登場人物は青島くんと沖田さん。少しだけ新城さんと室井さん。室青の絡まないお話。室青ベース。
裏腹
1.
数年ぶりに立った湾岸署は随分と余所余所しく堅牢に見えた。
出迎えに来た男たちを軽くあしらい、沖田は迷いのない足取りで大会議室へと向かう。
別に今回は捜査部長としてでも謝罪でも見舞いでもない。
あの騒々しい季節に群棲した悪夢の様な数日は今はファインダーの向こう側の映像であり
この建物に移る前の事件だ。
「会場の準備は順調です」
「お疲れ様」
「開始は予定通り一時間後に」
「そう」
付いてくる職員に短く返事をし、すらりと伸びたその美しく典雅な足を惜しげもなく前へ出した。
赤いルージュ。ぴったりとした短いタイトスカートと磨かれた黒のハイヒールがその貫禄を鎮守し、女でありながら宰相であることをその身が示している。
華やかな靴音を奏で上げた。
女性であることを沖田は今も負い目としていない。利用できるのならそれも手段だと思う心情は、昔と変わっていなかった。
だがもう以前のように肩肘を張った勇ましいだけの生き方はしていない。
豊満な胸をふわりと包むブラウスが夏の肌を仄かに透けさせ、僅かに覗く素肌には小さなネックレスが光を取る。
自分の価値がどこにあるのかを知った今はやりがいと生きがいを教えてくれる。
それを示してくれた男のために生きる道もまた、栄位とは別の感歎があった。
目的の場所に着くと後ろから付いてきた職員が回り込み、沖田の目の前でその銀色の扉を大きく開けた。
「もうちょっと右っ、右だって!」
「右ってこっち?」
「逆だよ!」
会場には疎らに人がいて、スクリーンや配布物などの準備が着々と進められていた。
中央で何やら接触の悪いマイクで指示を出している男に近付いていく。
『落ちるなよ~』
『へーきへーき』
『じゃ、そのまま手、放しちゃって』
「相変わらず賑やかね」
『あ。』
声に振り返った青島が沖田を認めてへらっと顔を綻ばせる。
軽くお辞儀をする様子に古馴染みの空気が宿った。
「もう終わる?」
「ええ。バッチシ」
お互い何処かで姿は見掛けていたかもしれないが、こうして口を聞くのは久しぶりだ。
あの頃と何ら変わりない印象的な瞳で青島がわんぱくな顔をする。
室井と新城がツートップとなり動き出した新改革は人事異動も含め、今春から慌ただしく進められていた。
補佐として沖田が二人の元に付いて、そろそろ半年となる。
ピラミッド型組織の新体制はより高い意識と倫理観が求められる。確実なものとするには草の根からの理解と教育、支持が不可欠であるという理論着想の元
この夏、新たなミーティングが企画段階に入った。
その一環として所轄を回る定期的な講習を開いている。
運営リーダーに任命されたのが沖田であった。
室井を支える大役だと思っている。
本日の会場は湾岸署だ。
「青島さーん、資料の配布、j終わりましたぁ」
「おぅ、じゃ次、ペットボトル並べるの手伝ってあげて。今、和久くんが台車で残り運んでくるから」
「あ、来た来た」
夏美の声に振り向けば、和久が段ボールを積んだ台車を押してくるのが開いた扉から見えた。
何か面白いことでもあったのか、笑い声がここまで届く。
肩を竦めて青島が沖田を振り仰ぐ。
「うるさい奴らで」
「変わらないわね、ここは」
「元気だけが取り柄ですから」
「そうね」
青島が軽口に付き合ってくるので、揃って柔らかく目配せをした。
事件の時はあんなにぎらつく鮮烈な目をするのに、薄い色素の瞳は今はとても柔らかく愛嬌と透明感を持って沖田を映し出す。
「私語は多いけど、やるときゃやる奴らなんで。もうちょっと待っててくださいね~」
係長とは名ばかりだと思っていたが、こんなリーダーもまぁありなのかもしれない。
そう思わせるだけの説得力が青島にはあった。証拠に、みんな付いてきている。
本質を掴ませないアンバランスさが、彼本来の魅力なのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、不意に栗山が青島の後ろからひょいと顔を覗かせた。
「なんか青島さん、すごいですね~・・・、本店のエライ人と普通に話してるぅ」
「ん。なんで。話くらいするでしょ」
「フツー世間話なんかしてくれませんよ」
「本店はコワイ顔のひと多いもんね~」
「じゃなくて!なんでへーきなんですか?」
「何がさ」
「だって本店のスゴイひとでしょ。キャリアでしょ」
栗山が人見知りのする面差しで、萎縮しながら後から沖田を視線で示した。
きょとんとしている青島を尻目に、夏美も割って入ってくる。
「そうよね、この間の事件じゃあの室井さんとも対等に電話なんかしちゃって」
「そうそう!手帳を胸ポケットに入れて貰っちゃってさぁ!」
「“おまえ幾つになった”・・だもんねーっ」
「それそれ!」
栗山と夏美がお互い指さし合って黄色い声で盛り上がる。
おや?と沖田は思う。
あれだけ警視庁を巻き込む大惨事となり、数多の事件で名声と騒動を掻っ攫ってきた話題の彼らについて
同じ所轄が抱く印象としては少し違和感を感じた。
確かに所轄と本庁との差は遠く、騒動を主観的に査定する捜査一課と、客観的に見聞きした所轄では見え方が変わるのも自然で
そこから生じる理論や主体性、結果もまた、理解を隔てる。
また、時も移ろい、人も入れ替わった。当時を直接知る人間は少ない。
それならば当然なのかもしれないが、しかし青島がいて沖田が来たら、此処湾岸署では何かと話題にさせられても仕方ないように思えた。
ましてや室井・青島といえば今でも本庁では眉を顰めて語り継がれるスキャンダルだ。
この雑談と噂好きな面子が揃う湾岸署ならば、好奇心旺盛に事情通になっている筈だと勝手に思っていた。
知らないという方が違和感が残る。
「室井さんもさ~、青島さんを尊敬しろみたいなこと言ってたじゃん?」
「言った言った。それって凄いことよね、うちの係長、実はすごい人なのかな?」
「見えないけどー」
冗談半分に青島を揄う二人に、沖田は悠然とした笑みを湛える。
「あら、あなたたち知らないの?彼と室井さんは昔から色々あった、いわば女房役のようなものなのよ。室井さんがまだ管理官だった頃出会ってね」
「出会ったって言っても事件で、管理官と所轄でしょ、エリートとノンキャリでしょ」
「一緒に捜査に反発して逃亡したりもしたらしいわよ」
途端、上がる歓声。
「ええぇー!そうなんですかぁ?!」
「うそぉー!」
「駆け落ちみたーい!」
「あ!でもお父さんから少し聞いたことある!一緒に処分されたとか!」
どっと笑いが起きる中、青島が肩を落としてぼやいた。
「夏美ちゃん、そっちは忘れてよ」
「減給処分の方が青島さんには似合います」
「勘弁して」
「それ、悪夢じゃなくてこの間の現実ですもんね~青島さん」
栗山が後ろから半眼でヤジを入れる。
経費でアルコール類を誤発注した処分は風伝いに沖田の耳にも届いていた。
「まだそんなことやってるの」
「んもぉ、みなさん、そーゆーことは忘れてくださいっ、ほら、早くペットボトル並べるの手伝う!」
「「はぁーい!」」
和久が配り始めたペットボトルを手伝いに、掃けていく二人の背中を青島と共に見送った沖田は、その小さくなる背中を追うように
ぼんやり呟いた。
「意外だったわ」
「何がです?」
「約束もしてるのよ。・・・って、自慢しないのね」
「・・・・」
「もっと、キャリアにパイプを持っているんだって誇示しているのかと思ってた」
勿論それは沖田にしても冗談の域を出ない戯言のつもりだった。
青島だってそこら辺は分かっていただろう。だが、少しだけその瞳が陰る。
「沖田さんだって、思ってもいないくせに」
「え?」
「あいつらには・・・関係ないでしょ」
「・・・・」
「室井さんとの約束は、これから先を動かす彼らの自由のためだ。それで目的は達成されるわけで。俺の役目も終わる」
「貴方自身の保身にもなるのに?それとも室井さんを庇っているつもり?」
自分で仕掛けた矛先に、青島は分かっていただろう問をそれでも正面から返そうとはしなかった。
「長くサラリーマンやってきてたから。その反動かな?」
「それで満足なの」
「勿論!誰が警察を変えたか、なんてどうでもいいって」
***
勉強会は恙無く終了した。
送迎の車を待つ間、沖田は今度は片付けに専念する青島の背中をぼんやりと眺めていた。
確かに連携という意味ではキャリアとノンキャリがそう密に関与することは慣例的にも物理的にもなかった。
そもそも本庁と所轄の役割はまるで違う。
組織論を根底から問い直す今の新体制に於いても、ピラミッド型モデルは基本として継承されているし
縦型社会はその各階層が、与えられた役割と任務を全うすることで健全な形を維持統制する。
しかし、ひとたび事件が起きれば、室井と青島の、あの灼けつくような絆が浮き上がり、破裂する。
この間の事件だってそうだ。
共に仕事をするようになってから室井からは常に青島の影響や存在感が感じ取れた。
その思想、その理念。室井が動くそこには恒常的な青島との対極抗争があり、室井自身、常に問いかけているようでもあった。
なのに青島からは室井の影さえ見えない。
それが沖田には強い違和感となってしこりを残していた。
事件解決、つまりは結果が最重要であり、青島にとって室井はただのキャリアルートの一つということなのだろうか。
沖田が関わったあの事件でさえ、もう六年以上昔の話だ。当時が風化していても不思議はない。
そう言えば先程の青島との会話でも、室井との特別な匂い・思い出話さえ出なかった。
まるで関係無いかのような素振りだった。
そこまで考えて沖田は、いや違うと考え直す。
二人の信頼度合いは間近で見てきた人間の一人として、並々ならぬものだったことは肌が覚えているし、逢えば融合する逸脱した猛々しさは今尚記憶に新しい。
それは若さゆえに突っ走っただけの付焼刃などという簡易なものではない。
二人は今も確かに繋がっている。
解き放てばそれはまるで夜空に映え上がる大輪の如く燃え盛るのだ。
何より室井の方から青島への根強い執着が色濃く感じられた。
そう簡単に消滅したりなんかしないだろう。
では何故。
つまりは、巧みに隠されているのだ。青島自身の手に因って。
沖田の推理がそこに思い至った時、その背中にゾクリとした悪寒のようなものが走り上がった。
何やら背後に果てしなく広がる巨大な闇に呑み込まれたような気がし、部屋の照明が少し薄暗くなる。
大会議室のフロアは人も疎らとなっていて、どこか幽邃な空洞を感じた。
「お車の準備、出来ました」
「ありがとう、ちょっと注文したいことがあるんだけど」
「何でしょう」
「運転手をお願いしたい人がいるの」
名前を呼ばれた青島が、不思議そうな目で首を傾けた。
2.
夕暮れの湾岸を車は滑るように駆けていく。
「助かるわ。でも迷惑だったかしら」
「沖田さんからご指名頂けるなんて光栄ですよ~」
「お世辞もうまいわね」
「昔はね、よくキャリア乗っけて送ったもんですよ」
「室井さん?」
「――・・・」
具体的に指摘したら青島ははにかんだ吐息を落とした。
照れくさそうに頬を掻く仕草を、沖田の眼光はさりげない流れを伴って捕らえる。
「連絡は取っているんでしょ」
「いやぁ、ここんとこ忙しくって。事件、重なっちゃうんですよね~」
信号で停車した。
沖田の視線がさりげなさを装ったまま青島を細密に観察する。
すらっとしていて、足が長くて、しなやかさがあって。
出会った頃より歳を取っているはずなのに、青島はあまり変わらないように見受けられた。
熟れたような肌と長く伸びる首筋は異性を魅了するのに十分なフェロモンと色気を備えていて、普段屈強なキャリアばかり見慣れてきた沖田の肥えた目には
また一つ違った幽美な魅力を感じさせてくる。
女を意識させられるようなそんな目で青島を見たことはなかったが、精悍でありながら愛嬌のある整った顔と、少し薄い色素の甘い瞳はピュアで
甘美な姿態は男女問わずその目を唸らせそうだ。
高貴なラインを持つ室井とはまた違った魅惑を持つ男だと思った。
加えて豊かに変わる表情は人懐こく、これは室井でなくともじっと見ていたくなる。
そんな沖田の視線に気付いた青島がバックミラー越しに目を細めつつハンドルを切った。
「なんでしょ?」
「忙しいところ悪いけど、もう少しお話したいなと思ったの」
「どうぞ?」
青島にしても沖田の不自然な狙いに気付いていたのだろう。すんなりと促してくる様子は抗うことはせず警戒心のない気配で受け入れてくれる。
沖田は単刀直入に切り出した。
「さっき、本当にそれでいいのと聞いたけど、室井さんの方はどうかしら?別なものを望んでいるんじゃない?」
「べつなもの」
「彼、よく貴方を本庁に引き抜かなかったわね」
「あ~・・・。一度言われましたよ、出会ったばかりの頃。俺がめちゃめちゃ突っぱねちゃったからもう来ないでしょ」
「そうだったの?」
「むかーしの話ですよ、むか~しの」
ということは、やはり室井としても一度は側近としての価値に夢を見たことがあるということだ。
それはおそらく今も変わっていないことは室井の傍に着くようになった沖田には良く分かる。
だがいつしかその同族意識は共同戦線へとシフトした。
そのことが二人の意識に温度差を生じさせたのだとしても、青島のこの口ぶりからはやはり全て終わったことのように感じ取れる。
本当に、今の湾岸署では誰も知らないのだ。
勿論あれだけの大事件だった。警官を目指すくらいだから誰もが一度は耳にし、記憶の片隅くらいにはあるだろう。
ただ、その記憶と目の前の青島が結びついていない。
その昔、自分たちの係長が何を成し遂げ、どの程度関わり、誰の介助があって、そこで何が起きたのか。
単なる事件関係者でも傍観者でもないことを、もう彼らは知ることはないのだ。
それを一番望んでいるのは目の前の青島なのだろう。
不可解な朦々たる霧に包まれたようで、沖田は一旦視線を車外に向けた。
淡い紫色に染まる大気に沈むレインボーブリッジを越えていく。
海の水面がキラキラとさざめき、黄昏の都会が静かに点灯を始め、夜がやってくる。
「室井さんとは、もういいの・・・?」
沖田がぼんやりと呟いた赤いルージュの乗った口唇が光る。
所轄にはそういう人種が多かった。
やり方に口出しされたくないあまり、媚び諂う反面、皆が疎ましく二枚舌を使う。
だからこそ青島と室井の距離の取り方に沖田はどこか理想と夢を見ていた。
だからといってキャリアとのパイプをまるで特別視であるかのような高慢な態度を取られても、見下げ果てていただろう。
やはり男同士の淡泊な交友などこんなものなのか。
誑かされたようで、ショックを受けている自分に沖田は自分で驚く。
「んなことないですよ。ソンケーする上司ですから」
「尊敬、ね・・・。貴方たちはずっと繋がっていくんだと思っていたわ。それこそ子供のままのように」
「気持ちの面ではね、そんな感じですよ」
だとしたら尚更牽制や独占欲を見せ、所有権を主張し、心許せる仲間にはかつての英雄譚を語りそうなものだ。
でも青島はそうしない。
何故。
車内の空気がぎこちなくなったことを鋭敏に感じ取ったのか、青島が少し窓を下げる。
海風が大量の酸素を運び、少し息苦しくなっていた気のする胸に清涼感を抱かせた。
この精妙な気の回し方。
男としてのスキルなのか、或いは・・・元営業マンとしての配慮の賜物なのか。
沖田は感心するのと同時に舌を巻いた。
「モテる男ってかんじね」
「ぇ。どっからそんな話?」
「選択肢がたくさんあるっていうのはある意味詐欺なのね」
「なんでそうなるの・・・」
青島が前を向いたまま気を悪くした様子もなく、くすくすと笑う。
笑ったその顔がまるで少年のように夕陽に透けていた。
やっぱりどこかパズルのピースが一つ欠けているようなしっくりとこない溝を感じた。
「沖田さんだって、男が放っておかないでしょ」
「世の男性は気の強い女は好きじゃないみたいよ」
「分かってないな~、そういう女の方がイイ女なのに。俺なんかも実はハイヒールで踏まれたい方」
「じゃ、もらってくれる?」
「ぇ、ええぇぇ?まじっすか。踏まれるの俺」
冗談の延長で軽くあしらった言葉にさえちゃんと反応を返してくれる律義さに沖田は心が緩むのを感じながら
ゆったりとバックシートに背中を預け、その長い足を組み替えた。
繋がりと言うのなら、自分と青島だって長い仲だ。
こういう距離感を匂わせる気の置けない異性は意外に少なく、沖田はここの間柄もまあまあだと忖度する。
自分も大概勝手である。
その気の緩みが、沖田に前触れもなくふとあることを閃かせた。
――恋か。
そうだ、まるで室井と青島の交友は秘められた恋のようだ。
本当は強く惹き合っている筈なのに悟られないよう押し隠すしか出来ない。
相手のダメージとならないうちに身を引いていく。行き所を失くす激しい熱情のベクトルはドラマ宛らだ。
不意に閃いたそれは当たらずとも遠からずという気がして、沖田はこっそりほくそ笑んだ。
奇妙にも的を得ていると思えた。
「ねぇ、貴方から見た室井さんってどんな人だった?」
「えぇ?どんなって」
「付かず離れずの仲で十年以上。気は合ったんでしょ?」
「ん~・・・」
少し考えるような顔をして、また信号で止まる。
ハンドルの上に両手を抱え込むようにし、その上に形の良い顎を乗せた青島がふっと重たい息と共に艶のある声を落とした。
「・・・初めて見たキャリアがあのひとでした。頑固だし、笑わないし、曲げたことできないし、一人で戦ってるし。でもそんなとこがすっげぇ特別に見えて ね」
「・・・若そうね」
「若い若い。俺もまだひよっこでさ。右も左も分からない感じの」
「インプリティングされた?」
「・・、渋かったんですよ昔から。しかも容赦なく専制的な、ザ・警察官僚」
しみじみと連ねる青島の言葉は初めて聞く青島の心情なのだと思えた。
きっと誰にも話したことのない気心を今自分は聴けている。
湧き出る流れを留めたくなくて、沖田は口を挟むことを遠慮した。
知らず、手の拳を握っていた。
「こういうひとが警察動かしてんだ~って思った。でも融通利かないわ、こっちを見下す高慢だわで。一気に理想は打ち砕かれた・・・」
「あはは」
「でも熱いもん抱えてんですよね。だから力になりたいって思ったけど、俺がどうこうしてやれるなんて思いあがったこと、思ってないですよ」
信号が青に変わり、青島はゆったりとアクセルを踏む。
「長い付き合いになっちゃったなぁ・・」
「貴方がいなかったら室井さんは潰れるんだと思うわ」
「そんな柔じゃないよ。そんなもんだったらこっちからお断り」
朗らかに青島が微笑む。
「・・・なら、なんで今まで離れずにいたの」
「――なんでかな」
誤魔化そうとしていることと、この話をここで終わらせようとしているニュアンスを沖田は感取した。
手の内を読ませない話術は流石卓越しており、ガードは堅い。
しかしこちらもまた論破することを何より重んじる警察官僚である。
負けられない。
変な火が沖田の中で嗾けられる。
「今の彼の立場はまだ危ういわ。やっとあなたとの念願だった入り口に立った。それがどういうことか分かる・・?今まで以上のプレッシャーが圧し掛かってい る筈 よ」
「あのひとの人生って、辛抱で出来てんじゃないの」
「だから室井さんから貴方を引き離したら、恐らく壊れる」
「んな、大袈裟な」
「そんな彼を見て貴方は出世したらお役御免とばかりに敵前逃亡するの?」
「っ」
先程の自身の言葉が戒めとなって、青島が反論出来ずに軽く呻いた。
ちらっとバックミラーから投げる視線は、困ったなという予覚だ。
欲しくて欲しくて仕方がなかったものにオアズケをするように、室井が青島に直接引き留める言葉を言わないのも、そのためだ。
室井にとって青島は、ある種の褒美なのだ。
「沖田さんだっているじゃない。新城さんも傍にいるって話だし。あの頃よりずっと・・・味方は増えたよ」
「でもあなたの代わりだけはいないわ」
その人にとって生涯忘れ得ぬ人になる。心の片隅に永遠に刻まれる墓標となる――そんなものが一体人生の何の足しになるというのだろう。
「傍にいなきゃ意味ないのよ」
「沖田さん、意外と可愛いこと言う」
「そうやって、室井さんは誤魔化せないと思うわ」
「・・・だからだよ」
「え?」
車の走行に合わせて青島の髪が潮風に揺れ、シャツの襟を軽くはためかせていく。
「勢いであのひとの未来抱えさせて貰ってもさ、俺には荷が重すぎます。いざって時、俺に何が出来る?ここから先は特にね」
「室井さんがそれでもいいって言っても?」
「尚更かな。実質俺がしてやれることなんて早々ないんですよ。そんなのフェアじゃない」
「貴方たちの約束が叶うとき、誰にも知られないって虚しくない?」
「ちょっと違うかな。約束を叶えて貰いたいのは俺じゃない、これからの所轄とか警察の未来のためであって、自分の職場環境を変えて欲しかったつもりじゃな いですから」
「・・・」
「誰が此処を変えたとか、どうでもいいって。そこに俺がいる必要すらなくなるんだよ。室井さんは残るべきだと思うけど」
「あっさりしてるのね。大層な目標掲げたわりに。男のロマン気取ってるつもり?」
「そ?いいじゃん、名前刻まれなくてもさ。そのために室井さんにはトップに行ってほしかった。別に俺のためじゃないんだから、俺はもう、いいかな」
「いいの・・、それで」
その二度目の答えにも青島は二カッと笑って、俺は俺で好きにやるからいいよと気負いなく頷いた。
「誰にも渡せない過去があるから。じゅーぶん!・・・俺もオトコですから」
自分は社会的地位を保持する中で、そういう意識を持っていただろうか。
今思えば、あの頃は一番周りが見えていなかった。
女性初の管理官だと散々持ち上げていた者たちが、傷になると判断した瞬間、掌を返し敵に回る。
そういう組織であることは沖田も充分承知していた筈なのに、容赦なく沖田を糾弾した弾は、結果として致命傷を負わされた。
その窮地を救ってくれたのが室井であったが、キャリアをかけ恩を返していきたいと思ってはいるものの
それを室井が望んでいるかとか考えたことなどない。
「貴方の存在が・・・室井さんをここまでの男にしたんじゃないの?」
「買い被り。あのひとは元々お山の大将になるべくしてなったひとです」
猿山の頂点に立つ姿を同時に想像し、二人で目配せして微笑んだ。
「俺なんか、ただの通りすがりですよ」
誰かのために尽くすということは、こんなにも純粋で無垢なことだっただろうか。
そこに微塵の私益も我利もなくして、成就するものなんだろうか。
初めての管理官で感じた自分の無力さは、到底言葉になんかできない。
人は護り護られ戦っていくというよりは、孤独な闘いの中で、支えてくれる人が一人でもいたという奇跡が、幸せを生むのだと思う。
砕かれ、苛まれ、崩れ終えていく仲間を山ほど見てきた。
「でも、人は・・・そんな強くないわ」
「うん・・・ただ、一度でも愛されたことのある人間は強いですよ。例えそれがどんな不幸な結末であっても」
「――・・・」
何も言わない。何も悟らせない。
ただ密かに思い続け、全てを捧げる。
それは全部、室井のためだ。
室井の執着、青島の忠誠。
いじらしく全てを与えていそうだと思えた。
こういうタイプは、消える。
室井はそれを知っているのだろうか。
いや、知らない筈はない。だからこそ手放さないのだろうから。
それはなんとい情熱、いや執念なのか。
二人がお互いに向ける熱情はまるで恋と見紛う切実さがあった。
際限を知らぬ相手を護ろうとする強い燈火は、逸脱し手に負えないほど烈しく燃え盛る。
そうだ、やはり、恋なのだ。
「それが恋に応えない理由?」
「こっ!恋って」
回りくどい追及に焦れ、断定する沖田に青島は冗談の延長として当然のように行儀良く受け流した。
手慣れたかわし方はスマートで、もしかしたらこんな邪推は今までにもあったのかもしれない。
それでも、と沖田は思う。
言葉は多少脚色されるのかもしれないが、恋に敏う女の勘といっても差し支えなかった。
元営業とキャリアの化かし合いだ。だったら負けない。
「すごく、好きなのね」
「そりゃ・・・、でも、そういう話ではないですって」
「さっき、“勢いで貰っても”と言ったけど、そうしたかった衝動を抑え込んだ過去があるんじゃないの」
「やだな、言葉のあやですよ」
「認めないのは私を警戒しているから?それとも恥じているの」
「ちょ、ちょっと・・、飛ばしすぎ」
言葉以上に、青島の鮮烈な瞳が沖田を映し、肉厚のぽってりとした口唇を微苦笑に歪め、その大人ぶる深い笑みを崩した。
「じゃあ――私がいただいても良いかしら?」
途端、ブレーキを雑に踏まれ、車はがくんと衝撃で前のめりになる。
バックミラー越しに見つめ合った。
「・・・」
「・・・」
「・・・あ。・・・すいません、急に飛び出されちゃって」
指差す方角を見ればフロントガラスの向こうに子猫が走っていく様子が見て取れた。
変な沈黙が支配する。
仕切り直すように青島がもう一度車を発車させた。
本庁まではあと少しだ。
少しは動揺したとみていいんだろうか。
しばらくはどちらも口を開かなかった。
視線も合わない。
沈黙と、宵闇に流れる都会夜景が沖田の浮足立った心を鎮静化させてくる。
仮に本気の恋だと仮定して、それは幸せな結末を齎せるだろうか。
軽い気持ちで女子トークのように口にしてしまったが、ちっぽけな燈火は忌み嫌われ、むしろ不要なものとして処分されるのが妥当な感情だ。
抱いた純粋な感情を、無駄だと言われる、そんな恋にしかならないなんて。
でも彼らは告げもせず、触れもせず、だけど捨てられず、ここまで秘め護り抜いてきた。
沖田の指先が白くなるほどスカートを握り、脈打つ胸は窮迫したように鼓動していた。
二人の背後に果てしなく広がる深甚で巨大な闇が見えた気がした。
少しだけ不用意にこの二人の禁忌に触れたことを後悔する。
何度か口を開き、甘やかな吐息を重力に染め、言葉を選ぶように青島が落ち着いたトーンの声で口を開いた。
「あのひと・・・また見合い話、来始めてるって・・・聞きました」
「――そうね。近い将来警視総監を取られると上は踏んだのね」
「・・・。そんな見知らぬ女なんかより、沖田さんの方が、いいです」
「・・・・ぷっ、・・やだ」
その不意の一手が決め手となった。
沖田が緊張で強張った頬骨を持ち上げ綻ばせる。
「もぉぉ~・・・あなたって・・・」
「あれ、沖田さんが笑ってる・・・初めてみた・・・」
「だって」
「ぁ、あれ?俺、なんか変なこと言いました?」
「勝負は、私の勝ちね」
青島のきょとんとした飴色の瞳が不思議そうに艶めく。
一拍遅れ、その言葉の意味に気付いた青島は、まいったなという顔をして、髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「ずっるいなー」
「妬いてるの?」
「妬いてません」
「隠すのは見事だったわ」
「だから違いますって」
「その様子じゃ本人には気付かれることはなさそうね」
「ああ、あのひと鈍ちんだから・・・、って!そうじゃなくてですね・・!」
おっかしくて沖田は口許を手で覆って笑いを殺す。
可愛げがあるその一途な想いと、その対照的な影を背負う悲恋な境遇を否定していない青島の素直さに救われた気がした。
ああきっと、室井もこんな感じで青島に救われてきたのだ。たくさん、たくさん。
悠久の月日の中で。
「違うんですよ~ぅ」
「いいわ。この勝負、引き分けね」
それでも漏れる沖田の含み笑いに、青島の眉尻が情けないほど下がった。
強かな営業マンにしては痛恨の失態だったのだろう。悪足掻きを見せる青島に沖田はバックシートから目配せする。
青島が恐れているのは、室井との仲を流布され正当な評価を受けなかったり、鋭いパッシングを浴びることではなく
それによって室井が白眼視され、憶測が憶測を呼び、不必要な傷を負わせたくないことなのだと推察する。
そういう男だ。
「安心して。室井さんを陥れるような真似はしないわ」
「・・・・ええ、分かってますよ、もぉ」
赤紫色の透き通るような西空にビルのイルミネーションが幾つも星のように瞬く。
車は滑るように夜に変わり始めた都会の中に吸い込まれていった。
3.
室井が新城の背後からモニタを覗き込み指を差す。
「ここはこのビジネスモデルを根拠に・・・」
「こっちはどうします」
「そうだな、そこも詰めておきたいな」
「・・・ですか」
「ああ、君だって今、同じことを考えたろう」
「私は貴方ほど青島に絆されていませんよ」
「何故ここで彼の名を出す」
「室井さんは青島に始まり青島に終わる」
「今に始まったことか」
――ほら、こちらはこんなに分かり易い。
甘いのはどちらなのか。
皆がもう、その連結を当然のこととして受け容れてしまっている。
噂の怖さを誰より知りえるはずの本庁が厚顔無恥なのか、頑なに口を閉ざす青島の方が無責任なのか。
沖田はくすりと笑って瞼を伏せ、開きかけていた扉を大きく開けた。
「只今戻りました」
「ああ、ご苦労だった」
「本日の会議も無事完了です。戦利品付きで」
戦利品?
パソコンモニタを凝視しながら聞き耳を立てていた新城まで合わせ、二人の視線が沖田へと向けられた。
沖田の視線が扉を振り返ると、そこには申し訳なさそうな顔をした青島が所在なく立ち尽くす。
「・・・どうした」
「あ~~~、お手伝い?です。送迎を頼まれまして・・そしたら寄ってかないかと誘われまして」
「それでのこのこ付いてきたのか」
微かに目を細める室井とは対照的に新城がデスク越しから剣呑な声で応酬する。
青島もまた今更慣れっこな様子で特に気を害することもなく、べぇっと舌を出した。
「久しぶりだな」
「ですねー」
新城そっちのけで和やかに挨拶を交わす室井と青島を見て、沖田は荷物を置くと口を挟んだ。
「室井さん、ここは私が引き継ぎますから、どうぞ二人で。折角ですからラウンジでお茶でもなさってきたら」
「いや、しかし別にそこまで――」
青島が困ったように救いの視線を沖田、新城、室井の順にきょろきょろする。
「ここで私がお茶を淹れて差し上げても宜しいですが、そうなさいます?」
「それでもいいが・・・」
「お茶うけ、ありましたよね」
「だが、あまり引き留めるのは・・・」
渋る室井に青島も視線を彷徨わせた。
「いいいや、いいですよ。久しぶりに挨拶しにきただけなんで俺も。新城さんの憎まれ口も聞けたし!」
「いいご趣味だな青島」
「おうよ。たまにはそれ聞かないとね」
「いい度胸だ」
新城と青島の顔が少し寄り合って悪戯気な虹彩を瞬かせた。
脱力を隠せないじゃれ合いに沖田が口を挟もうとしたそのタイミングで。
「じゃ俺、帰りますね、仕事残してきてるので」
「なら青島、ついでにそこの菓子もやる」
「いらんわっっ」
「くれてやると言うんだ、いいから持っていけ」
ぶうたれた青島に新城が手土産らしき箱詰めを一つ手渡した。
「有り余った残り物だ。おまえにぴったりだ。でも名品だぞ」
「そゆことなら。・・・あ、草饅頭。・・ん?これ賄賂?」
「馬鹿者」
声を立てて笑いながら紙袋を受け取り、青島がぺこりと頭を下げるともう足は扉へ向かっていた。
「おっじゃましましたぁ!――あ、室井さん、少しは寝てくださいね!お疲れモード」
「やかましい」
「へへ」
ぱたんと扉が閉まると途端、部屋は静寂を取り戻した。
「いるといないとでは騒々しさがまるで違うな・・・、というか、アイツは本当に何しに来たんだ?」
ボヤキがてら新城が沖田を振り返る。
沖田は頬を赤らめ、拳を握ってまくしたてた。
「もうう!室井さんっ!折角連れてきてあげたのに何をやってるんですか!」
「わ、私か?」
「そーですよっ!久しぶりに会えたんでしょう!?追いかけてください!」
「え?しかしな」
「こういう時に意思確認しなくてどれだけ横柄なんですかっ、青島さんの愛情が永遠だと思わない方がいいですよ!」
隣でにやりと口端を持ち上げた新城の視線が一瞬だけ室井へと向かう。
その顔色の変化を室井もまた眼の淵に捕らえ、眉間を顰めた。
「君は一体」
「彼の方がよっぽど可愛げがあります。突けば零してくれますから」
「――、青島が何か言ったのか」
それは意外だという顔だった。
「言いません。でも、うかうかしている男は見切られるのが世の常です」
「!・・君は」
「分かっていらっしゃると思っておりましたが」
室井が口を噤む。その端正な顔に沖田はゆっくりと間を取ると、もったいぶるように、意味深に、断定だけを告げる。
「・・・消えます。ああいうタイプは」
それでいいのかと睨みつけると、室井はたじろぎ、その薄い口唇を引き結んだ。
口数の少ない室井の感情は誤解も多く生む。
恐らく青島は室井が迷惑をしていると誤解して、気を利かせて帰っていった。
「そうでないと仰るのでしたら私がお相手に立候補しても宜しいでしょうか」
「どさくさに紛れて君は何を言い出すんだ」
「彼も満更ではなさそうでした」
「言ったのか」
「ええ、貴方と違って」
仕事中に何をしてきたんだとは室井は言わなかった。
ただその眼光がようやく闇のように黒々と光を吸い込む。
沖田が一歩、近寄った。
身を屈め、室井の耳元に小さく一つ囁く。
瞬間、室井の屈強な身体が一瞬硬直したのが分かった。
身体を戻した沖田が、意味深に視線を捕え直した。
真摯で静謐な眼差しの深さの前に身を晒し、沖田は少し泣きたいような気分にさえなる。
この瞳に映ることがどれほどの価値と誇りを沖田に植え付けるか、この男は知っているのだろうか。
貴方たちみたいに人に優しく生きられたら、貴方は私も記憶に刻み込んでくれるでしょうか。
室井の緊張が部屋へと充満し、一気に室井から高潔ながら貧婪な気配が漲った。
「あいつを譲る気も離す気もないことだけは言っておく」
「ならば成すべきことは一つです。もう、宜しいんじゃありませんか」
室井が振り返る。
「新城、少し席を外す。そのまま進めていてくれ」
「はい」
室井が駆け足で扉を開き、飛び出していった。
「なんだって?室井さんは?」
「さあ・・・、男心は私には分かりかねますわ」
***
誰にも祝福されず、誰にも認められない慕情を秘めやかに抱く二人に、胸が軋んだ。
沖田を庇ってくれたのは室井だった。
女だからと、本人にはどうすることも出来ない葛藤を理由に人形として晒し者にされた。
同じく地方出身で学閥にも属さない彼は、その厭世的な苦難を知っていたからかもしれない。
優しくて甘美で、その分残酷な室井の愛し方に、別れの予感すら孕む手酷い未来を共振させる。
忘れてほしくない。失くしてほしくない。二人で熱く戦ったこと。
夢でも奇跡でも、無常な時の中でこの二人の背中にあるものを奪わないでくれと、願わずにはいられない。
トワイライトが感傷的な気分を多情に煽る。
あの頃の切ない想いが今の彼らを繋いでいるのなら。
窓の下に建物から飛び出してきた室井が青島の腕を引き留める様子が見て取れた。
後退る青島を室井が引き寄せ、もう一度青島が腕を払い、それを室井が捕まえる。
距離を詰め、向かい合って笑い合う二人は恋人同士そのものだった。

彼女(本庁)から見た世界。踊るって本来こういう話だよね。
20170810