一 室です。一→室→青です。
登 場人物は室井さんと一倉さん。ちょっとだけ青島くん。私的容疑者外堀補完。
広島赴任一年めの東京を舞台に、別れた二人と一倉さんの恋模様。男たちの旅立ちの物語です。






雪色協奏曲





1.Side-M
二月の葬式は芯から凍てつかせる。

車がヘッドライトを反射させて滑走する通りの向こう側に、見慣れたモスグリーンのコートが見えた気がして
室井は足を止めた。
都会の街の黄昏は薄紫に染まり、行き交う人々の顔を同じ色に染めあげ、舞うような霧雨が視界を更に鈍くする。

「どうした」
「いや、なんでもない」

緩く首を振り、室井は意識を断つ。
先に歩き出すことで怪訝な顔を寄せる一倉を、適当にあしらった。
瞼を閉じれば、たった今見たような気がした生身の肢体が眼瞼の裏にありありと蘇る。
凍りついた筈のその余りの鮮やかさに、咽返る程の記憶の嵐が室井の胸の襞を打ちのめした。


***


『現場の刑事は貴方に期待しています』

短く一言交わされたその一言があの日、穢れと闇と権力に向き合う覚悟を室井にくれた。
堅実な仕事美学に忠実となり瞋恚を抱いているだけではない、激憤を燻らせているだけではない、現実の一歩を踏み出す戦意だ。
だが、それを台無しにしたのは自分だった。

大階段で、湧き立つ瑞々しい躍動感と共に満ちた頬笑みを湛えてみれば、階段の下で振り返った青島は、邪気のない顔を見せていた。
あの瞬間が、迷走していた自分の人生の分岐点だったのだと、今も室井は思う。
本音がいつも見えにくい青島が残してくれた言葉は、確かな室井の欠片となって、一縷の風が彼によって起こされた。

そして、二人の恋も始まった。
密かに紡ぐ仮初の時間、隠れるように結ぶ甘い絆、高め合う温もりの意味。
思い描いていた未来を、自分以外の誰かも同じように描き、賛同し共感してくれる多幸感は
室井を大いに潤し、溺れた。
正直、躍起になっていた。
その充実感は初めての経験で、青島相手でなければ持てなかった。

だが、その何より大切な欠片が、実は二律規範を含むことを、冷酷に室井に知らしめたのが、一年前の新宿北署の一件だった。

信念を穢してまで、ヒエラルキーの毒に染まってしまっては意味がなくなる代償に、男として、そして、キャリアとして試されたようなものだった。
そして室井に齎された判決は辞職勧告だった。
苦渋の最中、それを受諾出来たのは、やはり青島の存在だ。
以前の自分ならば、穢れて流されてでも、この役職にしがみ付いていただろう。
上に行ってから何とかすればいいとか、ここに居ることに意味があるんだとか、甘い期待と言い訳を用意して。

その逃げ道を鋭利に断ち、室井が捨てるかもしれなかった〝室井〟を護ってくれたのは
他でもない、青島の存在であり、遥かなあの日の言葉だった。

全ての模範となるキャリアは、一点だけが透明ならば良い訳ではない筈だ。
汚れ仕事を享受する覚悟は出来ていても、絶対踏み越えてはならない一線と、絶対成さなければならない一線があることを強く抱いた日々は
こんな状況下にありながら、簡単に室井のその結論を捻出させた。

そして、運命は数奇にも、新城の一手で劇的な展開をする。
一方で、いつか必ずと言った青島の言葉を、ここで捨てるはめになった事実は、消せなかった。
結果的に此処に残った、首の皮は繋がった、だがそんなことは言い訳だ。室井の力でも意志でもない。
確かに俺は、あの時一度、彼を裏切ったのだ。

逃げるように東京を去った。彼に何かを残すだけの余力はなかった。
あれから一年だ。
今し方、雨の向こうに垣間見た青島の残像が、泣いているようにさえ見えたのは、己の勝手な罪悪感が見せた幻想だろうか。
裏切らざるを得なかった。そんなことが、置き去りにしてきた男に、なんの弔いになるだろう。


***


「あそこ、壁際の男。・・先月所轄でポカやらかして査問委員会が来月に控えているんだと」
「東大出だろう?」
「だから小言で済みそうって話だけどな。裏ではかなり走り回ったって話だ」

一倉が肩で小突く衣擦れで室井に現実が戻った。
顎をしゃくり、斜め前方で頻りに周囲を窺う痩せた浅黒い男を示すので、室井も視線を上げた。
コネが薄く、然程目立った男ではない。
揉み消すにはそこそこの労力を要したことだろう。

「それだけ人望もあったんだろう」

かつての自分を重ね合わせ、室井はそれだけ答えた。
派閥や実績があったところで、上がターゲットと定めたら最後、一官僚の首など簡単に切られる。
自分にはなかった。点数も、感慨も。それだけだ。

背後の窓ガラスには、鈍い大気に白いものが混じり、雨に濡れるコンクリを滴で巻き上げていく。

室井の裡に一瞬にして沸き起こった激しい動揺など、凍てつく温度の前では幻かとさえ錯覚させた。
が、長い付き合いの一倉だけは気付かない訳がない。
訝しげな視線で、室井を見降ろしているのを、先程からひしひしと感じていた。
目を合わせれば確信させてしまうから、室井は敢えて淡如を貫いた。
だが、それすらも多分見え透いたパフォーマンスなんだろう。

「冷えるな・・」
「今夜は積もりそうだ」
「こんな時に面識もないジジイの通夜とはね」
「一倉、襟が曲がっている」

室井が白い手を伸ばし、一倉のネクタイを締め直してやる。
全ての行事が滞りなく終了する頃には、霙は雪に変わっていた。
観音開きの扉が重々しく開かれ、黒山の群れが沈痛な面持ちで、気もそぞろに流れていく。
ぼそぼそとした低いノイズが過ぎ去っていくのを、列の後ろから室井と一倉は漫然とした目で見送った。

「こいつらがみんなトップクラスを狙ってんだぜ?空恐ろしいわ」
「仲間意識はないのか?」
「ないね」

高級感溢れる絨毯の上を、黒い男たちが集団になっている光景は
地方で暮らす時間が年単位となってきた室井にとって、久方に見る光景だった。

今回は、この葬儀のための一時帰京だった。
広島で着々と成果は上げていた。
だからといって、それが東京への最低限の条件であるだけで、何かの足しになっているのかなど、室井本人だって与り 知らない。
復帰が保障されている訳ではない。
新城が越権して繋いでくれた細い糸は、御情け程度の契約に過ぎず、気まぐれの戯れと何ら差異は無い。
落ちこぼれの烙印だけが、東京に残した室井の事実だった。

「んだよ、もう人事に興味はないか?」
「どうだろうな・・」

室井は静かに相槌を返し、目を伏せた。
閉塞感と空疎感は冬の雪に混じり、積もる。
いつか戻る――それがどれだけ誇大妄想であるかは、室井自身が一番分かっていた。

「広島での勤務態度は同期の耳には入るんだよ」
「もう一年だ。功績は盗られるのに、悪評は流れてくれない」

一倉のように、本庁に在籍する人間には、外に飛び出た人間の眼に本庁がどう映るかなど、想像もしないだろう。
人の噂さえ、今は羨ましさが先に立つ。
仲間意識などないと吐き捨てられるほど、もう気力がない。
警察中枢から離れてみて感じたのは、やはり強烈な疎外感だった。

場所が場所だ。
胡散臭そうな視線は向けられたが、一倉がそれ以上多く追及してくることはなかった。
同じ人海を見て全く異なる感想を持つ相手に、室井は隔たる壁を感じ、自嘲した。
この一年、突かず離れず寄り添ってくれた一倉に、どれだけ救われたか分からないのに
心の奥に空いた穴に、こういう時気付かされる。

東京の夜が見せる幻影は、あまりに残酷だ。
やはり帰ってくるんじゃなかった。
それでも、許されるのなら、一言、謝らせてほしかった。
それももう、叶わぬ夢なのだろう。

自動ドアが開く度、舞い込む冬の凍てつく空気が、足元を擦り抜ける。
北国育ちとは言え、東京暮らしが長く、寒さを身体が忘れている。
時間とは残酷無慈悲なものだ。
マフラーさえしないスタイルは、何かの意地なのかもしれなかった。








2.Side-I
二月の葬式は芯から凍てつかせた。

「明日の予定は?」

フロントでコートを受け取り、室井と一倉も列に紛れてエントランスを後にした。
隙間風に身を竦めコートの襟を窄めた背中を丸めながら一倉は隣の室井に問う。

「泊りだろ?明日も出席するつもりなんだろ?」
「お前と同じだ。研修会に昼食会、その後に親睦会議に出る」

相変わらず清雅な男だ。
どこかに儚さを持つ。
三つ揃えの正装、きっちりとした黒地のネクタイの襟元に閉ざされ、こんな辛酸な季節の中でも、室井は気配を崩さない。
凛とした立ち姿は雪に合い、清廉な気配を一層澄み渡らせている。
老いて尚、玲瓏なことに、一倉は目を眇めた。
気品立つ上流階級とは、こういう男のことをいうのだと思う。

「親睦会議って、あれか、地方連中の園遊会」
「飛ばされた人間の暴露会だ」

潔癖で崇高な精神のままに、出会った頃あった脆さはしなやかさに変わり、変わらないスタイルに聖なる威厳を湛え、遠くを見上げる面持ちは
一倉が独り占めしてきた全てだ。

「取れよ、時間。俺に」

室井が足を止め、一倉を仰いだ。
少し上向いた喉元の肌は、雪交じりの空気に晒され、かさついていて、それが一倉の目のやりどころを失わせる。
ブラックスーツを剥ぎ取る濃密な官能まで想像し、一倉は視線を彷徨わせた。
逸る気持ちを抑え、一倉はどう切りだそうか迷っていた。
新宿の物別れから一年。
笑みも失くした室井を幾度となく気にかけ、何も聞かず何も言わず、他愛ない口説き文句で、傍にいた。
ずっと隣で寄り添ったのは自分だけだ。
もう、待てないと思った。

「今夜は空けているんだろう?抜け出さないか」
「二次会のボイコットは目立つぞ」

チロリと黒目がちの眼差しだけを向け、室井が掌握しきれない瞳を投げる。
その身持ち硬そうでありながら、一倉にだけ見せる隙に弱かった。
ワシワシと顎を手で触る。

「東京は久しぶりだろう。付き合えよ」
「二人で、か?」

一倉が苦笑を覗かせながら首肯すると、室井はまだ戸惑ったような顔をした。
少し逡巡するだけの期待は、室井の中にもあるらしい。
伏せた睫毛が黒々と潜む、その無防備な視線に、長い付き合いならではの油断を見る。
言葉よりも雄弁な、変わらぬこの空気感こそが、二人過ごした時の長さが齎した、一倉の特権だった。

「それとももう俺とじゃ酒も呑めないか」
「そんなつもりで帰京した訳じゃない」
「真面目だな。久しぶりの“上京”に旧友がどう思うか伝わらないか?」

敢えて、旧友という言葉を使った。
室井の反応を見たかったのと、その旧友の枠を今夜壊したいからだ。

「・・まだ友人であるつもりだったのか?」

思わぬ室井の切り返しに跳ねる心臓を隠し、一倉が顔色を窺えば室井が流し目を送ってくる。
黒い睫毛にドキリとするのも久しぶりで、室井なりの冗談のつもりと分かっていても、一倉を期待させた。

「それはどっちの意味でだ?あの時俺が裏切ったか?それともお前が見切ったってことか?」
「どっちもだ」
「ならそろそろ言い訳くらいさせろよ」

そう言って目を眇めると、室井は呆れたように一倉を窺った。
「それとも俺と同じ気持ちということか」とは、どうしてか言えなかった。
ただ、室井が仕掛けた口実を、一倉はチャンスとばかりに意趣返しした。
ずっと避けていた話題であることを承知の上で、室井が先に口にしたのだ。
一倉としてはさっさとトドメを刺して欲しい気分ですらあったことの、その隙を突いた。

その切欠となったあの事件の、自分の決断を恥じたことはない。むしろ、何故、室井が理解してくれなかったのか。
室井を責める気持ちが一倉には確かにあった。
飼い馴らした犬が歯向かったような裏切りにも似た回想は、この雨か雪か分からない冷気によく似ている。


***


『切れないか、お前は室井を』

新城に、そう断罪した。
新宿北署の一件の裏での一倉の動向は、人づてに室井の耳にも入ったことだろう。
庇うことも、静観を貫くことも出来たその部外者の立場から、敢えて、一倉は室井と袂を別つ決断をし、室井を切る保身を選択した。

割り切っているとみるべきか、それとも、裏切ったということになるのか、一倉にも判然としないまま、未だに答えを出せずにいる。
警察学校で出会い、それから十余年。
完璧主義者であるくせに、何処か潔癖さを残す危うい室井には、他に心開く友人は出来ないようで、頼るのは一倉だけだった。
それが、一番近くにいる存在として、一倉を自惚れさせてきた。
室井が望む全てを与え、全てを知った。お互いの堅いスーツの中までも暴いた。
だが、キャリアを積み重ねるうち、その性格の如く隙のない理論と、経験値を得て、今やその推理力や洞察力は、一倉を上回る。
突出したその有能な脳が、同僚の反感を買い、上の円卓連中の癇に障り、やはり室井は孤独だった。

だからこそ、だった。
だからこそ、一倉は、敢えて同じ道を辿らない。
同じ場所に居ては、護りきれないからだ。
揄いの範疇を逸脱し、キャリア生命を断たせることを余儀なくさせ、それを止めることもしなかった。

室井はどう受け止めただろう。
多くを語らない男だけに、一倉はその真意を測りかねた。
離れていくことは、仰望ではなかった。


***


「今夜じゃないと・・駄目なのか?」
「ああ」

今回東京へ室井が来ると聞き、この街にもう一度足を踏み入れるだけの整理が出来たのだと思った。
時が満ちたことを、肌で感じ取った。

「やけに強引だな?」
「焦らされるのは性に合わなくてね」

もう充分待った。俺も室井も。

「君は昔からそうやって強引に誘い出すんだ。そしてこっちは知りたくもない下ネタまで覚えさせられた」
「若かったな、お互い」

一倉は訝しむ躊躇を承諾と受け取り、もう気軽に室井の肩を抱いた。
欲望をせがむ自らの拳が、呆れるほど、震えている。なんて様だ。
それだけ募らせ拗らせた中年は、抱えるものも増えて、生き方も錆び付いている。
お互い、理性を剥ぎ取れないからこそ、曝け出させてやりたいのだ。

「だが、今夜は――」
「最近出来たんだが、いい店がある。招待させてくれ」
「別に聞かなくていい」
「俺が言いたいんだよ」

鬱陶しそうに室井が肩から一倉の手を払い、少し身体を反らす。
それを愉しみながら、逃げるしなやかな身体をまた引き寄せ、両肩を抑え、一倉は不貞腐れる顔を覗き込んだ。

「お前を、確かめさせてくれ」

この勝手な言い分に、だがそれさえも、二人に馴染みの温度と距離を室井に思い出させていくだろう。
そして今夜全てを貰う。
身も心も熱く一体となり、吐き出すだけの一夜でも、男には意味がある。それ以上の意味があるなら尚更だ。
焦れているのは、何も、一倉だけではない筈だ。

「私とて・・お前とこうして話せるのを期待していたところもあるさ」

根負けしたように白状し、ようやく表情が和らいで、だからこそ冷徹な顔にまだ癒えぬ深い悔恨を見る。

「怒っているのか?捨てたこと、逃げたこと、裏切ったこと。・・黙っていたこと」
「過去の繋がりにもうそこまで拘ってはいない」
「過去というほど遠いとは思ってないだろ」
「君がしてくれた気遣いには、感謝している」

室井が狂おしそうに呟くその言葉が白い塊となって落ちた。
捕り損ねた何かを探る間を与えず、続けて室井が口唇を尖らせて唸る。

「ただ、仕事のやり方に口出しするほどもう無粋じゃないだけだ」
「拗ねてるように聞こえるぞ」
「んなことない」
「お前は昔から往生際が悪い。それに俺は甘えていいんかね・・」

室井が昔のように困惑を交えて瞼を伏せる様子に、一倉は薄ら哂う。
自嘲の意味も込めて吐いた溜息を、どう解釈したのか、室井は少しだけ申し訳なさそうに端正な顔を歪めた。

「お前に伝えておきたいことがある。・・頼む。言い訳をさせてくれ」

少し声色を変えて、祈るように一倉はもう一度告げた。
室井がしっとりと黒い眼差しを向けてくる。
真実しか映さない漆黒は、こちらの心の襞まで染み込み、一倉は少しだけ、その清廉さにたじろいだ。

好きだとも惚れているとも、愛の言葉も与えてやれず、惨めな思いをさせてきた。
でもこの先、身体だけでも昂らせ、出来たら心重ね、幾度となく暴き、吐き出させる場所が室井には必要だ。
与えてやりたい。快楽も、安寧も。
引き下がる訳にはいかなかった。既に一年経つ。今夜を逃したら、室井はきっと、戻らない。
これ以上すれ違うのは、御免だった。

「昔から変わらないな、お前は」

長かったような沈黙の時間は、実質数秒にも満たないだろう。それでも肩から吐く息を隠しもせず、一倉は力を抜いた。

「お前こそ、付き合い悪いのは昔からの欠点だと教えたろ。だから身を滅ぼす。上が手を出せないほど外堀埋めとけよ」
「さっきの彼のように、か?」
「損はない」
「お前が言うのか」
「俺は別にお前を悪戯に嵌めたりしてない。本当だ」
「だったら尚更だ。もう終わったんだ。今更お前に何かを言われたところで、俺たちだって変わらないだろう?」

一倉の腕を鬱陶しそうに振り払い、これで話は終わりだとばかりに去ろうとする室井の腕を、一倉は後ろからぐっと胸元に引き寄せる。
バランスを崩され、室井が一倉の胸に落ちてきた。
その胸元に両手を回し、室井を背後から囲う。

「なら、いいだろ、旧交を深めても。こんな夜は俺なんかおススメだ」

耳元に意地悪に吹き込めば、室井が眉間の皺を深めて仰いだ。

「悪いが今夜はそんな気分じゃないんだ」
「変われないと言ったが、変われるものだってあることを証明してやるよ」

肩を抱き込むと、人混みから逸れ、メインの東ではなく西側の出口へと誘導する。
タクシーに乗せてしまえば、こっちのものだ。
均整の取れた節張る肩はすっぽりと手元に治まり、そのまま一倉は胸に押し付けるように室井を抱え込んだ。
もうじれったい。今夜は逃がさない。

「おいッ、俺はまだ行くとも――」

一倉の予期せぬ動きに千鳥足になりながら、室井が慌てて苦情を申し立ててくる。
それを聞かぬふりをして流しつつ、タクシーでも呼ぶか、などと軽口で話題を変える。
室井の往生際の悪さは、昔からだ。堅実であるが故に、最初の一歩が出遅れる嫌いがある。
多少強引に行けば、本気で嫌がっていない限り、室井は流される。
室井は絶対に本気で一倉に抵抗はしてこない。今夜はそれを利用させて貰う。

「おい・・ッ、ぃ、一倉ッ、幹事にも弁解なしは流石に不味いんじゃないかッ」
「後で電話一本で済む」
「ホテルに仕事も残しているんだ!」
「そんな面してんのに、一人で達けないだろ」
「こんなとこでするか!」
「お?溜まってんのか。一人暮らしだもんな。侘びしいだろう。女も入れるか」
「俺たちの身分を忘れたかッ」
「だったら――」

一倉は駄々を捏ねる室井の両肩を向かみ、足を止め、その視線をしっかりと捕らえた。

「俺の手で達ってみないか。――全部が、ほしいんだ」

次第に記憶が薄れていく室井の傍で、伝えるものはなかったが、伝わるものはあったはずだ。
室井から答えはなかったが、満たされたものはあった。
室井の心の中に、自分はいる。
少なくとも、傷つけてはならぬと気遣いを見せる程度には。
室井の控えめな態度は、当然室井の気持ちもまた同じだと一倉に確信させた。

「今夜はお前の冗談に付き合う気分じゃないんだが・・」
「俺も冗談で済まされては困る話がしたいんだよ」
「北新宿の件ならもう良いって言ってるだろう」
「その件はついでだ。俺の動きの真意をそろそろお前にも知っていて欲しい」
「動き?」

室井がようやく一倉の普段とは違う様子に不思議そうな漆黒を深めた。
一倉が至近距離から真剣な眼差しを向ける。

「長いものに巻かれたい俺を非難されているとは思っていない。今夜言いたいのは、そのことじゃない」
「一倉?」
「もう、良い時期だろう」
「何のことだ?さっきから何の話をしている?」

辺りの人影はもう疎らで、二人の声が冷えきった大理石のフロアに微かに反響する。
回転式の自動ドアがある裏手口は、時折足元を冷風が吹き抜け、雪交じりの風に水の匂いが鼻孔に混じって届いた。

「気付いてないとは言わせない。誤魔化すのはもう止めにしないか、俺たち」

室井が無警戒のままに、一倉を訝しみ、覗き込んでくる。
こういうところは、幾つになっても臆病なままだ。

「俺、言ったよな。傍にいるって」
「・・それは」
「降格の件は、ある意味、切欠だった。この曖昧な関係に終止符を打つ機会になったと思っている」
「!」

猜疑心から距離を保とうとして差し出した手を逆に握り取られたことで、室井も流石に状況を察したようだった。
漆黒の瞳が、驚きに広がる。
深甚で奥妙で、この神秘さが、虜にさせる。
その手に恭しく一倉が口唇を押し当てた。
室井が目を大きく見開く。
独占欲を搔き乱され、夜伽には苛烈に灯る色に煽られるだろう、それらすべてが一倉のものだった。
柄にもなく待てたのは求めあいたいからに他ならない。

「今夜の時間をくれ、室井」
「ま、待て、一倉」
「ケジメを付ける。後悔はさせない夜にする」
「待つんだ、その、だから」
「もうそろそろちゃんとしないとな」

片目を瞑り、あくまで軽口を装う一倉に、室井は手を振りほどこうとするが、一倉は力で縫い留める。
これが振り解けないようでは、室井は本気ではない。
天邪鬼で武骨な室井の本音は、言葉よりも身体や態度にこそ、表面化する。

「お前も望んでいたことは分かっている。ずっと言えなくて悪かった。言えなかったんだ、お前が傷ついた隙に付け込むようで」

世話を焼きながら、心のどこかで、お互いがそこにいることに安心や居場所みたいなものを依存した。
きちんと恋人にしてやれていたら、室井は不安定な夜を越えることもなかっただろうか。違う未来を見つけられただろうか。
時だけ重ね、告げてやれなかった幾夜は、室井に一体どんな意味になったのか。

「・・ちがうんだ・・」
「これまでのこと、これからのこと。きちんと話して、ちゃんとしようぜ」
「先走るな、話を聞け」
「焦らすなよ。もう待てないんだ」
「俺は別に――」
「言えない、ってか?」

言葉を被せれば、室井は言い負かされる。
室井が堅く、目を閉じる。

「違うんだ一倉、俺は」
「室井、ずっと言いたかったことなんだ」

両頬を掴み、懇願すれば、口の中なんてカラカラに乾燥していた。
たったこれだけのことで。全く、何て様だ。本気ってやつは、性質が悪い。

「待ってくれ。そうじゃないんだ」

室井の言葉は煮え切らない。
戸惑う横顔がすらりとした首筋のラインを暴き、高雅な姿態は犯しがたい気品さえ放ち何者も寄せ着けない。
恥じらうような躊躇いがいっそ一倉にだけ見せた罠のようにさえ錯覚させた。
もう面倒な手間を省き、身体に直接刻んでやりたいと邪曲な感情の結末が、この捩れた関係となった。
一倉の指先が意味を持って室井の首筋と顎をなぞる。

「何とも思っていない相手に、あそこまですると思うのか?何度も、何度も通って、連れ出して・・」
「そのことは、」
「伝わっていたとは思っている。だから、今夜俺のものになってくれ」
「!」
「曝け出させてやるよ」

ずっと欲しかった。室井の指も顔も髪の先まで愛おしかった。
今こうして見開く黒い眼差しも。
どれだけ必死に、大事に護って、室井のために堪えて、心の大半を占めてきたか。思い知らせてやるまで治まらない。
男に乞われ、漆黒が胡乱な色に揺れるまで、止まれない。

「晒していいんだ!一度くらい、テメェの本音ってやつを曝け出してみろよ・・ッ、なあ、室井!」

こんなんじゃだめだ。室井、お前の人生を、流されて傷つけられて遊ばれて終わるだけのクソにしちゃだめなんだ。

「・・断る」
「そうもあっさり言われると傷つくんだがな」

強気から一転、一倉は少し引く。
告白のセオリーに、室井は思った通りにたじろいで、顔を上げる。
その手を、一倉はもう強引に引いた。
引き摺り、タクシー乗り場へ移動する。

「おい、・・ッ、一倉ッ!も、分かったからもうちょっと放せッ。公道でおっぱじめる気かッ」
「今晩一晩だ。答えを出させてやる。お前は昔から身体の方が正直だ。肌に直接聞けば――・・」

焦る室井を愛おしく思いながら勇み足で肩を抱き、だが、その一倉の足が突然竦むように止まった。
続け、室井がその訝しげな視線を送り、一倉の視線を固めている方向に目を向け、室井もまた硬直する。

大通りを行き交うヘッドライトの閃光を背中に断続的に浴び、残光に輪郭を縁取られ、壁際に居たたまれずに立ち尽くすその緑の影は
ただ如月の雨の見せた幻であるかのように、あまりに弱弱しく儚げに浮かび上がっていた。









3.Side-I
雪は、本格的な大粒のものとなって、深々と夜を凍らせる。

「――よう、久しぶりの顔だな。所轄の雑魚がこんな場所まで何の用だ」
「・・・」
「ンッと、どこにでも付き纏うんだな、正にハイエナだよ」

このタイミングで表れるか。
怒りのような苛立ちが湧いて、一倉の声は自然と語気が強まった。
コイツの存在が、俺たちを掻き回した。
コイツさえ現れなければ、俺たちは間違えることはなかった。
室井の奥底には、こびりついた黴のように今もこの男の存在があることは気付いている。
何故、今、またこんな絶妙のタイミングで現れる。

グッと何かを堪えるような瞳で口唇を一文字に引き結んだ青島は、一倉の嫌味には反応を見せなかった。
両拳に力を入れるのが見て取れる。
凍えているのか、堪えているのか。だが、その色素の薄い瞳がこちらを向いた時
その瞬間、一倉は空気に戦慄が走ったことを感じ取る。

――なんだ、この空気?

睨み付けるようなその視線はだが、手応えはなく、見ているのは一倉ではなく室井だと気付いた。
合わせて、室井の漆黒も深く濃く色を変えていた。
その初めて見る横顔に、一倉は言葉を継げない。

じっと見つめ合う室井と青島の間には、最早、人も雪もなく、音すら消えていた。
ただ見つめ合っているだけだ。距離だってある。
息遣いも体温も、匂いさえ届くわけがない。
だが、一倉が掴み取っている身体さえ無かったことにされ、前触れ一つないままに、二人は時間も空間も超えて交錯させている。

畏怖すら感じる何かに気圧され、ピンと張りつめる空気、鋭く光る雪線。
耳鳴りがしてきそうな、凛とした爆気。

何か声を出そうとしたが、一倉の口は言葉を失い、喉がひりついた。
金縛りの如く、鋭く厳かな空気に憚られた、恐怖さえ齎すその錯覚に、一倉は無意識に室井を抱き締める腕に力を込めた。

清浄な鈴音が聞こえてきそうな澄んだ空気は、二人に因ってのみ造られ、他の何者をも介さず属せず、二人だけの世界が、そこに完結している。
動けない。
何だって言うんだ!

思えば一倉が、二人が真正面から向き合うのを見たのは、これが初めてだった。
あまりの迫力と、引力を滾らせるその空間は、圧倒的で、神格的で、叙情的だ。
初めて目の当たりにした二人の共有する空気に、一倉は圧倒され、身の底から打ちのめされていた。
認めたくない苛烈な憎悪、嫉妬は、一倉を傲慢な雄にする。
独占欲を隠しもしないみっともない感情が渦を巻いているし、手を出すなと発狂している。

なのに、何も対抗する手段がないことに愕然とする。
こんな雪を掴む様な空気すら、崩せない。冗談だろう?

どうやったら、室井の意識を戻せるのか。一倉をもう一度映してくれるのか。
今一倉が口を開いたって、室井の耳になんか、絶対届かない。

「――ッ」

だがそれは、皮肉にも、一倉ではなく青島に因って、収束させられた。
立ち尽くしていた青島の足が後退り、俯き、視線が外れた。
その瞬間、あれほど張り詰めていた空気が、ふっと緩む。

項垂れるように伏せた麗容な表情は、ぱらりと落ちる前髪に隠され、刹那、一倉の耳に室井の殺した微かな息が聞こえた。
霧散した緊張に、一倉自身、不覚にも安堵の溜息を密かに吐かされ、気配に呑まれていた屈辱に軽く舌打ちする。
それでもまだ室井の視線は青島に固定されたままだった。
代わりに一倉が口を開く。

「用件くらい聞いてやろうか、小僧」

青島が濡れた前髪の奥から一度だけ、一倉に上目遣いの視線を寄越す。
整った幼顔は、それだけで一倉の加虐心を煽るのに充分だった。

「知っているだろ?お前と仲良しの室井は降格して権限なんかほとんどなくなった。庇ってくれるキャリアが欲しいなら他を当たれ」
「そんなんじゃ、ないです」
「だったらもう用なんかねぇだろ。ノンキャリに一々付き合っている程、キャリアは暇じゃないことをいい加減悟れ・・!」

二人がかつて、共に無茶なことをして査問委員会に掛けられるなど、問題視されていた仲であることは、庁内では有名だ。
二年前には、今度は二人で表彰されやがって。
だがそれは、限定的なものだ。
この先、政治の世界に入れば仕事で同じ世界が見れるのも、俺の方だ。
キャリアの伴侶にはそれを理解した相手が相応しい。
より近くに居る者が感情を制し、室井を手に入れる。
所詮一介のノンキャリでは、キャリアに手出しはできない。

「こんなになった室井にまだ泥を塗るつもりか。尤も問題児のノンキャリと遊んでくれる物好きは早々いないだろうがな」
「アンタに関係ないだろ」
「少なくともお前よりはあるさ。言えるもんなら言ってみろよ、此処へ何しに来た・・!」

一倉はわざと声を荒らげ威嚇する。なのに、今、確実に劣勢なのはこちらだった。
一倉の脳がそれを確信していた。
さっきあれほど自分の近くに居た室井が、今、一言も発していないし、抵抗もしていない。
その一切を振り切り、一倉の腕の中に在りながら、一倉に意識はない。
彼の漆黒の宇宙に映っているのは。

一倉の視界に雪が戻ってくる。

どうして、こいつなんだ。
こいつに何があるというんだ。
その熱く滴る真黒の眼差しに甘い蜜を啜るのが、何故俺でなくなった。












4.Side-M
雪は、本格的な大粒のものとなって、深々と夜を凍えさせる。

一倉の腕に捕らえられながら、この状況に室井は眩暈すらしそうだった。
そんな安い言葉で簡単に青島を煽らないで欲しかった。
何をしでかすか分からない。
一倉に、ではない。責めれば責める程、恐らく青島は、その傷を隠して、その姿ごと消えてしまう。
また、消えてしまう。
また、失うのだ。

それは、ゾクリとした悪寒となって室井を呪縛した。

青島に見放されること。覚悟していたはずなのに、現実はこんなにも恐い。
―そうするべきだと頭の中から声がする。
相反する思考と感情に、室井は奥歯を噛み締め、一倉の腕の中で身体を強張らせた。
青島の声は対照的にか細く、いつもの強気な色は感じられない。
それなのに、遠くから届くだけの久方ぶりに耳にする青島の生の甘い声色に、ただそれだけで、室井の背筋は震えていた。
哀傷を混在させる押し殺した甘い声音は、寒さだけではないだろう。

「こっちに来てる・・って・・知らなくて・・びっくりして、その、何かあったのかと思って・・それで・・」
「で、待ち伏せか」

ぴくんと跳ねて、青島がまた一歩下がる。
モスグリーンのコートの裾が揺らぐそこに、ヘッドライトが一瞬だけ彼を淡く照らして輪郭を暈す。

「大した身分だな。自分が何か出来るとでも思ったか」

要領の得ない青島の言葉で一倉が不敵な笑みと共に挑発的な言葉を畳みかける。
一倉の言葉には明らかな敵意、否、殺意があった。

「所轄がキャリアと渡り合えると本気で思ってんのか!」

これ以上挑発させたくなくて、室井は慌てて、首に絡まったままの一倉の腕を掴み、身を捩って踠くが
想像に反し、一倉は室井の退けようとした手に合わせ、身体を向けた。
当然、室井は一倉の胸へと突っ伏してしまう。

「っ、一倉ッ」

苦言を申し立てても、一倉は動じない。
しっかりと抱き締められてしまい、室井は藻掻いた。
抱き合う格好となった姿を青島に見られているのかと思うと、気が焦る。
腕の中で一倉の顔を盗み見れば、一倉は不敵な笑みを青島に固定し、いっそ憎悪さえ迸る強さで、凝視していた。
一倉の荒い息遣いが室井の耳に掛かる。
いつになく、本気だと悟る。
室井がその不穏な気配に、危険を覚えた時、それは細く消えそうな声で続けられた青島の言葉に、消し飛ばされた。

「一目・・見れれば、それでいい」

室井は目を瞑り、青島の想いを憂う。

どうして彼はいつも無防備に室井を慕うのだろう。
どうして彼はいつもいつも肝心なところで室井に断ち切らせてくれないのだろう。
いっそ、突き放してくれた方が、この不条理の鎖から解き放たれ、どれだけ楽になれるかと思った夜は数知れない。
だが、そんなこと、室井こそ出来る筈もないのだ。
解き放たれてしまえば、それこそ、狂気染みた想いは益々加速し、溺れるように青島を求めるだろう。
そして、青島を失った自分が、その恐怖に耐え抜けるとは思えない。

青島の足が雪を踏む音が幽かに聞こえる。
刹那、胸が抉られるような痛みが室井の中に走り抜けた。
駄目だ。
このままでは、彼は行ってしまう。
確実に、自分が去っていたことよりも一倉の糾弾が決定打となって、青島を頑なに、消えさせる。
室井の前から消滅する。
だめだ、青島。

「ハッ、二度と来んなよ!帰れよ、帰れ!!ここはお前の居ていい場所じゃない!」

一倉がトドメの言葉を吐き捨てる。
その腕の中で背後に顔だけを向ければ、青島は背中を向けながら、肩越しに、口唇を噛んでいた。
傷つき、責めた、その褪せた顔に、雪が舞う。
もういいだろうと、答えもなしに室井は一倉に弔う。

「・・終わったんじゃないの、あんたも」
あの時に。

新宿の夜に。
冷たい雪の朝に。
瞬間、青島の言葉はゾクリと室井の身体をも竦ませた。
逸る心に一気に冷や水がかけられる。
決定的にキャリアを分断した事件のその裏で、誰がどう目論み動いたか、心理戦も届かぬ所轄で
あの事件が彼の目にどう映ったのか、知るのが怖い。
時は満ちてないと知るのが怖い。
忘れた痛みが脳の奥で疼きだす。

「悪りぃな。室井を慰めるのは昔から俺の役目って決まってるんだよ。立ち去って貰おうか」

お前の出る幕じゃねぇよ、と一倉が強かな冷笑を浮かべる。
それを見た青島の虹彩が一瞬だけ強い痛みに支配され、だが、次の瞬間、ふっと横を向いた。

「そんなの、分かってるけど」
「さっさと行っちまえ」

行くな。
許されるのなら、あれは俺が欲しかったものだ。
閉じ込めて、永遠に傍に置きたいものだった。
感情がぐちゃぐちゃだ。

「目障りだ!」

一倉の声音には彼の恋情と独占欲が混じり、この時になって室井は一倉の気持ちを知る。
人の心とはなんと強欲で身勝手で、その欲望に俺は〝甘えて〟良いのだろうか。
あんな仕打ちをしたくせに、まだ繋がりを断ち切れない未練に、縋る権利は残されているんだろうか。
〝ケジメを付ける時が来た〟
一倉が先程口にした台詞は、正に自分にこそ向けられた言葉だ。

「二度と室井に近づくな」

これで会話も終わりとばかりに、一倉が踵を返す。

「待ってくれ、一倉ッ」
「コレは、朝まで、俺のものだ」

ワザと一倉が室井の耳朶に口元を押し付け囁き、目線は青島の向けて挑発する。
熱い息が室井の耳に吹き込まれ、抵抗を力でねじ伏せられ、室井はたたらを踏んだ。
一倉は、青島の視界からも室井を隠すように、身体を入れ替えてくる。

・・全く、コイツもなんて強情なんだ。
見え透いた嫉妬心を煽るような一倉の態度にも、室井はほとほと呆れた。
単純に、思い通りの反応を返す青島も、甘すぎだ。

だが、それもこれも、室井が引き出した衷心だと思えば、どれも身に覚えのあるものだった。
一倉が今日、ここまで青島に苛立ちを覚える理由も、また、室井が強引にでも青島を求める理由も、同じだ。

キャリアとして、積み上げていくほどに、その椅子は友人であることすら、試される。
自身のキャリアを掛けた命運をご機嫌取りに委ねなければならない不条理も、魅力的なカードをチラつかせ矜持を試すやり口も
皆、煮え湯を飲まされながらキャリアたちが忍んでいく現実だ。
時と場合によって、相手を攻めカードとして利用させてもらうことすらある。
人間感情を蔑ろにした社会で生きていく者たちにとって、その土俵にも上がらない人間には興味がない。

その駆け引きを、こんなにも気にする一倉は、それほどまでに室井という存在が大きいものだと証明していた。
そんな一倉にとって、ゲームに参加もせず、その熱き信念のままに理想を唱え、糾弾出来る言論の自由を持つことは
謂わば、境界で佇むどっちつかずの批評に過ぎない。
リスクも負わず、手を汚さず、友人である立場だけを保持しようとしているように見える青島が、羨ましくも妬ましいのだろう。
甘い汁だけを横取りするようで。

室井は自分を拘束するように回している一倉の腕に、雅に手を添える。

「もういいだろう一倉。その辺にしておいてやれ」
「相変わらずコイツには甘いんだな」
「時と場所を考えろと言っている」
「・・そうだったな、共に過ごす甘い夜が楽しみだ」

聞えよがしに言う一倉を、室井は宥めるように手を添え袖を取る。
まるで恋人が触れ合うような動作に、一倉は口端を持ち上げ、二人の身体は寄り添った。

――と思った刹那、ヒュっと音と共に鋭く空気が裂けたと同時に、一倉の腕が天に昇る。

一倉の腕を回すように逆向けた室井がその腕の中で身体を下げ、腰を固め
素早く一倉の腕を背後に捻り上げた。

「・・グ・・ゥッ、イ、テテテッ!!」

関節とは真逆に腕を捩じ上げられ、一倉が苦痛の悲鳴を上げた。
雑巾を絞り上げるように身体をくねらせ、膝を付き嗚咽を漏らす一倉を、室井は悠然と見降ろす。

「選ばせてやる。このまま投げ飛ばされたいか、それとも押さえ込みが良いか。ベッドの上ではないが」
「どっちも俺に不利じゃねーか!」
「お前が波立たせたゲームだろう」

始末を取れと暗に訴えると、腕の痛みに顔を歪に歪めながら、数秒後、一倉が渋々承諾の意思表示を見せた。
ポンポンとギブアップの床を叩く。

「わ、分かった、分かったよ、引くよ!」

無言で一倉の腕を解放させずに、未だ懐疑の視線を送り、室井は静かに見降ろす。
本音だとばかりに一倉が肯き、縋るような視線を寄越すのを認めてから、室井は腕の力を抜いた。
身体を捩じるように捻られていた一倉は、そのまま腕を擦りながら立ち上がり、横目で室井を睨む。

「お、おまっ」
「あまり揶揄ってやるな。お前らしくない」
「キャリアを舐められたのが許せなかっただけだ!」
「だとしてもそれは、お前の役目じゃない」
「それだけこっちだって、限界なんだよッ、気付け!」

一倉の乱暴な告白に、室井は悠然と微笑んだ。
理知で強面の頬がほんの少し染まるその顔に、一倉が舌打ちする。

「悪かったよ、言い過ぎた」
「頼みがある」

たった今行った暴力的な行為にも構わず、二の句も告げさせず、しれっと室井が返せば、一倉は今度こそ虚を突かれその口を噤んだ。

「おい、何言いだすつもりだ室井」

通じたか、と室井が片眉を上げる。

「嘘だろう?!」
「嘘じゃない。あいつのことだ」

一倉が鋭い気配を発し、目を見開いた。
何故?と冗談だろう?という困惑が入り混じる。

「・・本気か?」
「――」
「戻れなくなってもか・・!」
「悪いな、今に始まったことじゃないんだ」
「仕返しのつもりか!前例がない今の事態にお前だって不安も憤りだってあったんだろう・・・!だからお前は甘んじてこの地を離れて」
「生憎だな。俺のキャリアに今まで前例があった試しがなくてな」

グゥッと一倉の喉が唸る。

「今度こそキャリアも捨てることになるぞ・・ッ」
俺のことも。

低く、地を這うような最終通告に、室井は少し顎を上げたまま、微動だにしなかった。
湛えた微笑は、見る者を竦ませるだけの堂々たる威厳が潜む。
シャープな顎のラインが映え、少し険しい顔つきの室井は、その美麗さもあって、目が据わるとむしろ悪魔のような妖しさを担う。
初めて見るその表情に、一倉が今度こそ瞠目した。
見たこともない野性的で野放図で、生気漲る表情は、一倉の知る室井じゃない。

「どうして・・」
「それを、お前が言うことになるとは皮肉だな」
「もっと賢いと思っていたよ」
「結果が全てだと俺に最初に教えたのはお前だった」
「お前には俺が必要だろう・・!この先、どうする気だ・・!」
「奇妙な物言いだ。左遷された俺を、お前こそどうしてくれる腹づもりだった?」
「ッ」

鋭く、強い二人の男の視線が火花を散らすように交差する。

「嘘だろう・・?なあ!お前が選ぶのは俺だろう?!昔から!」

一倉の手のうちで脅えていただけの田舎の青年に、微笑を湛え、見下ろされている。
一倉にとってそれは理解を越えているのだろう。
室井が受けた刀痕も、許されぬ恋に喘いだ弾痕も、愛する者から流れ出る血痕も。
肌を暴き、男の腕の中で喘がせてやれば帳消し出来る、その程度の傷痕だとでも思っていたのか?

「冗談キツイぞ」
「冗談ではない話がしたかったんだろう?」
「お前の正義をそんなものに成り下げるのか・・!」

室井の冷めた目に、一倉は感情が高ぶるままに声を荒げてくるが、室井の高潔な気配が揺らぐことはなかった。
一倉は恋と仕事を混同している。かつての室井のように。

「軽々しく口に出来る程度の正義なんか畏るるに足らない」
「室井・・!」
「ついでに、お前の選択ひとつなど、畏れてもいない」
「――!」

一瞬にして一倉の気勢が躊躇い、一倉の瞳に数多の感情の渦が浮かび上がる。
それらはどれも氷のように冷たく飛礫を残す。
真っ直ぐ室井が見つめれば、一倉も波立つ渦を抱きながらも探るような眼差しで室井を見つめ返した。
室井は幾分、薄い口角を持ち上げた。

「見惚れたか?」
「・・馬鹿言え」
「見限るか?」
「それを今の俺に聞くなんて、お前も性格悪いな」

ふん、と鼻を鳴らし、一倉は逆立てた感情を一気に鎮めて見せた。
一本取られたことを敏感に察した一倉の気配からは、もう戦意が喪失し、いつもの人を食ったようなひょうきんな男に戻っていた。
こういう所は流石、鍛練された血で生きるキャリアだ。
自己感情に悪戯に身を滅ぼさない。

ンだよ、その顔と小さく吐き捨てる苛立ちまで透けていて
その稚拙な仕草に、室井は素の一倉を見た。

しっかりと締めあげていたネクタイに人差し指を入れ、一倉が少し襟元を緩める。
それから、胸ポケットに手を指し入れ、煙草を取り出す。
割り切った顔をしていながら、こうして旧交を深めようとする一倉は、可愛いとすら思えた。
――そういう甘さが、身の破滅を呼ぶのだろうが。

「分かっているから」

もう一度それだけ重ねると、一倉は片眉を上げて、両手を上げた。
室井は目線を伏せ、少しだけ口角を歪ませる。
選択ひとつで一倉と室井の中は壊れない。

「・・行けよ。二次会は口実を付けておいてやる」
「感謝する」

頷くと、室井はようやく立ち尽くしたままの青島に視線を移した。
事の成り行きに呑まれ、口も挟めずにいた青島は、不安な顔で室井を見つめ、動揺を隠せずにいる。

室井は躊躇いもせずに近寄った。
これまで一歩も動こうとしなかった室井が近づいたことで、びくっとして、室井と一倉を交互に見遣る青島を、視線で黙らせ、強く手前に引いた。
抱き締めこそしないものの、胸元までしっかりと青島の腕を支えるように受け止めると
伺うように室井を覗き込んでくるその眼差しを、ただ無言で室井も受けとめた。

もう、後には戻れない。

「青島」

一倉が呼べば、青島が室井の腕の中から最高に困っている戸惑った顔を覗かせた。

「ったく、そんな顔すんな馬鹿」
「でも」
「一度だけ、見逃してやる。この一度だけだ。次は無い」
「・・・」
「言っとくが、俺はお前の忠誠心に絆された訳じゃないからな。・・室井のためだ。次は俺が貰う」
「・・・、でも、本当は罪滅ぼしのつもりなんでしょう?」

余計なことは言うなと、室井が牽制の目を送る横で、青島が悪戯気な瞳を瞬かせた。

「・・口の減らない・・」
「そんなアンタが、カッコイイですよ」

思わず一倉は加えていた煙草を咬んだ。

室井は一倉に、青島との仲を告白したことも、匂わせるような態度を取ったこともなかった。
室井の青島への執着は、大概の人間にはキャリアらしからぬ行き過ぎた悪行という風に眉を顰める。
それが、皮肉にも、体の良いカムフラージュになっていた。
一倉にとっても。

だがその便利な隠れ蓑を、室井はあっさりと断ち切りやがった。
見ればわかる。
室井の目は、恋をしている男の目だ。先程までの自分と同じだ。

「俺の気が変わらない内にさっさと行けよ」

誘いを恋敵の前で断り、男のプライドを傷つけたこの始末は、今夜、一倉に紳士を気取らせるほどの屈辱を与えていた。
馬鹿らしい、とばかりに一倉が煙草を投げ捨て、片手を天に仰ぐ。
それを見納めた室井が、踵を返した。
室井は青島の腕を引っ張ったまま、雪が隠す大通りのイルミネーションの渦へと、姿を消していく。
嚙み潰した煙草は苦さを一倉に残した。









5.Side-MvsA
室井は服の雪を払いもせずフロントでルームキーを受け取った。
目だけで青島に合図を送り、エレベーターへと誘う。
しっとりと濡れた黒のコートもジャケットも、鞄にまで被る結晶が室井の清廉さと風貌に融合している。
対して青島は、いつものコートの下が使い古したスーツではなくダークカラーの仕立ての良いジャケットで、別人のような気さえさせられる。
久しぶりに見た愛らしくも懐かしい顔も畏まり、その甘い瞳を雪を溶かす前髪の奥から上目遣いでチロリと向けてくる仕草に
グッと奥歯を噛み締め、室井は前を向いた。

たった、1メートル。
それでもこの距離には絶望を感じている。
その腕を思い切り引き寄せてしまいたい衝動を拳に堪えた。
冷たくぎこちない差は、雪より冷たく、隔たっていた時間だけではないことくらい、分かっている。

自分からその権利を断ち切ったくせに、消えない。
その資格ももうないのに、手放したくない想いだけが先走り、ただ、胸が痛かった。

責められているのだろうか。
いや、責めてくれるのだろうか、今も。

部屋に入っても口籠る青島に、無意識に暴走した心臓が飛び出しそうなのを隠し、室井は静かに向き合った。

「少し、痩せたな」
「そう、かな・・。あんただってちょっと疲れているように見えますよ」

青島が切なそうな顔を歪ませ、肩を小さく竦めた。
ようやく口を聞いてくれたが、遣る瀬無く笑って、俯き、室井の視線を拒んだ。

「そういう恰好、」
「似合わないですよね」
「いや――品がある」

ポタリと垂れる雫が、青島の丸みを帯びた顎を辿り、滴った。

「嘘が上手くなりましたね」

何もかもが嘘で固められた今、青島に付いてきた数多の愛しい嘘もまた、弁解の余地はない。
室井はじっと青島を見つめた。
口唇を噛み締め、直ぐに横を向く仕草に濡れた髪が流れる。
やがて、濡れたような都会の闇を映す蒼の瞳が、哀傷に深まった。

「あんた、酷い顔してた。何かあったんだってわかった。・・チョット心配になって。・・余計なことだったみたいですけど」

付け足すように添えられた最後の言葉は、拗ねたような響きを持ち、年下の拙さと未熟さの中にまだ残す熱情を錯覚させた。
もう滅多に見せなくなったその弱味は、会わなくなったこともあって、酷いノイズを持って室井の心を抉った。

ああ、そうだった。彼は不安も寂寞も、みなこうして呑み込み、その裡に隠してしまうのだった。
室井に釣り合いたくて、追い付こうと必死で、背伸びして大人ぶって寂しさも隠してしまう。
それらは付き合うようになってから気付いたことだった。
敢えてそこを暈す男の意地が、室井に彼の若い幼さを意識させてしまう。

「明日、研修会と会議がある。それに出席する名目で、帰京した」
「そうですか・・」

青島の背後の窓を打つ雪が、積もっていた。
まるで、東京を離れたあの日を准えるように。

それきり、室井も青島も言葉を発することは出来ず、黙り込む。
何を言っても傷つける気がした。
長い沈黙は、深々と芯まで凍えさせるようだった。
視線を頼りなく彷徨わせ、何度か口を開こうとしていた青島は、だが、見送りに来ただけだという体裁の顔を作り治し、お辞儀した。

「俺、帰りますね」
「・・あ・・」

行ってしまう。
消えてしまう。多分、もう二度と――

そう思った時にはもう室井は動いていた。
あんなに近づけなかった距離を一気に縮め、室井は青島の二の腕を引き留める。

「嫌だったら突き飛ばせ」

低く呟いて、室井はその腕を引き寄せた。
小さく叫んで雪崩れ込んできた柔らかい身体を想いのままに抱き留める。
そこから先は、本能だった。

やっと会えた。
あれからどれだけの月日が俺たちの間に流れただろう。
あんなことがなければ、これは俺のだったのに・・・!
室井の心が切り裂けそうに叫ぶ。

「今夜だけでいい。傍に居てくれ」

東京の夜は、どうしたって君を強く思い出す。
最後に同じ空を見たのは一体いつだったか。
どんどん運命が室井から青島を遠ざける。
簡単に傾いでくる青島の身体から、懐かしい煙草の匂いが室井へと伝わる。
それは、酷く堪らなく室井の胸を軋ませた。
自分の感情なのに、これほど邪悪で制御出来ないものだとは、思いもしなかった。

「その役目はもう、俺じゃないよ」

感情を殺した冷たい言葉に、室井は更に腕に力を込める。
何を言える筈もないのに、このまま時を終わらせてしまいたくなくて、腕だけに傲慢な力が籠る。

「言い訳を、させてくれ」

口にし、自分が強請っていることは、先刻の一倉と同じだと思った。
謝罪したいのは許されたいからで、それは全部、弁解にすぎない。青島のためなんかじゃないのだ。
そういう態度に、少しの嫉妬と苛立ちを覚えた筈なのに、今、自分は一倉と同じことを青島にしている。

自分は一倉とおんなじだ。
まるで一倉を准えるような自身の行動に、室井は先程の一倉の怯えも強気も、全部が分かってしまった。
一倉がどれだけ室井を愛していたか。
どれだけ必死に直向きに心を割いてくれていたか。
自分がしでかした不始末を背負わせ、尚且つ、手放したくない身勝手な大人の言い訳を抱え
取り零した何かに必死に縋っている。
自分で決断したくせに、青島が室井をその瞳に映さなくなるのは、嫌なのだ。

あの事件で、誰もが同じ罪悪感を抱き、誰もがその罪悪感を拭えずに彷徨っている。
誰もが誰かに言い訳したくて、誰かに赦して欲しくて、あの年の二月に凍り付いたままだ。
皆、何に対して許されたいのだろう。
皆、誰に言い訳をしているのだろう。

「どっちにしたって、俺が何か言うようなことじゃないよ・・」

強く抗い、青島が両腕で室井の胸を押し返そうとする。
それを上回る力で、室井が必死に抑え込んだ。
強がる青島の顔は、室井の記憶に一倉を重ねた。

〝それに俺は甘えても良いんかね・・・〟

さっきの一倉も、恐らくこんな気持ちだったのだ。
青島は、まだ自分を好いていてくれるのだろうか?自分のことで傷ついてしまったのだろうか?まだ、繕うチャンスは残っているのだろうか?
呆れた筈の男の行為とまるで同じことをしている自分に、室井は少し可笑しくなった。
だとしたら、今の青島の気持ちは十中八九、さっきの自分だ。

「辞表を出した」
「俺が怒るとでも思いましたか?」
「!」

想定内だったのか、言われ返され、室井は口を止める。

「辞表のこと、人伝に聞いたよ。その時の俺の気持ちがあんたに分かる?」
「・・・」
「それで、広島まで行っちゃえば、清々したって?」

少し腕を緩め、腕の中の青島の顔を見れば、その瞳が至近距離で透明に光り、愛憎に揺れた。

「あんたにとって俺って、あんまり意味がないんだなって・・・・時間に流せちゃう存在なんだなぁって、分かったよ」
「そう、見えたか」
「見えたよ。置いて行かれたってことは、つまりそういうことなんだなぁって」

哀しそうな、諦めたような口調で、苦しそうに口唇を引き結んだ。
身体に回し抱き締めていた腕を解き、室井は何とも言えない胸の切なさを覚えながら、ほぼ無意識に青島の頬に手を添える。
漠然とした感情のままに、ただ、優しく触れる室井に、青島は視線も合わさず嫌がった。

「おまえは・・。俺が一生傍に居ろっつったら、本気で言うこと聞いてしまいそうだな・・」

その室井の言葉に、青島の目が怒りに歪んだ。
力いっぱい室井を跳ね除けようと暴れ、室井がその手首を掴むが、それも振り解こうとする。
それを力で室井がねじ伏せるから、取っ組み合いとなる。

「・・ッ、俺じゃないッ、哀しいこと、してんのは俺じゃないよ室井さん!あんたが全部一人で決めて、先に行っちゃうんじゃないか・・っ」
「違うッ、俺は!俺は、裏切ったつもりも、手放したつもりも、なかった!」
「うそつくなっ、一人で悲劇に酔って逃げ出したんだろ、俺からも約束からも!」
「俺の実力不足だ。上に立つ器を試された。裁き切れなかった。それが結末なんだ」

必死に頭を巡らせ、室井は思いの丈を口にする。
その瞬間。

「人の一生懸命を馬鹿にすンな!!」
「――!」

言い訳を言い掛けた室井に、突如青島が、均衡を破った。
驚いて眼を丸くすれば、キッと強い視線が室井に向けられ、一文字に引き結んだ口唇が震えていた。
普段の穏やかな青島からは想像できない物言いと、こんな口の聞き方をされたのも初めてで、室井は言葉を失いたじろいだ。

「あんたのことだよ・・!」

青島の瞳は揺るぎない。
その苛烈な強さに、呑み込まれる。

「あんたがどう戦ったかなんて、聞かされなくたって分かる!辞表を出すくらい、ギリギリの攻防戦したんだっ て・・俺が!分からないわけないじゃない・・・っ」
「・・物は言い様だな・・」
「あんたが真剣に戦ってくれて、俺は誇らしかった・・!なのにあんたがそれを否定すんのかよ!!」

言いながら、青島の飴色の瞳が潤み、艶めいた。
それを誤魔化すように腕を口元に宛て、歪めた顔で横を向きながら、青島が言葉を続ける。

「何であんたの方が死にそうな顔してんだよ・・っ」
「・・君には・・失望させたと」
「今しそうですよ!正に!もっと胸張ってろよ!カッコイイよッ、俺には今も昔も充分カッコイイんだよ!あんたは・・っ」

何だよ・・・罪を着せないとか・・庇うとか・・仲間じゃないのかよ・・とか言いながら、青島がぶつぶつ呟く音が、腹に響く。
心地良いそれを、室井は感動の中で魅入っていた。

本当に、信じて貰えていた。
この状況で何故それが出来る?こいつの強さはどこにある?
青島が怒っているのは自分を裏切ったことではない。室井が室井を受け入れていないことだ。
辞表によって裏切ったなどとは露ほども考えず、ひたすら、室井の信念だけを理解し、今も待ち続けている。

嗚呼、一倉、本当だな。
時が流れ、時代が動き、その中で人は変わっていける。
青島が見せてくれる世界の中に、室井は普遍的な、そして恒久の安寧を得るのだ。

「でももういい・・っ、俺は――」

そして今もまた。
勝手に別れ話にしたのは、室井の方だ。

「悪かった・・」

思わず零れ出た言葉は、室井が一生告げられないと思っていた言葉だった。
室井は自分で驚き、その口を手で抑える。
その顔を見て、青島も震える口唇を噛み締めた。
見つめ合い、ただシンプルに向き合えていた始まりの頃の、直向きさだけが、そこにはあった。
あれから、道は違え、想いも変わり、汚れ歪み、取り戻せなくなって、そして今再び向き合えている。

青島が室井の顔を興味深げに眺め、やがて、室井を覗き込んだ。

「俺は貫いて見せるよ、あんたに貰ったこの信念まで。それで心中するっていうんなら、それこそ本望なんだ。・・覚えてて」
「・・ああ」
「あんたは?」
「望むところだ」

ああ、これだ。
この強さにいつも魅せられて、目を眩ませている内に溺れる程に呑み込まれるのだ。
欠片を失っていた室井の心が急速に満ちていく。

「へぇ?」

意地悪そうな瞳が見透かして揺れる。
俺は甘えても良いのか、などと言う反論は、もう適当でないと思えた。
関わりがなくなっても、警察にいなくなっても、・・・恋が冷めても、忘れても、強固な盲目的とも言える信念で、慕ってくれている人がいる。
全てを失っても、失っていないものがある。
それさえあるなら、室井はまた立ち上がれる。
まだ戦える。
この上なく瑞々しい気持ちが室井の中で爆発した。
こんなの、手を離せるわけないじゃないか。

じゃあ、と言って室井の脇をすり抜ける青島の二の腕を、擦れ違いざま、室井はむんずと掴み取った。

「帰るな」
「・・なんで?」
「帰したくない」
「結構、図々しいんですね」
「知っているだろう?充分」

青島が掴まれた腕と室井の顔を見比べ、室井の指に手をかける。

「“置きざり”にされた時点で、もう冷めたの理解したよ」
「じゃあ何故ここにいる」
「あんたが俺に何も言わなかったのは、男として正解だけど、恋人としてはアウトなんですよ。〝今更〟何なの・・?」
「だったら」
「駄目。・・・だめ、です。言っちゃ駄目、です」

あの日から凍らせていた心が溶けだしていく室井に、青島が頑なに拒絶する。

「俺は!」
「置いていったくせに?」
「!」

室井が叫ぶ言葉を狙うように静かに青島は言葉を発し、それは的確だった。
鋭い指摘は室井を貫いた。
その拒絶が、室井をカッと沸き立たせる。
遥か時を奏で、間に合わなくても伝えたい想いがある。
言わせてくれない想いが、室井の中で決壊する。

「心変わりしたのは――あんただ。恋をするなら、置いていく相手なんてもう御免ですよ」

俺たちの恋も、あの年の二月で凍っている。
一倉の想いも、決断も、みんなあの二月で凍っている。

「終わらせる気か」
「そうしたのは俺で、そうして欲しかったのは室井さんだ」
「忘れられるか?俺を」
「ええ、きっと」

一年前、縋りつくような真似でも出来ていたら、この結末は何か変えられていた。
決意してしまった瞳の透明さに、青島の純潔を見る。
だが、ここで諦めさせられてたまるかと室井は思う。

「挫折した人間を舐めるなよ」
「はい?」

低く唸るように室井が宣言する。
これが欲しくて奔走した若き日が蘇る。
あの日だって必死だった。
こんな稀有で純潔な宝玉みたいな存在を、みすみす他の人間に渡してたまるか。

「だったらそのままこれまでどおり東京で俺を待っていろ。疑わずに俺を待て」

支配欲を含む発言の真意が読めないらしい青島が、虚を突かれた顔で首を傾げて室井を見つめた。
一度振り切れた室井は強い。

「ただ待っていればいい」
「あ、あんたには一倉さんが居るのに?」
「一倉のことは忘れろ。悪い奴じゃない」
「・・・」
「おまえが動かないのなら、俺がおまえをもう一度奪う」

驚いた顔で竦んだその隙に室井は腕を引いた。
一倉。俺は先に進ませてもらうぞ。
だからお前も先へ進め。

「なにそれ・・?何勝手なこと言ってんだよ・・?」
「それでも待っていろ。何度だって攫いに行く。俺は昔から諦めが悪いんだ。知ってるだろう?」

室井の強さも、信念も、恋も、キスの仕方も、セックスの技巧も。
強く鋭い焔を宿したその宇宙のように広がる瞳が、鋭い焔を宿し、聖なる光りを纏い、青島を縛る。
怖いほどに美しい漆黒は、室井の真の姿だ。

「待って、いられるな?」

青島を覗き込んだ漆黒がやんちゃな色をする。
ややして、追って来いと室井が青島の耳に囁いた。
くしゃくしゃに顔を歪ませた青島が、視線を右に左に、そして上に、頼りなく彷徨わせて。
口唇を震わせて、拳で赤らんだ目元を隠して。
それから、拳を押し当てて。

「んだよそれ・・」

飄々と室井は肩を竦ませた。

「追い掛けて、い・・?」

青島の目尻が濡れ光る。
潤んだ瞳が抵抗力を失い揺れていて、引き寄せられる。
室井はもう迷うことなく乱暴に青島の口を塞いだ。
ああ、確かに。今は、言葉よりもちょっと確かなものが、欲しい。

一度離し、至近距離で見つめれば、濡れた瞳が室井を探る。
見つめ合って、今度は青島が顔を傾け、ちゅっと吸い付いた。
もう一度視線を交わせば、ちょっと怒ったような拗ねたような睨んだ顔。
次の瞬間、同時に二人が動いた。
欲望に塗れた指先が青島の顔を捕え、顎を固定し、そのまま回した手で、後ろ髪を強かに引き降ろす。
反動で持ちあがった顎を反らし、青島が室井の熱い口唇を受け止める。

「も・・っ、だめ、かと思った・・っ」

俺はもう一度、この恋を始められる。
今度こそ、今度こそと鞭を打ち、人は根拠もなく立ち上がり続けるのだ。

「いくじなし・・っ」
「どっちがだ・・ッ」

涙声で罵り合った。
誘い合う瞳は熱く、吐息は甘く、胸に落ちた飛礫は、凍てついた時計の針をじんわりと溶かす。
深く強く、切ないほど情熱的な口付けは、雪降る夜に再び重なった。










6.Side-IvsM
第二ターミナル展望デッキは、吹き溜まりになっていたのだろうか、地上よりも雪が積もっていた。
太陽を浴びて銀に光るフェンスに二人並び、発着する航空機に視線を飛ばす。

「広島って、どんな所だ?」
「観光案内でもしてほしいのか」
「おまえにそれが出来るとは思えないが」
「・・知り合いも増えて、色々教えて貰うこともできた」
「へえ、一年は長いな」

昨日の雪が嘘のようだった。
昨夜一晩中降り続いた雪は明け方に止み、東京を一面銀世界に変えていた。
真っ青な空に、真っ白な雪がきらきらと反射する。
雲一つないすっきりとした青空が見渡す限り頭上に広がり、時折雪を巻き上げてはキラキラと煌めく風が、頬を打った。

「一度くらい広島を回ってみたかった。今は雪か?」
「雪は綺麗だが、後始末がやっかいだ」
「雪国発言か」
「・・都会崩れだ」
「雪で喜ぶのはお子様だけか。奴は普通にはしゃぎそうだが」
「・・確かに今朝、雪慣らししてはしゃいでいたが」

言葉を濁したが、一倉にとってはそれが切り出しだった。
今朝、というからには、室井と青島はあのまま朝まで一緒にいたのだ。
何を話したのか、何をしていたのか。
無粋に嗅ぎ回りたい嫉妬心は今、一倉の中の浅ましい欲望の輪郭を、しっかりと炙り出していた。

隣に並び、一倉が空を仰ぐ。
ゴォォという稼働音に並び、真っ青な空に白い機体が飛んでいく。

「全く気が付けなかった。その時点で、勝敗は決まっていたんだな」
お前の中の黴付いた未練に。

震えるような、真剣さを帯びたその口調に、室井は崩さない表情を固め、しっかりと一倉の双眼を見た。

「いつからだ」
「教えてやる気は無い」
「フン・・・」

一倉はあっさり引き下がり、足元の雪をジャクっと蹴飛ばしながら、言葉を続けた。
まるで俺と同じ答えを返しやがる。

「あのじゃじゃ馬をよく・・・踏み出させたな」
「無法者と思っていたんじゃないのか」
「まあ、仕事絡みではな。自分たちの都合ばかり口にして、批判するだけの評論家かと思ってた。・・・が」
「一目惚れだった」
「プッ、カンタンに盗まれてんじゃねーよ」
「こっちだって驚いているんだ」

長い年月をかけじっくりと熟成させた一倉の情愛が、雪解け水にキラキラと眩しく滴っていく。
ちくしょう、何で今になって、こんなに。

「ああいうのが好みか」
「お前だって本当は少し認めているんだろう?あいつを」
「新参者のくせして、一丁前に正論吐くからムカつくんだよ」

ぼやく様に呟く一倉の言葉には、もう邪気も悪意もなかった。
単に世話の焼ける後輩といった口ぶりに、室井も馴染んだ目を向けてくる。

「てっきりお前の片思いだとばかり思ってたのになぁ」
「そこは気付かれていたのか」
「お前の嘘を見抜けるのは俺くらいだろ」

室井が青島に惹かれていることくらい、分かっていた。
室井の目は、一倉の横でいつも誰かを探していた。
残した未練が室井の中で押し殺されていたとして、それも室井が失敗した欠片の一つと舐めていた。
それがどれほどの熱量を持って狂おしくあぐねていたかなんて、知りたくなかった。
でもまさか青島まで室井を、とは気付かなかった。ノンキャリのくせにキャリアを騙すなんざ、大した剛胆だ。
それだけ青島も、本気ってことか。

「大成に動ける男がまだ社会に居るなんて考えたこともなかったよ。そんな青臭い感情、とうに捨て去るものだと」
「・・ああ」
「後生大事に持っている奴は世間知らずだ。なのにアイツの破壊行動は自己満足じゃないんだな」

人間感情とは複雑なものだ。
嫌いと一言で済むものではなく、大人になるにつれ、様々な柵がより感情を複雑にする。
負感情を寄せられても、平穏な関係は造られるし、傷つけられた相手と向き合わねばならぬ時もある。
一倉とて、青島と触れ合う中で、あの煩わしい戦慄さに揺さぶられながらも、惑わされた。

「警察だから、なんだそうだ」
「え?」

その姿を想い浮かべたのであろう室井の口元に薄っすらと笑みが宿ったことに気付き、一倉は視線を外す。
恋する男の顔だった。

“警察は会社じゃないでしょ!”
政治をしに行ってそう糾弾された過去を言葉少なに話す室井の声が雪の光が幾つも反射していく。

「本当にあいつの正論は容赦がないな」
「そこに自我が入らないから余計、性質が悪いんだ」
「そんな理想郷に生きる男を、どうやったら説得出来た?お前だってそんな冒険家だとは思ってなかった」
「・・・」
「いや、違うか、俺が思いたくな かっただけか」
「・・・」
「奴の理想はお前だろう?夢、壊させて良かったのか」
「・・そこが、一番のネックだった」

答えるとは思っていなかった一倉が少し瞠目して振り仰いだ。
室井の目が恋するそれから変化し、数多を悟った、責任を背負う、成熟した男の目でいなしてくる。

一年前、時を凍らせ、抜け道を見失った、孤独な男の生き様だった。
なのに、一夜でこんなにも肝の据わった男の顔になっている。
そうさせたのが――

「昨夜は――叱られた。あんなに説教食らったのはお袋以来だ」
「叱られた??え?青島が?おまえを怒るのか?!」
「結構手強いぞ」

口唇を尖らせ、ぼやく室井に、一倉も口をぽかんと開けたまま停止する。
空いた口が塞がらないまま、興味津々な瞳に色を変え、室井に再度問う。

「それこそ嘘だろ?」
「嘘じゃない」
「だ、だってお前はアイツの理想なんじゃないのか?理想に駄目出しすんのか?」
「自分で選んだギリギリの答えを、もっと胸を張れと・・・怒鳴られた」

あまりにあんまりな説教に、一倉は目を丸くし、ぷはっと吹き出した。

「まーた正論ぶつけやがって」

そのボヤキに苦笑を返してくる室井も、脱力する一倉も、顔を見合わせて苦笑する。
雪が溶けだす音が、引っ切り無しに聞こえていた。
風は冷たい。

「大人になりゃー割り切れないことなんざ、山ほどあんのにな。理想に生きてて息苦しくならねぇのかね?」
「ああ見えて、割と泣き虫だぞ」
「そうなのか?自分で自分の首を締めるタイプか」
「いつも誰かの幸せに身を捧げて、気が付けば自分がボロボロになっている」
「手が掛かる子供じゃねぇか」
「世話の掛かる皺寄せはいつも俺にくる」
「そこがこの上なく可愛いって思ってんだろう?」
一倉が、かつての室井をそう思ったように。

嗤笑の吐息が混じった一倉の問いに、室井は応えなかった。
上質の黒のコートのフロントがきちんと閉められているにも関わらず、襟元が強風に揺れる。
舞い上がった粉雪はパウダーのように黒地のコートに映え、その冷えた肌を染めた。

綺麗な男だと一倉は思った。
この男の気高さも激しさも、みな、一倉には美しかった。
同時に、儚いと、感じていた。
競争に倒れた惨めな姿を、護ってやらねばと思った。
護らなきゃならないと、いつしか傲慢な独り善がりが先走っていた。

青島の目には、そんな室井こそがしぶとく格好良いと映る。
見えているものが違う。

ただそれでも、一倉の見てきた室井もまた確かな肖像の一部で、その高雅な品格は違わない。
高値で取引されるダイヤのように、誰もが狂乱の最中に魅了されていく。
堕ちていく者、畏れる者、破壊衝動を抱く者・・・・誰もが狂わされる。この神々しさに。
今その漆黒の瞳に、雪が反射した光が宝石のように差していた。

「恐くはなかったのか?」

一倉がそうであったように。

「俺に必要だっただけだ。階級社会に真っ向から挑戦するための素材として」

わざと悪びれた言い方をする室井に、意地というより照れが混じっていることを感じ取る。

「そんなことに、何の意味がある?」

怒るでもなく、詰るでもなく、一倉は淡々と言葉を重ねた。
非難するつもりがあるわけじゃない。ただ、一倉はそこに違う答えを持っていて、だからこそ、一倉と室井の道はとうに違えていた。
室井が思いの丈を曝け出させることを望んだ。その相手が自分でなかっただけで。
それでも、一人の友人としての純粋な気遣いもまた、確かに心の内に存在する。
もう、それすら一方通行の想いだとしても。

「言ったろう?俺はこう見えて権力志向だ。青島みたいな理想論には生きない」
「お前が?」
「意外か?」
「もっと・・・色んな建前を考えすぎて、雁字搦めになる男だと思ってた。それもこっちの見立て違いか」
「そうやって、最初の一歩を躊躇っている内に、大事な物まで失うと知ったんだ」
「!」

まるで、自分のことを言われているようだった。

「――、そんなに青島が大事か」
「・・ああ」
「まいったね・・。なあ室井」
「?」
「もし、俺が先に・・告げていたら・・俺たちは何か変われたか・・?」

暫く、室井は何も答えなかった。
雪を巻き上げた一陣の風が、ダイアモンドダストのようにキラキラと光りの粒を飛ばす。
視界が眩しい。

「同期の桜だろう、最初から」
「それも必要なカードだった。お前を生涯愛するために、隠れ蓑が必要だった。俺が安住側に付けば、逸れたお前を救いやすいメリットもあ ると計算した」
「自己保身だ」
「否定はしない。だけど、常に俺の中心にはお前があった」
「都合の良い愛情だな」
「やっぱり、不服だったか」
「見くびられたものだ。俺はそんな中途半端な愛情じゃ満足できない。欲しいものは根こそぎ奪う」
「・・ッ」

その瞬間、一倉には分かってしまった。
室井が青島に身を捧げ、抱かれているのではない。室井が獰猛な激情をぶつけ、青島の骨まで貪っているのだ。
搾取するほど欲しがっているその烈しい強情でも足りなくて、強かに奪うのは、持て余すほどの独占欲だ。
とんでもない愛情だ。
最初から、俺の手には負えない。
室井を抱きたいと思っていた一倉では、初めから、結末は決まっていた。

静かで清楚な男の内に秘める、獰猛で荒々しい欲望に応えるには、青島が向けるみたいな自己破滅的な愛情が必要だ。
同時に、抱きたがっている自分では、室井のその狂気染みた激しい情愛を満たすことなど、一生ないのだと知った。

どさりと屋根から雪が落ちる音がして、僅かに室井の視線がずれ、意識が逸れた隙に、一倉の中で何もかもがいっぱいになった。
思い余った手伸び、一倉は室井の肩を抱き込む。
抗いもせず胸に引き寄せられた身体を、思いっきり抱き締めた。
本気ってヤツは、全くたちが悪い。

好きだった。
すごくすごく、好きだった。
大切で、一緒に居られた時間は眩しくて、俺の人生の全てだった。

手から零れそうになるまで、何もしなかったのが、敗因だ。
安穏と、室井に甘えていたのが失態だ。
どうしていれば、手に留めておけただろう。
どうしていれば、傍にいてくれただろう。
何もかもが、もう遅い。

遠く離れてしまった心は、最早、最初からあったかどうかも、定かではなくなった。
幻のように消えていく淡い恋は、でも確かに、一倉の中にはあったのだ。
幸せであれ。
お前が幸せであれるなら。


抱き寄せた身体を、そっと瞼だけ持ち上げて背中から見降ろした。
すらりとした背筋が見える。
室井は、抗いもせず、咎めもせず、ただ一倉の腕の中に大人しく治まっていた。
それが、妙に悲しかった。

「なあ、どっちから言ったんだよ」
「教える訳ないだろう」
「聞かせろよ、そのくらい」
「もったいなくて言えるか」

ハハッと一倉が肩を揺らす。
拗ねた物言いが、まだ青くさい恋をしているようだ。
間違いなく、青島からではなく室井から言ったのだと確信した。

「連れていくのか?」
「・・いや」

いいのか?という一倉の視線に、迎えに来ることを選んだ室井の漆黒はただ美しく雄の色を湛える。
ずっと変わらない、真っすぐな眼差しだ。

「一倉、お前はこの道を後悔しているのか?」
「・・いや」
「なら、いい。お前も、お前が選んだことを否定するな」
「――」

静かに、濡れたように光る漆黒の眼は何の激情も乗せず、ただ、透明なままに一倉へと向けられていた。
嘲弄も拒絶もない。
それが、室井の真意であり誠意であり、今の精一杯なのだと一倉は思った。

「そろそろ飛行機の時間だな」

フッと息を吐き、ポケットに両手を突っ込んで、嫌味な程の青空を見上げる。
名残惜しむ指先を握り締めることで堪え、静かに最後の腕を、一倉は解いた。
触れ合うのは、これが最初で最後だ。
顔を見ずに背を向け、出口へと向かう。
先に向かい出した一倉の背中を室井の声が追った。

「一倉」
「ああん?」
「俺は、青島と会う前はキャリアに固執した錆び付いた男だった。その間のお前のことは負けられないライバルだと思っていた」
「・・・」
「青島と会った後は、青島が道を切り拓いてくれる。他は何も必要なくなった。ライバルもヒエラルキーも俺にとっては意味がない」

足りないのは友人くらいだと零し、室井は口を閉じた。
田舎者丸出しだったあの頃の顔だ。
暫し、言葉の意味を反芻し、やがて一倉が肩越しに振り返ったまま、今度こそ盛大に笑った。

「おっまえ、青島ばっかりだな!」


*:*:*:*:*:


車に戻り、バタンと音を立ててフロントドアを閉めてから、一倉はハンドルに突っ伏した。
酷く疲労感が身体に蓄積している。

長かった冬が、ようやく終わる。
時がようやく動きだしてくれる。

あんな室井の顔は初めて見た。
昨日までとはまるで違う力強く鋭い目が戻っていた。
この手の内で、燻り、やり切れぬ現実に嘆き、欲を吐き出すだけに逃げていただけの若者は、もういない。
ならば室井は何度だって青島を奪いに行く。
室井は確かに、一倉の手から飛び立っていったのだ。

この飛行場に相応しい。

「くっそ・・ぉ・・ッ」

ガンガンと渾身の力でハンドルを叩いた。
血が滲んだが、構わなかった。痣になったっていい。

こんなに簡単に想いというものは、壊れてしまうのだ。
過ごした時の長さなど、何の価値も無く。
だとしたら、これまで自分が成し得てきた行いは全て、何だったのだろうか。

何にもならなかった。
全てが無駄だった。
裏切りも、悋気も、熱く鬩ぎ合った日々も。

〝お前も、お前が選んだことを否定するな〟
室井が遺した言葉が胸に蘇る。

この競争に負けたのだということだけが、胸に去来した。
何のために生きてきたのかさえ霞んでいく。

室井は「過去に縋りたくない」と言った。
あれは、一倉のことではなく青島のことを指していたのだ。
きっと、断ち切れずに藻掻き、苦しみ、忘れ得ぬ想いの強さに打ちひしがれた夜を幾度も経験した。今の一倉のように。

それでも、本気で愛していた。
共に同じ時代を生き抜き、戦い、笑い合って、同じ目的を胸に抱いていた。
楽しかった。
幸せだった。
永遠に続くと信じていた。
断ち切られた想いは今、鋭く冷たい氷柱となって、胸の奥に突き刺さる。

悠然と仁王立ちする室井の官僚気質の高雅な背中。その肩口から覗く忌々しい男の影。
同じ目の色をして、一倉を見ていた。
室井は俺を選ぶと思っていた。
室井は俺のものである筈だった。

あの時、室井と青島が一瞬邂逅しただけで顕在した、神光の間。
本当は、あの揺るがない視線を絡ませる二人を目の当たりにさせられた時に、この戦いも、決着が付いていたのかもしれない。

「だったら鎖でも付けてちゃんと捕まえておけよ・・ッ」
こんな、不埒な阿呆が勘違いをする前に。

長かった冬が終わり、一倉にも新たな道を歩き出す時が来ていた。

少しだけ、世界は滲んでいた。
青島は、室井になんと答えたのだろうか。
今度会ったら、揄いがてら問い詰めてみるのも一興だと一倉は思った。


*:*:*:*:*:


広島行きの便の出発時刻が迫っていた。

窓の外は雪景色で白く光る。
室井は窓際の椅子に座り、頬杖を付いて外を眺めた。
見送りには行けないけど、と、雪煙の舞う朝靄の中ではにかむ頬に柔らかく口付けた温もりが、今もまだ口唇に残っている。

〝見送りになんて来られたら、連れて帰ってしまいそうだから、いらない〟
〝あんたって・・〟
〝こっちにも来るなよ。監禁してしまいそうだ〟
〝行きませんよ今更。というか、アブナイ人だったんですね〟
〝俺が来る。東京に、会いに来る。そんで、絶対、迎えに来る〟
〝~~っっ、ん~もぉぉ~、わっかりました!妥協案!中央で会いましょう〟
〝・・・・・・・・・・中央って何処だ〟
〝ぇ。・・なごやあたりかな・・?〟


夜半から本降りになっていた雨は雪に変わり、都会を白く染め上げた。
東京を離れたあの日と同じように、穢れも廃れも一色に埋め尽くす。
だが、あの日見たどんよりと立ち込める灰色の雲は今朝は無い。
あの日のような悲しみが結晶した雪では、もうない。

全てのものに否定され拒絶され、疎ましがられて凍えた時代がようやく閉じる。
我武者羅に生き、二人の男に直向きに愛された追憶だけが東京に残る。

今年最後の忘れ雪が一滴ずつ融けていく。
目に映る光に包まれる世界に、室井は目を細めた。






happy end

index

一倉さんの横恋慕物語
室井さんは青島くんを失うとフヌケ

20160111