登場人物はふたりだけ。付き合い始めのふたりの覚悟。
逃げないと決めたあの日
「煙草をくれないか」
「室井さんが吸うの?」
答えもせず黙ってしっとりとした瞳を見せ、青島はやがて、くしゃりと笑って胸ポケットをまさぐり始めた。
「ん、ない。切らしているかも」
今度は開け放たれたままの窓辺に首を突っ込み、カーテンの下に転がっているいつものショルダーバッグを覗き込む。
暫くしてから、撚れた鞄の底からくしゃくしゃになった煙草を取り出してきた。
「残り一本。一緒に吸いましょか」
それはいつもの銘柄ではなく、フィリップモリスだった。
玄人タイプだがアメスピと違い、癖の強い香の多いアメリカンシガーの中では万人向けの、コンビニなどでも買えるメジャーな煙草の銘柄だ。
「魚住さんがね、見兼ねてくれたんですよ。・・・・買い損ねちゃってて」
肩を竦めながら室井に煙草を翳して見せ、差し向けた。
それを受け取りながら、室井は呟くように言葉を繋ぐ。
「最近・・・煙草を吸わないな」
「そ、かな。まあ、吸わないひとの前で吸うのもね。健康には丁度良いや」
「・・・・成程、良く出来た答えだ」
「・・・」
付き合い始めてから、青島は急速に大人への成長を見せた。
大人ぶった、と言うべきだろうか。
顕著に表れるのが、こういったプライベートに及ぶ習慣の変化だ。・・・・特に、その無垢な身体を拓いてからは。
汗で滑る腕の中、完成された美しい括れの躯をしならせ、室井に全てを赦し、官能の深みを徐々に開いていく処女性。
まるで、女が男の腕の中で艶めき開かれていくように
青島もまた、縋る指先に力を込める嬌態で、抱くごとに享楽を室井の眼前に咲かせていった。
室井にだけ晒される媚肉を玩弄し、深い所まで赦されている時の、その自分だけが見れる淫蕩に溶けた貌は
嫋々の喘ぎと、堪え切れずに啜り泣く掠れた悲鳴と合わさり、あまりの娼婦性に、室井は耽溺する。
息を詰めるように声を洩らし、肌を震わせ感じる姿が殊更淫猥で、もっと淫らに善がらせたいという雄の欲を引き出させた。
惜しみなく全身から返される室井への情愛の広さと深さに、身体中が痺れ、心の奥にも躯の奥にも、強く痛いほどにこちらが刻みつけられていく。
時を合わせ、彼の中でも何かが変わり始めているのが、室井の裡に爪痕を残す。
ジッポを渡そうと延ばした青島の腕を奪うように引き寄せ、室井は顔を傾け寸でで止めた。
ハッと驚く息が目の前で飲まれる。
口唇が震える至近距離、夜風に揺れる前髪の、その奥に潜む闇空を映す瞳を、ただ、深くまで見透かすように覗き込む。
やがて、目の前で震える睫毛が閉ざされ、青島の方から柔らかい膨らみを押し付けてきた。
睫毛を伏せ、口唇を舐め上げる仕草に誘われ、遠慮なくその柔肉を割る。
ざわわと青葉を揺らす風の音に混じり、卑猥な水音がぴちゃりと耳元を奏でた。
焦れた舌が誘うように室井の舌の後を懸命に追う。
壊してしまいたいほど苛烈な愛しさは、こうやって簡単に呼び起こされる。
こくんと嚥下する音が聞こえ、少し口腔が狭まるその隙を逃さず、焦らしたままだった舌を一気に絡め取った。
「・・・ぅ、ん・・・っ・・・、・・・っ」
青島の顎が、急激な刺激に少し引かれ、身構えるように躯が強張る。
腕を掴んだまま足を踏み出し、身を寄せることでそれを暴き、角度を変えて更に強く口唇を被せた。
呻いた声が微かに聞こえ、濡れたように滑らかに光る栗色の細髪は艶艶と流れていく。
青島の甘く水っぽい唾液が室井の舌にさらりとした感触を残し、とぷりと水打った。
口接に応えようと必死な仕草で自ら開く口唇も、普段の彼からは見えない従順性で
匂い立つ色香と切なげに少し眉を寄せる表情が、ここがテラスだということも忘れさせた。
ひとしきり貪った後、室井は水音を立て、ゆっくりと口唇を解放する。
惚けた瞳が月を映して表れ、室井の眼前で透明に瞬いた。
それは、聖女のような犯し難い美しさで、室井を意識ごと魅入らせる。
ひどく、清純で、明媚だ。
「どうして煙草を変えた」
青島の濡れた吐息が熱く触れる中、忘我の瞳が室井の前で平静を取り戻す様子を至近距離で味わうように待つ。
「気分・・?」
素直に吐く訳が無いことは分かっている。
「その演技力なら確かにほとんどの人間を騙せるだろうな」
「アメスピが、吸いたかった?」
「・・・・・」
バレバレだったと、微かに目尻を染め上げると
青島は倦怠感を匂わせる動きで室井の腕から抜け出し、ふっと視線も逸らした。
テラスに両肘を付き、横を向く。
新宿の高層群が紅い点滅を繰り返し、闇夜に浮かんでいるのが背後に見える。
「・・・追求、するんですか・・・?」
「気付かないとでも思ったのか」
或いは気付かないことにしてほしいのか。
口下手な室井が黙しているのとは違い、青島は自分の意志で巧みに感情も真実も虚像に変えてしまう。
多分、死ぬまで舞台の上で踊れる人間だ。
その哀しい性を、自分のために駆使させる訳にはいかない。そんなことをさせるつもりもない。
不意に離れた身体に夜風が走り抜け、それは先程より冷たく感じさせた。
青島の水っぽい唾液がまだ口唇に残り、ひんやりと五感からキスの名残を長引かせる。
・・・・だが、いつからだろう。
この甘く潤うキスに、煙草の匂いが混じらなくなったのは。
「・・・火」
軽く煙草を咥えつつ、投げやりに告げると、風除けに手を翳し、青島が室井にジッポを灯して送る。
顔を近付け、大きく吸った。
整髪剤の効力が薄れた室井の短髪が、、パサパサと夜風を打つ。
紫煙が闇空に向けて、溶けていく。
高層ビルに囲まれ、くすんだ東京の空は、星の一つも見えやしない。
そのまま、何回か、肺にまで煙を入れる。
煙草など、吸いたくなる時はいつも決まっていた。
「・・・・室井さん。俺ね。幸せって、思ったの、久しぶりだった。でもそれ、脆いもんだなって。何でも怖くなる・・・・何でも」
語尾が掠れたように風に溶け、漫然と青島が月を見上げている。
瞳は夜空と同じ蒼色だ。
何でもするから、と、続けさせないために、室井は睦言にも似た青島の徒言を視線でいなし、青島の右手に治まったままの空のシガー・ケースを取り上げた。
くしゃくしゃになったそれは、随分長いこと鞄の底に沈められていたことを伝える。
吸い掛けの煙草をくるりと回し、青島の口に押し込むと、大きな飴色の瞳が柔らかく滲み、コテンと首が傾げられた。
青島が目を細めながら二三度吸い、また、室井へと煙草を差し出す。
仄かなバニラ香が鼻を過ぎった。
「一緒に居られるだけで、幸せなんです・・・。一緒に明日を目指せて、楽しいよ俺」
「・・・・」
「それが、今の俺の全てだ」
言い切って視線を投げた青島の言葉を、動揺一つ覗かせない瞳で、室井はただ、寡黙に耳を傾ける。
室井の口から紫煙が空へふわっと溶けた。
きゅ、と、テラスの手摺を両手で握る青島の指先が、少しだけ力んだのが目の縁に入る。
「傍に、居たら・・・・駄目ですか」
その口ぶりで気が付いた。
青島は、室井に、この関係性がやはり無理だと告げられるのを恐れている。
二人の恋路を責め立てられることそのものではなく、室井の中で終幕を告げられることを、恐がっている。
この密な繋がりに歪みが出るとするならば、それは当然、室井の立場の上にしかない。
だからこそ、それを少しでも先送りにしようと必死なのだ。
そしてそれを理由に、先に自分の方が別れの決断を選んでしまいそうな予感を。
「・・・・・」
何も言葉を返さない室井に、青島は酷く寂しそうな顔をした。
捨てられた迷子のような、崩れそうなその顔を見遣ってから、室井はまたひとつ大きく息を吐き、灰を落とす。
ようやく現れた室井のリアクションに、青島が縋るように視線だけを上げる。
まるで判定を待つ罪人だ。
・・・・まったく。
一度決めたらあれだけ強気で走れる男が、自分自身のこととなると、こうも煮え切らない。
ベッドであれだけのことをされておきながら、今更室井がまだ手放す気でいると本気で思っているのか。
「コートや髪形も変えるつもりか」
「・・・・」
「そんなことを――、俺が許すとでも思っているのか」
「・・・・でも・・・・」
室井は肩で大きく息を吐いた。
室井から青島を彷彿とさせるもの―――――例えば特徴的な煙草の移り香や、官舎付近での既知コート出現頻度。
二人の密なる関係をほんの少しでも嗅ぎ付けられるものは
全てリスクであり、脅威だ。
発信側が意図的に排除しなければ、利用されボロ雑巾のように絞り取られる。
だからこそ、青島は室井から自分の気配を消そうとしている。
室井に促されるままに躯を開きながらも、一方で、存在ごと消えようとしている。
それは、甘さだけを持つこの関係の露見と、それに伴う偏見、何より室井の経歴にリスクが伴うことを、彼が極力恐れている証だった。
自らの恋情よりも深く。強く。
自らが足枷とならないために。
恋の継続という身勝手な欲望などではなく、室井のキャリアと立場だけを警守する、堅固な扶持だ。
「なんで黙っていた」
「決めたこと・・・?だって俺のことだもん、いちいち言わないですよ」
「本当にそうか?」
引く素振りを見せないと、青島が妖艶に染まる笑みを滲ませる。
「――、俺にとって・・・あんたへの中傷もダメージも、俺自身を刻むより痛いんだよ」
「そんなまじない程度の努力に本気で夢を見た訳じゃないだろう?」
「だって・・・・・他にやり方思いつかなかった」
やることは遊戯のようであっても、自分のためにじわじわと己を消していく青島が、切なく、哀しい。
恋をすることで、そんなことをさせたい訳ではなかった。
本質を変えねばならぬ恋など、恋ではない。
無個性にすることが、恋の目的ではなかった。
事は煙草一つかもしれないが、そういう自己ファクターを変えていくことが、本当に正しい恋の在り方とは、もう思えなかった。
相手のために歩み寄る努力とこれは、本質が全然違うのだ。
俺たちの恋は、愛すれば愛するほど互いを奪い、行き場を失くす。
恋に迷う俺たちは、お互いのことしか見えなくなったら、それはきっといつか、足元さえも見失う。
青島の変化は、いずれ来たる未来を具現化されているようにも捉えられ、それが齎す代償を見せ付けた。
青島が、室井のためにアイディンティティを消していくというのならば
室井もまた、同じく、この道の先でいずれ必ず、この手を泥に染め、その身を闇に堕とす。
その渦に、青島を巻き込んでしまったことで、彼をも変化させてしまう時代趨勢が、胸に突き刺さる。
そんな哀しい恋しか出来ないと思いたくない。
そんなのは、約束への努力でもなければ、社会的責務の履行でもない。
仕事ですらない。
それはまるで、室井から去っていく処弁をしているようにさえ見えた。
ふわふわの感触を確かめるように室井は五指を青島の髪に忍ばせ、くしゃりと握った。
青島が上目遣いで室井を見上げてくる。
「怒った、の・・・?」
「――、怒られるようなことだとは思ったのか」
「・・・・・」
何処か怯えを感じさせる口ぶりに、室井は内心苦笑した。
青島の中の矛盾が、彼を混迷にも脆弱にも、している。
なら別れると言うべきか。
だが、戸惑い、弱気になっている青島が、一方で、室井だけに曝すこんな表情を嬉しくも思う。
室井には最近、強がる一方で、こんな何もかもを委ねたような戸惑いの態度を覗かせてくるようになった。・・・やはり、これも恋の魔法なのだろうか。
そこに、醜い程の仄かな歓びを感じながらも、不意に口を出たのは、恨み言のような言葉だった。
「俺の前から消えるような真似だけはするな」
「俺、あんたを護るのは俺でありたいです。他の奴になんか譲りたくない」
少し口唇を尖らせ、拗ねるように青島が告げる言葉は、傲慢な宣言のようでいて、何処か懇願のように響く。
「・・・もう、充分支え合ってるだろが」
「足りないし・・・・」
「これ以上、何を望む」
「・・・傍で・・・力にならせてくださいよ・・・」
「傍にいるだけじゃ、俺がもう我慢できない」
瞼を伏せて言い切ると、隣で微かに力無く笑う青島が、俯いた。
大胆なことをする割に、機嫌を窺う様子が、子供と大人を同居させたミステリアスな危うさを惹きたてる。
肉を包む灼け付く卑猥さまで知ってしまって、もう、躯に刻みこまれた熱が、別離を許さない。
いつの間にか捕り込まれたのはこちらの方で、既に手遅れな場所まで来てしまった。
「・・・・、こんなにあんたのことでいっぱいになっちゃってるのに・・・・俺・・・時々、どうしたら良いのか分からなくなる時がある・・・・」
青島から聞く、何処か一線を保ったままの苦汁ながらも陶酔した恋の始末が、いっそ、身勝手にも出し惜しみする情愛のようにも思え、胸の裡を疼かせた。
どうしてもっと餓えた感情を剥き出しにしてくれないんだろう。室井みたいに、感情に囚われて溺れてくれないのか。
躯の繋がりを知るからこそ、それはより強く。
「それは俺も同じだとは思わなかったか」
「あんたと俺じゃ、比較対象にならないよ・・・」
「・・・ったく」
煙草を左手に持ったまま、右手で後頭部を引き寄せ、肩口に顔を埋めさせた。
青島が身を擦り寄せ、室井のシャツの背中に手を回す。
月明りに縁取られる二人の影は、確かに一つだった。
「そこに誇りがあるんです。赦されている自信が愛されてる自信になる・・・。奪わないで・・・クダサイ」
「そんな所で愛情確認するな」
大人ぶるのは、多分、室井がそうさせているのだ。
不安、というよりは、青島は室井に追い付こうと必死で
埋まらぬ4つの差を、何とか置いていかれないように。何とか捨てられないように。対等に隣に立ちたくて。
だからこそ、こいつは俺には何も言わないのだろう。
青島は室井に何かを問おうとはしない。
室井だけを想い、室井だけのために、駆け抜ける。
黙って決断し、静かに変わり・・・・多分、静かに、消えていく。
それが分かっているから、手放せない。
――血に濡れた車内で初めて知った、あの喪失の衝撃と痛恨。
真っ直ぐに走り抜けることで、伝えてくる青島の忠誠は、いつだって犠牲的で結末に責任を持たない。
それが、室井に酷い焦燥と恐怖を残していくことも知らずに。
悔恨の過去は、今も室井の中央で燻り続ける。
もう同じ過ちは繰り返させない。
その幉を引き寄せ、全てを賭けて護り抜きたくなる。
「それとも――、あれだけのことをされて・・・・まだ足りないのか・・・?」
「そ・・・、ぉいう、ことじゃなくって・・・ッ」
もっと、無邪気な子供の残酷な仕打ちのように、奪って溺れてくれればいいのに、と思う。
室井がいなければ、身動きが取れないというほどまで。
どうしていつまで経っても遠く、いつまで経っても俺のものにならないんだろう。
青島なんかより、俺の方がよっぽど狂気の沙汰だ。
処女のように頬を火照らせている青島の背中をぽんぽんとあやす。
「キャリアの道は元々俺が決めたルートだ。後出のおまえ如きにどうにかしてもらおうなどとは思っていない。そこにおまえを巻き込むことも、俺が望んだこと
だ」
「・・・・」
「俺こそおまえを護ってやれないかもしれない・・・だからこれでいい」
「嘘、ばっかり・・・っ」
湿った生温かい青島の息が首筋にかかり、くぐもった声が聞こえる。
「俺のせいで面倒になってるって言えよ・・!俺が足枷だって正直に言えばいいのに・・・っ」
官僚と違い、本当にリスクを負うのは、後ろ盾のない所轄の方だって、こいつは分かっていない。
だけど護りたい。傍に置きたい。そう思うのは、室井の方だ。
階級社会の中、青島こそが、変わらぬことで変わっていく室井を原点回帰させる、最後の原石だった。
このまま、何も穢さずに護り通してやりたかった。
変わらないでいてほしかった。
哀しい男の決断が、白い月に縁取られ、冴え冴えと浮かぶ。
「おまえを手に入れることは強さの象徴だ。その代償に背負うリスクなら、俺が引き受ける」
「ほんとは上に行きたいくせに・・・・っ、ほんとは誰よりも動きたいくせに・・・っ、それを誤魔化して、俺のせいで傷つくこと、すんな・・・!」
言葉の辛辣さとは真逆に、青島の室井の背中に回る腕が強まった。
不意に弱みを乗せた言霊は、危うく、儚さを持ち、青島の弱さがぽろぽろと露呈する。
気付いてくれている。護ろうとしてくれている。
同じことを惑い、想い、そして慕ってくれるこいつが愛おしい。どうしようもなく。
風に揺らぐ柔らかいその髪に口付ける。
「だったら俺も、俺の実力不足をおまえのせいにして逃げ口実に出来るな」
「そんなことさせたい訳じゃなかった・・・っ」
「同じ言葉を返す。俺は、おまえ以外の人間と心中するつもりなんかない。・・・・何度も言っているだろう」
「室井さんにとって俺の価値なんて何もないんだよ」
「おまえが一番何も知らないんだ・・・・」
「追いかけても追いかけても縮まらない・・、俺、なんも出来ない・・・っ」
一度弾けると強烈な威力を放つ青島の狂気染みた意思が、情愛に満ち、室井へと向けられる。
ゾクリと背筋が這い上がる。
「4つ差は遠いよ、室井さん・・・」
ああ、きっとまた、こいつは俺のために、何かを我慢してしまう。
そう思ったら、愛おしさよりも、奪われ壊されそうな耽溺の感覚に近い電気が、躯に走った。
いっそ、躯中を攻め立てて、こんな理屈っぽい言葉ではなく、置いていかないでと啜り泣かせたい。
さらさらと眼前でそよぐ髪に鼻を埋め、口付け、捕り込む様に青島の石鹸のような香りを思う存分吸い込む。
青島の背後に、新宿の高層群が闇に赤く点滅する。
「俺をあんたの一番にしてよ・・・・」
持て余す熱に怯える言葉は淫蕩な響きを帯び、室井は静かに口元を滲ませる。
この世でこいつだけだと思えた人物が、同じように自分を見て寄り添ってくれる。
それがどれほど室井を震わせるか。
「一時だけで・・・いいから、夢、見たいよ」
こんな俺の浅ましく淫らな欲望など、おまえは知らなくていい。
本音など到底言える筈も無く、断片だけが零れ落ちる。
「だって俺には――」
〝他には何もないんだよ〟
もう一度、そう告げる声が甘く耳元で掠れ、そのくせ、あんただけだと誘う時の淫蕩性を持ち、余りに強い敬慕のそれは、まるで情事の艶を帯びたシーンを彷彿
とさせた。
思わず躯が熱くなりそうになる意識を逸らし、室井は視線を空へと投げる。
無自覚に室井のシャツをきゅっと締める仕草が愛しくて、他に何も要らないと思った。
誰もが欲しがるこの眩しい魂を、手に入れたのは自分なのだ。
横から浚おうとする輩は後を絶たなくとも。
だけど誰にも渡さない。
俺は、誰よりも強くあれる。
後髪に指を差し入れ、室井はその細い髪をそっと一束口に含んだ。
「戻せ。・・・・好きなんだろう、あの味が」
「でも・・・・・」
「俺を、惚れたやつも護れないような、そんな情けない男にするな」
「戦略、でしょ」
「なら、少なくとも、俺たちの今に誇りを持て。今からそんなんじゃ、この先、呑み込まれるぞ」
甘いことを言っているのはどちらか、分かっている。
多分、この件に関して言えば、青島の方が現実的だ。
だが、そんな怯えた生き方を青島に強いることはまるで、この恋の敗北を認めているような気がした。
「男の覚悟を甘く見るな」
「・・・・・あんた、本当に向こう見ずだ」
「どっちがだ」
「そんなだから足元掬われて躓くんですよ」
「ただ転んだだけじゃ、無かっただろ・・・?」
今までだって、と、耳朶を軽く吸ってから耳元に囁くと、青島が背中を震わせる。
後ろ髪に差しいれたままのその指で、髪ごとぎゅっと握り締める。
「スーツにおまえの匂いが染みつくヘマをするほど、俺は馬鹿じゃない」
「――」
「避妊も出来ないような若造と一緒にするな。男の義務は分かっているつもりだ」
ピュアなばかりの純情な青い恋心を語るには、歳を取りすぎていて。
照れくささをその指先に委ねる。
今はただ、ひとつに繋がりたい。告げる言葉も持たぬ男には、狂乱に満ちた愛を注ぐ形で満ち溢る。
柔らかい癖毛が首元で身動ぎ、表情が良く見えないが、ようやく微かに青島が笑ったようだった。
Happy end

20150905