登場人物は室井さんとすみれさん。お供に青島くん。すみれさんの片思い。
風邪を引いたのは室井さんです。
束の間の夢
「ちょっとっ、何でこんなことになってるのよっ」
「知らないよっ、あのひとが茶なんか出すっていうからさ~」
「断りなさいよっ」
「そんなこと言ったって出来る?課長になんて言うの?」
「そこは上手く丸め込んだらいいじゃないの」
「そこにほいほい乗ったのがすみれさん」
「軽い女みたいに言わないで」
「大体俺らここに何しに来たの」
「あたしが聞きたいわよ」
コトンという音。
襖が開いて室井が顔を出してきた。
二人して佇まいを治し、正面を向いて一礼する。
言葉を挟むこともなく、楽にしろの口添えすらなく、室井が楚々とした動作で膝を付き、テーブルにカップを差し向けた。
さっきまでのパジャマからラフなシャツに着替え、急須と湯飲み、茶菓子をお盆からテーブルに乗せてくる。
いつもとは違う、黒シャツの胸元を数個開けた無防備さ、チノパンというカジュアルさが
一種の禁猟区を見せ付けた。
入り込んではいけない場所に二人で迷い込んでしまったような申し合わせのなさに、すみれは首を竦めて青島を伺った。
隣ではもう直視すら出来ない青島が腕を乗せて窓の外に視線を投げている。
「君たちには珈琲の方が良いかとも思ったが、もう飽き飽きしているだろう」
「まあ、お気遣い頂きまして」
「よしてくれ」
困ったように眉間を寄せて室井が顔を渋らせた。
室井が欠勤しているらしいとの噂が湾岸署に入ったのは今朝のことだった。
立ち話程度のその噂を丁度通りかかった袴田がものすごく大袈裟にし、こういう時にこそ存在感を示すものだと、あれよあれよという間に
すみれと青島の二人でお見舞いをするよう申し使った。
「それにしても起きられるくらいなら良かったわ~。一人暮らしの男が密室で行き倒れていたらタイヘン」
「少し風邪っぽかっただけで、仕事の区切りも良かった、有給も取るようせっつかれていた。タイミングが揃ったから大事を取っただけだ」
「・・・こっちは三日泊まりなのに」
「すみれさんっ」
思わず最近の勤務形態が口から零れ出ると、横から青島に肘で小突かれる。
「だってっ。有給なんて久しくとってないわよ。明細に乗っているだけの文字列よ」
「そうだけど!」
「なによ、青島くん、室井さんの前だからってイイコぶっちゃって。さっきまで帰りたいって一番騒いでたの誰?」
「ってゆーかそこわ風邪気味の室井さんに言っても仕方ないでしょ」
「・・・・そこは、そうね。・・・レインボー最中、いただく?」
すみれがこてんと首を傾げて両手で手土産を差し出せば、室井も眉間を寄せるだけに留めた。
ガラスのテーブルには指紋一つなく、透き通った表面がつやつやと下の紫紺のラグを映しこむ。
手前に置かれた上品な湯飲みに、砂時計で頃合いを見計らい、室井が急須から緑茶を注ぐ音が流れた。
背後には黒に統一された味気のない家具に重厚な本が立ち並ぶ。
几帳面に管理されているというよりは、生活感のない部屋だ。
まるで、ショールームに飾られているような。
「あ、これ、俺好き~」
「青島くんはホンモノの方じゃないの」
「それもだけど、これも好きだよ」
青島が得意げに取り上げるクリーム色の葉巻状クッキーは、サクッとした口当たりが特徴の代表商品だ。
「ぽろぽろ零さないでよ」
「子ども扱いして」
汚すことも躊躇われるのは、スタイリッシュでモダンに統一されたクリエイティブ・クラスなのに、どこか貧寒なこの部屋のせいだ。
必要なものは与えられているのに、何かが足りない。
まるでそれは、室井そのもののようにすみれには映る。
何故だか居たたまれなくなって、すみれはひそひそと隣の青島の肘を小突いた。
「それにしても鬼の霍乱?ってゆーの?室井さんでも風邪引くのね~」
「言ってやるなよ、本人大層なプライドが傷ついてるんだろうからさ」
「それだからキャリアって」
青島くんの言い方もどうかと思う。
半眼ですみれが室井を見れば、今更だという風な顔で眉間を寄せていた。
キャリアは頭脳労働だけじゃない。いざという時に備えどれだけ屈強でタフな身体を保持できるかが問われる。
見た目の美麗さや清潔さもまた、キャリアに課せられる義務なのだ。
ノンキャリではありえない悪趣味なファクターが彼らの未来を審判するのであれば
今の室井は確かに失態に違いなかった。
「ところで室井さん、飯は喰ったんですか?」
「まだだ」
「んだよ俺には三食きちんと食えっていうのに」
「これから食べるとこだったんだ」
青島がしゃくしゃくとシガールを咀嚼する音を聞きながら、すみれは緑茶に手を伸ばした。
適温で淹れられたらしいそれは緑茶の旨味が感じ取れる。
丁寧に淹れたお茶なんて何年振り?
こういうの、どこで覚えるのかしら。
それとも、キャリアでいるうちに自然と身に付くものなのかしら。
こんな僅かな所作にさえエリートキャリアが透けて見える男を、すみれは長く見知ってきたつもりだった。
青島と出会ってから、やけに尖った部分まで透けてきて、意外と子供っぽいことも知って
その分、こちらの感情も激しく揺さぶられるけど、前よりは人間臭いとも思う。
すみれをそっちのけで青島の話を神妙に相槌を打つ室井は、どこか気を緩めているようにさえ見受けられた。
「・・・でね、それを俺が、こう、ここが決め処だ~って問い詰めたんですよ」
「青島くん、話を誇張しない」
「いいじゃない、結果は間違えてないんだからさ、過程くらい」
「室井さんの前だとかっこつけちゃって」
「うっさいよ」
そんなあたしたちのいつもの応酬に、室井は静かに目を伏せ耳を傾ける。
馴染んだ光景だけど、その表情は笑んでいるのだろう、軽く結ばれた口端が薄く緩められていた。
こんな顔もするんだ。
むくれて、意地を張って、むきになる怖い面しか、見たことがないのに。
あ、そういえば。
すみれは、ごくんと緑茶を飲み干して、未だ続く青島の一方的な会話に立ち入った。
「ね、室井さん薬は?他に必要なものとか。なかったら買ってきてあげるわよ?青島くんが」
「俺ですか」
「ああ、問題ない。ありがとう」
静かに礼を付け足す隣で、青島がひょこっと室井の顔を覗き込む。
遠慮がちに伸びた指先がその額に恐る恐ると触れ、考え込むように首を傾げた。
「測ったんすか?」
「面倒でな」
「まだちょっと熱い気がする・・」
「おまえの体温でそう思うんなら、あるのか、熱。薬が効いてるだけか」
「クスリ。苦いやつ?」
なにこの会話。
「入れたのは会議室にあった錠剤だ。残念だったな」
「逃げましたね」
だからなにこの会話。
「青島くん、粉薬飲むの?」
「うん、錠剤苦手」
あっさり言われ、何を聞きたかったのか問い質す勇気をあたしから奪う。
少しの気後れと緊張を持った、そんなすみれの気概に全く気付かず、隣で青島はレインボー最中まで平らげると
室井の出した緑茶を一気飲みした。
「めし、どうすんですか。なんだったらホントに買って来ましょうか」
「出前でも取るか・・・、君たちも一緒にどうだ」
「ぇ、いいの?」
「一人で食うのもな・・・」
「――だって!すみれさんっ」
キラキラと瞳を輝かせた青島が、すみれを振り返る。
あらら、もう期待満点って顔ね。
「メニューメニュー!室井さんは何が食えそうですか?」
「なんでもいい」
「食欲は?」
「そんな大層な風邪じゃない、君たちの好きなものを選べ」
「やりぃ!おごり?だよね!」
「・・・・勝手にしろ」
ガッツポーズをして身軽にぴょこっと跳ねた青島くんが、勇み足で台所へと消えた。
――あ、と思う。
今、青島くんのなかで一瞬警戒が解けた。
多分、ここまですみれにも発覚しないよう、巧妙にこの部屋の古参を悟らせないでいた。
大人しく椅子に座り、室井のおもてなしを受け、客人の顔をし、あたしと同じ新参者だった。
でも、今、青島くんは迷わずメニュー表を取りに行った。
この家の配置を彼は知っている。
きっと、一度や二度ではないんだ。ここに来たのは。
目の前では青島くんの脱ぎ捨てたままのコートを取り上げ、ハンガーに掛け直す室井がいる。
高潔で、高慢なエリート官僚であるその後ろ姿には一部の隙もない。
だからその隙は、相棒である片割れから砕け散る。
そうか、だから室井は青島を必要以上に近づけさせないのだ。
本当は生きるのが下手くそでやり方が一本気なだけで、その胸に熱いものを抱えていることを、あたしたちは捜査を通じて知った。
真っすぐな魂は時に流動的な所轄の言い分と正面衝突するけど
雲の上だった男は今、こんなプライベートまで見ても厭わない身近な上司へと変わっている。
それでも弱みを悟らせるようなミスはしなかった。
彼をそうしたのは。
「室井さんは、相変わらず青島くんのいいなりね」
「そう見えるか」
「ちょっと甘やかしすぎでしょ、図に乗るわよ」
二人が出会って、歯車が狂わされた。あたしの知らないところで、何かが変化した。
彼をそうしたのは、あたしじゃない。
生じた共鳴は、一体どちらの運命をより多く狂わせたのかを知るのは、空恐ろしい気がする。
「そうだったら、もう少し扱いやすいんだがな」
「・・甘えすぎなのは、室井さんの方か」
「かもしれないな」
部屋の隅に小さく畳んであったすみれのコートも取り上げ、室井はハンガーを通す。
遠くから青島の呼ぶ声が意識を裂いた。
「すみれさーん、蕎麦とピザ、どっちがいい~?」
「もっと高級なのないの」
「じゃあケータリングする~?」
「それだと仕事思い出すわね。やっぱピザがいいかな」
「考えてみたら風邪引きにピザってどうなの」
すみれが伺うように目線を送ると、室井が振り返りもせず応える。
「――いい、青島。頼んでやれ」
「ふぁ~い」
それから青島くんが持ってきたメニュー表で、ふたりであーだこーだ言いながらピザの種類を決め
また電話をかけるために青島くんが扉の向こうに消えた。
「室井さん」
「・・テレビでも点けるか?」
「室井さんはさ、青島くんのこと、どう思ってるの?」
高貴な背中を見上げながら呟く声は、恨みがましく溶けた。
やだな、こんなこと聞いちゃう自分も。そんな二人の間に入れていない自分も。
この寂しい部屋で、ひまわりが咲く様にここに青島が居る風景を脳裏に描いたすみれには
同じ切なさが見える。
きっと、室井はたくさんのことを与えて貰えて、満たされた。
手に取るように室井の寂寥感に染み込む青島の存在が分かった。
だって、それは、あたしもそうだったから。
「青島くんが、貴方を変えたよね」
「こんな歳となって、今更他人に左右されるのも困りものだがな」
「嬉しいくせに、すぐそういう言い方をする」
「本庁が朝令暮改では示しがつかないだろう」
すみれと青島のコートを整えると、室井は訪問客が訪れるまで読み込んでいた資料の束を丁寧に揃え直し、太い黒鞄に仕舞い込む。
大事そうに使い込まれているその鞄は、すみれも何度も目にしてきたはずなのに、やけに重厚に見えた。
経年劣化以外の傷が見当たらない手入れも行き届く黒革の光沢が、彼の几帳面でフォーマルな面を示している。
彼は、すみれの知らない世界で戦う側の人間だ。
雲の上の、遠いひと。
こんなところまで気を使わなきゃならない立場なのだ。紙一重の心理戦を日々潜り抜けていく。そうでなければ、負ける。
そりゃストレス溜まるわ。
あ、でも青島くんならカッコイイとか言い出しそう。
「そんな青島くんだから室井さんは救われるんだろうなぁ」
「そんな?」
「“室井さんならやれますよ!”とか?」
「そこは否定しにくいな」
青島の言葉にたくさん救われたのはすみれも同じだ。
不完全な欠片を慈しむように彼は触れてくれた。
だから、室井の気持ちは良く解かる。
なのにどうして青島は室井と闘うことを選ぶんだろう。
だったら青島くん自身は誰を必要としているの?
ここまで心を砕いてくれる人がいるんだって思うほど、青島は踏み込み寄り添ってくれる。
煮詰まって、息苦しくて、行き場もなくて、ただただ痛みを独りで抱えるだけの暗い日々はあたしの一部となって溶けていった。
同じ目線であってくれるから、甘えてしまう。それは、室井も感じたことだろう。
でもそれは狡いと思う。
闘い、啓蒙する立場になろうとする人間が、自分の弱さを他人に背負わせるのは、狡い。
そんな室井に感じるのは、苛立ちと深い、憤りだった。喉を干からびさせるくらいの癇癪がすみれの腹を煮立たせてくる。
「青島くんをあそこまで引き込んじゃったの、室井さんってこと、分かってる?」
「――ああ」
「ほんとに?!あたしたち所轄が抱え込まなくていいことまで彼に背負わせたのよ。青島くんの意思があっても、そこは狡いわ」
「そうだな、肝に銘じておこう」
その、成熟し、達観した物言いに、無性に腹が立った。
まるで、本気で大事にはしてくれないような身勝手さで、仕方ないの一言で身を翻してしまいそうな儚さで
勝手に惚れ込んだ青島くんが悪いみたいで。事実そうなんだけど!
それは、抱くすみれの想いへの答えとは真逆だ。
「青島くんはね、口を開けば室井さんの話ばかりなの」
背中を向けたまま聞く室井が少しだけ気配を緩める。
男らしい広い背中の向こうで、大事なんだなって分かるうっすらとした笑みを浮かべるのを盗み見る。
狡い。そんな顔。何もしないくせに貰ってばかりで。傷つけるしか出来ないくせに。
こんな寂しい部屋でそんな顔したら、あたしだって何も言えなくなる。
きっと、青島くんなら、もっと。
まるで愛しい我が子のやんちゃを見守るような変化にすみれの中で消化しきれない汚泥が渦巻いた。
「だけどね。ある日突然、青島くんの口から室井さんの名前が出てこなくなったの。・・・どうしてかしらね?」
静かな沈黙の向こうで、微かな音として青島がピザ屋に連絡を入れている声が届く。
鞄を探っていた室井の手が止まった。
ごくりと喉を鳴らし、すみれは時を待つ。
「昨日、接待の中で羊羹を貰ったのを忘れていた。・・・食べるか」
「・・・・」
誤魔化さないでという意思を込め、室井を強かに見つめるすみれの視線に気付いたくせに
室井は沈黙を肯定と受け取り、包み紙を開封し始めた。
奥で青島が玄関で靴を履く音が聞こえる。多分、さっき言っていたコンビニで煙草とペットボトルを買いに行くのだ。
「これも有名どころだ。君の好みじゃないか?」
「それで交わしたつもり?」
「・・・、青島のことなら君の方がよく知っているだろう」
「ええ。そうね」
だけど引いてなんかやらない。
何かが悔しいの。
「青島くんはね、根っから素直に出来てる人間なの。室井さんの名前を出さないことで距離を取らされたと思っているわ。・・・貴方でしょ?」
「・・・さあ」
「ここまで言ってもまだ隠すの」
「ばれているのか」
「うん・・・バレちゃった」
そうか、と言ったきり、室井は特に動揺も関心も示さず、羊羹を皿に並べていく。
多分、今更不貞を突き付けられたところで変わる感情ではないし、今更揶揄われたところで揺らぐものでもないんだろう。
どっしりとした深い情念を見せられて、すみれは屈辱を燻らせる。
一体何があたしは悔しいのだろう。
青島くんがあたしに黙っていること?二人が勝手に決断したこと?それともそういう関係になっているらしいこと?
青島が乗るも反るも室井の気分次第な危うさが、腹立たしい?
「ねえ、青島くんをあたしに頂戴?」
「・・・」
手は止めないが、室井がちらっとすみれを見た。
「・・って言ったら?だめ?」
「ここで決められることじゃないだろう」
「まるで青島くんが自分から離れるはずはないって自信ね」
「そういうことではないが」
「そういうことよ。絶対青島くんが自分を選ぶって思っているでしょう」
空となった箱を丁寧に畳み、ゴミ箱へ入れる室井の、思うよりきれいな筋肉が盛り上がる腕を見る。
不意に反らした視線に、釦を三つほどラフに開け、広い胸筋が覗く雄々しい素肌が目に入った。
急に、室井もまた男なのだと思った。
大人の男として、青島を欲した。
それがどういうことを意味するのか、改めて思い至ったすみれの身体が妙に汗ばんだ。
成熟した男が相手に求めることなど決まっている。
悪いけど、どちらがより欲しているかなんて明白で、それは容易に想像が出来た。
そのすみれの想像すら超えて、室井はどこまで激しく青島を求めるんだろう。
「どっちから・・・言ったの」
分かっている答えを敢えて問いかけていた。
青島が自分から言うはずがない。それは期待じゃなくて確信だった。
人を想う優しさを兼ね備えているからこそ、青島は自分の気持ちは絶対に口にしない。
室井を大事に思うのだとしたら、身を切れるタイプだ。
しっとりとした絢爛たる宇宙みたいな瞳が静かにすみれを呪縛し、薄く乾いた口唇が重々しく開いた。
「私からだ」
「・・・・それで、良かったの」
すみれなどに問われずとも何十回と問いかけただろうその問いに、室井は静かに瞼を伏せた。
護れるの、貴方に。
何をそんな浅はかなことをしてるの。
非難を込めたすみれの眼差しが室井へとねめつけられる。
「強引に言わせた。必要だったなどと甘えた答えでは君は満足しないだろう。だが傍にあることで強くなれると夢を見た」
「青島くんは室井さんにとって夢なの?」
「ああ」
「醒めたら捨てちゃうつもり?」
「いずれ、時は来るかもしれないが――それを君に言うのは、確かに狡いな」
「室井さんにとって大事なのは自分なんだ」
「・・・、私にとって、じゃない、青島にとって、だ」
「!」
嗚呼。
神様。どうして恋ってこんなに意地悪なのかな?
その瞬間すみれには理解できてしまった。すみれの想像通り、青島は室井のためなら身を切れちゃうのだ。
その時の青島が目に見えるようだった。
だってあたしはどれほど青島くんが室井さんを信頼し敬愛しているか傍で見てきた。
今の室井に自分が必要だと乞われ、どれだけ青島が拒絶したか。きっと、室井を優先することを条件に、ふたりは手を取った。
それが周りをどんな気持ちにさせるかも知らないで。
「きっと・・・青島くん、自分が傷つけちゃうこと、たくさん責めたよ」
「だろうな」
「分かってて手を伸ばすの・・!」
「・・・」
焼き切れるようなすみれの糾弾が鋭く飛んで、空気を裂いた。
深閑した夜の湖のように、一つのさざめきもなくすみれを見つめる静かな室井の瞳にはやりきれないだけの情愛と
強かな男の傲慢が同時に宿っていた。
洞察するようなその瞳をすみれも反らさず受け止める。
すみれには、自分が悪者になるよう、そういう言い方をしたのだと分かった。
きっと砂漠に雨が降るように、室井は焦がれ飢えた心を止められず、縋るように青島を引き寄せた。
奥底に鎮ませてしまった、青島の恋心を引き出すために。
烈しい攻防戦のような緊張が部屋を支配していたが、それはそっと睫毛を震わせたすみれによって神聖に解かれた。
目を反らしたのはすみれだ。多分今、負けたんだろう。
「あーあ。こんなにイイ女(になる予定の)女性が傍にいるのにな」
「そうだな、君になら盗られても仕方ないと思えるな」
「そういうとこが最低だわ」
余裕ぶる大人の発言に、つい天邪鬼な言葉がすみれの口から飛び出す。
「室井さんの気持ちなんて知らない。私が好きなのは青島くんなの!今見ているのも青島くんなの・・!」
「きっと、それは伝わっている」
「言えなかったのに?」
「勘の良い男だ。それに底なしに優しい」
「・・・同感だわ」
そうだ、きっと青島はすみれの気持ちを知っている。知ってて、この優しい距離を与えてくれているのだ。
なら、あたしは青島くんに何が返せただろう。
自分の傷痕に妄執して、青島くんに甘えてばかりで、彼の心を覗こうともしなかった。
蚊帳の外でお手軽に心配するだけで、怖くて立ち入れなかった。
束の間の夢を、愛するだけだった。
罪を罪と知りつつ、それでも一歩踏み込んだ決断をした室井の方が、やっぱり上手だ。
「諸刃の剣よ、分かってるの・・」
「・・・私の心配までするとは呑気だな」
そうして二人はお互いの誇りを護ったのだ。
狡い。先制され惨めな気分がすみれ自身を非難する。
「きっと、アイツはこれからも君を認め、受け止めてくれる」
「――こんないい加減なあたしじゃ軽々しく言えないよ・・」
「・・・なら、ここからはライバルだな」
「っっ////」
宣戦布告され、すみれはカッと頬を染めた。
それは、室井がすみれの本気を認めてくれた証でもあった。
すみれの淡い恋心を、室井は本気で聞いてくれた。
ここまで一人で必死に隠し、自身ですら認めてあげられなかった恋心が初めて報われた気分だった。
お手付きの男なんか願い下げよ、と言えるだけの強さはあたしにはなく。
悲鳴のような渇望が今も胸奥で叫んでる。
あ~あ。好きだったんだけどな。本当に。
不覚にも涙腺が緩んだのを知られたくなくて、すみれはむずがる赤子のように口唇を尖らせた。
「なによそれ。自信満々でむかつく」
イイ男すぎてムカつく。
そんなあたしを察したように微笑する物分かりの良さもムカつく。
タイミングを計ったように扉が開き、青島が帰ってきた声がする。
室井とすみれの視線が勝ち気に交錯した。勝負はここからだ。
上司なんだか男なんだか分からなくなった男の瞳はなんだかほっとさせた。
束の間の夢の続きを、この二人に甘えてもうちょっとだけ続けさせて貰う。
今はまだ胸を張って言えないけれど、いつかはきっと。
「たっだいまっ。ペットボトル二本買ってきた!」
「お疲れ~、二リットルのにしたんだ」
「うん、風邪には水分。・・・あれ、ようかんだ!」
「食べたかったら手を洗ってきて。風邪引きさんに移っちゃうよ」
「そうだった!やっべ」
未来を恐れることはそこまで重要なんだろうか。
奪われて初めて知る痛みは、二人の抱える重さにきっと似ていた。
それでも、すき。だもん。
はしゃぐ少年のような青島くんの背中に、ちいさく呟いた。
それは窓から吹き込む風音が吹き消し、そのシャツを軽く揺らした。

20180506