登場人物はふたりだけ。付き合っている二人のお話。











玄関に立ち尽くした青島は、いつもより硬い表情をしていて、横に口唇を引き結んで俯いた。
栗色の髪から滴り、コンクリに浸みを作る雫が、まるで泣いているように見せる。

「どうした?早く上がれ」
「室井さん・・・・・お見合いしたって、本当・・・・?・・・・すみれさんと」

驚き振り返ると、深い色を湛えた真剣な眼差しの胡桃色の瞳が、真っ直ぐに室井に向けられていた。
息を呑んで、言葉を失う。


〝今から行っていい?〟
突然の電話はいつもより低いトーンで、朗らかな明るさが魅力の彼にしてはらしくなく、物足りなさを残した。
そもそも、青島からこの官舎に来たいと言い出すこと自体、あまりないことだ。
二人の関係の表面化を危惧し、交際を始めた当初から暗黙に敷かれたルールがある。

数十分後に表れた彼の表情も予想に反しない沈鬱さで、何かあったのだろうと憂慮した矢先
青島は、室井の背中にそう投げかけた。


その真意を見定めるため、室井はじっと奥妙な瞳で青島を見つめる。
逸らさぬ視線の強さは、また、その決意の高さを伺わせた。

彼に、誤魔化す気は無い。
嘘も優しさの一つだと把捉できない歳ではないが、彼との関係に、嘘だけは滲ませたくなかった。
誤魔化しの多い関係だから、綺麗事でも、真実だけで繋がり合いたかった。
それは、青島もまた同じだと思っている。
礼儀として言わないことと、偽事で塗り固めることのケジメを、きちんと付けていてくれた。

気付かれないように息を吸い込み、室井は平静を装ったまま、腹に力を入れる。

「ああ、本当だ」
「・・・・・そっ・・・・か」

既に事情は色々聞いているのだろう。多くを探索せず、青島はただ、承諾の溜息を浮かばせた。
追求と言うよりは確認という感じの趣意が伺える。
でも少し様子がぎこちないのは確かだ。

「見合いなど今更だろう」
「うん・・・・、そう、なんですけど」

くしゃりと前髪を掴み、遣る瀬無い顔をして横を向く。

外は小雨が降っているのだろうか。
小さな光る水滴をばら撒いた細髪が、少しうねって指先にかかる。

「断ったっていうのも・・・・聞いて」
「ああ」

正確には断られたのだが。
だが、今更見合いが彼に何の心証を与えたというのだろう。

青島との付き合いは長い。
出会ってから紆余曲折合り、ようやくお互いの中のもう一つの感情を暴き、共有するに至った。その間、それこそ色々あった。
生半可な気持ちで愛を告げた訳じゃない。
中途半端に奪った訳じゃない。
ようやく一人占めできた夜は、興奮で眠れなかったことさえ、鮮烈に覚えている。

そうして密かな逢瀬を繰り返すようになったが、公には出来ないだけに、その関係は表向きには今も友人でしかなかった。
高級官僚である室井の元には、付き合い始めてからも、度々見合いの話は飛び込んだ。
その場で断れるものは断ってきたし、実際、会席にまで出向いたことも何度かある。
青島には、その都度告げることはなかったが、風の噂などで色々察してはいるようだった。

「恩田くんに何か言われたのか」

ふるふると、青島が首を振る。水滴が落ちていった。

「俺、怖くなった。・・・その縁談、本当に潰して良かったんですか・・・?」
「どういう意味だ?」
「だって・・・・っ」

青島が口唇を引き結び、苦しそうに吐き出す。

今更、見合い話など、蒸し返すような関係ではないと思っていたから、室井は驚いた。
見合いを断り切れないのもまた室井の立場の性であり、だからといってその度に心変わりするとは思われていないと思っていた。
室井が愛しているのは青島ただ一人で、その寵愛を受ける本人が、それを一番良く知っていると思っていた。

玄関のダウンライトだけが照らす空間は、やけに陰気くさく空疎な空気を湿らせる。
ドアの向こうから隙間風の音が聞こえた。
急激に気温が下がった気がした。

「俺、今まで見合い話来たって、そんなの室井さんが受けるわけないからって、タカ括ってた。どんな女が相手でも、勝つ自信だってあった。でも・・・っ」
「でも?」
「敵わない・・・・、すみれさんじゃ、敵わない・・・・っ」
「・・・・・」

両手で青島が顔を覆い、天上を向く。

「みっともね・・・・っ、こんなの・・・・。でも俺、すみれさんがどんなに良い女か、知ってる・・・・どんなに可愛くてどんなに素敵で、どんなに優しいか・・・」
「でも彼女は――」

彼女が好きなのは、おまえだろう、と言う言葉は呑み込んだ。
言うのが、悔しかった。

二人の関係は、同じ職場に居ない外から見れば、その仲睦まじさと共闘認識は、羨ましいほどだ。
常に傍で寄り添い、見つめ、語り合えるその距離は、一朝一夕で手に出来る代物ではない。
見せ付けられるだけの、稀有な愛情が、確かにそこには静かにあって
同じように青島を見つめてきた室井と、同じ瞳をするすみれを、何度も目にしてきた。

勝てない、と思ったのは、自分の方だ。

「すみれさんとなら、きっと上手くやれます。室井さんの事情も良く分かっているし、気の付く女だし。すみれさん、だって官僚夫人狙いだったんだから」
「断られたのは俺だぞ」
「そんなの、強がりに決まってんでしょ。女の嘘見抜けなくてどうすんの。すみれさん、色々傷痕気にしているから・・・。でもそんなの男には関係ない。口説いてやんなよ」
「口説くにしても・・・」
「彼女、意地っ張りだから。でも、根は素直で、すっげぇ女の子なんだよ」

そんな風に、彼女の繊細な心の裏まで分かってしまう、青島とすみれの関係の方が、室井は妬けた。
そんな風に、彼女の傷を理解してやれることが妬ましかったし、そんな眼で彼女を見つめないで欲しかった。
朴念仁の自分では、この先も同じだけの気の付く言葉など、掛けてやれる自信もない。
護ってやることは出来ても、掬い取ってやれることは限られているのだ。

それを、青島なら呼吸をするように自然に包み込んであげられるのだろう。
それを望む、彼女の小さな肩を抱き寄せられる距離で。

「すみれさん・・、絶対室井さんのこと好きだよ。ずっと一緒に居たんだから分かっちゃうんですよ、そういうの」
「まさか」
「少なくとも、特別には思ってる・・・。それに、俺以上の時間であんたを見てきたんだ。色々分かってもくれるよ」
「・・・・」
「だとしたら・・・俺なんか、勝てっこないなって・・・・・思っ・・・・」

そこまで言うと、青島は言葉を途切らせた。
息を殺す吃音が聞こえる。

くるりと後ろを向いてしまった青島の背後に歩を進め、室井はそっと後ろから抱き締めた。

「それで」
「昨日今日会っただけのどんな女にだって、俺、あんたを譲る気なんかホントなかった・・・・負けないと思った。でも、すみれさんだっていうなら・・・・俺・・・・」
「それがおまえの結論か」

ここで、青島は天上を向き、大きく息を吸って、体裁を整え直した。

「良いと・・・・思います。あんただって、割と好きでしょ、彼女のこと」
「それは・・・・まあ」
「俺、狡い男だ・・・あんたの将来のこと思っているふりして、でも忘れてやるもんかって思ってた・・・見合いで取られても、どこかでそれでも一番は俺なんだって思ってた・・・」
「それは・・・」
「今だって、あんたの気持ち知ってながら思わせぶりな態度とって、なのに、こんな勝手に突き離そうとしてる・・・」
「・・・俺の、ためか」
「けど、やっぱり、辛いです・・・」
「おまえ・・・」
「ラストチャンスかもしれません。結婚して、家庭を持って、社会能力見せ付けたら、あんたの立場だってガラリと変わる筈だ。・・・・俺には・・・・できないことだって・・今更・・っ」

最後の声は、聞き取れないほど、小さかった。
見れば、手の甲を口元に当て、嗚咽を堪えながら横を向いている。
零すまいとしたその瞳は、痛ましさに濡れ、ダウンライトを辛子色に反射していた。

馬鹿だなと思った。
室井のために一番効果的なことを、常に客観視出来るその俯瞰は、洗練された思考能力を見せ付け、その類まれな才能に、感服する。
そうやって、何もかもを犠牲にしてしまうから、その可愛い嫉妬も幼い博愛も、何もかもが室井には愛おしい。

それでも頑なに身体を強張らせる青島を、ただ、黙って後ろから抱き締める。

同時に、これが、ふたりの恋の勝敗を分ける最大の根拠でもあると、室井は思っている。

すみれもきっと、そんな風に青島に身も心も包まれ癒されることを、望んでいると思われた。
青島もまた、こんな風に限度を知らずに捧げてしまえる男だから、きっと、すみれを際限なく甘やかせてあげられるだろう。
だからこそ、駄目なのだ。

青島にも、包み込み、暴走する若いエナジーを制御する相手が必要だ。
双方が抱き込まれ、包まれることを求めているから、いつかどこかで無理が生じ、その犠牲的精神は恐らく青島の方を圧迫する。
それを本人が一番分かっていない。だから渡せない。

「足手纏いで・・・すみません・・・・」

柔らかく抱き締めれば、青島からは濡れた雨の匂いがした。
乱れた心のままに、訪ねてくれたことが、愛おしかった。
抱きしめていた腕を緩め、小さく項垂れる肩を掴み、こちらを振り向かせる。
少しだけ嫌がった身体に力を込め、両腕を掴んだ。
覗き込めば、今にも泣きだしそうな瞳と出会う。

「そうやって、俺を幸せにして、おまえはどうする」
「きっと・・・なんとかなっていく」
「それでいいのか」
「相手がすみれさんじゃ、文句の付けようもない・・・です」
「俺がそれで幸せになれるとでも」
「今、自分で幸せって言っただろ」
「俺の幸せはおまえと共に在る。それは変わらない」
「俺はずっと近くに居ますよ。これからも。別な幸せも掴むこともまた、リアルなんじゃないですか」

まるで駄々っ子のような言葉の応酬に、ついに焦れた室井が、思い切り抱き締めた。

「本当にそうするつもりなのか」
「それがいいって・・・・・言いに来ました」
「本気か」
「俺が本気だって言ったら、あんたは行ってくれる?」
「行く気はない」

肩の上に顎を乗せた青島が、苦笑いを零し、室井の腕から抜け出そうと手を添えた。
それを許さず、回す腕に更に力を込める。

「室井さん・・・っ」
「離す気はない・・・・、そう言った筈だ」
「でも・・・っ」

後頭部に五指を指し込み、強く肩に頭を押し付けさせる。
回した腕で柔らかい身体を腰から引き寄せ、きつくきつく抱き締め、その首筋に鼻を埋めた。
青島の少し湿った柔らかい髪が、煙草の残り香を強め、室井の頬を擽る。

「俺の心はもう、おまえと共にある。いつどこに在ってもだ。だから、恩田くんに・・・失礼だ・・・」
「そんなの・・・付き合っていく内に変わっていくよ・・・」
「変わらないと今言っただろう」
「でも」
「じゃあ、何でおまえはそんな顔してるんだ」
「・・・っ」

埋めていた顔を上げ、耳に指を掛け、青島の顔も上げさせる。
目の前に濡れた胡桃色の瞳とぶつかった。
そっとその頬に添えた親指で、下唇をなぞる。

「好きって言うんだ」
「言えない」
「俺が好きだって言え」
「・・・言わないっ」

潤んだ目と濡れた髪や口唇が更に欲を強め、室井を芯から煽る。

「・・・・ありがとう」

不意に告げると、青島が虚を付かれたような顔をして、口を噤んだ。

「俺も先々のことは色々考える。だが、俺はおまえがいい」
「すみれさんと一緒に生きて・・・・俺との約束も続くって選択肢もありますよ?」
「俺が彼女を抱いても良いのか」
「・・ッ、・・抱いて・・・やんなよ・・・」

青島が痛みを乗せた表情で、口唇を噛み締める。
その瞳を真っ直ぐに見詰めながら、告げておくべきことを、口に乗せた。

「それはない」
「なん・・で」
「恋をしているのが、おまえだけだからだ」
「・・・っ」
「抱きたいと思うのも、誰にも触らせたくないと思うのも、一人占めしたいのも、おまえだ」
「むろ・・さ・・・」
「だから・・・・失礼だろう?おまえを想いながら彼女を抱けっていうのか」
「・・・・男なら、勃つだろ・・・」
「演技で・・・虚像の家族を作り上げることは可能かもしれないが、おまえは俺がおまえを監禁したい程に飢えているのを、分かっていない」
「・・・・・・・・ばか、じゃないの・・・」
「かもな」

困ったような、迷ったような、くしゃくしゃの顔で、青島が小さく微笑もうとして、失敗した。
明後日の方角に視線を投げ、手の甲を口元に宛てて、息を殺している。
その顔を、愛しさと揄いの色を乗せて覗き込む。

「俺のために、無理をさせてばかりだな・・・・」
「全くです・・・」
「厄介な相手に惚れたもんだ」
「清算するなら、今ですよ」
「それだけは出来ない相談だ」
「強情っぱりだなぁ」

「おまえこそ、俺にぞっこんだ」
「んなことないですよぅ」
「そうじゃなかったら俺が惨めだ」
「よくいう」
「ここまで来たら、もう最後まで二人で走らないか」
「そうゆう台詞は警視総監になってから言ってください」

こつんと額を合わす。

「生意気だな」
「あんたがくさい台詞言うからでしょ」
「もう黙れ」
「・・・なら黙らせてよ・・・・」

徐に腕を引き寄せ、室井はその口唇を塞いだ。
抵抗も無く、青島の温かい身体がストンと室井の腕の中に落ちてくる。
両手で頭部を掴み、顔を傾け、口唇を忙しなく擦り合わせていく。

堪え切れぬ嗚咽を漏らした青島が、首を傾け、我武者羅に口唇を押し付けてきた。
熱い吐息が漏れ、それに煽られ、室井も息継ぎもさせずに強く押し当てる。
熱い舌を絡め取って、痛みを伴う程に吸い上げた。

触れられる歓喜に、身体中の細胞が震動している。

バランスの崩れた背中を壁に押し当て、自身の身体も擦りつけるように押さえ込んだ。
両拳を壁に付き、閉じ込めるようにして口唇を奪えば、青島の手が強請るように室井の横髪を掻き上げ、愛おしそうに後ろ髪に指し入れた。
柔らかく受け止めているその口唇を更に深く割って、奥深くへと侵略していく。

「ぁ・・・っ、室・・さ・・・、ぅん・・・っ」

甘い息が熱く孕み、どろどろに蕩けた媚肉が絡みつき、境目が分からなくなるほど溶け合っていけば、何もかも共有できるだろうか。
このまま、背徳も倫理も越えた深淵へ、二人で強烈な快感と共に溺れさせてしまいたい。
崩れ落ちる程の愉悦が欲しい。




青島は、室井が告げた告白の本当の意味を、今も知らない。

触れてはいけないと思っていた。
触れたら多分、消えてしまうから。
その覚悟を越え、遂にその腕を引き寄せた時、もう決めたのだ。

この先、何が起こっても、この手だけは離すことはしない。
目の前から消さないために。
狡といと嘆いた青島なんかよりもずっと、独り善がりに青島を想っている。


「今夜は・・、眠らせてやらない・・・、そんなこという奴には、思い知らせてやる」

だから、狡いと泣く青島が、この上なく愛おしかった。
誰にも譲ってなんかやらない。
誘われる前に、奪い取ってやる。






Happy end 

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20151225