登場人物はふたりだけ。結構若いふたりをイメージしてました。支部に投稿したものです。






さよならのキス





アセトアルデヒドが酢酸に分解され、水と炭酸に消える頃には、都合の良い記憶と後悔だけが身に残る。
青島はそそくさと着替えを済ませ、玄関へ向かった。
が、初めて訪れた家宅では、その場所さえ曖昧で、不自然にリビングを徘徊する。


***

昨夜、初めて室井の自宅に招かれ、共に酒を呑んだ。
感心というよりは、呆れたような口調で、先に根を上げたのは青島だった。

「室井さん、強いとは思ってたけど、ほんとザルだ・・・。俺もぅ限界。完敗です」

室井が少し俯き加減に、口元を滲ませるだけの微かな笑みを見せる。
その顔には少しの熱りも見られない。

「何の勝負だ・・・。私も結構入れた」
「全然そうは見えません」
「独りだとそんなに呑まないんだ。今日はつい」
「・・・・楽しかった?」
「ああ」
「そか」

青島は酒で失敗したことはない。
社会人となってからは営業という職務上、ペース配分を心得た呑み方を身に着けていた。
しかし、節度と財布で縛られた外食なら掛かるセーブも、プライベート空間となると箍も外れるのか
はたまた室井が齎す不思議な距離感の魔法か
昨夜は、営業で鍛えた技も通用せず、結構な量を呑まされた。
いや、最大の問題はそこじゃない。


「独りじゃ呑まないって・・・。愚痴を零す相手とか、馬鹿やり合う仲間とか」
「郷里には何人かいるが、東京に出てきてからは疎遠だな」
「・・・んじゃ、コッチの友人とか恋人とか」
「女に現をぬかしている暇があったら、仕事に行ってしまう薄情もんに、相手がいるか・・・」

確かに社会人ともなれば、交友関係は仕事寄りに偏る。
故郷から遠く離れ、キャリアの出世レースに身を投じる室井の質素で厳粛な生活環境を、青島は改めて肌で感じた。

仕方ないんだろうなと呟く室井の表情は、諦観も渇望も乗せない大人びたもので
口元にグラスを当てるその流れる所作にまで、何の動揺も昂ぶりも、相手に悟らせない。
クリスタルガラスに沿う室井の長い指先が、白色電球に綺麗に映える。
こんな風に気を許し、酒を酌み交わしてくれる仲になっても、室井には常に決して冒させない凛然とした大人の男の覚悟があった。
成熟したその気配に魅せられたのは、そう遠い話ではない。

上目遣いで室井を盗み見て、それから部屋をくるっと一瞥する。
室井の周りは、傍から見ると味気ないことを、物の少ない単色の部屋までが語っているようだった。


「室井さんの生きる・・・・場所は気を抜けないでしょうからね、たまにはこうやってガス抜きしないとね」

肩の力を抜いているらしい、初めて見せる室井の嫋さに
酒ぐらいなら迷惑にもならないだろうと、青島もちょっとだけ普段は言わない主張をしてみる。
今なら社交辞令として流して貰えると計算した。

「そうか」

ただ、一言。
内面から滲み出るような笑みを見せられ、青島は言葉を失った。

その笑顔が、余りにも自己完結されており、酷く遠い存在なのだと置き去りにされた孤独感を感じる。
青島より長く警察組織に属し、知らない人脈と経験を広げ、知らない世界が青島抜きで完結している。
そのこと自体に、不満がある訳ではない。
自分たちの約束の本質は、違う場所にいてこそ成立するものだから、むしろこの出会いを誇っていた。

でも、何だか今夜は、それが少しだけ、ほんの少しだけ、切なさを感じさせた。
スーツという鎧を脱いだ男が、弱音を語らないからこそ透ける何かが見えた。
・・・・こうしてプライベート空間に連れ込まれ、スーツを脱いだからこそ、室井の物言わぬ奥深さが透けていて、青島に共振を起こす。
パズルのピースが一つ足りないような、何かを忘れているような、もどかしい感覚は、泣きたいような衝動を持って青島を急き立てた。
グラスを持つ両手に力が籠もった。


「青島?」
「あ、いえ・・。ただ――室井さんは何を支えに堪えていけるのかなぁって」
「堪える・・・」

ガラスの器に注がれた日本酒の反射光を漆黒の瞳に映しながら、室井がそう呟き、ポツリと口を零す。

「そうだな・・・君が表れてから、あまりそういうことを考えなくなったな」
「・・ぇ・・・」
「耐えるだけの価値を見つけたんだ。君が居るから」

目を丸くした青島に、急に室井が頬を強張らせ、目頭を押さえる。

「あ、いや。・・・酔ったな。・・・こういう酒を呑むことを、ここ暫く忘れていた。いいなと思っただけだ」


冷たい印象を抱かせる室井だが、根は人情深い。
それはこうして向き合った時の言葉尻に、ほんの少しだけ綻びのように表れる。
青島は少し顔が火照った気がして、同じく俯いた。


「柵のない酒は、久しぶりだ」
「・・・・逃げちゃいたいって思ったこと・・・・ある?」
「君が気にすることじゃない」
「でも」

知りたいと、小さな声で強請ると、室井は仕方がないなという風に眉間の皺を寄せ、濡れた口唇をグラスに宛てる。

「キャリアになって国家に身を尽くすことを唯一つの目標にしてきた。それだけの・・・君にしてみれば、つまんない男だ」
「堅い~」
「馬鹿にしたな?」
「してないしてない。カッコイイって・・・思いました」
「気のせいだろ」

その言い方に、何らかの違和感を抱き、室井と視線を合わせる。

「ほんと、です・・・」

どうだか、と静かに呟く室井の口ぶりは優しい。瞼を伏せ、口元を柔らかく持ち上げる。そんな顔もするんだと思った。
何だかどうにも切なくなって、杯を煽る。

この男に魅せられ始まった青島の刑事人生は、今もこの男唯一人に染められている。
このひとなら、頂点へ君臨するに相応しいと見惚れたあの日から、それは逃れられない鎖のように、青島を呪縛していた。
時の差は、埋まらない。
階級差も、届かない。
幾ら走っても、このひとに追い付くことはない。
大きく喚き、叫びたい衝動が走った。でも、何を叫びたいのか、具体的には漠然としすぎてて、その焦燥だけが胸に迫る。


「・・・君にはあるのか?その、逃げたい・・・日が」
「俺も室井さんに出会ってからは、ないです。俺に夢を与えてくれたのは、室井さんでした」
「・・・責任重大なこと言うな」
「そっちこそ、弱気なこと言うなよ・・・俺と半分こでしょ」
「逆に、私を夢から醒めさせたのが君だな」
「えぇー?」
「君はもう少し・・・・、自分を客観的に過大評価した方がいい。・・・調子に乗るばかりじゃなく」

室井がほんの少し目尻を滲ませた。

それでも、決して膝を屈することはない男だ。
そんな男が唯一つ心を細波立たせるのが、この未だ中途半端な自分だなんて。
どうして室井は自分なんかを。
身に余る重さを感じたのは、青島の方だった。

グラスを指先が白くなるほど握り締め、青島は残りの酒をグイッと煽った。
少し酒で火照った肌が汗ばみ、波打つ白い喉元が室井に晒される。
酒瓶を取り、室井に向けて杯を促す。

「ん!」
「・・・・とことん付き合わせるか」
「お互い様です」

そっぽを向いたまま差し出されたグラスに、青島は口の端を持ち上げる。


時が終わるのを恐れるように、酒を注ぎ合う。
二人きりの静かな夜が淡い空気に包まれて、闇に溶けていった。

「――。えと・・・なら、室井さん、俺、時々、こうやって一緒にいましょか・・・?」
「――・・・」
「あー、いえ、えっと――、相棒、ですから。不足分はカバーさせて頂きます」

君らしいなと言って、室井がその長い指先でグラスを煽る。
酒は涙か溜息か。
戯言に次ぐ戯言が、何故こんなに哀しい音色に響くのかは、分からなかった。




***

ブーツカットの紐を結んでいると扉が開く音がして、背後に人が立つ気配がする。

「すいません、起こしちゃいましたね」
「そんなことはいい」
「長居してすみませんでした。じゃ、失礼しま~・・・」

早口でそう告げ立ち上がり、ドアノブに手を伸ばしかけたが、後ろから二の腕を掴まれ、空振りした。

「ぅあ・・・っ」
「何でこっちを見ない」

真後ろで肩で吐く溜息が聞こえる。

「ゆっくり休んでてください。俺、帰りますから」
「・・・まだ朝早い」
「始発、動いてるし。それと昨日、俺が言ったこと――・・・ま、忘れてくれると助かります」
「何故だ」
「えっとー、まあ、色々?」
「・・・断る」

静かに感情の襞すら乗せない、寝起きの掠れた声が生々しく耳を擽り、その頑固さに背筋に緊張が走る。

「困ったな・・・。大した意味はないですから」
「君には大したことなくても、私にとっては意味ある時間だった」

それが困るんだよな、と青島は頭を垂れて痛みを乗せた笑みを零した。


朝になって、二人して雑魚寝した部屋で目覚めたら、急速に現実が押し寄せた。

厚意に厚かましく乗っかったことも恥じているが、その辺は人懐こさという文句で誤魔化せるだろう。
問題は、口も多分に軽くなっていて、素面になってみれば、昨夜は踏み込み過ぎた。
約束を共有する自分たちの間柄では、支え合うという都合の良い建前がカムフラージュしているが
それは反面、相手の自立を尊重せず、力量も信頼していない諦観と、紙一重である。
二人で信念を共鳴させた約束は、相手に依存したら成立するものではない。
必要以上の介入は、尊厳の否定なのだ。

室井は変に思わなかっただろうか・・・あれくらいは許容範囲か?

・・・・いや、それさえも、言い訳なのだ。
何だか奇妙な今の自分たちの距離感は曖昧で、どこまでも赦されてしまいそうなだらしなさがあった。
多分、それが無礼もなく可能になってしまいそうな自分たちの仲の特異さを、改めて目の当たりにしたことが、青島に怯えを生じさせた。
それが、底のない沼に引き摺り込まれるような恐怖を青島に与える。
正確には、室井の気持ちの重さと浸漸に。


「そ?なら良かったです。・・・ま、最初で最後ですしね」
「何故」

そのあまりの自然な口調が可笑しくて、青島は横を向き、口元を歪ませる。
室井に振り向かされ、床と室井の素足に視線を置くと、少し寝ぐせの残った前髪がはらりと都合良く表情を隠した。

「俺たちは・・・こんな風に慣れ合わない方が良いです。今後のために」
「公私混同は避けたいということか」
「そんなとこです」
「昨日言ったことは酒の席の戯言だと」
「だから、忘れてくれると助かるんですけど」

告げた瞬間、室井の気配に鋭さが走ったと肌で感じ、きゅと身を竦ませた。

「忘れろ・・・か・・・、随分と手の平を返すんだな」
「そりゃ何か合ったら力になります。でも、昨日みたいなのは・・・もう・・・」
「失望させたか」

その声が少し責めているように感じ、青島は慌てて顔を上げて否定する。

「そんなこと!・・・ただ、俺みたいな無法者がこんな風にあんたの傍をうろつくのは、健全じゃない」
「君の言う健全とは何だ」
「あんたが支配者となる世界です」
「・・・ッ」

たかが酒の話だろと言い返してこない辺り、室井もまた、青島の形容しがたい恐怖を正確に汲み取っているのだと思われた。
寝起きの撚れた前髪が額を覆い、室井を別人のように見せる。
何故か震える拳をひっそりと握り締める。

認めて欲しかった。もっと知り合ってみたかった。隣に立てる男になりたかった。
だけどその際限ない欲望は、やがて形を変え、相手を何もかも侵食したくなるくらい、熱を持って腫れ上がる。
身を賭してでも、護りたいものの意味が、歪んでいく。


嘘を吐くことは、そう難しいことじゃないのに、俺たちの間では息を吸うより困難な時がある。

「それ以外に、用はないです」

青島が視線を外して口にすると、鋭さの増した室井の気配が畏敬の陽炎で縁取られ、室井の背後から立ち昇る。
殴られるか、怒鳴られるかと思って、目を瞑った。

刹那、ふわりと腕を引き寄せられ、室井の腕の中に収められる。
室井から薫る石鹸のような匂いに包まれ、青島は眼を見開き硬直する。
突然の事態に、息すら忘れ、思考が追い付かない。


「傍に居るなと言っているのか・・・」
「・・・・」
「無理だ。昨日も言ったろ・・・一緒に戦ってくれるんじゃなかったのか・・・」
「――まだ酔ってんですか?俺にそんなこと言っちゃ駄目です。俺はあんたの拠り所じゃない。俺じゃ、あんたの救いには・・・なれない」

抱きしめる室井の腕に、力が籠もる。
筋肉質の強固な胸板をパジャマ越しに感じて、室井の熱と匂いにクラリとした。
奥歯を噛み締め、視界を排除する。
少しだけ室井の腕を剥がして、青島は至近距離で室井を見つめた。

「一緒に戦場に出るライバルに、そんな弱みを見せちゃ、やっぱ駄目なんだ・・・聞かなかったことにしてあげます。・・・だから」

そっと室井の両腕を掴み、拘束を解きながら、青島は気付かれない他愛なさを装って室井の頬へ自分の頬を寄せた。
触れるか触れないかの、口付けとも取れない接触を密かに頬に残し、身体を離す。

「だから、さよならだ」


室井の腕を取り払い、口唇を噛み締めて、背を向ける。
コートが翻り、扉から冬の外気が吹き込んだ。
尖った欠片が胸の奥を刻んでいるのは、気付かない。
これで逃げ切れる――逃げ切ってみせる。



突如、背後から室井が手を伸ばし、青島の手ごとノブを引き戻す。
ガタンと扉が閉まる音と同時に、喚く間もなく、室井の腕が青島の耳横を通り、扉の間に塞がれた。
ビクリと身体を竦ませると、その隙を狙い、室井に背中をそのドアに叩き付けられる。

「ィ・・ッ、室・・・っ」

苦情を申し立てようとした口唇を、何か柔らかいもので塞がれる。
室井の手だった。
覆い被さるようにして押さえ付けられ、逆光になった室井の暗い影の中に、双眼だけが光る。
ゾクリと肌が泡立った。


「多分君は、ここを一歩でも出たら、昨夜のことは一夜の夢とばかりに全てなかったことにしてしまうのだろう」
「・・・ッ」
「確かに君の言うとおり、これが最初で最後のチャンスか・・・」

独り言のように室井が呟いた。
本能が危険を察知して、後ろ手でバタバタとドアノブを探るが、手が当たらない。
チラリと切れ長の視線が持ち上がり、室井の理知的な瞳の奥が深まり、竦まれたように身体が硬直する。


「君の言い分は理解した。でも逃げるのは、それだけが理由か?」
「・・・!」

怯んだ青島の顔横に、ゆっくりと絡め取るように手で囲って逃げ場を絶ち、室井が音もなく身を寄せた。
口元を塞いだまま、顔を耳に傾ける。

「帰るな」

囁かれた声に熱い吐息が混ざり、ゾクリとした悪寒が背筋を這い上がって肌がそそけ立った。
頭ではきっと誰より分かっている。だけど身体が竦んで動かない。
本気になった室井から逃れられる術など青島程度では持たないことを、経験がもう知っている。


室井の瞳を見つめたまま、青島は緩く首を横に振った。

静かに弾圧する室井の声は、聞いているこちらの方が息苦しくなるようなもので、窒息する空気の薄さに指先一つ動かせない。
漆黒の瞳が放つ真っ直ぐな闇の世界は果てしなく、吸いこまれそうだった。
秘めた深淵を隠したままのくせに、それでいて、がっしりとしたいざという時の安定感のような懐を思わせる室井に
青島は、途方もなさと苦しみに喘ぐ。
それは、これから始まることへの予兆なのか。

その眼に、その眼差しに、室井が何かを感じとってしまった。


「成程・・・すっかり騙された。だが諦めろ。君の本音が透けている今、俺が逃がすと思うか」

室井が僅かな苦笑を覗かせた。
崩れ落ちそうな足元を、生来の気の強さが辛うじて支え、反発する強い光を乗せて、青島が睨み返す。
それさえも室井は、満足そうな瞳色を見せた。


どうにか腕を持ち上げて、自分の口を塞いでいる室井の手を退かす。

「冗談・・・だろ。言ってる意味が・・・分かんないよ」

笑っちゃうほど、自分の声が震える。
でも、ここで室井に呑まれたら、全てが水の泡になる。闇に、引き摺り込まれる。

「引き留めても良いのかと、迷っていた。・・でももう聞く気はない」
「それで?アウトローな者同士傷でも舐め合おうってんの?」
「それも君となら悪くない」
「そうやって悲劇に浸った顔して言い訳してっから周りに良い様に使われんだろ」
「最初から外様の男に賭けたのは、おまえだ」


口唇に熱い吐息が掛かり、強く視線が絡み合った。

一歩も引かない野生の雄が捕獲するような獰猛さに、気圧され、呼吸さえ奪われる。
少し濡れたように光る青島の飴色の瞳が怯え、玲瓏な威圧が青島を呑み込んだ。
泣き出しそうな胸の棘が、出口を失い、咆哮する。

なんでこんなことになっちゃったんだろう。
絶対届かないひとだった。届いてはいけないひとだった。
昨夜は理知的な貌に隠されていた室井の本性が透けてくる。
昨日感じた小さな違和感が凶悪な色味を帯びて形になる。


手首を取っていた手を捻られ、逆に捕えられる。

「青島」
「・・・・言うな」

昨夜は透明なグラスを持っていた細く長い繊細そうな指が、ゆっくりと青島の頤に絡まった。
普段はペンや紙しか触らない室井の指が、ゆっくりと青島の口唇を辿る。
じわりと何かを炙り出される熱に、青島の瞳が揺れた。
その怯みも抑え、睨みつけて、振り払う。
が、直ぐに顎を強く掴まれ、上向きに固定された。

「・・・っ」

終末の予感に身体の力が抜け、それでも瞳の力を失わずただ首を横に振る。


青島が完全に気勢に呑み込まれているのを感じ取った室井が、伏せ目がちな瞳に悪魔的な焔を灯らせた。
バリトンボイスが、耳元に囁くようにとどめを刺す。

「君を、人生ごと、俺が貰う」

青島は、絶望にも似た気持ちで、天を仰いだ。







Happy end 

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20150511