攻
め視点で惚れた切欠話。室井さんは空気読めないコミュ障。そして自意識過剰男。
登場人物は色々。本店メイン。時間軸は室井さん管理官時代。
下界の都~片思い編
1.
控えめなノックと態度に好感を持つのは、ここ本庁では室井に対して敬意を持つ人間が稀少だからだ。
扉から顔だけ覗かせる姿に、室井は神妙に頷き返し、迎え入れた。
元々交流があった相手ではない。異なる派閥同士が交流を深めることを嫌う人種もいる。
職務上の相談相手として冴えない中堅の室井を選ぶ人間はまずいないし、そもそも室井は人に助言できるほど口達者でもない。
となると用件は当然、あのことか。
「先日の港区の事件、根回しは君だと聞いた」
「突然すみません、今日はプライベートの件で」
何とも下手くそな世間話を振ったら見透かされ、柔らかく頷いた細川が気を利かせて早々に本題に入ってくれた。
恥じ入るままに室井は奥歯を噛み、天を仰ぐ。
日常会話すら下手くそか。
これが捜査会議だったならテンプレをきちんと読み上げられるのに。
「こちらこそ、すまない。出過ぎた真似をしてしまったかもしれないと気に病んでいた。君の意思を尊重しなかった」
申し訳なさでいっぱいになるまま、室井はもう素直に言葉を口にした。
体裁を繕うことは恥がどんどん上塗りになっていく。
むしろ、こんな失態を犯したのが青島の前でなかっただけ由としたい。させてくれ。
覚束ない響きで虚しく拡散した自身の言葉を無意識に脳だけが赤裸々に木霊させていた。
すると、細川は心得たように微笑み、少しだけ照れた瞼を伏せた。
「その・・室井さんが動いてくれたと聞きました。私のせいなのだろうと」
「悪かった」
「本日はそのお礼に来たんです」
「お礼?」
「申し出、受けようと思っています」
「そ、そうか・・、そうなのか・・!」
明らかにホッとしてしまった手前、室井は慌てて片手で口元を覆い、表情を誤魔化しながらも、それでも息を吐く。
拗れてしまったらどうしようかとも考えた。
タイミングというものある。早急すぎたかもしれなかった。
例え意思を通わせたとしてもその先の重責を償えるわけがないのに、無責任だった。
結局失礼なことをしただけだ。
「拗れなくて、良かった」
大丈夫ですよと細川は微笑む。
それにしてもだ。“意思を通わせた”とは何なんだ。男同士で。しかも職場で。
深い意味はないと思いたい脳が、室井の表情を奪わせない。
「思い切った決断になったな」
「ですが勉強になるのは事実ですし、実績を積んだ後に改めて身の振りを考えようと思いまして」
「それがいい。君にはまだ時間も選択肢もある」
「新城さんにもそう言われました」
「むしろ捻くれた男の世話に苦労するぞ」
「室井さんと新城さんって、息合ってますよね」
「よしてくれ」
細川と目が合って、その視線が柔らかくて、小さく笑い合った。
初めて人と交流した気になれたのは、多分細川の配慮の方が大きいのだろうが
それでも、室井の胸の奥の方はじんわりと温かった。
室井は身を切ることが実は不得手なわけじゃない。人のために動く加減が分からないのだ。
室井にとって大冒険だった今回の一件は、どこか青島の気配がする。
あの日のなんとも不都合な恥ずかしさが燻り、室井は瞼を伏せた。
「実質そういうポストがあるわけでもないですし、その分、周りにもそこまで迷惑にならないでしょうと判断しました」
「上になど報告しなくていい。関わる人間だけ知っていればいい」
「そのつもりです」
「新城の抱えている案件の多さを考えるとむしろ自然だ」
「ええ」
でも動いて、良かった。
細川が心を見せてくれた分くらいは応えられた気がした。
人に応えられるということは、それだけでここでの自分の価値が上がった錯覚を齎す。
それは今の室井にとってそう悪くない味わいであった。
悪人になりきれない。だがそれはこの世界では致命傷であるかもしれなかった。だから自分は出世しないのかもしれない。
それを努力で補うには、きっと、青島みたいな毒が必要なのだ。
室井や新城が持たぬ、冷酷さだけでは太刀打ちできない、人に飛び込む劇薬だ。
ふと不思議になって口を付く。
「だが、その、なんで私だったんだ?」
打ち明けてしまう相手が。
結果論で言えば良かったのかもしれないが、室井がこの手の問題で繊細な対応が出来るとは思い難く
適任なら他にもいる。
本庁は人の弱みに敏感な戦場だ。
細川こそ、この手の話題は、自身の出世のために必死に隠し通すつもりだっただろう。
「室井さんだって、放っておけばよろしいのに」
「このネタでこの先、潰すつもりかもしれないぞ」
「実際、悪人になりきるには毒を持たない人ですよね室井さんって」
「君は差別的な態度を取らないし、私にも礼儀正しく接してくれた。君の人柄だろう」
頻りにネクタイを気にしている指先に、室井の居たたまれなさが透けている。お世辞も柄じゃない。
だが下心の無い細川の素直な謝礼に、室井もまた素直に白状した。
今までの室井だったら、良いことをしてやったとばかりに恩を着せ、高圧的にマウントを取っただろうが
今はそんな気持ちにはなれなかった。
「新城さんにはまだ返事を保留にしてもらっています。これから伝えに行くつもりです」
「先に私に言って良かったのか?」
人に優しくする行動が出来ない室井にとって、優しくされることは思考を停止させる。
欲も損得もなく動く青島みたいなタイプには、どうしていいか分からなくなる。
「あの日、私に、もったいないと仰ってくださったでしょう?」
「新城からある程度聞いていたのもある。君のことではなく、新城自身のことをだ。面を見ればつらつらとアイツは・・」
「やっぱり仲良いじゃないですか」
「よしてくれ」
先程と同じ言葉の繰り返しに、細川の表情は柔らかく、終始部屋の空気は和やかに漂っていた。
その和やかな空気の中で、細川は和やかなままに口にした。
「室井さんが、青島さんを意識されているから」
それは、断定だった。
一瞬の間を持って、室井の漆黒が驚きに見開かれる。
「ひどく、重く、強く。心の奥から。いっそ燃え尽きるかのように」
とても和やかに言われたので、その言葉は何の負荷も持たず室井の耳に届いてしまった。
促されるように見交わすそこにも違和感はなく、穏やかな余韻を残し、そして。
「!!!!」
胸の奥にすとんと落ちて、室井はその重さに呻いた。
改めて言葉にされると、なんちゅーパワーワードだ・・!!
「いや!いや待て。細川・・」
燃え尽きるほど意識するって、どれだけ情熱的なんだ。俺は野獣かなんかか。
室井は口許を抑え、手を細川に向けて翳し、横を向く。その目尻が初めて朱に染まる。
初めて見せる室井の狼狽に、細川もまた目を丸くし、口端を綻ばせた。
「まさかご自覚なかった?」
「い、いやそんなことは。や、そんなのはいい。そ、そんな、ことより、き、ききみは私と青島が一緒に居るところなど、ほぼ見る機会がないだろう」
「垣間見た結論です」
「!!」
初見だけで気付かれるほどなのか!
自分の無警戒ぶりに室井は目を剥いた。いやもう、驚愕を越えて思考が停止した。
無策で飛び込むにも程がある。
官僚失格だ。
交流がなかった細川でさえ目の当たりにしたのなら、もっと他にも目に付いた人間はいるだろう。例えば青島本人とか。
「ですからきっと、私の渇望も分かってくださるんじゃないかと勝手に期待してしまって」
「い、い、いや、うん。期待は嬉しいのだが」
ちょっと待ってくれ。
衝撃が強すぎてまだ話に付いていけていない。頭が。
渇望ってなんだ。
飢えている野獣か。
実際心の大半を占めているものが満たされていないのだから同じことか。
室井は最早隠すことも出来なくなった真っ赤な顔をひたすらハンカチで拭い、視線をキョロキョロと彷徨わせた。
挙動不審になった室井に、細川はさも納得したように大きく頷いた。
「そういうことでしたか」
「なにがだ」
「青島さんの、どんなところに参っちゃったんですか?」
「!」
揶揄うでもなく、蔑むでもない、決めつけるでもなく、否定もしない。
少し腰をかがめ、そっと乗せた細川の端的な言葉は、逆に室井を我に返らせた。
しばらく視線を彷徨わせた後、室井は地面に落とす。
静かで、和やかな空気は一刻前と変わらず、時計の針が聞こえていた。
青島に魅了された最初の切欠は。
そして、それは突然閃く様に、気付いてしまった。
細川の誘導尋問にも満たない僅かな言葉が引き金となって、室井の奥底に燻っていた火種を正確に、或いは無情に打ち砕く。
そうだ、俺は猛烈なほどに彼に惹かれているのだ。
心の均衡を失うほど、彼に占められている彩りは、背徳的な蜜を持って室井をドロドロにする。
初めて捜査本部を投げ出した。あの時何故あんな真似が出来たのか。
憧れでもいいし、反骨心だっていい。
とにかく眩しい魂に触れてみたくて、独り占めしてみたくて、誰にも渡したくなくて。
他の誰でも代わりが出来ない、存在。
新城の言う同族意識などという生温いものじゃない。抗えないくらい、引き寄せられている。
その延長線上に、セックスがあっても、おかしくない程度に。
「参ったな。君には何でも見透かされているのか」
「そんなことはありません。おこがましいですがシンパシーを」
シンパシーか。
無難な言葉だった。
誰かに、大丈夫だよだとか、変じゃないよと、認めて欲しかった。
一言、肯定してくれれば、それだけで、この不純で背徳的な感情は呑み込めた。
ひっそりと、誰にも知られずに消えていくまで、抱え続けられた。
ああきっと、細川もそうだったのだ。
細川の前でなら、室井はこの曖昧で混沌とした、形を持たない熱を、素直に口に出来ると思った。
一緒に居るのが自然だと思える相手との巡り合わせはほぼ運だ。
だからといって、下界に広がる花道に気軽に飛び込めるほど若くもなくなった。
川の流れのように黄泉の国へと誘いをかける甘い誘惑に、怯えているのは何も不自然で歪なことではない。
「ずっと、考えていたんだ・・今の自分を形成したのは、経歴でも上役でもなく、青島なんだ
ここずっと仕事に気力が湧かない・・何かが足りない・・青島に会っていないからだ。ガソリンなんだ」
仕事に意欲はある。
だが、青島とぶつかり合ったあの季節の、燃えるような火傷しそうな、そんな生き急ぐような、切実な感覚がない。
切羽詰まった渇望が、此処にはないものを求め彷徨っている。
「いつかアイツを見返してやろうと、いつかアイツに目にもの見せてやろうと、いつかアイツに認めさせてやろうと。
そうしていつかアイツとの約束を果たしてやろうと」
「いいコンビじゃないですか」
「こっちにとっては、だ。青島にとってはただの枷だろう。もっといいライバル、同志、相棒がいれば、あいつはもっと上をもっと早く目指せる」
「青島さんって出世欲あるんですか?」
「階級的な出世には興味ないだろうな。ただ、実現したい形がある。それを叶えるだけの素質もある、と思う」
約束のあの日から、ずっと彼に不信感を抱いている。
漠然としていてよくわからない、でも消えはしない。
本当に、相棒は俺で良かったのか?後悔していないのか?
一度も聞けなかった、怖くて聞けない、室井の中の不安は室井の足と心を足止めする。
「天才と凡才の差は1%と聞いたことがある」
彼の目には、光と闇があった。それこそが、致死性の猛毒だった。
それを上手にコントロール出来る相手が必要だ。
下界の麗しさに魅了されて自我を失えば、深みにハマって、きっと、二度と抜け出せない。
それは官僚の剥奪を意味する。
「上へ行くべき人間というのはああいうのを言うんだと思った。でもあいつは私なんかと約束をした。私が良いと言った。
私がいる限り、私より上は見ようとしない。私に上を見せておきながら、自分自身の上を見ないんだ」
「なら、貴方はもっと努力してもっと上を見せてあげればいいだけの話では?」
「え?」
「室井さんがその差を嘆くのは99%になった時で充分じゃないですか」
室井は瞼を閉じ、両手で覆った。
なんと優しい言葉なのだろう。
きっと、細川はそこに辿り着くまで一人で抗い続けてきたのだ。
それはなんと強く、逞しい。
渦巻いた身体の裡から迸る熱を、室井はもう一度噛み締めてみた。
みっともなく藻掻いた結果だった。
彼が好きだった。
全ての愛の形で彼が好きだった。
断ち切るなんて、俺には出来なかった。青島みたいに自由に動けない。その時点で負けだった。
だからこそ、この熱情を彼に向けて請け負わせては駄目なのだ。
始まった時から、この恋は終わりを迎えていた。
「私はどうしたらいい」
「伝えたくはない?」
「今は未だ時期じゃない」
「そうしている内に失くしちゃいますよ」
「!」
それは、心に冷や水を浴びせられたような冷酷な言葉だった。
自分で手に入れないということは、誰かのものになるということだ。
俺は、青島を忘れられるのか?
ここまで強烈に惹かれてしまって、焦げ付く様に心の奥まで焼印が刻まれて、なかったことに、出来るのか?
「僕も、忘れられるのを、待っていたんです」
「出来なかったんだな・・」
「はい」
恋の重さに溺死している心はその盲点を覆い隠す。
細川は、いずれ室井も同じ道を辿る同士として、室井を見つけたのかもしれない。
シンパシーとは、己を身代わりに誰かを救える処方箋だ。
「君は、厭わないのか・・?もう」
身が汚れることも、愛しいものを汚すことも、恐らく室井よりも長らく患って来た不治の病だ。
「本当に清水の舞台から飛び降りるのは、どっちなんでしょうね?」
「?」
「もうどっちに転んでも限界だったんですよ、恐らくは」
室井は少しだけ目を伏せた。
直視するのが、何故か気苦しかった。
不明瞭でありながらクリアな細川の痛みが、ダイレクトに貫いていた。
「青島さんってそういうの疎いタイプですか?モテそうですけど」
「無類の女好きのようだから、結果は見えているな」
「そこそこ意識してるようにも見えましたけど」
「変な期待はよしてくれ。先日所轄に行けば中野と懇意だと誤解されたばかりだ」
先日の何とも後味の悪い一件を話して聞かせると、細川は声を立てて笑った。
「ははは、中野が室井さんの想い人ですか」
「青島にもそう見えていたなんてなんかショックだ。実際新城にも言われてな」
「ただそれって同性という形にアレルギーがないってことでもありますよ?」
言われてみれば確かにそうだ。
新城の挑発に乗せられあの場をショッキングな解釈にしてしまったが、そもそも青島が妬くようなことではなかったはずだ。
妬いた?青島が?
まさかそんなことは。
「それにフラれる方がみっともない。本庁の笑い種だ」
「あ、でも、みなさんは気付いてはおられないと思います」
「・・どうしてわかる」
「私は同じ目線で気付いただけといいますか」
「目線?」
「視線の先にいる相手、です。そこを観察すると大体わかっちゃうものですよ」
つい目で追ってしまう相手。
つい意識してしまう相手。
「やっぱり、明け透けじゃないか」
ボヤく様にいった室井に、細川は赤子をあやすような目をした。
2.
そんなこんなで、こんな時に限って事件は起こったりする。
特捜が立てば当然――
「だから!それやっちゃったら意味ないでしょ!」
「今は待機だ!一課の人間が包囲しているから、その情報を待て!」
こうなるわけだ。
室井は顰め面を更に渋面に変え、太い声で青島の声を遮断した。
「上がそんな態度じゃこっちは命かけらんないっすよっ」
「規定違反をして混乱させても捜査に遅れが出るだけなんだ!」
メチャクチャ、睨まれている。
ものすごく、睨まれている。
頭上に視線が突き刺さるまま、室井は拳を額に押し当てた。
トイレに行ったって、打ち合わせていたって、非難の視線を背中に感じるし
会議が始まれば奥の方からなんか禍々しいものを感じる。
気配が責め立てている。
蔑むような呆れられたような視線が、痛い。
「付きまとうな」
「そんな暇じゃないですけど」
「何が言いたい」
「もう言いたいことは言いましたけど」
だからその勢いのまま捜査を暴走させたらチームが崩壊するんだ。
「君達の期待に答えるには百万年かかる」
「弱気」
「確証はあるのか」
「なきゃ動けない?」
ふと気になって、聞いてみた。
「君は自分の立場はどうでもいいのか?」
「自分の将来なんかどうでもいい、人の命より大事な将来ってなんなの」
だからそれが室井には分からない。
分からないけど、青島が言っていることが妙に琴線に響く。
多分、彼の言うこともまた、正しいのだ。
「五分待て。調整する」
***
待てと言ったのに。
青島は室井が現場調整に三十分かけている間に、待合室で眠ってしまっていた。
起こせってか。
室井は腰に手を当てて肩を落とした。
連日徹夜続きなのだろう。
やつれて、しんどそうな頬が影を落とし、痩せこけているようにも見えた。
元々ガッツリとした骨格の男だから、その線の細さが際立つ。
いっそそれは色香にも似ていて、室井を困惑させた。
黙っていれば、こんなにも幼くて、童顔で、少し、頼りない。
愛嬌のある顔は人好きのする見映えで、同性の嫉妬の的となる。
室井は跪いて、その頬に少しだけ触れてみた。
温かくて、柔らかい。
人の温もりを忘れたのはいつからだっただろう。
人を抱き締めたのは、いつだっただろう。
室井はいつかの秋の惨劇を思い出し、胸をふいに掻き毟った。
ドロリとした赤黒い血液の塊の中に彼は室井を想って待っていた。
二度と触れられなかったかもしれないぬくもりを、必死に担いで繋ごうとした。
そのまま室井は吐息で濡れた膨らみを指でなぞってから、躊躇う間もなく、上から口唇を触れ合わせた。
ただ、息が、止まった。
ただ、時が止まっていた。
どんなに出世したって、どんなに希望に寄り添ったって、君の目に俺は映らないのだろう。
そうして、室井は立ち上がり、口元を抑え、顔も見ずに部屋を後にした。
耳まで真っ赤になっていた。
苦しかった。
扉が完全に閉まってから、緑色の塊がゆっくりと起き上がった。
3.
事件は被疑者死亡で幕が下りた。
最悪の結末だけは避けられたが、敗北だった。
本日捜査本部は解体し撤退する。
相手は拳銃を所持しており、止むを得ない発泡だった。
その情報が本部に入ったのは発砲後だった。
捜査員にけが人は出さなかった。
だがそれは言い訳だ。
これから本庁に戻って山ほどの書類を提出しなければ上は納得しない。世間も納得しない。
捜査は失敗と判断されるだろう。
「室井さん!あの・・!」
青島の声に室井は足を止めた。
手に持っているいつもより重い鞄を握り直し、本庁捜査員たちに先に行けと目線で指示をする。
「失態を笑いに来たのか?」
「やっぱり失態になります?」
薄暗い横通路に避け、向き合った。
「どう説明すれば武勲となるんだ?」
「まあ・・」
冷たく、暗く、澱みも感情も色もない目に、青島の声も小さくなる。
室井の何もかも飲み込んでしまうような深い闇に、青島も次の言葉を失ったようだった。
不甲斐ない事件指揮の手腕もそうだし、深まる想いに窒息しそうだし、なのに噛み合わない関係性にも現実に
今は挑む気にもならなかった。
「君が気にすることじゃない。慣れている」
それもどうなんだと思ったが、あまりにしゅんとしている青島に絆されて、低い声でそれだけを口にした。
逆に、今なら、あの日の細川にかけてやれる言葉が出てくる気がした。
――確かに、一方的な想いは重くてしんどいな、細川。
この罪科と熱を背負いながら、気の遠くなるほど満たされぬ時間を抱える生き方を、細川は選ぼうとした。
あの時の笑みはそういう笑みだったのだ。
室井の伏せた瞼に、青島もあの日の室井と同じように、それ以上の言葉を重ねなかった。
「憎い相手を成敗できなくて不満だろうが、これもまた現実だ。君だって生き延びたから恨みも妬みも出るんだ」
「別に犯人を恨んだことはないです」
「・・・」
「悪党がのさばるのがヤなだけだ」
付け加えられた掠れ声に、青島らしい生き様が透けている。
犯罪者を恨む男と、許してしまう男。
こんなところから根本的に俺たちは違う。違いを見せ付けられる。捜査は仇討なのか救済なのか。
不甲斐ない自分が自分を責め立てる。
今、細川が予言した未来が、確実に室井に迫っていた。
「被害者の少女は助けることが出来たんだ。君にとっては及第点だろう」
それだけを言い残し、室井は背を向けた。
その背中に声が追う。
「貴方を見ているとつくづく思うよ。ご都合主義の正義ほど、くだらないものはないって!」
「そんな風に私の傲慢を打ち抜くのは君だけだ」
思わず合いの手のように言い返してしまった。
青島が驚いたように動きを止める。
しまったと思いながらも、もう取り消せない。
この場から一刻も早く立ち去りたかったため、煽るような言い方に感情がブレた。
切羽詰まった感情が急き立て、室井の中で何かが決壊していて、色んなものが限界を、超えていた。
伝わらないもの、手に入れたいもの。
ただ、もう一度、この存在を傷つけることはなかった、その自負が密かな室井の言い訳となった。
俺たちは相対する世界を望み、交わらないと知りながら、憧れた。
触発に決壊するのは時間の問題なのだ。
室井は背を向けたまま立ち尽くしていた。
だが青島も動いた気配がない。
一度だけ振り返った。
やさしい雰囲気をまといながらも、でも人を胴震いさせそうな存在感を醸し出していた。
これが見納めか。
こんな形で終わりになるのか。
「もう私に近づくな」
「っ」
「踏み出すことは何度か考えた」
「はっ?」
「手を伸ばせば捕まえられると分かっていて、そうしたら終わらせることも怖くなって、出来なかった。それが答えだ」
目を丸くして、青島は固まった。
言葉もなく息を呑み、拳をきつく握っている。
あの甘く蕩けるような朱い口唇は、奪った時とは違い、血色を失ったように、色褪せ、強く噛み締められていた。
通路の白色灯に、仄暗く彼の輪郭は照らされていた。
「気付いていたんだろう?」
キスも、気持ちも。
室井は今度こそ背を向け、ゆっくりとその場を後にした。
もう青島も追ってこなかった。
4.
捜査の内密の擦り合わせや帳尻合わせなどでよく使う都内のバーで、室井は男を待つ。
この店の薄暗さが室井を落ち着かせた。
「待たせましたか?」
「どうして来た」
「えっと、きのー、細川さん?ってひとが署に来て」
背後に立ったその気配にさえ、震えた。
近づくなと言ったのに、これだ。
細川は、あの日の後、立ち上がることすら儘ならなくなった室井の傍で、黙って寄り添ってくれた。
何も聞かなかったし、何も言わなかった。
隣にいた新城もまた、嫌味を言ってこなかった。
それがどれほどの優しさであるかを今の室井は知ったばかりだ。
こうした幾つもの優しさを自分は踏み躙ってきたのだろう。
だが誰にどう応えればよいのかを、室井自身分かっていない。
「座ればいい」
カランと鳴く氷が合図のようだ。
少し考えた様子だったが、青島は室井の隣に大人しく座った。
鞄を適当にカウンターに投げ出す様子に、苛立ちさえ見てしまうのは、恐らくこちらの被害妄想なのだろう。
室井はジロリと青島を見た。
隣で脅えたように青島も室井を見るが、困ったような戸惑ったような、何とも言えない顔をする。
怖がらせてどうする・・
もしかしたら来ないかもしれないと言われていた。最後は青島の判断に任せるからと。
室井は無理だろうと言ったが、細川は恐らく勝ち確ですよと言った。
もし来たら、ちゃんと話すように諭された。
セッティングされたって気まずいだけなのに。
誰もが心配しお節介を焼いている。そうさせてしまうだけの価値が自分たちにあるんだろうか。
「仕事は」
「そっこー終わらせろって指示だったんで。あがりです」
目の前の青島は本当に仕事の途中で抜け出した体で、そこにいた。
ちょっとネクタイがずれている。くしゃっと汚れたシャツが本日の彼の仕事を物語っていた。
コイツも馬鹿だなと思う。
誰に絆されたって、放っておけば良いものを。
こうして彼はいつも誰かのために自分の時間を使ってしまう。
確かに細川の言う通りなのだ。
彼は今夜、ちゃんと来た。なんで来たんだ。
「何しに来た」
「えっと、だから、こないだの返事・・、しなきゃいけないんだろうなと」
「いらない」
「んでですか」
「身を切れる君と違って、私は自分が可愛い。君が答えるだけ無駄だ」
私は君を切り離せなかった。
もうそれが、答えなのだ。
負けを認めるから、放っておいてほしい。
「一方的に言うだけ言って、それでおしまい?こっちは関係ない?」
「関係ないな」
ムッとした様子の青島に、気持ちすら蔑ろにされた気がして、室井もつい不機嫌な声になる。
だってどうしろっていうのだ。
こんな気持ちを持て余したまま、その深さに溺れていくだけで。先日までは気付いてもいなかった。
怯え、逃げ、誤魔化して、もう向き合うつもりもなかったのに、目の当たりにされて、また心は騒いで。
飲みかけのグラスを乱暴に呷れば、触発された青島が同じものをオーダーした。
「大体あんなことを言うような男のプライベートに一人でのこのこやって来て、君は馬鹿か」
「あんたがシラフでそんな身を滅ぼすようなことするわけないじゃんか」
バーテンが無言で滑らせたグラスを、青島も見せつけるように呷ってくる。
ムッとした室井は、バーテンに再びオーダーした。
汗をかいている青島の肌と、生き物のように動く喉仏から目を反らすためにも、室井もまたグラスを空にする。
「先日もシラフだった」
「寝込み襲うなんてアウト案件でしたね」
「見られていなければセーフになるラインくらい分かる」
今度は青島がオーダー追加して、流麗な口唇を薄く開いて飲み干して見せた。
ふたくちで行ったか。
腹の立つ飲みっぷりだ。
室井もまたグラスを掴み、半分ほど呷る。
「へぇ?じゃ、今度は連れ込むんすか」
しっかりとこちらの意図に踏み込んだ反論だ。
ジロリとまた睨み上げれば、勝ち気な瞳が感情のまま杯を飲み干す。
「付いて来る気があったらな」
「俺、あんとき、あんたに付いて行くって言いましたよね」
「言ってない」
「あんたに期待してるってそーゆーことでしょ」
腹が立つまま室井はまた残り半分を飲み干すと、真黒い目玉だけで次の杯をオーダーする。
バーテンは慣れていて動揺もせずに手元を動かし、波立たぬ透明の液体を注いだ。
そのやりとりに、青島も指先を立てて自分の杯も追加してみせる。
「ここ、奢りですよね」
同時に滑らされた液体を、同時に受け取り、二人で一気に呷る。
「シラフでも身を滅ぼす。足元を掬われるなんて幾らでも転がっている。君みたいな人間には一生分からないことだ」
「また立場?」
また二人で同じ勢いで杯を呷る。
勢いよく開けたグラスが音を立て、同じように氷が冷たく鳴いた。
「誰かにイイワケしてるみたい」
「言い訳の何が悪い!自己保身だ」
「べつにいいんじゃないですか?」
「大体、なんなんだ君は!突然目の前に現れて私の築いてきたものをぐちゃぐちゃにする。こっちの人生立て直しだ!」
「それ、俺のせいなんですか?」
そりゃまあそうだろうが。
「自分の立場も護れない男に何が護れる」
言うだけ言った室井は、ただ前を見据えた。
言葉足らずだと分かっていても、同時に全てを内包しているような情火は滴るような罪科と狂熱を綯交ぜにし
気付かぬふりで、感じぬふりで、やり過ごして来た長い時間と共に、室井に圧し掛からせていた。
その圧迫感すらある重さに、もう戻れないことだけを感じ取った。
目は壁が穴が開くほど凝視しているのに、身体の半分が、猛烈に青島を意識していることだけが理解できていた。
それ以外は、室井にとっては些細なことだった。
バーテンが二人に同時に透明のグラスを流せば、それは絞られた照明の光に鋭く浮かぶ。
値踏みするように液体を流し込むカウンターの男二人に、注目する人間はいなかった。
「今夜はシラフじゃないぞ」
「そりゃそうね」
青島もそれ以上何も言わなかった。
何か告白めいたことを言うべきか迷った。
でももう言葉には何も出来なかった。
何も言葉にしたくない。言葉なんかじゃ今の気持ちは表せない。
「部屋に、来るか?」
ゆっくりと青島の朱い舌がグラスを舐めた。
「・・いいですよ」
5.
入れと言ったら、青島は扉を片手で抑えたまま、横を向いてしまった。
流れた前髪に夜露が滴る。
どこか覚束ない足取りで立ち尽くしたままの彼に、だったら何で付いてきたんだと喉元まで出かかった。
ド素人が泥臭い試合しやがって。
お互い様だが。
外は雨が降り出していて、この捩れた関係を嘲笑うかのようだった。
室井のコートからも滴るものが床にジワリと染みを滲ませ広げていく。
それが妙に暗示に思えて、室井の声は意図せず熱に掠れた。
「帰るか?」
「あがります」
青島は口先だけで挨拶をし、靴紐を解きだした。
だから。こういうところなんだが。
呆れた色に変わる乾いた吐息を天井に大袈裟に吐いてから、室井は青島の腕を取り、壁に縫い付けた。
片足で立っていたためバランスを崩した身体は容易に背中を打ち付け、驚き顔を上げる青島の顎を取り、室井は顔を近づける。
即座に竦んだようにも見える反応にも、またも反らされた瞳にも、不躾にも腹が立った。
「だめだ、逃がさない」
もう室井の下心も気持ちも知っているだろうに、そこで怖じ気づく青島に、年下の可愛さと照れ以外の何かも嗅ぎ取ってしまう。
逸らされた長い首筋も、俯く前髪の色香に噎せ返る息苦しさも、酒の吐息が今夜の理由を暈していて
青島の本音が透けている行動に、今、言い訳は吐かせたくなかった。
「まだ堪えろというのか」
敢えて触れはしない。
口唇をギリギリまで近づけて、顎を固定した室井の冷えた指先が、青島の素肌に食い込む。
抗おうと室井の胸を手繰る右手も捻り上げ、壁脇に押し付けてしまう。
ずるりと滑るまま、両手は青島の頭上にまで縫い付けられ、室井はそれを片手で軽々とまとめると、逃げ場を断った。
光すら持たない漆黒が、ただ強かに青島を縫い留めた。
シラフじゃない。ならば、後でどんな言い訳もたつ。
囲うような態勢となった室井に、青島は頼りなげに救いを求め、見上げてくる。
だが今夜はそんな気分じゃない。
欲しいものが手に入らぬ男に余裕なんかない。
「ここまで来て、逃がす男はいない」
囁いたら、青島は目尻を染めて視線を彷徨わせてしまった。
だっから!なんっって貌するんだ!!
俺の理性を飛ばす気か。
「そんな顔をされたら、こっちだって何するか分からない」
「~~ッッ」
そんなこと言われても困るよ――青島の定まらない瞳がそう告げているのは室井にも分かった。
でもこっちだって今夜は止まれそうにない。
見つめ合い、顎を上向かせれば、青島も探るように室井を見上げてきた。
そこに潜む未知に、嗜虐心をそそられる。
室井はゆっくりと顔を傾けた。
視線は逸らさない。逸らせない。
お互いの息の熱が強く絡む直前、青島が引いた顎を室井は力で抗わせなかった。
「青島、」
「・・わかってますよ」
濡れた吐息がお互いの口唇を掠める。
拗ねたような物言いは年下の若い男の拙さで、室井だけが知る青島だった。
濃密で官能的な香しさ。ああ、降参する、どれだけ参っていたかも。
室井は舌を出し、誘うような首元の肌を、吸い上げるように一度舐めた。びくりと戦慄いた動きに合わせ、鋭くひとつ、吸い上げる。
朱く震えた肌が、電灯に艶めかしく誘ってくる。
首元から挑発するまま視線をクッと眇めれば、青島は泣きそうな顔で、真っ赤になっていた。
じっと見つめあった。
色素の薄い琥珀の光を纏う瞳が、室井だけを見つめていた。
視界に捕らえておきたいとばかりに室井の漆黒は明け透けで、囚われているのがむしろこちらなのだと伝える。
「いいよ・・ここまで来て止められたらサイアクだ」
青島がぎゅっと目を瞑り、キス待ちの態勢をした。
バックンと破れるのかと見紛う程、室井の心臓が跳ねあがる。
薄く上げた顎のライン、たった今刻印した朱痕。その顔が赤く歪み、室井に倒錯的な気分を誘発しておいて、青島の身体から強張りが解けた。
だからッッ、そういうところなんだッッ!!
はああ~とわざとらしい程の大きな溜息を落とし、室井は青島を解放した。
腕を解き、身体を離す。
「・・むろいさん・・?」
「いいから。まず、あがれ」
こんな玄関脇の黴臭くて薄暗いところでこれ以上やってられっか。
スタスタと先に奥へ引けば、青島もなにやらごそごそと音を立てていた後、部屋に上がったようだった。
濡れたコートを掛け、室井は湿ったジャケットも脱ぐ。
タオルで頭部を拭い、暖房を入れる。
しばらくして青島もリビングに顔を出した。
座れと目線と顎で合図すれば、青島は大人しくちょこんと座る。
根は素直で、礼儀も弁える、真面目なやつなのだ。
自分を拭ったタオルを一度見て、それを青島にを放った。
空でキャッチし、床に直接座った青島がくしゃくしゃと頭を拭きだす横に室井も腰を下ろした。
瞼を上げれば視線が合う。
「・・シないんだ・・?」
「できるか」
奪いたい。犯してしまいたい。組み伏して貪ってしまいたい。罪科を粉々にする威力に抗えない。
寝込みを襲った時情動も、誘惑に負けた官能の罠も、気付いてしまったら抗いがたい甘美さだ。
そんなの分かっている。
だけど、それ以上に室井はこの燦然とする彼に憧れたのだ。誰よりも何よりも大切なのだ。
失いたくない。嫌われたくない。
嫌われても飄々としている青島とは根本が違う。
ぶつかっても、罵っても、繋がった、途切れず続いたその数奇な絆を、手放すことが怖い。こんなにもだ。
ったく、分が悪いのは、こちらの方だ。
室井は今になって自分が怖がっていたのを知った。
欲望を押し付けて汚したい男の情理と相反しながら同居する、その不可解な感情を愛情と呼ぶのなら
きっと、細川もそうだったのだ。
クッソ、大事にされてるじゃないか、新城は。
「・・いくじなし・・」
「そうだな」
ろくな口説き文句などなく、ただ欲望をぶつけることも出来ず、室井は目を閉じる。
「だって、ぜんっぜん、そんな素振り、なかったですよね」
「見せていたら普通に危ない人だろう」
やはり先日まで青島は室井の気持ちに気付いていなかった。
ということは、これは細川の見立てと言うより、室井の自爆だ。
こっちだって先日の先日までこんな淫らな気持ち気付いていなかったんだ。
実際それは、長らく患った重さを無視し、呆気ないほどの陥落だった。
もう少し引き延ばせていたら、外面の良い上司と部下でいられただろう。
壊したのは、自分だった。
「おまえ、俺と寝れるか」
「!!」
唐突に度がすぎた質問に、青島はタオルの奥から瞠目し、口を噤んでしまった。
仄かな動揺が透けている稚拙さに性懲りもなく乱れる心臓は、性懲りもない期待、なのだろうか?
だがそう断定できるほど、今の室井には青島の気配は濃密すぎた。
「公安に張られている」
「はいぃ?」
最早表情も作れなくなった青島が、こっちを見て固まってしまった。
「だ、だ、だったらこんなことしてちゃ駄目でしょ!!」
「・・・」
「こ、此処に入っちゃっいましたけど。俺、大丈夫すか?!」
抱くという言葉よりも公安というワードに挙動不審になる青島にどこか可笑しみを感じた室井は
胡坐を掻いた膝に肘を乗せ、そんなミスを俺がすると思うかという視線で青島を糾弾する。
勿論それは、正確に青島には伝わる。
「今夜は付いていない」
もじもじとタオルを掴んでいた青島が、髪を掻き回し、ネクタイに手をかけ少し緩めた。
「室井さん、なんか、ヤケになってます?」
「切羽詰まった恋など、そんなもんだろう」
「こ、恋・・。・・そ、そうね・・」
自室に連れ込んだ事実と現実は、確かに重なり合っていた時間をも残酷に思い起こさせる。
もしかしたらそれは室井の細胞や脳髄にまで染み込んだ匂いや気配が呼び覚ます、本能的な兇悪かもしれない。
チロッと横目で盗んだら、だがどこか楽しそうな、人をおちょくるような、目と克ち合った。
口唇を持ち上げ、室井を不敵に笑む顔に、室井も肩の力が抜けていく。
可愛い顔しやがって。
「切り抜けられると思うか」
「貴方次第でしょ」
眠っている相手の毛布を掛けるか剥ぎ取るか。
だが自分はそのどちらでもなく口唇を奪った。
迷い、躊躇うままに室井は口を噤む。
「あんたのそういうとこがイラっとするんですよ」
反射的に室井はその腕を伸ばし、青島の胸倉を思い切り引き寄せた。
容易に傾いできた身体から、誰にでも心も身体も許してしまいそうな青島の隙を見る。
それが身勝手な嫉妬を生み、知らず衣擦れを起こさせた。
「事は君が考えているほど簡単じゃない!」
すると今度は青島の手が伸びてきて、意外なほど乱暴に首根っこを引き寄せられる。
「そんなだから逃げられんだろ、仕事も、恋も」
コイツ・・!!
だが物言いたげな真っ直ぐな瞳に魅入ってしまう。
額の当たる、呼吸が分かるほどの距離でネクタイを引き下ろされ、触れそうな口唇に青島の仕掛けた罠をみた。
きっと、先程の玄関脇での仕返しのつもりなのだ。
「仕方ないだろう、それでも君を手に入れたいんだから」
ようやく発せられた声は呻きに近かった。
焦点が合わぬ視界で、苛立ってくれる青島の優しさに今は付け込む。
数センチにも満たないお互いの間に迸るピリピリとした緊迫感が、男の性を煽って
この指先が、この身体の全部が、細胞から焦れて、焦れて、足りないものに喘いでいる。
猛烈に室井が何を欲しがっているのか、知らしめる。
それを、青島だって気付いているだろうに。この優しい男は何もかもを他にも捧げてしまうのだ。
「俺たち下っ端が踏ん張るって言っただろ?」
なに弱気になってんだよ。
透明な瞳はそう言っていた。
「二流三流のイエスマンしか周りに残らないからそんななんだろ」
「だから君がいいんだ。君だって、俺がいいんだろう?」
ヤケクソでハッタリをかましたら、青島が言葉を失った。
不意に青島の虹彩が滲み、見たこともなかった色を仄かに漂わせた。そして一度瞼が伏せられ
もう一度上げられた時、その視線ははっきりと室井を写し取る。
花が咲き誇るように少しはにかむ、その絶妙な間にさえ、完成された美学を見る。
室井の手も誘い込まれて青島の後頭部に回った。
「気持ち悪いか?それとも――知りたいか?」
「知りたい・・って、言ったら?」
「おまえが知る男は俺だけだ」
「・・うん・・」
「手放すことは出来ないから、傍にいろ」
「・・どうしよっかな・・」
そう簡単に落ちてくれない男に、迂闊に触れていい道理を持たぬそれは、侵しがたい気品と純潔さを持ち、室井の背徳を糾弾してくる。
爛れた甘さがとろりと蕩け、何か別なものに形を変えた。
「逃がしたくない。離れていかないでくれ」
「言葉が違います」
「いつか、約束を果たす」
「約束約束、うるさいよ」
「必ず浚いに行く!」
「待つのは性に合わない。男はねぇ、」
「口の減らない男だな」
「だったら黙らせればいいでしょ!」
切れ長の瞼と、鼻筋の耽美さ、美しい造形を描く頬から顎のライン。
小さな顔は柔らかい黒髪と似合い、瞳の淡さを壮麗に完成させる。
挑発の拙さも相まって、魅入るほどに囚われる。
室井の指先がゆっくりと青島のこめかみに触れ、そのまま頬を掠め。
「ってか、なんで俺以外の奴と意気投合してんの?」
フッと室井の口から息が出て、ガチガチの頬がクッと眇められ、緩む。
少しはこの美しく純粋なものを独り占めしていると自惚れてもいいんだろうか。
室井が顔を斜めに傾ける。
青島も遅れて、顎を上げた。薄っすらと開いた口唇が濡れている。
冗談だろう?こんな展開が合ってたまるか。ついに俺もヘンタイの仲間入りか。
法と秩序に生きる世界で決して下界の欲や娯楽に誘惑されないようにと、自己を律して生きてきた。
逡巡も、反省も、後でいい。新城に自分で言った台詞が自分の背中を後押しする。
それでも、今だけは、誰かに許しを請うように願い、祈る。
どうか、どうか、この想いが消されることがないように、願う。彼のひたむきな想いを壊さないでくれと願う。
ああ、降参だ。
きっと、あの日毛布を掛けてくれたのも青島だ。漠然とした予感は今確信と変わる。
潤んだような瞳が惑いを見せ、色香に彷徨って、揺れて、落ちていく。
触れようとした――正にその瞬間、鈍い音が弾けて、部屋の空気を切り裂いた。
もちろん、絆されそうになっていた青島の意識もだ。
見つめ合い、遅れて、青島の呼び出しが鳴ったと理解した。
このタイミングでか。
ガックリとそのまま青島の肩に額を押し付けるように室井が脱力する。
「ワザとじゃないだろうな?」
ぱこんと後頭部を叩かれた。
6.
「酒を入れているのに行くのか?」
「ありえない?」
「服務規定違反だ」
一報は、湾岸署からだった。
管内で通報が入ったらしいが、今夜は他の事件も重なり人手が足りないらしい。
「今夜は裏方に徹しますから」
引き留める言葉もなく、室井は立ち尽くし、己の不器用さを歯痒く奥歯を噛むことで認識する。
部屋に連れ込んだって、何も出来ずに終わる虚しさと、不甲斐なさ。
もっと正々堂々と正面から挑みたいのに、臆病になった中年男には、何も出来ない。
折角彼が目の前にいるのに、指先から零れていくような、青島とはそういう存在だ。
ふと、青島の動きが止まる。
訝し気に思っていると、少し間を取り、肩越しに振り返った。
「俺・・ね、なんか、そーとー気になっちゃってるみたいでさ。・・あんたのこと。だから・・その・・」
青島の、今の精一杯の想いなのだろう。
嬉しいと思ったし、だが物足りないとも思った。今夜の凄まじく熱を孕んだ狂気に比べたら、その程度では満足できない。
それでもはしたなく弾む心を必死に隠す室井の口唇が尖り、視線が天井を向く。
「おまえ、可愛いな」
思わず漏れ出たような心の言葉に、青島はムッとしたような生意気な気配だったが、それも照れ隠しだと分かった。
「んじゃ!」
「青島!」
「は、はいっ?」
「今度は抱く。次は全部を貰う!」
絶対、絶対に!
すると青島は、コケティッシュにこてんと小首を傾げて見せた。
「恋にね、次ってないんですよ」
心が千切れるように軋むままに、室井はその身体を引き寄せ、口唇を頂戴した。
奪うような烈しさもなく、与えるような優しさもなく、ただ、罪を与えるだけの口接だ。
しつこく、濃厚に、刻み付けるように。
抜けきらぬアルコールに噎せ返るまま、冷め止まぬ熱に浮かされて、奥底に潜む狂気を確かに自覚しながら、酔狂にも純潔を求める。
離れがたいのは同じなのか、繰り返し肉の膨らみを堪能していると青島の両手が室井の首に回る。
応えるように室井の腕が青島の腰に回れば、身体を密着させた二人の口づけは更に深まった。
やがて、名残惜しむように解放してやれば、切羽詰まった口接に青島は微かに喘いだ。
合わない視線が交差しない心を映し出し、青島の腕もそっと外される。
銀色の意図を引く口唇の隙間に、交じり合った熱が冷気に晒され、その熱を交わすことで伝わった筈のものは
まだ明けぬ夜の闇にみな溶けてしまった。
儚く、脆い魂を憐れむように、哀しむように。
「他の奴には渡さない」
瞼が震えるように持ち上がり、探るような瞳が見上げていて、だが今確かに触れ合ったことを室井に伝えていた。
雄を惑わす色香に魅入りながら、指先から零れ落ちていく何かを繋ぎ止めるように、心は怯えている。
狂わされる。でも狂ってしまいたい。
「絶対に逃がさない」
先程言った台詞と同じだ。
だけど今度は明らかに雄の気配を纏う声音に、青島が薄く笑い、吐息が零れる。
「浚いに行く」
「・・待ってます」
室井は目を剥いて、それを見届けた青島が、嬉しそうな残像を残して去っていった。
待つのは性に合わないと言った男の、待つと言った掠れるような返事に、鼓膜が痺れている。
爪の先まで独り占めしてしまいたい、そんな浅ましいエゴイズムは、施される愛撫のように滴り、室井を裡から蝕んでいく。
雨はまだ降っている。
一体今夜はなんだったんだと振り返る余裕もなく、部屋に一人残された室井の心臓は何時まで経っても鎮まりそうになかった。

夏をまたいでいる間、振り返ればやつがいるの再放送はあるわ、踊る初期の再放送でオダさんどっぷりだわ、萌え殺しだわで、もおおこんなに幸せでいいの?
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司馬先生には共感しかないし、部長との「生き延びたじゃないですか、お互いに」までの緊迫感、やばすぎ!
最後の「戻って来い!」までおいしく堪能致しました。
か~ら~の~、青島くんですよ!もう悩殺級の9月10月でした。なんかもうごちそうさまです。