馴れ初めのようで馴れ初めですらない、バレンタインのお話です。
時間軸は未定。かなり若いイメージです。山場もなくダラダラと口喧嘩して付かず離れず、ぼんやり終わる、それ自体が甘味料のお話。
登場人物は室井さんと青島くん。友達以上恋人未満な仲良し無自覚ばかっぷるに砂吐いてください。







チョコレート前奏曲





1.
「それで引き下がってきちゃったんですか?・・だっさ」
「あの状況では不利だ。無駄な挑発はリスクが怖い」
「リスク?たかが口論に?」
「キャリアの議論とおまえの口喧嘩を一緒にするな」
「んなこと言って。だから舐められるって、分かってんでしょ?」
「舐められて、・・・るのか?」
「無自覚?」

くりっとして澄んだ虹彩に詰まりながらも、室井は拙い口を動かした。

「・・おまえならどうした」
「はったりでいいから言い返すべきだったんですよ・・!」

こりゃだめだ、といわんばかりの青島の顔が、離れていき、両手を掲げる。
額を突き合わせるようにして話し込んでいた態勢に、室井だけが取り残され、渋い苦みを飲み込んだ。
情けないんだか悔しいんだか、判然としない感情は最早馴染みの感覚となって室井の中に流れ込む。
なんとも旨そうな赤い口唇に滴る酒を舐め、興味を失ったとばかりに青島が身軽に腰を上げた。

「帰るのか?」
「そうね。明日早いですし」
「・・・体力勝負だな」
「そうですよ?事件は待ったなしです」
「今夜はありがとう、君も変わり者だな・・」
こんなつまらない男の愚痴酒に付き合うなんて。

その言葉を室井は寸でのところで止めた。
付き合ってくれた青島に悪い気がしたからだ。
そんな室井に、青島は玄関先まで来た足を止め、何もかも見透かしたような意味深な笑みで、にやりと口端を持ち上げて見せた。

「うだつの上がらない男の憂さ晴らしに付き合っててもね。今度はもう少しましなネタ。用意しておいてくださいね」

靴を履き終えた青島が、口唇を尖らせ、人差し指を振ってみせる。
“今度”が、あるのか。青島の中でも。
小さく室井が頷き返すと、お道化るように敬礼をし、青島は扉の向こうへと消えた。

――癖になる男だ。
こうして青島と自宅で膝を突き合わせ一献設ける機会は、最近格段に増えた。

ずっと疎遠だったのにも関わらず、顔を合わせれば、まるで離れていた時間が嘘のように、俺たちは距離感を見失う。
気紛れに実行した酒は頻繁ではないが今も連綿と続いていた。
部下でも最早ない。友人ですらない。
何故青島は、こんな身にもならない酒に付き合ってくれるのだろう。

閉ざされて、物音一つしない硬質な扉を、室井の虹彩はただじっと映しこんだ。
たった今消えていった男の残像がまさしくそこに生々しく焼き付いているように。







2.
「もっとさぁ、確実路線ないんすか」

キャリアに言いたい放題なとこも、青島だ。

「確実路線とはなんだ」
「なんでさぁ、キャリアの人たちって派閥とか出身に拘るんですかね?」
「自由度が違うからだろう」
「タヌキ揃いのお偉方に理想持ってるようじゃ、国家警備も危ういや」

スーパーのビニール袋が、歩みに合わせてがしゃがしゃと鳴く。
青島が頭の後ろで組んだ手に持ったビニール袋には、二人で買い込んだ食材が無造作に詰め込まれ、飛び出した大根が落ちそうに揺れていた。

今日、偶然事件現場で鉢合わせた青島は、規制線を張った向こう側で無関心を装いながらすらりとした長い背中を向けていた。
室井が近づくと、バリケードテープを片手で持ち上げてくれる。
やはり。
その背中が室井に意識を集中している気がする。
一瞬、目が合った。
少しだけ、色合いを変えた気がするのは、多分、もう、気のせいじゃない。
室井は堂々と「後で電話する」と言い残し、その場を去った。

「反抗心は同族嫌悪の表れじゃないか?」
「・・・言いましたね」
「言った」
「って、ああっ!!!」
「どうした」
「今通った子オッパイでっかい!」
「・・・・・・・・・チッ」
「・・・、室井さんって俺にだけは態度悪いっすね」

君の反応が楽しいからな。
そう思うが賢明な室井は口にしない。

「にしても、じれったいハナシですねぇ」
「君にしてみればそうかもしれないが、これがここのやり方だ」
「そうやってまだ、失うものを数えていくつもり?」
「出世も主張も周りを出し抜いていくことだからだ・・裏切りもあるだろ」
「ビビる?」
「それに慣れることか?それとも信じた筈の炯眼が無能なことか?」
「何に戦ってんでしょうね・・みなさんは」
「俺はおまえのそこにある最後の一線ってやつに撃ち抜かれた。だから些細なことはどうでもいい」

スッと二人の間の空気に覚醒が走った。
・・・口が滑った。
丁度官舎への角に差し掛かったところだったので、前方を警戒するふりをして、室井は話を終わらせる。
本音が零れたことも、一人称を間違えたことも、普段の室井には有り得ない失態だ。
青島の前ではいつも調子を狂わされるが、それでも譲れない一線というものが、室井の中にもあった。

今のこの関係を失いたくない。

一瞬戸惑った顔をされた気もしたが、青島の気配もまた背後へと警戒を放った。
そこからは口数も少なく足早に室井の部屋を目指す。

――上は所轄と懇意にすることにいい顔はしない。
どう告げ口されるか分からないし、かつて警察を騒がせ混乱に陥れた室井と青島という規定概念を利用されても面倒なので
室井がこうして官舎へ呼ぶときは、人目を憚るように「逢引き」をした。
その奇妙な距離感を、室井も青島も、壊れ物を触るかのように過敏に触れずにいる。
見失った距離感に迷子となったまま。


「んで?いいんですかそれで。室井さんも」

部屋へ入るなり、また、まるで我が家のように勝手知ったる手付きで、青島は室井宅の冷蔵庫に買ってきたものを入れ始めた。
腕まくりして場所取りに唸るその背中に、室井は柔らかい目を向けながらスーツを脱ぎ、ネクタイを解く。
ハンガーを取り、散らかした青島のコートも隣へ片付ける。

「他にやりようはないな、今の時点では」
「こりゃ今度も負け戦だな」
「何故決めつける・・」
「役人に正論述べたってだめですよ。利得と損益をバランスよく出し惜しみして、相手を誘導しなきゃ」
「誘導。・・・できるものなのか?」
「奴らの重い腰が理想論で動くかよ。選ばせるんですよ奴らに!それで向こうの無駄に高いプライドは満たされる。・・こちらの狙いどおりにね」

今晩は青椒肉絲だ。
タケノコの代用となるジャガイモの皮を剥きだす青島の隣に立ち、室井はパプリカと牛肉を用意した。
二人並んでキッチンに立つ時間すら、いつしか馴染みの光景だ。
キッチンサイドには、青島と一緒に買ったマグカップやら、専用の箸などまであったりする。
準備段階からビールを始めるのが暗黙の了解だ。
プルトップを引いてまな板の横に置いてやれば、青島は目を輝かせて覗き込んだ。

「そんなに魅力的なカードは揃えられるものじゃない。時間的ロスも計算に入れろ」
「んじゃもーそこもハッタリで行きますか」
「君の人生の破綻っぷりの方が心配になってきた。よくその程度の根拠でキャリアに大口叩けたな」
「へぇ?それ見破れる人間、いるんですか」

青島の挑発的な瞳が更に明度を増せば、この色が好きなんだと室井はいつも思う。
くるんとした胡桃色の艶が愛らしく、4つ年下にすら見えない。
中華鍋を持ったまま気取る青島に、室井は表情を崩さず半眼を寄せた。

「おまえな、少し官僚を馬鹿にし過ぎだぞ。キャリアもそこまで虚けじゃない」
「どうだか。結局は自己保身の連中でしょ」

火を点け、食材を入れる青島の手付きは、危なっかしい。
室井は背後から青島の腰に手を回し、エプロンを付けてやる。

繰り返される青島からの盛大なダメ出しに顔を顰めながらも、室井は無口だった筈の自分を内心嘲笑していた。
言葉の取捨選択をし、必要なことだけを口に乗せるのがキャリアのやり方だ。
元来自分はおしゃべりな方ですらない。
なのに、青島との会話は引き摺られる。
つい、世話を焼いてしまうし、こんな風にぽんぽんと知らない自分が溢れてくる。
煽られて、感情を乗せたことすらある。――さっきだって。

危険な香りさえするこの空間に、それでももっとと強請る中毒性はどこから来るのだろう。
いい歳をして出来た友人というにはあまりに枠からはみ出ていて、その奥に潜む黒々とした感情に気付いていないつもりもない。
呪縛のように室井に纏わりつくそれを、今となっては不思議な気分で室井は頭を捻る。

遠慮ない物言いは、キャリア連中には望めない。
自分を取り巻く黒い集団とは、明らかに違う。
誰も青島とは比較にならない。
でも、それに気付いているのは、意識しているのは、多分室井だけなんだろう。

室井は二本目のビールを開けながら、青椒肉絲の材料を乱暴に掻き混ぜる青島を眺め見た。
中華鍋に挑戦的な目を向ける横顔は、既に室井は眼中にない。

本当に不思議な男だ。
ワイシャツをまくり上げた腕は長く、エプロンの裾から伸びる足は細長い。
だらしなく開けられた襟口からは生肌が覗き、長い首が美しいラインを描く。
うなじに掛かる癖っ毛は淡く、柔らかく、それは朝になるともっとぐしゃぐしゃになるのを、室井は知っている。
何度か青島をここへ泊まらせたこともあるからだ。
青島は眠る時、毛布や上掛けをすっぽりと被ってしまう。

「なに」

ちゃんとやってるよ、と頬を膨らませる青島に、料理の心配なんかしていなかった室井は一瞬呆け、それから俯き、目を伏せた。
あからさまな視線は、明け透けに青島を更にと見定めてしまうらしい。
以前も一度、注意された。本人に。
尤も、それよりも恐れるのは、室井の中に巣食う不安に浅ましい本音を、相手にまで覚らせてしまう恐怖の方だ。

「考えてみると私は・・・君のことをなにも知らないな、と」
「なに、とつぜん」
「意見の根幹がまるで違うなと思っただけだ」
「・・あぁ、それね。まぁ、それは、おれもです」

何度もそれらを途中で遮り、はぐらかし、ありきたりな挨拶と常識的で健全な話題で終わらせてしまっていた。
じっくりと話しこむと、青島は話題豊富で室井を飽きさせない。巧みな話術も心地好かった。
同時に、この男に見合う自分になりたいと、室井を強く凌駕する。
喪失の恐怖に足が竦む。
信じてくれた、賭けてくれた。あの日の約束は枷などではなく、むしろ室井の逃げ場となっている。
傷つけても、突き放しても、命の危険にあっても、青島は室井の前にいた。

一方で青島は、一にも二にも仕事といった様子で酒を飲んでもプライベートの話はあまりしない。
知りたいと思っている室井の心の問題というよりは、知りたいと思ってもいいのか、強欲な後ろめたさと、青島の気持ちが読み取れない恐さがあった。
だから、次の手が竦んでしまう。

「知りたいの?」
「そう言ったら」
「♬逢う時はいつも他人のわたし~♬って唄、なかったですか?」

驚きとも喜びとも捕らえられる不思議な色をした淡い瞳が、室井を高飛車に振り返る。
ジャーッという炒める音に紛れ、艶めいた前髪が湯気で濡れ、ほんの少し汗ばんだ肌が上質な香りを秘めて、室井の視線まで釘付けた。
本当に、逢う度に違う顔を見せられる。

「・・っと、キャリアに興味を持たれるほど何かした覚えはないですね、最近は」

察しが良いのか悪いのか、どこか見当違いの言葉を残して、青島の視線が鍋へと戻る。

あの時――湾岸署で、自分たちは確かに同じ時間同じ場所にいた。
それが今も室井の中ではこんなにも極彩色で、こんなにも眩んで、克明に焼き付き、囚われている。
きっとそれは室井だけじゃない。
地方に飛ばされ、青島との接点を奪われた今も上層部は、室井と青島を一つの危険分子として警戒を仄めかしていた。
その真意は恐らく室井にあるのではなく、青島の持つ天性の勘、いうなれば商才ともいうべき何かを恐れ
その火付け役が室井にあると思っている。
滑稽な話だった。
そんな風に意識されるほど、青島は室井に興味をもってはくれない。

「火加減、このくらいでいい?」
「充分だ」

それでも、あの頃の誇らしさは、室井に青臭い情熱を思い起こさせた。
共鳴した熱い眼差しも、すれ違った抉る冷たさも、青島の命を天秤にかけてしまった愚かさも
狂おしいほど室井を身体の裡から爛れさせ、虜にさせている。
青島が仕事自体に面白みを感じ、今は充実を覚えているのだとしたら、室井は青島の存在にこそ満たされ、蕩けさせられたと言える。
傲慢を撃ち抜かれ、今の室井はあの頃の青島だけを尚も求め、距離感も見失って、自分だけがあの時代の夢の廃屋に閉ざされたままだ。

「で?」
「?」
「難しいカオ。何考えました?またなんか勘違いしてない?」
「何が分かる」
「終わったことは流していくのがマナーですよ」
「忘れたくても忘れさせてくれないこともある」

青島といると、何だか分からない感情がたくさんたくさん、溢れて室井を息苦しくさせた。
酸素を欲するままにビールを喉奥に流し込めば、アルコールの熱と炭酸の刺激はまるでこの関係の焦燥のように
ジクジクと胸の奥を焼く。
雑な飲み方に、一瞬だけ青島の視線が室井を通り過ぎる。

だから、こういうところだ。
こういうところが、青島の他者を捨てきれない弱さであり、室井に付け込ませる隙なのだ。
カンチガイ、させているのは、青島の方だと室井は思う。

「過ぎたことを引き摺る人間っていますよね~。未来は過去の延長じゃないのにさ」
「変わらないことにもまた、意味があるんだろう」
「室井さんも、あんなの、目指したかった・・・?」

どこか縋るように問う声は遠く、室井はまた言葉を間違えた気がして思わず顔を向けた。
その視線も中華鍋に向けられ、青島の真意は悟らせない。

青島はそのまま出来上がった青椒肉絲を、青い皿にガツガツと盛り付けていく。
じっと見つめていると、青島の方が焦れて、一瞬だけ視線を向けた。
見つめ合えば、肝心なことは何一つ伝わらないのに、何かを掴んだ青島の視線は室井の胸に変な痛みを残した。

「違うよね?」

祈るような言葉の儚さが、室井をしんみりと満たしていく。

台所で立ち飲みに入った室井の様子を感じ取った青島が、箸を室井に投げ寄越す。
先に食えということなのだろう。
・・・ようやく真正面から合った視線は、どこか不安定で幼く無防備だった。
青島の優しさは室井にとっては毒のようでほろ苦い。

「だったらどうする」

火を使っているからなのか、アルコールを入れているからなのか、さっきの余韻が後を引いているのか。
一人だけ置き去りにされた子供のような気分にさせられ、室井の返事は少し意地悪なものとなった。
その答えもまた望むものではなかったのか、青島は小さく口端を歪ませただけだった。

青い皿の出来立ての青椒肉絲を青島は室井の前へと押し退け、上目づかいで室井を確かめてくる。
先に味見をしてやるのがいつもの流れだ。

「旨い」
「よっしゃ」

コリコリと、室井が咀嚼する音が換気扇の音に混じり合い、また新たにジャガイモを鍋に投げ入れた激しい音が、二人の会話を閉ざす。

「はっきりさせないのは、オトナなのかね」
「君も。なにか誤魔化したいことでもあるのか・・?」

どうだかねと口を苦す青島の顔は、少し婀娜っぽく刹那そうに映り込んだ。
ほら、またはぐらかされた。
曖昧な会話はどちらが好むというわけでもないのに、意味深な気配を潜ませる室井に、青島も器用に受け流せる。
鮮明にしない、したくない。
この距離感は熱く共鳴したあの頃とは真逆なのに、共通認識が一種の共犯者として、まるでお互い都合の良い言い訳を用意しているようだっ た。

炒めたスープを少しだけ掬い、青島が紅い舌を覗かせる。ん?と柳眉が下がった。

「ちょっと薄かった・・・?」

呟くまま首を傾げるその腕を引き、室井は黙ったまま青島の手ごと、スプーンを自分の口許へと運んだ。
青島のスプーンを舐めとる。

「塩じゃないな、胡椒をもう少し」

低く唸れば、青島の手がそれに従う。

「誤魔化すってゆーか、知るのがコワイってーかね。そういうのはありますよ」
「意外だな」
「そ?自信がないだけかもね」
「君が?」

そうは見えない男の気弱な台詞に、どこか親和感を持ち、室井は少しだけ気配を緩めた。
男の哀愁は、しかしやはり、男にしか伝わらない。

「そっちはどーせ平たい人間とハグくらいの付き合いでしょ」
「・・・胸も尻もあった」
「だーれがサイズを言ってますかっ」
「人付き合いの広狭は人それぞれだ」

なにがあったかは分からない。青島は室井に多くを語らないから、掴めない。
だから室井はただ、少し話をずらしてやるぐらいしか出来ない。

行儀悪く立ち食いのまま、ビール缶を口に挟み、青島が着々と鍋をふる。
トマトと春菊の中華サラダと、ジャガイモの残りでローストポテトまで作り上げた青島がその皿を持ったままキッチンに胡坐を掻いた。
どうやらここでこのまま食べる気だ。

もう一本ずつビールを冷蔵庫から取り出すと、手に持ったビールを見比べて、迷った末、室井も座り込む。
青島がいるときは青島に合わせたい。

「むおいさん、ひつは、へれは?」
「食べながらしゃべるな」
「んんーっ、うまいっ、俺、天才・・?自分のさいのーがコワイねぇ」
「・・・言ってろ」
「ね、今度、あれ、この間のやつ。また作ってくださいよ」
「そう言って私もまた絆される・・・君は結局男も女も落とすんだ都合よく」

不本意だと大袈裟に息を落としたが、青島には届かないらしい。
素知らぬ顔でご満悦に大口を開けている。
ぱくぱくと、威勢よく皿から消えていく食べ物は見ていてとても気持ちが良い。
ビールの炭酸が琥珀色に弾け、室井の食欲もそそった。

食事は室井にとって健全な肉体を得るための栄養摂取に過ぎなかったのに、こうも獣欲に近い欲求を思い出させたのも、青島との食事だった。
青島はエネルギーの塊だと室井は思う。
眩しくて、鮮烈で、誰をも引き込む癖に、光と同じで誰にも捕まえられない。そして気付いた時には恐らく。――消えている。
その時自分はどうするつもりなんだろう。
どこかそんな手遅れの危うさを残す男に囚われた者は、その愚かさを受け入れ、独り一生を闇の中で過ごすしかないのだろうか。

「やってられるか・・・」

気安く強請られ、そんな感覚すら、むず痒く思った室井は、ただ気まずそうに口の中で悪態を吐いた。

野菜スティックに付ける和え物を忘れたことに気付き、青島が背後の冷蔵庫から適当にマヨネーズだの辛子だの胡麻だのを出すから
それを奪い取り、スプーンで混ぜてやる。

「ま。だったら、こっちはこっちでよろしくやりますよ」
「君みたいに見た目でつまみ食いしたって満足はしない」
「それも経験値。・・ああ、だからあんた、少ないんだ」

飲みかけていた室井の手が止まる。

「何故言い切る」
「違う?」
「君よりは人を知っている。男も女もだ」
「へぇ?それは決してヒールを脱がない女?それともドレスの下にボディスーツを付けている人?」
「仕事人間だと言いたいのか」
「甲斐性はないと思われてるでしょうね」

口を尖らせ眉間を寄せた室井を気にもしてくれず、青島は次のビールを取る。

「君にもか」

肩を竦めるだけで終わらせ、青島は開けたばかりのビールを煽った。室井が大事に取っておいたエビスビール(プレミアム)だ。
ごくごくと喉仏が生き物のように上下し、ぷはぁっと息を吐けば、もう青島の眼は次の皿へと移る。
本当に味わっているのかどうかも分からない空缶が、また一つ、室井の膝元へと転がってきた。

「ふられちまえ」
「言いましたね」
「言った」

今夜も青島に乗せられて、誤魔化す夜が更けていく。
青島にだけは完全な共鳴が欲しくて、心がざわめき、ムキにさせられる。
それが楽しいと気付かされたのは、いつだったか。
話の方向性がキャリアの一般論からどこかずれてきていることを敏い青島が感じ取っていないわけがないだろうが。

「恋したこともないくせに~」

狂気の波紋はどうしてこうまで美味なのだろう。
狂っている、のかもしれない。
そもそも室井は友人とだって喧嘩などしたことがないし、円卓以外の場所で鼻息を荒くしたことだってない。
なのに、青島の瞳に映りたいと思う。振り向かせ、ムキにさせ、独り占めして、他の誰にも譲れないポジションを振りかざしたくなる。
青島の意識を占めるのは自分で、青島にだけは全てを分かっていてほしいという、孤独な夢を見る。

「ひとつやふたつ、知っている」
「へ~ぇ?一人にのめり込むこともできないオトコがねぇ?」
「命を賭けて愛したこともあった・・!」
「そりゃ随分とドラマティックで」

だが、そもそも何で居もしない女の話で揉めてんだったか。

「人の恋路を馬鹿にするなよ」
「その歳で恋を神聖化してるほうがキモイです」
「もういい。俺はこんな俺を選んでくれた人間を選ぶことにする!」
「広狭はひとそれぞれ、でしたっけ」

恐らく青島だってこの話の流れは違うのだろうが、室井もまた引き際が分からない。

「そんなに私は情けないかッ」

嬲る青島の言葉につい反抗的に室井が言い返せば、青島もまた挑発的な視線を向けてきた。
ぐりんと膝頭ごと身体の向きが変わり、二人して座り込んだ狭いキッチンスペースで、ふたりは向かい合わせとなる。

「んじゃ、あんたを俺に教えてくださいよ」
「言ってどうなる」
「言えってば」
「何故」
「知りたいです」
「理由は」
「そこ、理由いるんだ?」
「全部を知る必要はないだろう」
「それ、決めるのは俺」
「・・・」
「じゃ、俺のことは?知りたくない?・・・・実は迷惑だった?」
「・・・・」
「だっさいオトコ」

ふんふんと真顔で頷いていた青島の、また呆れた溜息が室井の頭上を素通りした。
それがまた室井をムッとさせる。感情を剥き出しにするこの心地好さ。

「だーから振られるんですよ。そして出世もできない」
「勝手に決めるな」
「ジジツ」
「じゃあこちらもズケズケ言っていいのか」
「どうぞ?・・口下手なくせに出し惜しみしてっから舐められるんだろっ」

蠱惑的な世界が室井の目の前で狂い咲いていた。
その瞬間が室井に歓喜に近い衝動と酩酊を巻き起こす。

「舐められてるって決めつけたな・・!」
「あんた以外はみんな気付いている事実だろ?」
「君に迷惑はかけてないだろう・・!」
「無駄に傷ついてるのを見るとこっちもイライラしちゃうんですよっ」
「無駄っていうなッ」
「むだじゃんっ」
「なんでそこまで言うんだ!」
「んなの、あんたが好きだからに決まってんじゃん・・!」

叫んだ途端、青島が自分で口を止めた。しまった、というまんまるな目をした顔に、室井の法悦の世界も弾け飛んだ。

「・・・」
「・・・」

さっきまでの騒々しいのが嘘みたいに空気が鎮まった。
口を閉ざした二人が言葉を探して見つめ合う。鎮まり返った部屋は、物音一つない。
奇妙な沈黙の間を、時計の秒針が規則的な音を立てていく。

「ぁ~~~・・っと、あれ?だから、その、・・・、」

くしゃくしゃと頭を掻き回す仕草はぎこちなく、彼の男くささを芳せ、妙に室井までをどきまぎとさせた。
急に青島が幼く見え、またその目尻を染めた表情に、見てはいけないものを見てしまったような扇情的で禁忌的な毒に犯されつつ
室井は今発せられた青島の言葉を反芻する。
今、青島は何と言った?

「君が嫌がっていないのであれば、・・・別にいい」

助け船を出してやると、困ったような消化不良のような、なんとも言えない顔をして、青島が赤らんだ顔で口をもごもごさせる。
まだ何か言いたりないのかと室井がしっとりとした眼差しを傾げたが、青島はぐしゃりと髪を握り締めただけだった。

「そ?・・なら・・・いいんですけど。こっちも」

全てを飲み込み、青島も、終わらせた。
前髪で隠す目元は、少し染まっていて、理性的に引き結んだ青島の口唇はビールで濡れていた。









3.
まさか好かれているとは思わなかった。
無論、毛嫌いされているわけではないとは知っていた。こうして一定の興味と人情を見せてくれる。部屋へも訪れてくれて、酌を交わした。
そこそこの付き合いの薄い室井にとって、青島との独特の時間が多くの意味を持つことくらい、青島だって知っていた筈だ。
だからこそあの話の流れで、酒が入っていたからといって、いい大人が、あの聡明な青島が、ああいう言い間違いをするとは思えない。
あれは明らかに青島のエラーだった。

その突発的な発言が、聞き間違いでも言い間違いでもなく、また告白と言った可愛げのあるものでもなかったことを
室井は後になって確信することになる。
あの夜青島が終わらせたものの大きさが、想像以上に辛辣なものであったことも。


本庁の廊下に聞き慣れない黄色い声が響いた。

「あっ、室井さんだぁ!」

ゆっくりと振り返ると、恩田すみれが本庁の廊下を走り寄ってくる。

「何故ここに居る」
「おつかい頼まれて」

君が?という違和感に室井が片方の眉を上げると、その意味を正しく読み取ったすみれがストレートの黒髪を掻き揚げはにかんだ。
走ってきたせいだろうか、少し彼女の肌は汗ばんでいる。

「青島くんのかわり。なーんかごねられちゃって。ランチおごりで手を打ったの」
「忙しいのか」
「そーでもないように見えるけどね。でもヤだって。・・・貴方と喧嘩でもしたんだったりしてね・・?」

下から覗き込むように窺われる栗色の瞳は、まさしく刑事の目だ。
室井が賢明に敢えて黙っていると、逆に確信を得たようにすみれは目を光らせた。

「どうやら当たったようだわ」
「どうしてそう思う」
「本当に関係がないのなら、どうでもいいって顔をする筈だからよ」
「――・・・」
「少なくとも青島くんに避けられてるのね?」
「確証はない」
「でも、室井さんはそのことを、気にしているわよね?」

心を読まれるなどキャリアにあってはならないが、今の室井は情報を得たくて口を開いた。
青島が室井との密会を他言するとは思えない。同じように、恐らくこの女も、その意味では口が堅い。

「君の目にはどう見えている?」
「私から聴取して済まそうなんて、随分とお手軽な関係ね?」
「いや――、すまない」

見透かされたような瞳に射抜かれ、室井は恥じた目を伏せた。
青島との仲を取り持って欲しいなどという下心がなかったとも言い切れないし、本人に聞く前に第三者に相談するのは確かにフェアじゃない。
少し考えるようにすみれが室井を観察する。その時間を室井は辛抱強く待った。

「これは――刑事としてでもなく、同僚としてでもなく、一人の女としての感想って思ってくれるなら」
「それでいい」
「喧嘩、したって前提で話すけど」
「ああ」
「貴方にとって大事なのは、自分なの?それとも青島くん?」
「それは、」
「どうせ自分、なんでしょうね。そういう人よね、室井さんって。しかも自分を大切にしないと青島くんに叱られるだとか言いだしそう」
「自分を大切に出来ない人間に誰かを大切にするなど、出来ない」
「ほーらね。そんな人だから――失くすのよ」

つい、室井の息が詰まった。
鋭く、冷たい言葉だった。
それを認め、すみれが意味ありげに笑う。

「それでいいわ。キャリアなんだから、そうやって生きていけばいいんじゃない?それも一つの正解よ。でも、青島くんは渡せないわね」
「・・・」
「室井さんの意思を尊重し、室井さんの立場を鑑みて、室井さんの背中を預けられる。そういう価値、そんなに道端に落ちてないの」
「・・・」
「ならそれは一体誰で、何のためなのかしらね?」

黙ったまま交わし合う視線はまるで火花が散っているように室井には感じた。
じりじりとした野蛮な緊迫感が、室井に何かを確信に変える。

「私に言えるのはそれだけよ」

すみれは踵を返し、堂々と夕刻の本庁廊下に消えていった。
その背中を室井はじっと見送った。

ざわりとしたものが室井の胸の奥に燻っていた。嫌な臭いを発し、肺の中まで蔓延っていた。
虫の知らせ、或いは本能的な第六感が警報を出している。
青島が、ほんとうに、消えていく。

室井は胸ポケットからケータイを取り出し、慣れた短縮番号を押す。

どれだけの人間が自分を疎ましく扱い、蔑んできたか。
価値がないと切り捨て、自尊心すら奪われたか。
室井に人として扱われることの意味を思い出させてくれたのは、青島だった。
なのに、俺は、あの夜の正しい言葉を返せていない。

焦れるほどの長いコールは、まるで遠ざかる足音のように聞こえた。
立ち尽くしていた足が浮き、どこへともなく歩き出す。
角を曲がった時、長いコールは通話に切り替わった。

『今夜、空いているか』

単刀直入に室井は用件を口にする。

『ぇ、あ~・・・実は立て込んでまして。俺の顔見りゃ何か押し付けてくる連中でしてね』
『・・・遅くてもいい、会えないか』
『いやぁ、いつになっか、わっかんないです。待たせんのも、ほら、マズいんで。また今度』
『構わない』
『でも』
『いいから』

しつこく食い下がってみると、押し負けた青島が受話器の向こうで沈黙した。
珍しい沈黙は、それだけで室井の寂寥感と焦燥感を増殖させる。
いつになく気弱な男の戸惑いに、そこに青島の本性を見た気がした。

分かっているのは室井だけ――そうじゃない。違ったのだ。分かっていなかったのはこっちの方だ。

確かめたい。仕事でないことは、分かっている。胸の奥がざわざわする。
出先なのか、ホワイトノイズに混じってクラクションが聞き取れた。
そのか細い声をひとつも聞き洩らしたくなくて、室井は無意識にケータイを耳に強く押し付ける。

『話がしたい』
『なんか、あったんですか・・?』
『・・・』
『あったんですね?じゃあ、改めて、俺の方から連絡しますんで・・』
『今夜、うちに』

青島の提案に被せ、室井が高圧的に言葉を遮った。
多分、今夜を逃したら、青島はもう、室井とは一切の連絡を絶つ。そして姿すら、見せてくれなくなる。
そんな絶望的な予感すらする。

室井の足はもう本庁を出て、自宅官舎へと向かっていた。
勇み足で漲る靴音が不規則に夜の都会に反響する。

青島が自分との関係を終わらせようとしているのを感じ取り、ざわざわとした予感が室井の中で確信に変わっていた。
会いたい。どうしても一目、見たい。駆け出したい気持ちが溢れ出る。
大事すぎて、壊したくないのだと、今改めて思い知る。

『とにかく――来てくれないか』

辛抱強く、そのひり付く沈黙を堪えていると、やがて小さな声が聞こえた。

『・・・・・、じゃあ・・・、今から・・・向かいます』








4.
室井が先に帰宅し、三十分も経たず、本当に、室井宅のベルは鳴った。
やはり、用事などもなく、仕事でもなかったのだ。そう確信して、小走りに玄関へと向かい室井は扉を開ける。が、その姿を見て室井は目を見張った。
なんで今日を避けたかったかは、その両手を見れば薄っすらと察せられた。
そこには大きな包みが二つ、ぶら下がっていた。
そうか、今日は確か――

「とにかく・・・あがれ」
「あ~・・・、それじゃぁ、おじゃましまぁぁす・・・」

遠慮がちに、青島がペコリと頭を下げる。
大きな紙包みはそれだけで入り口を塞ぎ、鬱陶しそうに青島は持ち上げて靴を投げ捨てた。
ガサゴソとあちこちに物がぶつかる音。見知らぬ香水の残り香。
それを横目に収めながら、室井は部屋へと誘導した。

こんな日にしつこく食い下がられたら、確かに深読みされてしまうだろう。
何も考えず電話で無茶を言った自分に気付き、室井はこっそり口元を覆う。
だが、もう、これで良かったのかもしれない。
後から大人しくついて来た青島は、コートも脱がずに室井宅のソファにバウンドするように腰を下ろした。
長居をする気はないのが見て取れた。

「夕食は」
「まあ、てきと~に」
「何か、呑むか?」
「あ、お構いなく~」

素っ気ない返事に室井は次に続く言葉も見失う。
青島は気付かず、否、口を挟ませないためにか、窓の外の方へと目を向けたままだった。

「で?話って?」

考えた末、室井はやはりビールを持ち出し、青島の前へ置く。
酒に頼らないと話せない訳ではないが、酒は睥睨ではある。
簡単に作りおきしていた中華粥も、温め直して添えた。
そして、正面ではなく、わざと青島の座るソファに並んで腰かけた。

驚いたような視線と、仄かに感じる青島の体温が、室井の胸をチリチリと締め付ける。
室井の表情は強張ったまま、正面を向き、凍ったように動かない。
正確には表情筋を豊かに使う私生活がないだけなのだが、握り締めたビール缶もそのまま、室井は強面で薄い口唇を引き結んでいた。

まず、どこから話せばよいのだ。
どうやって切り出そうか、都合の良い言葉を探すが、室井の錆び付いた脳味噌は気の利いた文句ひとつ検索してはくれなかった。
青島がなにか言いたそうに口を開いては、閉じ、困ったように頭をがしがしと掻いた。

「どしたんです、急に」
「いや、その・・・な」

男相手に口説いたことなどない。そもそも女性相手だって面と向かって口説いたことなどあったかどうか。
というか、口説きたいのか自分は。
あんな一言を真に受けてと、また青島に馬鹿にされそうな気もする。
行くなと言いたいだけなのに、今の状況では唐突過ぎる気もする。
これでは先日の言い合いで言われた経験値のなさを証明するようで、室井は悪態を吐きたくすらなった。

チラッと盗み見れば、青島もまたその視線に合わせてこちらに眼差しを送った。
なんとなく、一瞬だけ絡んだ視線は、不自然に反らされる。
この、擽ったいようなむず痒い空気は室井の気勢を削いだ。
やりにくい。青島もどこか核心に触れられるのを恐れているように感じる。
室井は仕方なくその場を取り繕うために、口を開いた。

「部長から署員の督励を任された」
「ほぉ?んで?あんたが唆されないよう説諭するわけだ」
「・・・おい」

ニヤリと光って室井に返す試す笑みは屈託がなく、いつもの青島に見えた。
警戒心のない真っすぐな眼差しは純真で、ただ室井だけに向けられる。向けられてきた。
こうして、青島に助けられているのは、たぶん、もっとあったんだろう。

「・・今回もまた、所轄は蚊帳の外だ」

ああ成程と、青島の口許がはねっ返りの艶を乗せた。
多分、今夜呼び出した本題も、これだと思ったのだろう。

「いつもみたいに、拗ねないんだな」
「おれ、どんだけ子供扱い」

男と深い仲になるということが怖いのか、それともあの青島を手に入れてしまうことが怖いのか。
こんなにも、隣にいるのに。
いつだって最後の最後に勇気が出せなくなる。多くを抱えて、大事なものを取り零してしまう。それは、大人だからなのだろうか。
今更何かを変えるのを恐れて、挑戦を忘れた大人は子供にすら追い越される。

「青島」
「・・・なに」

捕まえておきたいのは室井の方で、青島にとって室井は通過点に過ぎない。
それを分かっていてこの先のキャリアを道連れにするのは、あまりに酷だ。それも分かってる。
それでも伝えておかねばならないことがある。

「出世も約束も、君が願うならもっと適任はいただろうにと思う。でもその君の中にある望みを、私は他の人間には譲りたくはない」
「・・・・」
「しかしそれは、こちらの傲慢、なんだろうな・・・。君はそれでいいか?」

じっと探るように上目遣いで見ていた艶ある瞳が、離される。
――やはり、こんな言い方では駄目か。
この破天荒でやんちゃな青島の本音には、いつも、いつだって室井など入り込ませてなどくれない。
届きたいと思うことすら、愚かであると嘲笑う。

「その、少しでも可能性があるのなら、・・・って。何言ってんだろうな俺は」

室井の力ない言葉が抜け落ち、口許を歪ませながら、強張った瞼に映る無益な世界をまた閉じた。
指で軽く眉間を揉んで自嘲する。
一体自分は何を言えば、青島にこの気持ち全部が伝わるのだろう。


沈黙が二人の間を支配し、やけに静かな空間が、二人の息遣いすらいつの間にか振り出した雨に溶け込ませる。
いつだったか、哀しい悲劇を起こした冬の夜もこんな雨が降っていて、ずぶ濡れの青島が室井を鋭く責めていた。
あの熱い眼差しが焼き付いている。今も。こんなにも消えない。
なのに、青島だけが、消えていく。
傷つくのが怖い癖に、手放してやることも出来ないまま、その激流に青島を巻き込みたくなる。

「室井さん以外で、俺だって、こんな感覚、覚えたくない」

そっぽを向いたままの、思ってもみなかった可愛い返答に、室井はその先に続く言葉を忘れ、つい顔を上げる。

「別に、あんたは俺を忘れてもいいんだ。頑張ってるって・・・知ってるからさ。見てるよ、ずっと」
「・・・」
「遠くから、ずっと、見てる。最後まで、見送ってやる。でも、できたら――」

俯き、拳でコートの裾をきゅっと握る青島の、その表情は室井に見せてくれない。
まるっこい拳には、力を込めていることが見て取れた。

「できたら、ずっと、忘れないで・・俺んこと」
「!」
「俺が、消えても」

いつもどこかに不安を抱えているのは、青島の方だったのかもしれない。
今は確かに青島の心の欠片が零れていて、その破片が室井へと突き刺さる。
同じだ、と室井は思った。
現場で生きる青島の方が、消えてしまう恐怖も不安も強くて、記憶にすら残してもらえない儚さにずっと藻掻いている。
ずっと掴み損ねていた意地っ張りで、取り留めない彼の本音が、少しだけ、見えた気がした。
ああ、そうだった。それに、青島は、確かにあの夜、口を滑らしたのだ。

室井は奥歯を噛み締め、それから自分の手元を見つめ、そしてソファの脇に控える紙袋を指差し、低い声で問う。

「それ、全部チョコレートか?」
「ぇ?・・ぁ、ああ、ええ。今年はなんかいっぱいで・・」

突然の話題の乖離に、身体ごと背けていた青島も変な顔で上擦った返答をし、頷いた。
あの紙袋で、今夜青島がここへの訪問を渋った理由が分かった気がしていた。
青島が此処へ来る前何をしていたのかも、その服に付いた匂いが物語っている。
それは室井への遠慮だったのか。罪悪感なのか。でももう、どちらでもいい。

「たくさんありすぎだ」
「署内だけじゃなくって、世話になったひととかからのも入ってるし・・」
「だが、面白くない」

なんだよそれ、と言いたげな顔はだいぶ赤く、肩越しに振り返り、困ったような戸惑うような視線が室井を見て動揺した。

「む、室井さんだって、たくさん貰ってんでしょ・・」
「精々、数個だ」
「重みが違いそうですけど」
「見た目はおなじだ」
「ま、モテる男の勲章ってね」
「何を恰好付ける」
「俺はいつもかっこいいでしょ・・!」

自慢気に高飛車な笑みを頬を膨らませて寄越す青島に、室井の目が雄の色に染まった。
それを目敏く感じ取った青島が、眉を曲げて訝し気に首を傾げる。

「それがなんなんです?」
「だから、面白くない」
「あんたの冗談は笑えないっていうか、冗談に聞こえないんですけど?」
「冗談ではないからな」

完全に言葉を詰まらせた青島が、目をぱちくりとさせて室井を見た。
そんな義理もないくせにと言わんばかりの警戒した瞳が室井を探る。
だったら。

「受け取らないでくれ」
「はい?」
「受け取ってほしくない」
「・・・・でも」
「ごちゃごちゃ煩い。もう受け取るな。ホワイトデーにも返さなくていい」
「あ、はい・・・」

驚いた顔で勢いに後退り、青島がちょこんと頷いた。

「・・・・」
「・・・・」

室井の強引な物言いにあっさりと頷いた――頷かされた青島が、きょとんと室井を見上げてくる。

じっと見つめ合うまま、どちらも動かなかった。
外れない視線を、もう外させるつもりもない室井に、邪魔をする雨音さえ掻き消される。
強くもなく、何を言うわけでもなく、何を願うわけでもない。
ただ視線を合わせ、これで多くが伝われば良いのにと室井は心の中に幻想を見る。
でも、そんなものはみんな、文字通り、室井の中にだけある、幻覚だ。
本当にほしいものは。

ゆっくりと、室井は顔を近づけた。
気のせいのような、気の迷いのような、音もない動作で、吸い寄せられるように青島の顔も近づく。
それさえも、気のせいかもしれない。
薄っすらと室井の口唇が開かれる。

驚いたような純真で穢れない瞳が室井を映していて、その静寂と純潔を穢す劣情が漆黒に焔を宿す。
室井の影で覆われる青島の瞳に、一粒の光が陰影の中に灯っていた。
青島の瞼が少し伏せられる。
どちらからともなく引き寄せ合った影は、そっと重なりあった。








5.
一か月が過ぎた。
一度も会うことはなかった。
だが、なんとなく気まずさのようなものが胸に蔓延り、躊躇い、落ち着かない日々が続いていた。

ケータイを眺めては、ポケットに戻す。
かけたいのなら、かければいい。
ただそれだけのことなのだが、時としてそれは警視総監になるよりも難しい。

どこか恨みがましい溜息となったものは、誰にも気づかれずに室井の足元へと落ちた。

あの日、確かに口付けた。
言葉もない、ただ重ね合わせただけの、意味も持たせないキスだ。

「・・・・」

柔らかい口唇のぬくもりが、忘れられない。
青島もまた、キスを避けなかった。その意味するところを、ちゃんと、聞いていない。
一歩進んでいるのか、それとも逆に後退してしまったのか。
とにかくあの夜以来、青島を見ることはなかった。

春めいた柔らかい陽射しが降り注ぐ本庁回廊に反射するのは、人の声、車の音、そして自分を急かす命令だ。
小脇に抱えた資料ファイルを持ち直し、室井は物静かな背筋を婉然とさせ、廊下を曲がり、階段へと向かう。

「あ」

聞き慣れた声が目の前で響き、室井は顔を上げた。
思わず頬が強張った。
この一カ月、胸中からも脳味噌からも離れない顔が驚きのままに階段途中で足を止めていた。
何故ここにいるのかという疑問よりも、いつもなら満面の笑みで近寄ってくるのに、どこか遠慮がちなその顔に、室井の眉が険しく寄った。

「・・・どうした」
「あ~・・・、えっと、おつかい?かな」

へへ・・と、もどかしそうに掻き混ぜるその細髪は何故か濡れていて、今日は雨だったかと、室井の視線が回廊に注ぐ擦りガラスへとずれる。
うららかに揺らぐ桃色の陽射しは、冬の終わりをのんびりと告げていた。

「あ~・・っと、室井さんは?なんか、事件でも?」
「会議が終わったところだ」
「捜査会議」
「重役会議だ」
「あ、そう」
「用事は済んだのか」
「――ええ、まあ」

何となく会話がぎこちないまま、お互いの言葉が止まった。
いつものモスグリーンのコート、第二ボタンまで開けられ色付く艶肌が透けるブルーのワイシャツ、無造作に結ばれた、あの日と同じストライプ・タイ。
だがそれはどこもずぶ濡れで、反射した光の粒を纏い、滴っている。
艶やかな肌を濡らすその瑞々しさは、まるで穫れたての果実のようで、室井の目が固まった。

またひとつ、前髪からぽたりと落ちた水滴が、頬から顎のラインを辿り、廊下へと染みを作る。
硬派な本庁内でのその艶やかな姿に、ありえないほどの情欲を意識させられた。
視線が離せず、言葉も忘れ、室井がただ青島を瞳に捕らえる。
気付いた青島が子犬のようにふるふると頭を左右に揺すり、濡れた身体をうんざりとした目で見下ろしながら、小さくぼやいた。

「・・・拭け」
「タオル、忘れちゃった」
「・・・・」
「ま、すぐ乾くでしょ、この陽気なら」

濡れて額に張り付いた前髪がくせっ毛のように目元までかかるその童顔は、酷く幼く見える。
その奥から一度だけちらりと室井に向けられた視線は、だがすぐ反らされ、階段のてすりに背を預けた小粋な姿で階下の方へと向けられた。

「イイ男の条件ってね」
「そんな時でも君は恰好をつけるんだな」
「俺はいつもかっこいいでしょ!」

いつかと同じ台詞が返ってきて、室井は背後で静かに瞼を伏せた。

ここで、何があったかは、きっと問い詰めたところで彼は口を割ったりしないのだろう。
青島は、いつだって室井には多くを語ってはくれない。
室井が放っておいたら、青島は室井とは全く別の世界で完結してしまう。
こちらの話は巧みに引き出されるのに、いざ自分のこととなると、その赤らむ口唇は蕾のように閉ざされるのだ。
室井にはそういう能力はないのだと痛感する瞬間だ。
そして、青島にとって室井は価値がないのだと、思わされた原因だ。

「けっこうね、予想外のことが起こるんですよ、世の中は」
「その程度で済んでよかったなというべきか?」
「さあね」

優しすぎる青島から向けられる感情を、勘違いが過ぎるほど自惚れてしまっても良いのか分からず
掴みどころのない自分の感情と、妄りに溢れる野蛮な本性に、呆れるほどの飢餓感を覚え、室井の拳は堅く握られる。
男同士でなければ、国の法律がなければ、こんなに悩むことはなかったのに。

細波立つ心境で室井が行き場を失った時、上からタイミング良く明るい声が降ってきた。

「あ!しかめっ面!」

恩田すみれが用事を済ませて戻ってきたらしく、青島は彼女を待っていたのかと何となく納得する。
だからあれだけ避けていた本庁にも青島は来たのだ。彼女が一緒だから。
横から、所有権を奪われたような苛立ちが室井に募った。
近くまで小走りで寄ってくると、青島の隣に彼女は立った。

「青島くんのかっこ、ひどいでしょ」
「刑事ならよくある――」
「これ、プライベート」

室井が片眉を持ち上げて訝し気な視線を送れば、すみれの隣で青島がすみれを小突く。

「ちょっとっ、ナイショって言ったじゃんっ」
「いいじゃない、自慢するところよ」
「大きなお世話だよ」

事情を説明するよう室井が促すより先、それを阻止しようと青島がすみれの腕を後ろから引いてこの場から逃げ出そうとする。
が、それよりも更に早く、すみれの口が勝った。

「青島くん、女に引っ叩かれたの」
「ちょっと・・!」

青島が気まずそうにすみれの耳元に口を寄せる。
その頬に、青島の口許が触れそうにさざめく。
仲睦まじい様子を見下ろし、室井は渋い顔を向けた。

「引っ叩かれたとは?」
「で、グラスの水、ぶっかけられたんだって!笑っちゃうわよね」
「・・・」
「期待させるだけさせて、ホワイトデー、すっぽかしたから」
「!」
「その全員に、お返し全部断っちゃってさ!一個も返さなかったのよ、今年は。で、浮気を疑われて、泥沼」

楽しそうにぺらぺらと喋るすみれの二の腕を引き、青島が困った顔を見せる。

「ちょっとすみれさんっ」
「いいじゃない。それとも室井さんの前では見栄張りたいんだ?」

うししと茶化すすみれの愛嬌に、青島は濡れた髪をぐしゃぐしゃにして弁解を続けている。

つまり、青島は、あの日の約束を律義に守っていたわけか。
あんな他愛ない我儘を、あんな何てことはない強情を、あんな触れるだけのキスを。
それでもちゃんと、聞いていてくれたのか。
隠して、埋もれてしまいそうな室井の心の棘までを、ちゃんと気付いて大切にしてくれる。
青島は決して室井を邪険にはしない。
室井に確かなものを与えてくれる、そういうかけがえのない存在なのだ。

「ほらっ、もぉ帰るよ・・っ」
「ちょっとぉ、引っ張らないでよぉ~」

肩をぶつけ合いながら去っていく二人の背中を、室井の漆黒の眼差しがじっと追う。

「――青島」

すみれとまだ言い合いを続けていた青島が、条件反射のように、はい?と顔を向けた。

「署に連絡を入れろ。愚痴を聞くぐらいの義理は、私にあるだろう」

そして、あの口付けの意味をきちんと伝える誠意もだ。
それはそうよね~と実に適当な相槌で誤魔化すすみれの横で、青島は実に見物な、苦みを潰した顔をしていた。








6.
官舎の扉を閉めた途端、二人は同時に扉に背を預けた。ふぅ、と同じ緊張を解く。

「ちょっと・・・強引だったか?」
「かなりね」

乾いた中途半端な空白は、酸素が薄い。
じっと見つめれば、ぎくしゃくとしたまま青島も隣から横目で室井を見返してくる。
何か言いたげな青島の口唇は音を乗せることはなく、うっと詰まって、ついでに顔も背けられる。

「すみれさんにまた揶揄われるなぁ」
「君の態度が分かり易すぎなんだ」
「俺のせい」

そっぽを向いたまま軽く肩が触れ、思わず室井は力んだ。
怒っている風でもなく、青島が天井へと視線を投げ、頬を掻いた。
あの夜が、ちゃんと二人の上にある。
暫し二人の視線が交差して、お互いのタイミングを譲るかのようなじれったい間が流れた。

目が合って、反らして、それから拳を口元に充てて、もう一度視線が合う。
すかさず後からその二の腕を引き、引き寄せた身体を室井は胸で受け止めた。
驚いて振り仰いだその口唇を、躊躇わず、しっかりと被せてみた。

室井は滴るその口唇を口唇で確かめる。
柔らかくて、熱い。
あの日よりも、ずっと香り立つような、甘い感触に、陶然となる。

青島は特に抵抗を見せることはなく、室井を受け止めながら瞼を閉じた。
室井を憶えさせたいのに、忘れられないほど刻まれたのは、やはり室井の方で
悔しくて、止まらなくなり、室井は舐めるように角度を変えて重ね合わせていく。
感激と衝撃で、少し口唇も引き留める指先も、僅かな奮えを含んでいることを、青島にも気づかれているんだろうか。
熱をしっかりと憶えて、沁み込ませたくて、それから、ゆっくりと口唇を解放してやった。

これが夢でないことを祈るように、室井は怯えた瞼を持ち上げる。
まんまるい目が室井だけを映しこんでいた。
軽蔑の色だけは、なかったことに、安堵した。・・・・と、室井の至近距離で、ニヤリと笑みが落ちる。

「・・んじゃ、おじゃましましたっ」

もう一度挨拶をし、バタンと扉が開けられる。
射し込む陽光にモスグリーンの背中が映え、消えそうに揺らいだ。室井の聡明な頭脳が今だと告げる。
すかさず、直感のような第六感のようなものが身体を貫いた意思に従い、室井は再びその扉を青島の背後から片手で強引に閉ざしなおした。

「なっ?!室井さんっ?」
「終わらせる気か?」
「始まってもいないのに?」
「じゃあ、始めてもいいんだな?」

青島がハッと顔だけ振り返る。目を見開いて固まっている様子に、室井の瞳がやるせない痛みを滲ませた。
青島は、始めさせるつもりはなかったんだ。

「期待、しても、いいな?」
「期待・・・」

困ったようなその顔に、室井の顔が自嘲に歪む。

「安い誘いだと思われていたわけか」

適当に反故していい程度の。
気紛れに乗ったくらいの。
戯れで、意味のないキスが出来るほどの。

「私の告白、という手順はないか?」
「――俺、口説かれてるの?もしかして」
「・・・奪っていいなら」

背後から覆うように室井が縫い留めていた手を捻るように振り解き、青島が態勢を戻した。
閉ざされた扉に背を預け、長い足を片方折り曲げて高慢な瞳が室井を試す。

「俺、そういうつもりであんたに付き合ってきたんじゃないって言ったら?」
「どういうつもりでキスを許した?」
「それは――」
「今だって」

室井の長い指が淫靡な色を乗せ、軽く青島の下唇に触れる。
嫌そうに顔を歪め、青島がその手を退けると、うねった髪を片手で掻き揚げた。

「君のせいだぞ」

温順な声で室井が白状すれば、小さく息を吐き、青島は苦笑する。

「君があんまり鈍いから」
「だからって職務中に連れ込むなんて、随分とダイタンに出ましたね」

応えず黙っていると、何度か探りを入れるように青島が室井を伺ってくる。
青島がそのつもりなら、こちらにもやりようはあるだろう。
ややしてから、覚悟を決めたのか、先に青島の透き通った声が静かに沈黙を破った。

「どうして、急に?」
「おまえはこのままで満足か?」
「キャリアに邁進してくれてたら、それだけでこっちは満足ですけど?」

それ以上何を求めんだよ、と呻く青島の声に、室井が被せた。

「仕事以外では魅力もないか」

室井の大人びた嘲笑に、まるで無関心のまま青島がポケットに両手を突っ込み、他所を向く。

「君以外、最初から眼中にないことくらい、知っているだろう」
「あんま、甘くみんなよ」

穢れた姿を綺麗だと思うのは、不謹慎だろうか。
強気な視線で睨まれて、いっそ侮蔑のような匂いさえ感じ取れてしまうその強刃に挑まれて、室井は背筋をぞくりとさせた。
ああ、これだ。甘い罠だと解っていても、堕ちてしまいたくなる。

フッと、室井の黒い眼差しが眇められた。
限界を超えた雄の目が、大人びた強さで青島を絡め取る。刹那、敏感に気配の変化を感じ取った訝し気な青島の視線が不安定に揺らいだ。

「君の言葉と行動は、ときどき一致しない」

艶麗に満ちた視線を返し、室井はゆるりと青島を押して、その背を扉へと縫い付けた。

「俺を試すようなことばかりして。本当に俺がおまえに何もしないとでも思っているのか」
「何もしてこなかったじゃないの」
「こちらが君に理性を見せているのだと思っているのだとしたら、それはとんだ間違いだ」
「でもどうせ冒険ひとつできないキャリア様なんでしょ。知ってますよ」
「君にとってはそうかもしれないな。そうやって君は仲間を護り、国民のために尽くし、正義感に満ちた正しい道を行けばいい。それも、冒険だ」
「組織の仕組みも知らないくせにってバカにしてます?」
「知っているんだろ、組織に立つ人間のやり方を」

青島の眼がきらりと光る。
そういう勝ち気が、雄を煽ることに気付かないのか。
ここで逃がすわけにはいかない。
確実に捕まえるために、室井の手に力が籠もった。

「限界を見てきたおまえに、このレールから出たこともない私には、何も言えない、何も分からない」

青島が最初から刑事を目指していた訳ではないことは、誰もが知るところだ。
自己都合という体裁だけの退職口実でも、そこで起きた本当の事実は本人にしか分からないことである。

「だから俺と火遊びしてみたいわけ?」
「官僚は官僚でまとまる。都合が良いんだろう色々と」
「逃げ出せもしないでただしがみ付くだけのあんたに、何か言えんの」
「言うつもりもない。世界が違うんだ」
「負け組なのはお互い様だったんじゃないの」
「違うな。そこには敗者と勝者の差が明確に存在する」

室井が言っていることは正に原則論で、正論だった。
だからこそそれは独善を嫌う青島を簡単に逆立てる。

「自分が負けるって認めんの?っていうかですね、俺だってそんな」
「こちらは冒険家にはなれない。それだけで充分だ」
「ちょ・・っ、だから俺はっ、ちがう、俺は、あんたから逃げたんですよ・・っ、だからあんたには絶対――って・・!」

言いかけ、途端、青島はハッと口を噤んだ。
気付いたんだろう、室井が仕掛けていた誘導尋問に。

室井の漆黒の眼差しがしっかりと青島を捕らえていた。
逃がすつもりもない意思を込めたその強さに、青島はたじろぎ、沈黙する。

青島の一番嫌いな信念を放棄するやり方で、恐らくしこりとなっているだろう過去を引き合いに出し
室井を否定させることで、室井は青島が意地でも隠したかった本音を口に出させた。
それは損得もなく青島が室井を選んだという理由を、もうとっくに選んでいるんだという事実を、青島自身に気付かせることだ。
いつもなら青島の野放図な放言を不本意ながらも首肯してきた室井だからこそ、土壇場で引かれたことで、青島は絶対論法を間違える。

「室井さん・・・取り調べ、巧すぎ・・」

室井は肩を竦めるだけに留める。

「刑事のくせに、この程度の尋問にやられるな」
「・・・、けどさぁ・・・」

だんだんと語尾が掠れ小さくなる青島はそのまま項垂れてしまった。
俯き、消沈したまま、チロッと照れたような眼差しで室井を調べ、まるで拗ねた子供のように途方に暮れた顔になる。
本音を晒してしまったせいで、取り繕うほどに気恥しい気持ちは理解できた。

口車では青島には敵わない。だが、官僚として鍛えられた室井のロジックはそう簡単には崩れないし、崩されるわけにはいかない。
このくらいしてやらないと、この意地っ張りは、絶対本音なんか口にしなかっただろう。
そのことを目の当たりにし、本当に手のひらで遊ばれていたのは自分の方だと気付いた青島の頬が仄かに朱に染まる。

毒気を抜かれてしまった青島の整った顎に指を回し、室井が軽く上向かせれば、もう抵抗もなく青島も成すがままとなった。
視線だけは、恥じらうように反らされる。
口唇が触れそうな距離を敢えて保ち、熱は与えてはやらず、瞼を落としてその膨らみを視姦した。
雄の眼差しへと変わっていた室井に、逆に気圧され照れてしまった青島が顔を背けようと小さくもがくが
それを柔らかく、だが強引に室井は縫い留めた。

「いいか?」
「その前に、言うことあんじゃないの」
「・・それも、いいんだな?」

少しだけ抵抗するように室井の手首を掴む手は覚束なく、室井が更に顔を寄せて囁く。
顔を近づけ、逆に従容に問えば、青島は首を頑是なくふった。

「なんか急に、強気は、ずるいよ」
「ずっと言わなければならないことがあった」

少し黙っていると、青島の視線がようやく室井へ向いた。

「・・・どうぞ」
「君の本音は、ほんとうに分かりにくいな。ようやくコツが掴めた」
「それが商売なもんで」

じっと室井だけを見つめる青島の瞳に魅入られるように、室井もまた青島だけを映しこむ。
今二人の視界には二人しかいなかった。

「君が離れて行ってしまって、どうしようもなく、辛いと思った」
「・・・」
「君と揃って悪さをした日から、君と共に生きると決めていた。俺を置いていくのが君の答えだったのか」

じっと見つめ合った。
何の隠し立ても、嘘も本音もみんな見透かして、言い訳も建前も失った。
青島の指先が、壊れ物に触れるように上がり、室井の眉間をちょんと叩く。

「先に、ルール違反をしたのはそっちだ」
「・・・ああ」
「バカがつくほど真面目で不器用で、融通が利かなくて、唐変木で、気の利いたことも言えなくて」
「・・・ああ」
「だけど転んでもただじゃ起きなくて」
「・・・・」
「俺たちはあの日、あの階段で、約束したんだ」
「ああ」

こてんと、青島の額が室井の肩に乗る。

「ごめん、いつもひどいこと・・、ふざけてばっかで、ごめん」
「・・・・」
「知るのが、こわかった。変わっていくことも、嫌だった。それから・・」
「・・・ああ」
「でも、だって、だってさ、あんたとあんなことしちゃって、俺、どんな顔したらいい?どうしたらいいんだよ、わっかんねーよ・・」

それは男としての矜持でもあるだろうし、上司への戸惑いであるのかもしれない。
室井は黙ったまま片手を青島の後頭部に回し、ゆるく引き寄せた。
幾度か柔らかい髪先で躊躇った後、しっかりと自分の肩に固定した。
力を込めたその指先に込めた室井の想いに促されるように、青島もその両手を室井の背中に回してくる。
ようやく戻った憎まれ口さえ愛おしく、室井はただぐしゃぐしゃと、まだ湿り気の残る青島の後頭部を掻き回していく。

「ごめん・・、俺、偉そうなこと、何も考えてない。あんたの傍にいたいだけ・・・ただ、あんたと一緒にいたいだけ・・・」

丸まった背中を、堪らず室井は強く抱き寄せた。
くずれ落ちる覚悟はとうに出来ている。
尤も青島がそれを望みはしないだろうが、それでも止まれない。

「青島」

ゆっくりと顔を上げさせ、その瞳を間近で覗き込む。
うねる前髪の奥から、警戒心もなく無防備に光る宝石に、吸い込まれるまま室井は顔を近づけた。

「同じ部屋にいて、傍にいて、俺はもう、我慢はできないだろう」
「・・はい」
「何故あの夜、キスを許したか、聞きたい」
「う、ん・・・」
「男は、一つを許されたらその先も望みたくなる」
「ま、そこは、俺もリカイできます、けど、心の準備ってもんが」
「そげなもん、待ってられっか」

皆まで言わせず被せた、訛った室井の声が空気を裂いた。

「・・ぁ、で、で、でもさ、き、キスはいいけど、だけど・・その、あの、」
「まどろっこしい。もうはっきりと言え」
「だ、だから、正直・・・よくわかんないってのが、本音なんですよこっちは・・。おとこ、だし、その、あんたに対して・・その、どう想ってる のかとか」
「だったらもう、解るまでしてみるか」

何を?と莫迦みたいにきょとんとした青島の無防備に開くその口唇に、室井はもういきなり口唇を重ねた。
しても良いという、ようやく引き出したかった答えは確かに貰ったし、だったら遠慮なんかしているつもりはない。
いきなり実体験として行動に移された青島は、驚いたまま後退る。
扉にぶつかり逃げ場を失ったその身体を縫い付け、室井は逃がさないよう肘で両脇を囲った。

「~~////、・・っっ、」

舌先で弾力を確かめ、縁をなぞるように這わせながら、しっかりと擦り合わす。
呼吸を乱した青島が逃れるように薄く口唇を動かし、僅か開いた隙間に、室井は舌を這わせ、一気に中へと押し込んだ。
瞬間、少し呻いた青島の喉が震え、濡れた吐息が否応なく空気の色を変える。
熱を帯びた肉に更に煽られ、室井は青島を腰から引き寄せ、口腔内の媚肉を丹念に辿った。

「んん・・・っ、・・っふ・・ぅ」

柔らかくて、熱くて、ねっとりと絡みついてくる。
それだけで男の情欲は存分に翻弄され、もっとと願う本能のまま、室井は奥へと縮こまっていた熱る舌を求めた。
刹那、青島が動く。
室井の首に両手を回し、角度を変えて室井に口唇を押し付けてきた。
カッと芯から室井の身体が熱くなり、室井の抱き寄せる手にも力が籠もる。
夢中になって青島の顎を捕らえた指先に力を込め上向かせると、室井は更に口腔にむしゃぶりついた。

「んっ、んんっ・・・・、・・ッ、・・ッ」

あまりに獣染みた交わりに、青島に後髪を引っ張られる。
それで我に返り、室井はようやく少しだけ解放してやった。甘い感触に身体の芯から火照りだしていた自分の反応を実感する。
息を荒げ、激しい口接のせいで少し涙目となった青島が眉根を寄せる。

「んだよ、ちゃんとオトコなんじゃん・・」

うっすらと濡れそぼる口唇を開き、恍惚とした表情を浮かべる青島は、おそろしくエロティックで壮絶だ。
無意識に室井の指先が汗で湿る髪を梳き上げ、甲で赤らむ頬を擦る。

「終わ、り・・?」
「物足りないだろ?」

教えた淫靡な欲を、掴み取るように室井が指摘する。
鮮美な薫香を発する青島のすらりとした足の間を膝頭で割り裂き、自分の首元に纏わりつく青島の手首を外し、扉に縫い留めた。

「よゆー、ないように見えましたけどね。そっちが」

生意気に口答えする青島に、室井の妍麗な指先が静かに誘った。

「ああ。降参だ。余裕なんか、ない」

赤らんだ顔の視線を奪えば、青島もまた室井の雄の視線に反応した。
青島の瞼が伏せられ、どちらからともなく、引き合う。
そのぬくもりが沁みて、室井は瞼を伏せた。
触れ合わせたまま、離そうとはしない室井に、青島もまた形の良い顎を上げて室井の口唇を受け止めていた。

ゆっくりと誓いの口付けを解けば、潤んだ青島の瞳がまっすぐに室井を見つめている。

「けっこ、カゲキじゃん」

マナー違反した室井が悪いのか、無防備な青島が悪いのか。
強くは求めず、柔らかく重ね合い、愛おしさを募らせた口唇で濡れるままに囁き合う。

「なかったことになんか、されたくないからな」
「なかったことになんか―――もう、こっちが、してやらない・・」

いつしか室井は青島を縫い留めていた手の力を抜き、解放された青島はゆっくりと室井の肩に両手を回していた。
甘ったるい吐息と触れるだけのキスが、室井に眩暈のような淫蕩を起こさせ、強張った頬が少し緩められる。
埃臭い古びた建物の匂いの中に、青島の陽だまりの匂いが混ざって、愛おしさが募った。

「あんたさ、言ってたじゃん・・・?変わらない方が良いって」
「ああ。だから変わらず傍に居ることを選ぶ。頼りにならないかもしれないが、俺が付いてる」
「んじゃ、いっつまでも隣にいてやるよ・・っ!」

青島の手が室井の襟首をしっかりと掴む。

「だからね、室井さん、俺・・、俺ね・・っ、やっぱりあんたのこと――」
「・・っと待てェッ!!」

正気に戻った慌てて室井が青島の口を片手で塞ぐ。
心臓がバクバク言っている。
まあるい瞳で、むがむがと不満を漏らす青島に、室井は肩で諦観の息を落とした。
この期に及んで告白まで先越されたら、それこそ一生何言われるか分からない。
先になんて、言わせるものか。絶対に。

「おまえなァ、少しは譲れェ!」
「ンんん・・っ、だっておっそいんですもんっ」
「こんなの気軽にポイポイ言えるかッ」
「こんのヘタレ!」
「男に譲れ!」
「俺さっき水向けてやったよねっ?」
「あの時はまだ君の気持ちが読めなかったんだッ」
「心の準備が出来ないって言う俺の気持ちは無視されましたけど!?」
「君相手に余裕がなかったんだと言っているッ」

未だに玄関先で何をやっているのか。
横目で青島を睨めば、青島もまた、ジト目を寄越してきた。

暫しの虚しい視線の応酬の後、室井は親指を後ろへと向けた。

「あがるか?」
「・・・そ、ね」

コートを脱ぎ散らかし、冷蔵庫を物色する青島の背中は、はてさて見慣れたいつもの光景だ。

「もう今日は署に戻らないんだろ?」
「そうしてほしいんでしょ?」

こつん。
室井がしゃがみ込む青島のつむじの辺りを拳で小突いた。
軽く、ちゅっと音を立てて口唇を奪う。

「!」
「青島、俺は勝負に出るぞ」
「おおぅ、ついに」

一瞬気障なキスに驚いた青島も、掠めるように室井にキスを返した。

「探らせた結果、浮動票はかなりの数に登ることが分かった。誰もが値踏みしているということだ。今がチャンスかもしれない」
「どうかな。浮動票ってのは寝返る票ってことでしょ。相手に有利に動いたら自滅まっしぐら」
「時期を待てと?」

ビールを二つ。そしてもう片手にはいつもの鍋と菜箸と。
今夜は何を作る?
首を傾げる青島の隣で本日のメインを渡せば、それが二人の合図となる。
今晩は麻婆豆腐にしよう。

「え~・・っと、まずは」
「まずは香味野菜からだ」
「そうそう、やさいやさい」
「炒める時に手を抜くなよ」
「了解っ」

二人並び、そっぽを向いた状態でビール缶の底をカチンと鳴らした。

「あんたも手を抜くなよ」
「出世した彼氏がほしいんだろ」
「焦れば上層部の政権交代に特捜部が利用されたと笑われるのがオチ」

額がくっつくほど顔を寄せ合い、口付け合って、挑み合うホワイトデーの夜は更けていく。

「でも」

なにもかもお見通しというように、青島が鍋を肩に微笑んだ。

「その作戦、乗ってもいいですよ」

室井が青島の背後に回ってエプロンを付けてやる。
いつもの流れ。
そして。

「あと、期待しててもいいですよ」











happy end

index

ホワイトデーのお話になりました。
このお話の見どころは、言っていることとやっていることがまるで違うところです。
とっくに熟年夫婦みたいな生活してるのに、本人たちだけが気付いてない。なんかもう、勝手にやってて、と思っていただけたら満足。

室井さんを邪険にしてこそ青島くんだと思っている。
「俺が室井さんをまもってやらないと」とか「俺だけが室井さんを分かってやってる」とか「俺は室井さんの味方」だとか
何の否定もせずにイエスマンにしたり、室井さんの置かれた環境に同情とか、そんなの青島くんじゃない・・!
ほんとは好きだけど、好きな人の前ではつんつんしちゃうやつ。