」
「終わってない・・・!」
掴んだ腕を強く引き寄せ、室井は背後から青島を抱き締める。
力加減も考えずに引き寄せたことで、ふわりと青島の髪が風になびいて宙に残し、青島が室井の腕へとバランスを崩した。
その髪の上から室井が耳元に強く口唇を押し当て、掠れた声で告げる。
「まだ終わってないから・・・・行くな」
「イミわかんない」
「言葉通りにとっていい」
青島が青島なりに室井とは違う形で愛情を寄せてくれていたことくらい、室井は知っていた。
青島にとっても室井は重要な存在の筈だった。
でなければ、同性同士の交際に一ヶ月も悩んだりしない。
悩んでくれたこと。――むしろ、承諾の応えよりもそちらの方が、室井には信じられた。
だからこそ、言葉だけで始末しようとしたこの間の夜が、青島を追い詰めたことは、簡単な推測が成り立った。
あの夜追い込まれたのは室井じゃない。青島の方だ。
青島にとっても、室井にとっても、お互いがいない時間が現実味を帯びないのは、お互い様なのだ。
不安なままに追い立てれば、キャリアを背負う室井を慮り、青島が屈するのは当然だった。
二人の感情はいつも、言葉以外のもっと深い所で恥をも忍ばず赤裸々に通じてきた。
「勝手に、終わらせないでくれ」
溺れる者のようにいきなり抱き締められ、青島は戸惑った。
咽返るような室井の熱に追い詰められる。
室井の両手がしっかりと青島の肩を抱き込み、堪え入るような息を漏らして青島の髪に顔を埋めた。
この期に及んでこんなことをしないで欲しかった。
室井が、浮気の現場を押さえた夫のつもりなのだとしたら滑稽だった。
ここで世間体でも説かれても、男同士の恋愛で何がモラルになるのかも曖昧だ。
それ以上に、この事態を浮気と認めてくれるのならまだ救いがあった。
真綿で首を絞められるような仕打ちをする室井に、青島の中の何かが破裂した。
「なんのつもりですか、見てたでしょ、俺がしたこと」
「・・・ああ」
「わざわざ男の修羅場に口出して、モラルの一つも追及しなきゃ気が済まない?」
「・・・青島」
「もっ、・・・苦しいんですよ・・っ、そやって・・!あんたはその眼で俺を縛るんだ・・・!」
「――」
「なのにこんな関係、止めるのも出来なくて・・・。見せ付けて、俺ん中、掻き回して、そんで、逃がしても、くんない・・・」
「それで」
そよぐように耳元を撫ぜる室井の声に堪らなくなって、せめてもと青島は片腕で瞼を覆った。
「あんたが俺を見てくれないの、も、ヤです・・・っ」
「それから」
「あんたが俺のもんじゃないのも、ヤです・・っ」
「ああ」
「でも、望んだらな、全部、俺のせいになる。俺の、せいだ」
あんたを貶めたのも、ここに縛り付けているのも。
伝わってくる室井の体温と匂いに咽返り、それだけで青島の胸が切なくなっていく。
静かに青島の言葉を促す室井に、苛立ちと終末を感じた。
室井は静かにこの恋を終わらせようとしている。
真摯に先へ進もうとする男の背中は逞しく、取り乱し手を掛ける自分が情けなかった。
恋の火種に気付かされ、好きの一言もないまま囚われた。
隙の無い男は確かめさせてもくれず、その深部に触れさせてもくれない。
どうにもならなくなったら、そこで手を放される。こんな風に。見込んだおまえが悪いのだとばかりに。
「もう、いいから、離してください」
「嫌だ、・・青島」
「・・・言うな。言わないで・・・もう、言わなくていいです」
分かっているから、と零した声は、情けないほど小さくなった。
漠然とした恐怖が間近に迫り、青島は瞼を覆ったままの腕を離せなかった。
こんな形で別れ話なんて、言われたくなかった。
申し訳なかった、やっぱり無理だった――好意の向こう側で交際を断念する事情など幾らでも存在する。
その辺の困窮を理解したからこそ、それでも告げてくれた室井の意向を尊重したのだ。
いつでも別れの準備は出来ている筈だった。
なのにいつの間にか、青島の方が、過剰な熱を孕ませている。
言う訳にはいかないけれど。
その決意の分、このひとが大事だった。
離すまいと息もつまるほど抱き締めてくる男の腕に、青島は腕で瞼を押さえたまま喉を震わせた。
「ごめん、室井さん・・・今は、俺、聞きたくない・・・」
「抱きたいんだ」
「・・・?」
「抱きたい」
「・・・ん?」
「抱かれてもいいのか」
「・・・・へ?」
青島は固まった。
重ねるように告げられた室井の言葉に耳を疑う。
思ってもみなかったことを告げられた思考が停止する。
会話が繋がっていない気がする。
これは別れ話じゃなかったのか。
言葉を告げない青島の動揺も理解しているのだろう、室井もまた、背後から耳元に頬を押し付けたまま、ただじっとしていた。
「え、・・ぇ?」
「君を、ずっと抱きたかった」
「な・・・、何言ってんだ?あんた。正気か・・・」
「正気ではないかもな」
「あんたな・・・!」
「惚れた奴と他の男との接吻を見せられて、冷静でいられる男なんかいるか」
回される室井の腕が一際強くなる。
「今夜、帰ってこなかったらどうしようかと思った・・・」
掠れた声で告げ、額を肩に押し付ける室井に唖然とする。
バランスを少し後ろに崩した青島の身体が室井に預けられ、ただ強く背中から抱きすくめられた。
自分を必死に抱き締める室井の腕が、弱弱しく脆く、怯えているように思えた。
驚いたせいで、感極まって情けなくも滲んでいた涙も引っ込んでいく。
弱味を初めて見せる室井に、初めて4つだけ年上の、一人の男である室井が後ろにいた。
「相手・・・男ですよ・・・」
「関係あるか?・・・君は簡単に攫われる。警戒しろ。自分の魅力を分かって無さ過ぎる」
んなわけあるかとか、あれはただのナンパだとか、色々弁解したいことはあったが
キスされた手前、大きなことは言えそうにない。
「俺のこと、呆れたんじゃなかったの・・・」
「君はまだ分かっていない。俺がどれだけ君に惚れているか・・・。どれだけ独り占めしてしまいたいか」
「嘘だよ」
「相手の男を殺してしまいそうだった」
「官僚が何言ってん――」
「鎖で繋いで閉じ込めてやろうか」
冗談でやり過ごそうとして、鋭く切り込む掠れた声色に、室井の本気度を知る。
息を呑んだ。
室井の重すぎる愛を、知っていたつもりになっていたのに、改めて告げられ、その深さに眩暈がする。
ちゃんと好きだと告げられていないから、逃げ道を作ったのは青島の方だったのかもしれない。
だからこそ、今なら聞けると思って口を開く。
「・・・俺、そこまで惚れられるようなこと、してない・・・です」
「・・・・」
「俺、あんたに何か好かれるようなこと、した覚えないよ・・・。なんで?何で俺なんかなの」
肩に回っている室井の腕に更に力を込められ、痛いほどの男の強さで抱き締められる。
室井が青島の首筋に鼻先を移動し、その吐息が髪を肌を擽って、青島の肌がぞくりとする。
「無自覚なのはおまえくらいだ。俺だけじゃない、みんながおまえに魅せられる。恋じゃなくても惹きつけられる」
「まさか・・・毛色が変わったものが好きな連中でしょ」
「俺にはおまえが必要なんだ。こんなに狂おしい存在があるなんて、思っていなかった。出会えた奇跡に感謝したのも初めてだ」
普段無口な室井が顔を埋めたまま、らしくない饒舌を口にする。
信じられない思いで青島は頬を赤らめた。
「む、室井さんの方がすごいじゃん・・・キャリアだし、絶対折れないし・・・上に立つ、ひとだし」
「そんなの、ただの性分だ」
「・・っ、一人でやってける人だよ、貴方は。強くなきゃやってられない、と思う・・」
「分からないのか」
「・・?」
小さく息を落とし、室井は覚悟を決めて囁く。
「この間の女性の話・・・俺は泣けない。あんな風に誰かのために泣けない」
「・・・・」
「人を想って泣いてやれる強さを持っているおまえに、俺は心底美しいと思う。本当の強さがあると思う。敵わない。負けっぱなしだ」
「揄って――」
「そんな君が、俺は欲しい」
平手打ちを真正面から受け止められる青島の勇気が、室井には眩し過ぎるのだ。
傷つくと分かっていて相手を丸ごと受け止められる魂に、魂が震えて呼応する。
「何で・・・そゆこと、今更・・・っ、・・言う・・・」
こんな、取り返しのつかなくなった先で。
だが室井は大人びた溜息を落としただけだった。
それは、爛れていくものを恐れ怯えるだけのものではなかった。
肩に回る室井の腕に両手を翳し、青島は無言になる。
室井が怖がっていたものが何となく伝わってくる。
同時に、一人の男として人を欲している鮮烈な情愛を感じる。
室井の汗顔の告白は、不器用に一人の人間を想う恋に怯える、直向きな男の恋を露わしていた。
「言ったろ?綺麗なものだけを選んだ人間では、何も導けない」
エアコンが効き始めた部屋でも、触れ合っている背中だけが、熱い。
「何で・・・、何で言ってくれなかったんですか」
「いきなり男を抱きたいなんて言われて、おまえ、引くだろう」
「・・・どうだろう・・・・」
「それ目当てと思われるのも違う気がした」
「ああ・・・、まあ・・・」
「君の気持ちに自信が持てなかったんだ。だから君の心が定まるまではと思った。待てる、筈だった」
「俺のこと、試してたんですか」
「少し、違う。でもそうなるのか。君を大事にしたい素振りをしたかった」
「素振りか・・」
「そうでもしないときっと意固地な君は頷かないだろ。それに俺の理性の言い訳だ。・・・それまで一人で頑張ってみようと思ったんだ」
な、なんだよそれ。
結局壮大な勘違いってこと?傍迷惑な擦れ違いということか?
そんな馬鹿な話があるか。こっちは別れまで決意したっていうのに。
結局同じこと考えてたってこと?
言葉を告げず、青島は愕然と固まる。
「カッコ付けていたかった」
くぐもった音で、室井が淡々と暴露するのは低い男の声だ。
「君に呆れられるのも、見限られるのも、怖かった」
年上の寛容をと余裕を見せられ、室井はいつも青島を優しさで包んでくれていた。
キスも幾つもした。でもどこかリードされ手順を踏んだ男の冷静さがあった。
それらはすべて、青島に合わせて追い付くのを待ち、踏み込まずにいれくれていたものであったと、今分かる。
待たせていたのだと知る。
「男の見栄だ。俺は、君に見合う対等な男になりたかったんだ」
追い付いていなかったのは俺の方だ。
室井が何を頑張ろうとしていたのか、ぼんやりと伝わった。
男同士の恋路で、その先に進む覚悟をずっと求められていた。
青島の躊躇いも、戸惑いも、男としての矜持も、全部分かった上で
室井の立場やキャリアを考えるあまり、恋に二の足を踏んでいた青島を、それでもいいから来いと言ってくれていた。
「なんだよそれ・・・」
いつもより必死に言葉を繋げる室井をなんだか可愛く思えてくる。
力を抜いた青島は見えないよう笑みを噛み殺した。
掴んでいる室井の腕を、手持無沙汰の指先が軽く宥めるように擦る。
「俺、キスした」
「・・・・ああ」
「今日会ったばかりの男に、キス、された」
「・・・・ああ」
「いっぱい、キスして、キスされて、きた」
「俺が、そうさせた・・・と自惚れてもいいか」
自信のなさと期待を綯い交ぜにした、心細そうな室井の声に、青島は目を閉じて奥歯を噛み締める。
溢れだしてくるものが、止まらない。
「逃げようと、思った、あんたから・・・」
「逃げていたのは、俺もおんなじだ。こんなにおまえで一杯にされてるのに、躯にまでおまえを覚えさせるのが怖かった」
俺たちが積み上げてきた何かまでめちゃくちゃに壊してしまいそうで。
「教えてやるって言われて、あんたが俺を見ないなら・・・それでもいいかって・・・思った」
「手放せなくなって、こんなにも一人にのめり込むのも初めてで、どうしていいのか分からなくなったんだ」
「前よりあんたが遠くなっちゃって・・」
「・・・・」
噛み合わない会話が反比例して二人の心を近づけていく。
室井の手がきつく回されたまま、しっかりと青島を抱き締めた。
意思を込めたその強さに、感情を乱された不安定な青島の身体がふらりと揺れて引き寄せられる。
「青島。・・・でももう、意地を張るのは終いだ。君をちゃんと手に入れたい」
「・・っ」
「囚われて、囚われて。苦しいのは俺の方だ」
「いいのか・・・」
「だから、あの夜、俺は逃げた。俺が、先に逃げた。君を傷つけると分かってても、そうするしか出来なかった。・・・・すまなかった」
一人の男として愛する室井の強烈な情愛が、音も無く包んでくる。
綺麗な物だけじゃなく、何もかも置き去りにしてしまいそうな室井の無骨な愛情が、救いを求めるような弱さを携えて向かってくる。
恋は、溢れて、受け止めて、その繰り返しで満ちていく。
それでもなんか釈然としないものが鬱屈と燻り、沸々と青島の中で消化できないものが湧いた。
青島は口唇を尖らせ、両手で所在なく室井の腕をちょこんと掴んで、俯いた。
「興味無いのかと思ってた・・・」
「・・・、何で思考がそんな後ろ向きなんだ」
「俺たちの関係でどうテンション上げろっての」
背後で室井が落とす溜息が青島のうなじを撫でる。
「俺、強くない。色々揺れるし、あんたを惑わせてばかりだし・・・、困らせることしか出来ないし。なんか一緒にいる意味あるのかなって・・・思って」
徒然に告白する青島の言葉を、室井は目を瞑り聞き入る。
「だから、カラダ、のことも、さ、これでいいやって・・・、でも、だけど」
「君が嫌がることを無理に遂げることはしない。でももう少し、君は自覚した方が良い」
「・・・・」
「俺は幾らでも待つつもりだった。でももう限界だ。君が俺の想いを疑い去っていくのなら・・・・無理矢理にで
も自分のものにする」
黙っている青島に何かを勘違いしたのか、室井の腕が更に強まる。
疑ってなんかいなかった。
ただ、ちょっと自己完結する男が寂しかっただけだ。
だが、疑っているのなら抱くと言った男に、疑っていないと答えることは、暗に抱かれたくないと答えるも同然な気がした。
答えを封じられ、卑怯だと思う。
「俺、あんたのために身を引こうとまで思ったんですよ」
「・・・だろうな」
「あんた、始末書どころじゃない不祥事になる」
「今更だ。俺のキャリアに始末書がない履歴があったか」
「どうすんの、バレたら」
「その時はその時だ」
「そんな・・・こと、俺が赦すと思う?」
「おまえこそ、俺から逃げることが赦されると思っているのか」
悪びれず、もう開き直って雄の欲望を野晒しにする室井に、青島は胸が詰まって天上を見る。
振り回される。仕事上では矢面に立つ青島の方が室井を翻弄しているように解釈されているが、本当の所、振りまわされているのはこっちだと青島は思う。
「その、つもりで今夜、来た」
とんだ悪魔だ。何一つ諦めてなくて、虎視眈々と時期を狙い、ただひたすら好機を待つ。
最初から結末を決めて狙われていたということか。
逃げ出す隙など、最初からなかった。
恋も性も、室井の全ては青島の上にあり、もう潔く雄の欲望に染められている。
出当たり勝負で運に賭ける青島とは根底から違う。
青春に生きた俺の半生はどうしてくれる。
「俺の純情返せよ」
「知らん」
「さっきの涙も返して欲しいですね」
「知らん」
堂々とした室井は素気ない。
悔しくなって、腹立ちまぎれに、青島は掴んでいた室井の薬指にガリッと歯を立ててやった。
耳元で小さく室井の唸る喉音がする。
「・・ッ、まるで野生の猫だな」
「あんたがいじわるすっからじゃん」
青島の口調に、空気が変わったことを感じる。
室井はそっと青島の髪にキスを落とした。
「がまん・・・させてたんですか」
「男が惚れた相手をどうしたいと思うか、おまえだって分かるだろ」
「俺だったら追いかけて何度も捕まえますけどね」
「気が合ったな。俺ももう、我慢はしたくない」
自分を囲う室井の指先を取る。
さっきの噛み痕が、少し切れて血が滲んでいた。
「俺ね、あんたといられるだけで、幸せだったよ」
「・・・・」
「すごく、すごく、幸せだって思ったんだ」
「もっと幸せにしてやろうか」
室井が青島の耳元に口唇を押し当てる。
「抱いてくれって言わせたいの。それとも抱かせてくれって言って欲しいの」
室井はゆっくりと顔を上げ、腕の力を緩めた。
振り返ることが出来ない青島の肩に手を乗せ、そっと向き合わせる。
目を合わせられない青島の頬を撫ぜ、掛かった髪をそっと梳き上げた。
「俺を、好きだろ?」
「・・・好きですよ」
「早く言えば良かったんだ。俺も君も」
室井はそう言った後、青島の肩を引き寄せて、正面から抱き締めた。
骨が軋むほどの力に、きっと青島は息も出来ないほど苦しいに違いないが、今は構う余裕はなかった。
ただ眼を瞑り、青島の後頭部を掻き寄せ、息を殺す。
少し躊躇ったような気配だった青島がゆっくりと室井の肩に顔を埋めた。
「この時間に帰って来れたんだから抱かれてないよな・・・?勿論奪われたって奪い返すまでだが、おまえはまだ誰のものにもなってないんだよな・・・」
「・・・でも、マスターが止めに来なかったら俺」
「・・・良かった・・・」
「・・そ?」
「君が、傷つかなくて、良かった」
「・・っ」
「おまえはきっと俺を思って後で泣くから。俺のために、泣くから」
「まぁた、そんなばか、なこと、いう・・・」
「俺の望みは最初から一つだけだ。おまえが、変わらず俺の傍にいてくれることだ」
「・・・・・」
「この瞳に映るのは、生涯俺だけでありたい」
しっかりと室井が宣言する。
室井のその声が青島の中に染み入ってくる。
頑なだった青島の心が溶けていく。
温かい腕の感触と、自分とは違う体温、そして良く知っている整髪料の微かな匂いに、青島は視線を彷徨わせた後、目頭を摘んだ。
戻れたことに、不覚にも感動しそうだった。
急速に込み上げてくる理由の分からない情動に、青島はいっそ、羞恥も矜持も思い切りよく捨て
ずっと言いたかったことを言葉にする。
「そばに・・・いるよ。ずっといる・・・」
いさせて・・・。そう呟くと室井が堪え入るような息を漏らした。
「君が欲しい。二度と離れていかないでくれ」
「・・・怒った?」
「自由と無関心は紙一重だった。寂しい思いをさせたか」
うん、と小さく頷き、青島も室井の首に手を回す。
室井もまた柔らかく青島の腰に回している手の力を強めた。
身体も心もぴったりと密着する。
欲しがってくれたことが、単純に嬉しい。
ほっとしたという言い方の方が正しいかもしれなかった。
このひとに全てを賭けてみようと直感した、約束の日が脳裏に過ぎった。
「あんたしか、見えてない・・・」
エアコンの音と、今夜も夏の虫が鳴声が静かに聞こえる。
抱き締め合う温もりと、腕にフィットする躯の感触が、心地良く目を閉じた。
「ごめんな」
室井が優しく青島の頬にキスをする。
求めてはいけないものだと思っていた。
そんなこと、赦されない。室井も望んでくれるなら尚更自分がしっかりとしなければと思っていた。
でも、できるなら、たったひとつ欲しいものがあった。一度だけでいいから満たされたかった。
今、全てを捨てて天に祈りを捧げる。
満たされたなら、きっと、その先は何があっても頑張れるだろう。だから、その、一欠片の勇気を、どうか。
〝綺麗な物だけを選んだ人間では掴めない〟
室井の言葉の意味を悟る。
ずっと足りなかったものが何なのか、ようやく掴んだ気がした。
一欠片の勇気で人は満ちていく。
それは、室井にしか、できないことだ。
そして、それはきっと室井も同じなのだ。
きゅっと青島は室井の首にしがみ付く。
「俺、ばかだ・・・あんたの覚悟、何も分かってなかった・・・」
応えるように室井もまた腰に回した片手で強く引き寄せた。
一夜の過ちで、室井の将来を堕とすわけにはいかない。
それでも。
神様、たった、一度だけ。一度でいいから。
もっと先まで欲しい。
すべてで満たされたい。
そんな些細な願いでも、自分たちは責められてしまうんだろうか。
満ちた先に何があるかも分からないままに、俺たちは底の底まで満たされる十字架を選ぶ。
愛を囁いた時から、きっと、その時限は動き出していた。
俺には壊せない。
重すぎて。
多すぎて。
「抱く?」
「抱きたいか?」
それでも手を伸ばす罪深さに、青島はそっと瞳を閉じた。
すっかりしおらしくなった青島が身体の強張りを解き、コテンと額を室井の肩に押し当てる。
満ち足りた心と濃密に交わる予感に、室井は青島の髪を掻き回す。
それが促しとなり、青島が小さく口を開いた。
「あんたが・・・・壊せよ・・・」
返事は甘く深い口付けだった。
4.
ベッドに二つの身体が倒れ込む。
「怖いか」
「・・・・んん」
「困ってるか?」
「・・・・んん」
灯りを落とした紺のグラデーションは大気に青蘭の波紋を描く。
ゴロゴロと地を這う音が天から聞こえ、急速に暑い夏夜の湿度が上がった。
あれほど途切れなかった虫の音も、今は聞こえない。
さわさわと身体を弄られていく。
柔らかく壊れるものを扱うような室井の繊細な指先は泣きたくなる感触で青島に甘い痺れを与えた。
触れ合った直後から馴染んだ恋人のように動く薄い口唇に身体を震わせ、青島は彷徨う手を行き所を失う。
ぱたりとシーツに落ちた手の平に、室井が手の平を合わせて柔らかく握り締めた。
色を変えていく。これは、破滅の扉ではない。
二人で導く未来の形が深みを帯びた結実として形を再構築していくのだと思った。
「青島」
優しく名を呼ばれて視線を上げれば、また口唇が重なった。
「ん・・・っ、」
喉元に室井の指がかかり、高級リボンを解くように恭しくネクタイが外される。
するりと解かれる衣擦れの音が嫌になるほどいやらしく聞こえた。
室井の指が肌に触れる。
「・・・っ」
室井の綺麗な指が首筋をわずかに掠めただけで、吐息が漏れた。
「ぁ・・っ、ん、ね、あんたこそ、オトコ抱いたこと・・・?」
「ある訳ないだろ」
開いたシャツの隙間から、室井の舌が待ち切れないように鎖骨をゾロリと舐め回す。
「おまえじゃあるまいし」
「う。べっつにおれは・・・っ、・・・キス、しただけだもん」
「充分だ」
キスが濡れた音を立てる。
「・・・何でそう思った」
「だって・・・なんか慣れてっし・・・その、官僚だし」
「キャリアは関係ない」
「情報収集とか、実践とか、してんのかとか」
「するか」
首筋をつつ・・となぞる指先に、青島が身体を震わせる。
耳鳴りがするほどに鎮まり返った部屋が、緊張と熱を煽り、痛みすら覚えさせる。
「他の男になんか興味無い」
「いやじゃ・・・ない?」
「なにが」
「その、おとこに触るなんて」
「触りたくなかったら押し倒さない」
「でも。だってその――できんの?」
「勃起するかということか。ココが・・」
「う、うん」
「ほんと可愛いなおまえ」
「また馬鹿にして。すぐコドモ扱いすん――」
「もう黙ってろ」
上から熱く口唇を重ねられる。
深く、注ぎ込む様な性愛のキスが怯むことなく重ねられてくる。
舌先が奥深くまでを堪能し、上顎を淫らに刺激する。
呑み込むように吸いだされた舌は重ね合わされどんどん呑み込まれる。
いつもの室井らしくない。食べられているみたいだ。
室井のキスはいつももっと、紳士的だった。
ワイシャツのボタンまですっかり取り外された肌に室井がじかに触れた。
ぴくんとなる。
ぴちゃりと音を上げ、室井の舌に舌を絡めとられ、強く吸われる。彼の指先が耳朶を弄び、首筋をスッとなぞれば、それは紛れもなく男の欲情だった。
愛おしそうに青島に振れる指先は、淫蕩な熱を伝えるキスとは違い、とてもピュアだ。
胸の尖りを指先に捕えられながら、口腔内を隈なく犯される。
気恥ずかしさと、むず痒いような、じれったいような、落ち付かない感覚にされ、青島は片方の膝を立てれば、シーツが弛む。
余裕の無さは室井を一人の男として、野生の色に染め上げていく。
ただ独り、たった一度だけ欲しかったものがここにあって、解かれて夜に開いていくことに、青島には腰が砕けるほど痺れが訪れる。
「んっ、・・・なんか・・・・室井さんじゃない、みたいだ・・・・」
流し眼で、黙ったまま室井が己のネクタイの結び目に人差し指を掛けた。
喉を反らしてグイッと引く。
そのままワイシャツの第一ボタンに手が掛かる。
そこにそっと青島は手を重ねた。
「・・・・」
室井も手を止める。
じっと視線が交差した。
言葉はもうどちらも発しない。
微かに室井が目を眇め、手を緩めるとまた口唇を重ねた。
目を閉じてキスを受け入れながら、青島の手が室井のワイシャツとベストのボタンを外していく。
その間に室井は自分のベルトに手を掛け、スラックスのチャックを下ろし、下着と共に取り払う。
スーツの下の男をずっと見て見たかった。
肌の手触りを、違う体温を、その匂いを、知ってみたかった。
鋼鉄な鎧の奥に隠しているものを剥ぎ、官僚を脱いだ男を晒して欲しかった。
飲み込みきれずに溢れた光の筋を、室井の舌先が追う。
一度、唾液を吸い上げるように青島の口唇に吸い付くと、室井は上半身を起こした。
馬乗りの状態で、強い視線で青島を射抜き、室井は見せ付けるようにワイシャツに手を掛ける。
ベストごと、一気に脱ぎ去った。
厚い胸板が銀色に浮かぶ。
脱いだスーツをベッドの下に投げ下ろすと、先に全裸となった室井の肉体に、青島の目は釘付けになった。
少し汗ばんだ肌はブロンズに光り、見降ろす漆黒の瞳がどこまでも黒々と闇を広げていく。
描く輪郭は端正に鍛え上げられた男の筋肉。
逞しいが繊細なラインの胸板。そこに尖る二つの突起。見事な腰へとカーブを描く下肢のくびれ。
男がベッドで服を脱ぐと言うことがどういう意味を持つか、青島は嫌という程目の当たりにする。
それが、自分が敬愛する上司ともなれば。
そんな高尚な男に、自分はこれから嬲られる。
ざわりとした胸騒ぎが煩いほど高鳴った。
言葉も発せず固まってしまった青島を、室井もまた無表情で上から射抜いた。
逃がす気はない。
全裸の室井が静かに覆い被さっていく。
「・・ぁ・・」
返事より早く、室井の穏やかな手が、青島の肩からボディラインをなぞり降りた。
純情なだけじゃ、いられない。
綺麗なだけでは届かない。
青島はぎゅっと堅く眼を瞑る。
仰け反った首筋に室井が濡れた舌を辿らせる。
青島の肌がふるりと震えた。
ピカッと空に閃光が光り、稲妻が走る。
ほぼ同時に、隣家のトタン屋根を叩く雨粒の音が鳴り出し、間髪入れずにコンクリートを打ち付けるホワイトノイズに変わった。
外はバケツをひっくり返したようなスコールとなる。
湿度を上げた室内で二つの裸体が紫の海に揺蕩う。
ベッドを軋ませる音も、群れた水音も、熱を孕む息遣いも、みんな轟音を奏でる激しいスコールに消えていく。
刻みつけるように、室井はキスを重ね、手早く青島のスラックスをトランクスも合わせて半分擦り下ろす。
美しく表れた瑞々しい肢体に、室井は身体を絡ませた。
激しいキスに縋るように抱きついてきた青島の腕を撫ぜながら、室井の口唇が青島の耳元を辿り、湿った吐息が柔らかな髪に埋もれる。
「この口唇に触れた男がいるなんて、許しがたい」
「はは」
「二度と他の男とキスなんかするんじゃない。ここで誓え」
「・・じゃ、よそ見させんなよ・・」
青島の髪を指先で玩びながら、室井が頬に口唇を滑らせ声を落とし囁けば、辿り降りた青島の肌には幾つも汗が浮かぶ。
「誰も彼も誘いやがって」
「誘ったわけじゃ」
「どっちにしても面白くない」
この甘く豊潤な弾力を他にも知っている男がいるなど、室井には耐え難い苦痛だ。
本当はずっと不愉快な感覚が室井の中で渦巻いていた。
室井の中の獣が牙を剥く。
「二度とするな」
震える肌を知られたくなくて、青島が身を捩る。
高圧的な言葉で縛ってくるのも初めてだったが、室井がこんな動きをするのも、想定外だ。
神聖で高貴な指先が、淫乱に動いて官能を引き出される。こんなに男の指って器用だったっけ?
見知らぬ男に触れられた感触とは、まるで違う。
「これ、おしおきなの?」
悔し紛れに憎まれ口を零してみれば、闇の中で室井の漆黒に光る瞳が激しい熱を乗せていた。
その質問には答えない室井が、青島のスラックスの中途半端な隙間から敏感に震えている内股を撫であげる。
「・・っ・・ん・・・っ」
「ここに俺の名前でも彫ってやろうか」
反射的に青島の息が思わず肺からせり上がった。
その反動で仰け反った青島の喉仏を室井が空かさず吸い上げる。
「・・ッ・・!」
強めに吸いついた肌は、痛みと、仄かな赤みを帯びて闇に咲いた。
喉を反らし、青島の髪がふわりと後ろに流れる。
灼けるようにジンジンと肌が疼き、一方的な嫉妬を衒いなく見せる室井に、青島はどうして良いか分からなくなる。
不安なままに見上げれば、闇の中、思った以上に真剣な闇色の瞳が見降ろしていた。
ゾクリとした。
思えば、いつも室井にはこういう視線を向けられていた。
これまでの幾多のシーンが重なる。
いつだって室井の視線の先には青島が居て、獣のように青島だけを瞳に捕えていた。
「や、・・・っぱり、怒ってたんだ?」
激しいスコールは、他に何も聞こえさせない。
外の世界と完全に遮断された空間は、異様な室井の眼の輝きを闇に光らせた。
言葉を次げず、青島はただ戸惑いの視線を送る。
なんか、逃げ場がない。
性のヴェールを発し、狂気じみた執着で強淫に誘う男は、鮮やかに精悍だった。
明らかに普段の室井とは別の顔を見せている室井に、余裕の無さが見て取れ、青島を恐怖に近い畏怖で慄かせる。
濡れた息を落として両脇に肘を付き、室井が覆い被さる。
額を寄せ、吐息さえ混じり合う距離で、室井が堪え入るような眼をする。
「・・・俺のものにしてやりたい」
「・・・欲しいなら、奪えばいいだろ、俺のこと」
叩きつけるスコールの喧騒に、掠れたように返した言葉は掻き消される。
室井がすっと手を伸ばし、ベッド下に放り投げたままの黒鞄から、チューブを取り出した。
ゼリー状のローションがとろりと指先に垂れて妖しく光る。
「・・ぁ、それ・・・」
「ここへ来る前に調達した。・・・言ったろう、他の男に奪われるなら、強引にでも俺のものにするつもりだった」
「本気、だったんですね」
「一度切りでもと思った・・・。一度だけでもおまえが欲しかった・・・。呆れるか」
胸が詰まって、青島はただ黙って首を振る。
言葉を零したら、別のものまで零れそうで、口唇を噛み締める。
違わない。同じことを言う相手に胸が軋む。
「室井さんは、俺のもの・・・?」
「全部、おまえのものだ。おまえは俺のだ、最初っから。・・・他には何もいらない」
「・・俺も」
「もう遠慮はしなくていいんだよな?」
応えずただ見上げる青島の膝を室井がゆっくりと左右に割り、青島は成すがままに恥部を晒した。
そのまま左脚だけ室井は肩に翳す。
あまりの恥ずかしさに、青島は口唇を噛んで顔を逸らすが、躊躇いなく室井の指が青島の内股を撫ぜ上げ、その終点に手を伸ばす。
後庭の襞を確かめるように室井の指先が触れ、そっと円を描く。
室井と、ついにそういうことをするのだと思った。
青島を凌駕しようとする室井に、奪われていく。
じっと眼を見つめられ、ゆっくりと、室井の指が一本、後庭に挿入した。
たっぷりと濡れた指は思ったよりも太く、その存在感に息を止める。
もう、引き返せない。
引き返したくない。
眼の端に映る、掲げられた脚が自分のものなのにいやらしく映る。
強張った躯に室井が気が付き、そっと太股にキスを落とされた。
強めに吸いついたそれは、紅く闇夜に咲いた。
「・・ッ」
指が出ていきかけて、また入ってくる。それを繰り返し、室井の指は青島の中をゆっくりと暴いていく。
灼けるような感触に、青島は浅く息を殺した。
薄く口を咬めば、それを覆い被さってきた室井の舌が舐めとった。
その舌の熱さに、青島がびくりと震える。
薄く眼を開ければ、室井が強い眼差しで青島を捕えていた。
「後のことは俺に任せろ」
「・・、・・は・・っ、・・お、れ・・っ」
「任せてくれ。恋人として、おまえ一人護るくらい、そのくらいの甲斐性をさせてくれ」
男の真っ黒な瞳だけがこちらを見ていた。
身体を重ねたことで、いずれ背負う罪を室井は先回りして先制しているのだと分かる。
「好きなんだろう?俺に触られたいんだろう?」
「・・・っ、い、じわるだ・・っ」
「苛めたくなるんだ」
「何で・・・ここで、微妙な気分にさせんの」
「愛しているからだ」
「・・ぇ、・・ぅ、・・くそぅ・・・、ここでか。・・・ほんっとあんたって」
暗闇でも分かるほど真っ赤になった青島が、視線を彷徨わせて、動揺する。
やがて、体裁が整ったのか、伺うように下から見上げ、青島が軽く首を軽く傾げる。
良く見るその仕草に、ふっと室井の力が抜ける。
「・・・待たせた」
必死に青島が首を振る。
幾らだって待てる。青島が待ちたかっただけだ。
きっと離れるチャンスを室井に与えた。
それを留めることは青島には出来ないし、その方が健全だ。
だけど、室井は青島から離れなかった。
きっと、俺たちは足りないものを補うために、いつか必ずこの相手を選ぶ。
今更綺麗事を言ったって始まらないことを悟った。
自分の未来を自分で決めて、人は大人になっていく。
そうやって選んだ先を相手も選んでくれたら、それってどんな幸せだろう。
重い息を落としながら、室井が青島の汗に濡れた前髪を愛おしそうに掻きあげた。
直向きに見上げる青島の瞳に、星屑が散りばめられ、透明な夜に溶け込み、そこには純潔しかなかった。
「ちゃんと、好きだから」
「・・ッ」
「君が、ちゃんと、好きだから」
息が止まる。
だったらもう、好きなだけ貪ってほしい。
熱で掠れる室井の声に、青島の身体が芯から疼いた。
淫らに収縮する内襞が、それを室井に伝えているだろう。
室井の不器用な愛し方が沁みてくる。朴訥だからこそ、愛おしい。
残酷で蕩ける鎖に呼吸すらままならず、青島は喘ぐように上を向く。
もう嘘は吐かない。吐かなくていい。もっと強い熱が内側から湧き、最後まで走りきってみせる。
だから今は、身も心も溺れ切って、爛れるまでに壊されて、何もかも分からないくらい蕩けて溶かしてほしい。
求めるままに貪って欲しい。
青島は求めるままに、室井の背中を掻き抱く。
夏木の言葉が不意に脳裏に蘇った。
〝アンタは相手のリードで溺れて愛を知る〟
悔しいほどに、その通りだと思えた。
スコールで遮断された外界は遠く、誰にも気付かれない。
今、世界は二人だけだった。
開いていた内股の力を抜き、青島は室井に身体を委ねた。
雨の音も聞こえなくなって、エアコンの音も聞こえなくて、尚汗ばむ肌を合わせ、熱るままに吐息を重ねる。
奪われて、満たされて、身体を熱らせる熱が同じになって
ふたつの影は茹だるような夏の暑さに溶けあっていった。
夏の嵐が激しく窓を叩く。
でもそれは、溶けあっていく二人には意味がなく、届かず、ようやく辿り着いた誰より大切な片割れの肌の熱さを同じ強さでただ抱き締めた。
happy end

浮気話を書いたつもりが、終わってみれば立派なお初話に。
20160803