登場人物はふたりだけ。付き合っている二人のお話。
忘れないと誓った昨日
そっと鍵穴にキーを差し込む。
錠前が上がる音がして解錠を確認すると、青島はなるたけ音を立てないようにして、ドアノブを回した。
「おじゃましまぁす・・・」
囁くような声で中の様子を窺う。
しんと沈黙する空気はピンと張り詰め、一ミリの揺らぎもない。
靴をポイポイッと放り投げ、部屋へとあがると案の定、部屋の主はソファの上で引っくり返っていた。
室内は散らかっておらず、質素とした、生活臭の漂わない空間が、鎮まり返っている。
コートがリビングの椅子に掛けられ、スーツのジャケットがソファの下に沈んで撚れていた。
取り上げ、椅子の背に掛ける。
半開きのカーテンから漏れる残光が反射するガラステーブルの上には、薄っすらと埃がたまっているのが見え
水周りは乾燥しきって皿一つ出ていない。
この部屋が、暫く使われていなかったことを伺わせた。
青島はコートだけを脱ぎ、ぽふぽふと柔らかなマットの上を進む。ベッドからタオルケットを持ち上げると、再びソファに戻り、膝を付いた。
じっと、室井の寝顔を覗き込む。
ソファに沈み込み、足も両方隅に収まっている。
帰宅した途端に、ここに倒れ込んだのであろう。
そう言えば、いつもならきっちりと揃える黒の皮靴も、少し斜めになっていた。
端正で締まったフェイスラインがスリムな軌跡を描く。
今は瞼を閉じ、規則正しい寝息を立て、長い睫毛が頬に陰りを付ける。
短髪の前髪が額にかかり、ネクタイは無造作に緩められ、いつもはしっかりと締められている襟元はボタンが三つ外れ、スッと伸びた首筋のラインが鎖骨付近まで覗く。
ベストのボタンも全部外れ、厚みのある無駄のない胸板が透けて見えた。
だいぶ疲労の色が残る。
細身だが屈強というイメージのある男だが、やつれても見え、誰にとも分からぬ反発心と庇護欲が湧き上がった。
スラリと伸びた脚が片方ピンとソファの背凭れに乗せられ、纏わりついたままのネクタイが首に掛かったままで
そこで力尽きたのだと分かった。
投げ出された手にはジャガイモが収まっている。
「?」
そっと、膝まづいた状態で、青島は顔を近付けた。
室井の匂いがした。
数回躊躇ったのち、寝息を漏らす薄く開かれた室井の口唇に、自分の口唇をちょっとだけ重ねる。
忘れていた感触がピリリと針のように神経に突き刺さった。
やわらかく、ふんわりと乗せられたそれは、瞬時に熱を奪い、誂えたように密着する。
泣きたいような、喚きたいような、それは尽くし難い衝動で、破裂するように胸奥から溢れ、青島はただ何度も口唇を重ねる。
自分より薄い口唇に補給するように重ねれば、どれだけ自分が触れたかったかを思い知らされた。
キャリア官僚である室井と、物理的な時間を組むことは困難で、数週間会えないことなどザラである。
逢うことよりも、逢わないことが、摂理だった。
いつなら電話に出られる状況なのかも分からないし、会議や勉強会、打ち合わせなど、出られない場合の方が多い。
深夜の帰宅は不規則で、切り詰めている睡眠の邪魔をすることもしたくはないから
必然的に青島から連絡を取ることは憚られた。
メールも、送ればいつかは読んでくれるだろうが、いつかじゃ意味がない。室井の手を煩わせることも気後れさせた。
当然、そんな不規則な生活を送っている室井が、青島のルーチンに合わせることは更に不可能で
あまりそういったことに積極的でない室井の性格も災いし、音信不通になることは二人の間で珍しいことではない。
今回は一ヶ月をとうに越えた。
室井がどこで何をしているか、今誰と居て、何を受け持っているのかすら、所轄の身分では情報が入ることは無く
ただ、接点のない日々が悪戯に過ぎた。
そんな時、理屈を越えて、心が何かを思う。
室井にとって、自分は日々の価値があるのだろうか。風のそよぎすら、負ける気がして。
止まらなくなって、青島はただ、触れるだけのキスを繰り返した。
我慢して、我慢して、そんな日々を平気な顔して笑うけど、平気なわけじゃない。
心の何処かが少しずつ乾いていって、何かが減っていく。
空は明るく天が広いほど、同じ空の下に居る筈のこのひとを、強く強く焦がれて、その想いを認めた日から、青島は欲しがることを放棄した。
堪え切れなくなる日常から、今日も平気なふりをして。
不意に吐息が乱れたような気がして、風を頬に感じる。
室井の片手が青島の後頭部に回る。途端、強く押され、口唇を強く押し当てられる。
角度を変えて、吸い付くように舐められると、そのまま、熱い舌が口唇を割って埋め込まれてきた。
下から突き上げるように貫かれた肉塊に、口内を侵略される。
「・・・っ、・・・ぅん・・・」
圧迫感に思わず目を閉じて、青島は覆い被さるような態勢で、室井の両脇に手を付き、その舌の侵入を受け容れた。
途端、強く吸い出され、甘噛みされる。
走る刺激に背筋が栗立った。
「ぅ・・・んん・・・っ、っふ、・・っ」
ごろん・・・と、じゃがいもが転がる音がして、室井がもう片手で肩を抱き込むように青島を引き寄せる。
完全に体重を掛けて乗り上げてしまう。
片手を後ろ髪に差し込んだまま、仰向けに寝た室井に、擦り合わせるように呼吸ごと奪われる。
室井の匂いと体温に包まれ、くらりと平衡感覚を失った。
・・・・・警察官は、身形に気を使う。
現場遺留品を紛失させてしまう可能性があるからだ。
コロンなどの個人的装飾品は、極力付けない。身綺麗に整え、髪の毛ひとつ落とさないのが、常識である。
ましてや、エリートキャリアともなると、公人としての振る舞いを強固に求められるため、そこに個人主張は一切入れないのがマナーだった。
だが、青島には室井個人の独特の匂いが嗅ぎ分けられた。
その匂いが青島を取り巻く時、いつだって胸が高揚し、同時に、遣る瀬無い痛みで締め付けてくるから。
肩に回っていた室井の手がするりと背筋を滑り降り、後頭部と腰を抱えられ、グッと引き寄せられると同時に口唇は塞がれたまま身体を入れ替えられる。
「ふ・・、ぁ、・・ぅ・・ん・ッ」
室井が圧し掛かるように青島の身体を下に入れ、キスの角度を変える。
先程よりも深く喉奥まで入り込まれて、息苦しさに青島は眉を潜めて少し顎を反らした。
それを、被せるように室井が上から塞いでくる。
室井の両脚が擦り合わせるように絡まり、ソファとラグの間に落ちた身体はフローリングに痺れるように組み敷かれた。
「んぅ・・・っく、・・ぅ、・・ぅ・・っ」
口唇を解放させてもらえない。
室井が搾取するこの一瞬、求められる高揚感に肌が震え、自由を奪われた身体は、咽返るような熱に合わせて勝手に暴走を始める。
青島は貪る男の手に全身を委ねた。
朦朧としてきた意識の中、触れれば思い出す記憶の希薄さに、飢えを強烈に、いっそ狂暴に意識する。
灼けるような荒い息と淫らな音に、より煽情され、喘ぐ肉体を室井の眼前に晒していく。
後ろ髪の堅く跳ねる感触を確かめながら室井の首に両手を回す。組み敷かれた脚が絡み合う。
酸素よりも重なることを求める口唇に貪る様に吸い付かれ、身体の裡から勝手に、抗い難い何かを炙り出されていく。
上がる息遣いが熱を孕む。
愛しい男の手に因って堕とされていく悦楽と共に、この男からは決して逃げられないのだという烙印を、刻みつけられた。
ワイシャツのボタンを胸元まで外され、ベルトとスラックスも半分寛げさせた所で、キスが解かれた。
溢れる唾液に湿った音を立て、ゆっくりと口唇を解放した室井が至近距離のまま、まだ濡れた吐息を青島の口唇に掛ける。
影に浮かび、じっと見下ろされる漆黒の瞳に、ゾクリとする。
「寝込みを襲われるとは思わなかった」
「・・・・」
「行儀が悪いな」
「あんなかっこで寝てる方が悪いです」
「だが悪くない起こし方だ」
青島がまだ惚けたままの眼を向け、自分の唾液で濡れた男の口唇を指先で拭うと、その手を取られ、口元に運ばれ、含まれる。
「いつ来た?連絡入れなかったろ」
「たった今ですよ」
「そっか・・・・」
「怒った?」
「いや・・・・」
気付かなかったな、と室井が独り言のように呟き、青島の首筋に顔を埋めてくる。
柔らかく濡れた軟体が、撫でるように首筋を這った。
「ん・・・、・・・ぁ・・・っ」
「逢いたかった」
「俺、だって・・・・・」
「・・・・何週間ぶりだ?」
「数えたくない」
何週間かと問う言葉の痛みに気付かぬよう、青島は圧し掛かる男の髪を引き寄せた。
ピリリと電気が走るような鎖骨の感触と濡れた動きに、眉尻を下げながら、漫然と天井を見る。
ゆうに一ヶ月は越えている暦を、本当は、意識もせず過ごせる方が幸せなのだ。
こんなに会えなかったのは、流石に付き合い始めて、初めてのことだった。
会えなくなれば欲しくなるのと同時に、如何に自分の恋する相手が遠い雲の上の人物であるかの烙印を、浮き上がらせる。
このひとが頑張っている根源を振り返る度、恋心が潰された。
好きになんかならなきゃよかった。
そうすれば、穢れるものを厭わず、自己実現に何の矛盾もなかった。
この想いは邪道であり、室井にとって穢れでしかない。
神にも世にも社会にも、認めても祝福しても貰えないこの道に、このひとを引き摺りこんだ。
このひとに、腕を引き寄せられた時、跳ね付けるべきだったんだと、今も思う。
だけど出来なかった。
男らしく鍛えられた厚い胸板に切ないほど強かに抱き込まれ、耳元に熱く掠れる声で想いを告げられた時
この他には何も要らないって思う程、想いが弾けた。
その湧き出た想いは、誤魔化しのない漆黒の瞳に全て曝け出され、もう・・・・その腕を放して貰えることは、なかった。
それが、どんな残酷な道になるかなど、その時は思いもせずに。
「ちゃんと・・・・確認して来たか?」
「・・・あ~はい・・・大丈夫・・・だったと思う・・・・」
「そか・・・」
室井がほっとしたような、仕方なさそうな、暗晦な溜息を吐き、顔を上げた。
今日は夕刻間際、隠れるように私的連絡を貰い、久々に逢える約束が取り付けられた。一ヶ月半ちょっとぶりだ。
急なことだったので青島の方が予定が立てられるか分からず
いつもは青島の部屋を使用する逢瀬を、今夜は室井の部屋に指定した。
付き合うようになってから、青島が官舎付近をうろつくことは、なくなった。
二人の関係を邪推されることは慣れていたが、有らぬ部分まで噂されては、査定に響く。
稀に訪問する際は、到着時刻直前に連絡を入れ、辺りの気配を室井が伺ってから、決行の合図を返すというのが、二人の間に敷かれたルールとなった。
今日は、それを怠った。忘れちゃったという素振りを青島は見せる。
本当は、疲れているだろう室井を一分でも休めるかもしれないとの計算もあって、頭の片隅でほっとした。
「?」
青島の両脇に手を付いて、室井がじっと見下ろしてくる。
その瞳が、少し深い色をしている気がして、青島は首を傾げて見せた。
それでも室井は神妙な眼差しで、青島の瞳を覗き込んでくるから、青島は不意に懼れを感じ、室井の前髪をわしゃわしゃと掻き回した。
「こら」
眉間に皺を寄せ、抗う手を取られ、柔らかく縫い付けられる。
再び振ってくるキスに、顔を背けた。
何か、決定的なことを言われるのは、今は嫌だ。少なくとも、今日は。
「やーですよぅ」
「悪戯するぞ」
「もうしてるじゃん」
こうしてじゃれ合う時間は、いつまで続くのだろう。平和的で郷愁的で、そしてノスタルジーだ。
いつか、楽しかったななんて一人偲ぶ時間が来たら俺は耐えられるのだろうか。
「ねぇ、なんで、じゃがいも?」
「・・・・ああ、おまえが来るというから、カレーか肉じゃがでも作ろうと思ってたんだ。実家から米が届いてな」
「ああ、良いですねぇ。俺、室井さんの作る料理、好きなんだよな~」
「そうか」
「ん。・・・几帳面なようでいて割と雑なとこもあるのが味」
「言ったな。そういうおまえは男の手料理まんまじゃないか。・・・どっちがいい」
「ん~・・・」
言いながら、室井が腰を引き寄せ、まだ柔らかいキスを仕掛けてくる。
卑怯、なのかもしれない。
この手を取ってしまってから、俺の中の幸せ像は、歪んだ。
この人の描く未来に光を見、誰よりも尊敬し、何よりも崇拝し、揺るぎない幸せを望んでいたのは遥か昔で
このひとを手放せなくなって、逸脱されていく。
いつかその時が来たらと思っていた最後のモラルが、どんどん嘘になって、今も確かに在る筈の願いは潜め、恣意ばかりが膨張していく。
もう、一人の未来が思い描けなくなった。
俺を置いて一人で幸せになるなんて許せないって、思ってる。
男の下で脚を開かされ、想像も出来なかった場所に欲望を埋め込まれ、限界まで裂かれた躯を思うままに悦びを仕込まれていく背徳の日々。
甘く、蕩かされ、男の愛撫に因って喘ぎ、性感を覚えられるようになった躯が疼き、訳も分からなくまるまで耽溺させられる愉悦に、最早抗うことは難しく。
その強烈な肉悦の記憶は、どこか、魂を共鳴させたあの法悦に近い。
俺の上で夢中で貪る男と共に果てる共有感は、共鳴していただけで虜にさせられていた俺を、更に芯から溺れさせた。
俺にここまでしておきながら、離れていくなんて許せない。狡いとすら思う。
捨てられたくない。
一緒にいたい。
そんな、普通の恋の感情が、悪情になることもあるなんて、思いもしなかった。
「両方」
「腹減っているのか?」
「すっごく」
「どっちもって言われると困るんだがな・・・」
「室井さんの好きな方」
「よし分かった、ポトフにしてやる」
「ぽぉとぉふぅぅ・・・?」
こうやって、このひとが俺の上で柔らかく笑う時間を手に出来るなら、何を賭してでも惜しくは無いと思ってる。
それは、以前はこのひとのポストについて、思っていた感情だ。
今の俺は、きっと、このひとに相応しくない。
ニヤリと意地悪な笑みを見せた室井が、ふと表情を固め、不意に少しだけ目を眇めた。
じっと探るような瞳で青島を見下ろしてくる。
・・・・そういえば、さっきもこんな目をしていた。
暫し、良く分からない沈黙の時が流れ、室井はもう一度、晦冥さを湛える瞳を少しだけ滲ませた。
「少し、ミスったか・・・」
「・・ぇ・・・?」
独り言のように口の中で呟かれたそれは、意味の通らぬもので、青島は瞬きをした。
困惑の青島を置き去りに、室井は細長い指先を青島の頬に滑らせ、顎を捕え、青島の口を塞ぐ。
底から奪い取るような始めのキスとは違い、戯れのようなさっきのキスとも違い、宥めるような、包むようなキスに、青島はなんだか身の置き所を失くし
腕で室井を押し退け、キスを解いた。
こんな、オンナノコを扱うみたいにされるのは困る。ますます怖くなる。
あっさりと離れたものの、室井は尚、青島の覚束ない手を絡め取る。
「逃げるな」
「ん、もぅ・・・なん、すか・・・」
「おまえはそうやって閉じ込めてしまうから・・・」
「・・ん・・?」
「――悪かった。インターバルはもう少し短めにする」
ゾクリとした悪寒が背筋を走り抜けた。
勘が囁く予感に嫌な予兆が目の前に広がった。
「何言ってるか・・・よく判んない・・・」
ふっと吹き出すことで深甚な空気を冗談で紛らわそうと青島が身を捩ると、それも阻止され、思ったより真剣な眼差しで視線を奪われる。
「今度からは何処かで電話くらい入れられるようにするから」
「・・・ッ!」
何故、室井がそれを口にするのか。
前触れも無く言いだされた提案に、青島も表情を失くし、室井を見上げた。
「俺が気付いていないとでも思っていたか」
「・・・・」
「おまえは一人放っておくと、一人先走るから」
「・・・・・なに、それ」
「いつもどこか俺に負い目を抱いていて、俺のために暴走していく。あんま放っておくと勝手に袋小路に入っているだろ。定期的に思い知らせておかないと」
独裁的なその言い方はワザとだと分かったが、動揺を隠すため、それに乗る。
「そんな・・・見え透いた・・・・罠に引っ掛かるかよ・・・」
「俺に抱かれる度どこか辛そうな貌して・・・、我儘ひとつ言えないくせに。強がるな。大方、今も自分を責めているんだろ。恋に踏み出したのは一緒なのに」
「・・・・!」
全部、気付かれている。
見透かされていた。俺の諦観も躊躇も打算までも。
このドロドロとした非道な感情まで引き出されそうで、青島は怯えて身を強張らせた。
だが、逃げようとした身体を押さえられ、指を絡ませられる。
慙愧と恐怖の思いで横を向こうとしたが、手を当てられ、視線も戻された。
「大丈夫だ」
「なに、が・・・?」
「存在ごと消してなかったことにしたがっているだろう・・・・、それでもいい、やれるもんならな」
「どう、いう・・・意味・・・」
「忘れさせたりなんか、させない。何度だって思い出させてやるから。おまえは何も怖がらなくていい」
「・・・ッ」
「何処に行っても見つけ出すし、連れ戻す。俺の傍から放さないから。だからそんな顔をするな」
どんな顔をしていたのか、自分じゃ分からない。
だが、淡々と激昂すらせず言葉を紡いでいく室井の言いたいことは分かった。
「どんだけ、あんた・・都合良いこと言ってるか」
「簡単なことだ。俺の手を握っていればいい」
迷子にならないようにな、と付け加えられた言葉は、説法のように響き、青島は苦笑を歪ませた。
なんだかちょっと、泣きそうだ。
室井の前に無限に広がる世界の道は、閉ざす訳にはいかないものだ。
室井は室井のものだけど、室井だけのものじゃない。
冷たくも落ち着きのある厳しい眼差しが、世界を捕え、あるべき形へ統率する。その卓越した君臨者の資質。
だから多くの者が畏れる。鬼才と密かに呼ぶ者もいると風伝えに聞く。
誰もが惰性や甘い汁に澱んでいく中で、要領の良いやり方で濁っていく中で、不器用にも決して手折れないその崇高な精神に、魅入られるのだ。
それには何の足しにもならない、俺の向こう側で。
「ねぇ・・・・もし・・・」
「もし、はない」
「でも、もしも――」
「青島。・・・もしもはないんだ」
言わんとしたことも、気付かれた。
結婚して、子供を儲けたら。
この男は、そういうレールの上に立っている筈の人間だった。
保証された未来から、俺は何の権利で引き摺り降ろすのだろう。
子供も作ってあげられない。
公的な保証をさせてもあげられない。
護りたい。大切にしたい。その想いが俺を切り裂いていく。
「俺は、仮定法未来で語られた証言には重きを置いていない」
「なんで・・・・」
「刑事だからな」
「・・・・」
暫く見合って、それから二人でくすりと笑った。
確かに、刑事の捜査が仮定法だけで成り立つのなら、物的証拠も法的措置もこの世に必要は無くなる。
確証の無い未来では、誰も説得など出来やしない。
それを、このひとはキャリアという道で、骨身に浸みる程学んだことだろう。
でも、このひとは自分の価値を分かっているようで、時々、分かっていないような行動を取る。
その危うさは、もしかしたら凡人には分からない度胸なのかという気にさえさせられる。
遠い、世界だ。
「俺、とっきどき、室井さんの大雑把な論法に感動しちゃいます」
「俺もおまえの大袈裟な推理には感動してるぞ。おんなじだ」
両手で頬を掴まれ、鼻先を触れ合わせて室井が上から覗き込む。その瞳が少年の様に煌めく。
「忘れるな。おまえは俺のものだ」
甘えることへの躊躇いは、会えない時間が作りだす。
常に横たわる不安と引け目が、理性を取り戻させる。
なのにまた、会ってしまえばこうして、甘い誘惑に逆らえなくなる。
これに俺は委ねてしまって、本当に良いのだろうか。
「俺はおまえの現在形の言葉が欲しい。あまり俺を追い詰めないでくれ」
・・・・ここでそんな弱音を見せるのか。
論法の巧みさにも舌を巻いた。なんだかもう負けた気にすらなって、青島は頬を添えている室井の手を取って、その指先に軽く歯を立てた。
その仕草を見た室井が、青島の指ごと、舐めるようにキスをする。
「おまえは何も望まないから・・・救い方が分からなくなる・・。俺といるのに一人になるんじゃない」
「あんたには知られたくないんだよ」
「知りたい・・・全部」
「後悔しますよ?」
「させてみろ」
「なん――!」
突如、途切れた言葉の先は室井の口唇に呑み込まれ、そのまま息継ぎさえ与えられない狂暴なキスに襲われた。
それは正に雄の欲望を剥き出しにした慟哭で、向けられる烈しさに身体が戦慄する。
まるで野生の獣のようだ。
痛みさえ感じる程に舌の根から吸われ、濡れた音で絡み合わされ、ぶつけるように、何度も何度も擦り合わせる野蛮さに
ついには息さえ苦しくなって、青島はきつく目を閉じた。
覚束ない手を掴み取られ、角度を変えて、腫れあがった肉感を繰り返し苛められる。
「足りない・・・」
「・・ッ、欲し、ぃ、の・・・?」
「欲しい」
口唇が触れ合う距離で晒される惜し気もない欲望に煽情しているのはどちらなのか。
室井に、乱暴に髪ごと顔を押さえ付けられる。
雄の本能のままにした荒々しい口接の名残りを残し、上向いたまま喘ぐように呼吸を整える青島は虚ろな目で室井を瞳に映した。
「俺から離れようとするな・・・・そうじゃないともう・・・・・」
その後は、なんと続けるつもりだったのだろうか。
室井の眼が雄の色に閃光し、身から迸った激流に、青島の身体は電気が走るように痺れる。
髪を五指に差し込み、すぐさま乱暴に塞がれた粗雑な所作に宿る貪欲な飢えは、あどけない子供のような剥き出しの残酷さに似ていると思った。
歪んだ形に変化したとしても、それは室井への愛以外、何物でもない。
歪んでしまったことまで、室井は受け容れてくれるんだろうか。弱さも狡さも全部。
誰にとはなしに、これは俺ンだと叫び出したくなる強迫まで。
額と額を合わせ、祈るような所作で、室井が堅く目を閉じているのを、不思議な気持ちで青島は見上げていた。
・・・・・全てに強靭な魂と精神を持つ男が、ただ一つ恐れるもの。
それがきっと、俺なんだ。
漠然と理解する。それはあまりに強引で乱暴で、狂乱な。だけど決して歪まない直向きさだ。
なのに青島には、幼い寂寞を覗かせ、怯えを向けるこの男を、可愛いと思った。
「・・・へーき・・・ちょっと、怖くなっただけ・・・」
離れたくない。
俺がいないと寂しがる、このひとの傍から。このひとが、寂しがって、くれるなら。
ああ、と応えた室井の声も、掠れていた。
穏やかに秒針の音が響いていた。
いつもの、深閑な瞳が、青島を湛える。
柔らかいキスを慰めにして、室井が小さく「飯にするか」と囁いた。
身を起こし、青島の手も引っ張り上げてくれる。
「米と一緒にじゃがいもだの人参だのも沢山あるんだ。少し持っていくか?」
「いいの?」
「合っても使いきれるかどうかが微妙だ」
「んじゃ、少しだけ頂いていきますかね・・・室井さんとこのデカイし」
「・・・・・良ければ――その・・・、ご実家にも少し、持っていけばいい」
「・・・え?」
「今回は口添えをして少し多めに送って貰った。・・・・・どうせ、おまえ、色々と用事を付けては帰っていないんだろう?」
付き合い始めたあの日から、なんとなく一度も俺が実家に顔を出せずにいることを、気にかけてたんだ・・・。
青島は驚いて台所へ向かっている室井を振り仰いだ。
俺は、どうしたら許されるか、そればかり考えて逃げるばかりだったのに。
なのにこの人は決して逃げない。
室井だって多忙な中で、自分のことで手いっぱいだろうに、だが男の才幹と器量を背負い、青島のことまで気にかけている。
告白した責任をとらんと言わんばかりに。
どうすれば、最後の欠片を欲しがって泣くこのひとを、安らげるのか、そればかり考えていた。
室井は現実を見ているんだ。
出来ないことじゃなく、出来ることを探している。俺に何も捨てさせないために。
家族じゃなくても寄り添うことは出来るのだと証明している。
青島の存在ひとつで、潰れるような男でも、燻るような男でも、なかった。
敵わないなぁと思う。
「俺とは違って会いに行き易い距離なんだから、行ける時に行っておけ。この仕事の鉄則だぞ」
「・・・はぁい」
それでも二人、この道で一緒に生きていくことを選びとった。
あの日の怖さを忘れない。
後ろめたさも非難も誹謗も、何も消せはしない。
何も持たない。
それでもあの日の決意は、深々と降る雪のように日々の中で降り積もり、いつしか導く道標となっている。
色褪せないあの日の恋の始まりに、忘れないと誓った全てを抱えて、二人ぼっちのこの先に十字架を背負い、廃れていく。
二人ならばと、心の底から分かち合ったあの日のままに。
もう、引き返すことは、赦されず。
どうせ堕ちていくなら、底までがいい。
深い底まで罪に塗れ、溺れさせられて引き摺り込まれ、羞恥も矜持も捨てた委ねた躯が茹だるままに。
あんたとなら。
いっそ、貪ってくれていいと思う。
きっと煮え切らない俺を煩い、今度は最低月一で電話を掛けると計算しているだろう男のスッとした背中を仰ぐ。
恐らく、初っ端の「何週間か」の問いも、俺を探るフェイクだったに違いない。
ほんと、敵わない。ってか、ちょっと悔しい。
誓い合った場所は同じだった筈なのに、あの時、咽ぶように俺を抱き締めて、どうしようもないくらい好きなんだと告白した男は
知らない内に一歩先へ大人の男へと変貌してしまった。
また置いて行かれた。
だったら、嘆く傍ら、とりあえず、追い掛けて行くとこから始めてみるか。
その夜、一緒に作った初めてのポトフは、ちょっとしょっぱかった。
Happy end

結局絆される青島くん・・
20160118