登場人物は室井さんと工藤さん。容疑者設定。室青の絡まないお話。室青ベース。
すり替わる結末
差し向かいで座る端正な官僚の俯く顔を、工藤はしげしげと眺めていた。
なんて清楚で、線の細い綺麗な男なんだろうか。だが一分の隙もない。
表情の乏しい顔と、シャープな顎のラインがモノクロの鋼鉄さを思わせ、無関心で冷淡な深窓の令嬢を思わせる。
「こんな下町のどんぶり飯でいいんかい・・・」
思わずそんなことが口を出た。
小柄な身体に似合わず、がつがつと親子丼を掻き込む所作は、不慣れな若者のようで微笑ましくもあるが、箸を持つ手が美しく、育ちの良さを感じさせる。
少し伏せた、切れ長の冷たい感じのする眼差し。短髪を丁寧に整髪剤で固め上げた凛々しさ。
糊も取れ、汚れたワイシャツと、ネクタイを緩めた姿にも、隠し切れない優美さがそこにはあった。
ピッタリと誂えたスーツは上質の生地であることは明白で、その存在の実質的な高貴さを主張する。
下手に下々の者に手を出させないだけの、気迫と器量を兼ね備えた、生粋のエリートだと思った。
恐らく、普段はケタの違う上流階級の煌びやかな世界で生きている人間だ。
追われた者が流れ着く、この放浪の街じゃない。
「言ってくれりゃあ、本部で弁当用意したぜ?」
「良い。どんぶりは好きだ」
「もっと舌の肥えたもん食ってんだろ・・・」
「・・・・別に変わらない」
ごくんと呑み込んでから、工藤のつらつらと漏らす独り言のような呟きに、律義に何かしらの返答を返してくる素直さに
ますますこの室井という人物が分からなくなった。
今回の件で初めて密に関わった雲の上の人物だが、こうも間近で顔を眺める機会はこれまでなかった。
というより、目上の監視役など、形さえありゃいい。
普段なら鼻にも掛けない世界の連中であり、多少痛い目を見れば良いとさえ不埒にも思っていたのが本音だが
この室井という男が時折見せる灼熱のような本髄は、夢と幻想の残骸が集うこの街に、奇妙にシンクロする。
「ここに弁護士先生と来たって?」
「カツ丼をな。彼女が食べていた定食が美味そうだった。・・・店主の薦めの」
「・・ああ、あの頑固親父」
備え付けのアサリの味噌汁を啜る。
指先に至るまで、全てのパフォーマンスが、恐らく多くの者に近寄りがたく気難しい印象を与える。
孤高さが、よりその崇高さを高めていく。
しかし、それは罠でしかない。
隙がない――それこそが隙になることを、この廃れた街は嫌という程、骨に浸み込ませてきた。
眠らない新宿の街角は、ふとしたことで、簡単に人間の深淵を覗かせる。
どんなにエレガントに繕い、その権力を誇示しようとも、この街ではそれは反感でしかなく、ターゲットの条件を高めていくだけなのだ。
その意味では、目の前の男は正に「獲物」だった。
それを知っているから、つい持ち前の世話好きが高じて、今もこうして飯なんかに付き合っている。
「この後、アンチャンも現場嗅ぎまわるんかい?」
「不都合でも?」
「言ってくれりゃぁ、俺たちだけで始末してくるさ」
明かり取りから女子高生の甲高い笑い声が通り過ぎ、新宿の昼の顔が 獣の牙を眠らせる。
タイムリミットが迫っている。
「余計な騒ぎは起こさない方が賢明だ。灰島にこちらの動向は筒抜けだ。次にどんな手を打つか判断つかねぇぞ・・・」
「そうしたらゲリラ戦になる」
「灰島に勝てるなんて本気で思ってんのかよ・・・!」
刑事課の連中に、王者さながらに宣誓を告げてから数時間。
各自持ち回りの街へ繰り出し、全員が躍起になって舞台を整えている。――最後の決戦へ向けて。
決着は目に見えているが、まだ着いている訳ではない。
そこでコンビを組んだ・・・というか、一人で外に出ようとした室井を捕まえ、工藤は行動を共にすることを申し出た。
先日も闇撃ちに合い、怪我を負ったばかりだ。
あのスキャンダラスなファックスのせいで、興味本位で嗅ぎまわっているマスコミもまだ多い。
だが、この解き放たれた箱入り娘は、配下も付けずに自身で現場を嗅ぎ回りたがる。
「我々が目指す相手は事件だ。灰島ではない、見誤るな」
「本気で仕掛ける気か?」
「この目で全てを見届けたい」
「何のために」
「真実を知るためだ」
「もう、俺たちのことは信用ならなくなったか」
「・・・そういうつもりでは・・・・」
箸を止め、室井が盲点を突かれたように目を泳がせる。
工藤はこれ見よがしに大きく溜息を吐いた。
どういう意図があろうと、監督自らマウンドに出るということは、階級社会の根本を圧し折っている。
「俺だって諦めたくはねぇけどな、〝権力にゃ逆らわねぇ〟は、この街の鉄則でもあるぜ」
「・・・嫌なら帰って良い」
長い物に撒かれることで息を吹き返す者もいる。
漫画のヒーローのようなワンマン・パフォーマンスだけが、いつも正しい訳はないのだ。
後には引く気を見せない室井の無謀な態度に、ついこれまで言わずにいた、気掛かりが口を飛び出てしまった。
「・・・なあ、無理だけはすんなよ。最後まで走ってやるよ。だけどな、辞表ってなんだよ・・・!」
工藤には到底あずかり知らぬ、かなり階級上位の人物に呼び出されたという所までは知っている。
だが、そこから帰ってきてから彼の様子が変わった。
これまで、この室井という男から、一寸の乱れた気配を感じさせる隙すらなかった。
それは上に立つ者の常套パフォーマンスであり、淡々とした短い指示と、一歩下がり獣の目付きで成り行きを査定するその威厳と風格。
そこには、現場に右往左往されるような肝の小ささではなく、些細なことに一喜一憂する若さもなく、ただ、どっしりとした貫禄だけを見せ付けた。
・・・・・ただ、ここ数日そうやって顔を付き合わせていたからこそ、何となくその顔に陰りが濃くなっていることを肌で感じ取る。
そう思った矢先の、あの宣言だ。
『私は今日、警察を辞める。この事件の真実が知りたい。事件は終わっていない。捜査を続ける』
あの時、いつもの北署の古ぼけた室内が、後光が弾けたように思えた。
一気に捜査員の士気を手中に収めて見せたその手腕と器量。
これまでマニュアル通りの頭の堅い仕事しか見せず、俺たちの後ろで行儀良くしていた男が、一気にその能力を奔出させて見せたのだ。
この北署は、この街に根付くだけあって、捜査連中も一癖あるヤクザ者ばかりだ。
そんな乱雑な彼らの意識を一瞬にして一蹴させて見せた。賭けて見ても良いと、思わせた。
・・・もちろん、それまでだって、俺らは協力的ではあった。
だが、その幉も指揮系統も、あくまで北署の中に元々ある自分たちの連携力だ。
これまで何人もの本店エリートが訪れてはきたが、誰も心を許そうともしなかったし、傅くこともなかった。
それを、たった一言で。
――なんてぇ男だ。
そうさせたのは、上の連中への、忠誠なのか、誇示なのか。
いずれにせよ、あの辞表が引き金になっていることは明白で、なら、最後に一旗揚げようって魂胆か?
・・・運に見放された男が宣言した『私は一人の警察官と約束をした』
その言葉だけが、少し引っ掛かる。
「本当にもう何とかなんねぇのか?」
「君だって真相を知りたいんだろう?」
思わぬ切り返しに、鋭い牙が見える。
工藤は口の端を持ち上げるだけの性質の悪い冷笑を浮かべて、せせら笑った。
それは真実ではあるが正解ではない。
捜査権をチラつかせれば誘導できるだろうという、その程度の甘い切り札で、取引しようとする上役風情の魂胆を、逆に忌避する。
きっと、デスクワークという名の喧騒とは無縁の無機質な部屋で、脂ぎった白髪の混じる男共と額を付き合わせる毎日を送っている人物だ。
ペンシルしか掲げそうもない節のない指先が、目の前で優雅に交差する。
だが、こちらは、そんな真正面から精力張る時期は、とうに過ぎた。
「怪我だって治っていねぇんだろ」
「平気だ」
「まあ・・・食えるだけマシか・・・、アンチャン、線細そうだもんなァ・・・」
「君こそ寝てないんじゃないか。目の下に隈が出来ている。逮捕の瞬間には気を抜くな」
「・・・人を見かけで判断するのは本店の悪い癖だぜ」
辞職に追いやられて、手帳を失って。
刑事のシンボルを失うって、物凄いことの筈だ。そして、そのシンボルこそが、何より物を言うということも、肩書きに生きる男が知らない筈が無い。
「乗りかかった船だからな、お伴は最後までするぜ」
「別に護って貰うようなことはない」
「この街を知っているのは俺たちだ」
「・・・・そうだな・・・・」
静かな挑戦者は沈黙に美学を賞賛し、工藤は大きな溜息を吐く。
どういうやり取りがあったかは知らないが、室井が所轄の動向を黙認する意志を貫いてくれたのは、工藤にとっては幸いでしかない。
だが、この生粋の温室育ちのエリートが、辞表を賭けてまで、この事件の真相に執着する本当の真意が見えない。
こんなに打たれて、平気な顔をして淡々と職務に就く。
どんな神経してるんだ。
元々、工藤は室井に何も期待してはいない。
いくら現場に理解があると言っても、所詮は耳年増の箱入り娘だ。
多少器用に立ち回った所で、本店のルールが揺らぐ訳じゃない。
しかもこの新宿という街は、東京の中でも少し異色の、独特の正邪が行き交う街だ。
温室育ちなら知識として知っている筈だが、体感したことはないだろう。
だとするなら、無闇に頭でっかちの扱い辛いだけの人種だ。
「また何かあったらこっちが迷惑なんだよ、アンチャン・・!」
何が彼をここまで意固地にさせるのか。
室井にとって散々なこの一件に何か意味でもあるのか。それともこれも、上層部に走らされているのか。
こんな無防備に前しか見てない人間は、足元を無様に掬われるのがセオリーだ。
「そう、か・・・」
そう言ったきり、室井は口を閉ざしてしまった。
ただ黙々と、食事を進める。
コリコリと人参の新香を齧る音が、引っ切り無しに警察不祥事を告げるニュースの音に混じって聞こえた。
――エリートの気位の高さというものが、やっかいなのだ。
権力にしがみ付くしかない生き方は、この街の荒くれ者を見てきた工藤にとっては、愚かな懺悔でしかない。
工藤は肩を竦めて、最後の米を掻き込んだ。
食事を終えた室井が丁寧に箸を並べて置き、両手を胸の前で合わせる。
小さく、ごちそうさまという声が聞こえ、冷めた緑茶に手を伸ばす。
飲み干すごとに、白い喉元がごくりごくりと生き物のように蠢いた。
思わず眼を逸らす。
コトリとテーブルの置かれた音に再び視線を戻すと、その湯呑をじっと掴んだまま微動だにしない室井の姿があった。
訝しむ視線に気付いたのか、視線を上げないまま、室井が語りだす。
「・・・・君にだけは先に、侘びを言っておく。すまない」
「何だよ藪から棒に」
「こんな事態になってしまったことだ。捜査責任者が私でなかったら、事はもう少し光明があっただろう」
「・・・・まさかあのファックスのせいだけで、か?」
「いや・・・・、手頃、ということだろう・・・・」
目ざといマスコミは、たった一枚のファックスから精根絞り取るように、ありとあらゆる妄言を今も叩き出している。
そもそも灰島が最初に暴露した元恋人のスキャンダルだって20年近く前の話で、今更民事は時効だろうに騒ぎ立てているのだ。
それは室井が本店のキャリアだからこそ成り得るスキャンダルであり、それが一キャリアの息の根を止める程に追い込んだ。
その程度のことが効果的であると陳腐な幻想を抱く程、上層部が腐っているとは思わないが
事が白か黒かどうかは、最早関係ないのだろう。
ただ、それでも明確な失態が確定する前に辞表ということは、室井を中心とした何やら薄暗いものが背後に見え隠れする。
室井を中核として、利権の絡んだ生臭い駆け引きが、炙り上がる。
いよいよ決着を見せたということか。騒ぎの幕引きを隠れ蓑に。
だから、「手頃な時期」なのだとしたら、室井の巻き込まれているものの大きさに、あずかり知らぬ工藤の背筋が呼応して、ゾツと悪寒が走った。
「案ずるな。事件は葬らせない」
「!」
言葉に反応してハッと見れば、室井の眼は、的確に今の工藤の一瞬の怯みを見抜いていた。
闇夜の中の野性の瞳がハンターのように光る。
「・・・・ここから・・・権限がなくてどう動くつもりだ」
「そこは、この街らしく無法地帯でいいんじゃないか?」
「――」
嘲笑にも似た一手を取られ、工藤は歯ぎしりをする。
室井を背水の陣にまで追い込んだのは、俺たちなのだろうか。
そもそもこの事件は最初から何かがおかしかった。
潮流が故意に誘導されている気がする。いや、誘導されているのは確かだろう。上層部の権力争いの的になっている。
だが、本当にそれだけか?
室井が逮捕されたのは、自分達の捜査ミスが発端なのだ。
本当に足を引っ張っているのはどちらなのだろう。
「なあ、なんでそこまでするんだ?あんたの刑事生命断たせてまでやることかよ?」
「それを、所轄の君が言うのか?」
「下は逆らえない、上は下の手柄を取る、みんなそうしてる・・!」
「以前の私もそうやってきた。それでいいと信じていた。その頃の私なら、君の想像する上下関係が作れただろうな」
グッと息を詰めて、目の前の不敵に光る瞳を見つめ返す。
こっちが想像している上下関係を、真っ向から否定しやがった。
うまい汁が吸えるのはそっちの方なのに。
現場に賭ける思いの並々ならぬ決意はご立派だが、何かが腑に落ちなかった。
諦めることと、力を出す所。そこのケジメはきちんと付けないと、この世界でも、この街でも、やっていけない。
何もかもを救うことなど、到底無理なのだ。
「――だけど、そこまで賭けることじゃねぇのも弁えている」
「この事件で人が亡くなっている」
「分かってるよ、分かってるさ。だけど、本音を言えばそんなの良くあることの内じゃねぇのかよ・・・!」
苦し紛れの言い訳に、それでも走るこの小さな事件の勝負師の生き様が、工藤には死にに行くような稚拙な無鉄砲さにしか思えない。
居たたまれなくなって思わず声を荒らげる。
工藤の長年の刑事キャリアに於いて、この奇妙な肩入れは異質ではない。
エリートキャリアと名の付く輩は、大概がそういうプライドや地位のために、醜い執着を誇示する。
工藤からしてみれば、幼稚な執着でしかないそれは、状況も弁えず、地位だけに固執する。
だが、出世ツールである以上、皆、必要以上に介入はしない。
ここまで入り込まれたのは、初めてだ。
何があったか。事件の本当の姿は何なのか、聞いても良いのだろうか。
多くを語らない室井に、何となく口を挟むことを控えさせる気迫を感じて、工藤は言葉を呑み込む。
「刑事である以上、真相を突き止めることに全うしたい。それ以上の理由は要らないだろう」
何故そこまで――。一体彼はこの細い肩に、何を背負っているんだ・・・・
いや、そもそも、何故、『彼』なのか。
この男に一体何の価値があったというのだろう。
〝あった〟・・・そう、事はもう過去形なのだ。
彼のクビを一つ飛ばすことで、一体どれだけ大きな取引が行われ、どんな甘い汁の滴る蜜を舐め回されたのか。
自分達を取り巻く抗いきれない黒いものが、いきなり頭角を表わし、背後にヒタヒタと忍び寄っているような恐怖を感じた。
だが、平然と、それを受け止め、血なまぐさを一切感じさせない凛然とした器こそが、一番恐ろしい。
真昼なのに、辺りの空気が陰って見え、店の外を歩く女たちの笑い声がやけに遠い世界のことのように聞こえる。
嫌な汗がじっとりと背筋を這い、黄ばんだ陰りの光の中で、見れば腕に鳥肌が立っていた。
「アンチャン・・・見掛けよりタフなんだな」
「見た目で判断するな」
止めろと言いたかった。逃げちまえと言いたかった。
だが覚悟を決めている男に、諭す言葉は何もない。
「・・・悪かったよ。一応言ってみたかっただけだ。辞表を賭けてまでやろうとするなんてよ」
「・・・・」
「男が決めたことだ。何も言えねぇ。でも、決めさせられたっていうんなら、話は別だ」
何て自分は無力なのか。
決して屈強とは見えないその肩に、どれだけの物を背負い、戦ってきたのか。
そんな男に、掛ける言葉一つ、見つからないなんて。・・・この街で、流れ者など山ほど見てきているのに。
救ってやりたかった。何を捨ててでも。
だけど、実質的に救える術など、自分にはまるでないのだ。
こんなにも無力感に苛まれたのは初めてだった。
「気に入ったよアンチャン。良い腹の据え方だ。ヤクザもんの素質もあるんじゃねぇか?」
「こういった状況は初めてではないんでな。もう負けだと思った所から、意外な方向へ玉は転がる・・・」
予想外にテキスト染みた答えではないことに、工藤は子供のように目を光らせる。
「へぇ、アンチャンも危ない橋渡るんだ・・・キャリアなんてみんなもっと堅実に生きるツマンナイ委員長タイプかと思ってたよ」
「出世レースなんて聞こえは良いが泥試合だぞ」
「卓上レースなんか現場の比にもならねぇよ」
「・・・らしいな」
室井がゆっくりと席を立ち、茶を注ぎ足しに行く。
長い睫毛に影が写り、その物腰の柔らかさと姿勢の良さが、品ある高潔な気配で彼を形作った。
「・・・現場に興味が?」
「昔、それを私に教えた男がいるんだ」
工藤の湯呑にも、新たに出涸らしを注ぎこんでくれる。
熱すぎる湯のせいで、湯気が盛んに立ち昇るのを、漫然と見つめた。
「もしかしてそれが、約束をした男かい?」
「・・・・ああ」
室井を強かな挑戦者に変えた男。
改めて向き合い拝む姿は、役職や立場など削ぎ落され、そこには一人の仕 事に向き合う男が居た。
強欲に溺れる争いから遠く、純潔に蒼い夢の欠片を抱いたまま。
それは、新宿という夢破れた無法者が集う街とは、やはり似て非なるものでありながら、工藤の中を抉り付けた。
一体どんな人物なのだろう。
「同じキャリアの先輩かい?」
「いや・・・・」
「ああ、所轄って言ってたな・・・親戚か何かなのか」
「・・・・所轄の暴れん坊だ」
その言い方が溢れる愛おしさを滲ませ、思わず凝視する。
――なんだって?暴れん坊?
しかもその、駄々っ子を窘めるような口ぶりは、年上のそれに対するものじゃない。
室井の瞳はそんな工藤の視線に気付かず、遠くをみるように扉の外の行き交う人々の群れを漆黒の瞳に映していた。
でも多分、今見ているのはもっと遠く、その遥か先にいる人物だ。
何て目をするんだ。
「すげぇな、一介の所轄で、見も知らぬキャリアと知り合えるのか?」
「君とだって知り合いだろう」
「お偉いさんと渡り合える程、身の程知らずじゃねぇやぁ」
「役職は関係ないだろう」
頑固で気位の高いキャリアを本気にさせた人物。
二人の間に一体何があったのか。そして今、何があるのか。
「どんな奴だよ?会ってみてぇな」
「聞かん気だぞ」
「どこの署?」
「第一方面の・・・・湾岸署だ」
その名前を聞いた時、工藤の脳裏に記憶が一つ蘇る。
つい数ヶ月前――去年の終わり、世間を騒がせた台場役員事件の時の管轄は、湾岸地区だった。
湾岸一帯が封鎖されテレビ中継までされた、あの記憶に鮮やかな顛末は、伝説級の幕引きを見せる。
もしかして、その指揮官が、室井だったのか?
そしてそれを仕組んだ人間・・・・あの時あの橋の上で大声で叫んでいたコートの男・・・。
確かそいつは――
「約束・・・したんだ。一緒に正しいことをしようって。こんな所で私の方が曲げる訳にはいかない」
「・・・でも、なら、アンチャンが刑事辞めちまったら・・・・意味なくなるじゃねぇか・・・」
「あいつだったら、こうする。それが分かるから、私も立ち止まらない」
「・・・!」
何だか室井の深淵が見えた気がした。
散々になったこの結末に、傷ついていない訳が無いのだ。
だけどそれでも手折れることを知らないキャリアは前を向ける。自分を自分たらしめる、たった一人を得ているから。
だが、たった一人であるが故に、失うのが怖くて傷さえも隠し、立ち上がる。
ただ一心に隣に在り続けるために。
この男に、利権も沽券も、誇示もなにもない。あるのは――。
「あいつがいなきゃ私など唯の人だ。何も出来ない。でも、あいつがいるなら、何だって出来る」
「汚れた社会で生きる男の台詞じゃない、な・・・」
「あいつが戻してくれるからな。だから私は自由に泳ぐことが出来る」
片手間で想っているような、浅い意志ではない。
底の底まで奪われそうな、灼熱の強さで欲している。そして、それは恐らく一方通行ではなく。
だからこそ、その身を刻むようなその情の向け方が、工藤には余りに刹那的で、悲愴的に映った。
深部に氷水が浸み入るように息継ぎをも凍らせる。
「どんな・・・・人なんだよ・・・」
思わず零れ出た二度目となる言葉に、その時室井が向けた瞳は慈悲深く、愛情に溢れる光を数多に宿していた。
何も染まっていないその人物への愛おしさに染まる。
どれだけ深く、親愛と情愛を注ぎこんでいるのか。
どれだけ想いを灼きつかせているのか。
言葉で語らない分、それはこちらが赤面するほど妖艶に満ちていた。
「・・・・っ」
何で今、そいつが傍にいないんだろう。
何でそいつが、俺じゃないんだろう。
汚れた人の業ばかり目の当たりにしてきたこの街で、室井が向けるそれは、何故だかとても新鮮なものだった。
こうまで赤裸々に人が人を求められるのだろうか。
――そんな愛し方では駄目だ。そんな情の向け方ではいつか潰れる。
俺を見てくれと、叫び出したい獰猛な感情が走り抜けた。
だけど、同じ強さで、室井が荒々しいまでの雄の捕食を向けるのは、その会ったことも無い別の誰かなのだ。
一体どんな魔法を使えば、そいつはこの高貴な存在を手に出来たのか。
「ちょっと・・・・妬けるね」
「妬く・・・程の、ことではない」
俺らなんかが入る隙がないくせに、そんなことを言う。
「頼りにしてるんだろ」
「出来の悪い弟みたいなもんだ」
嘘だ。それは直感で分かった。
きっと、瞼に入れても痛くない程に可愛がっている。
「だったら・・・・、だったら、尚更、そいつを残して去っていっていいのかよ?そいつ、悲しむんじゃないか?」
「そこは・・・・俺たちの宿めだ」
工藤がグッと息を呑む。
意図していないのだろうが、一人称が、変わった。
二人だけの宿命だと、強い覚悟が透けてくる。
その時、工藤は全てに合点がいった気がした。
室井を開花させたのは、呼び出された上位クラスの人間の言葉でもなく、追いやられた窮地でもなく
そのたった一人の男だ。
約束したからという窮屈な理屈ではなく、心を共振し合えるからこそ、求め合う。
室井をこの辛辣な状況下でただ一つ支える柱。
こんな四面楚歌の状態で尚、室井を象っている糸。
上層部への固執でも誇示でもなく、そんなものとは遠く無関係の、それが唯一つの絆で
それが室井自身をも構成している。
それだけを護り抜くために、その細い身も心も捧げ、手を離すことさえ、厭わない――
急激に苛烈な衝撃が身体の下から駆け上がった。
「そんなんで・・・そんなんでアンチャン、幸せなのか」
「・・・え?」
「そいつを誰かに捕られてもいいのかよ・・・!」
「・・・・・」
「自分以外の人間と!理想を追いかけさせて、いいのかよッ?!」
怒りにも似た感情が奔出し、何やら我慢が出来なくなって、工藤は机越しに室井の撚れたシャツの胸元を荒々しく引き上げる。
何かが無性に悔しい。
だって、室井がそんな顔をして、そんなことを言うから。
「アンチャン、忘れ去られちゃうかもしんないんだぞ!」
これで良いだなんてちっとも思っていないくせに、全てを悟ったような顔をする。
消えそうな情愛の灯が消えるのを待つだけなんて、そんな愛し方は間違っている・・・!
男なら、欲しいものはもっと傲慢にその手で掴んでこいよ・・・ッ!
それは、室井にだって言えることなのだ。
誰かに室井を掻っ攫われてしまわないかと、そいつは遠くにいて不安じゃないんだろうか。
想う合う二人の絆が、痛いほどに迸る。
至近距離に引き寄せた室井の瞳が灼熱を発し、一瞬その意思を垣間見せ。
が、直ぐにそれは、隠された。
「・・・・・手に入れられるものならな。どんな手でも使うんだが」
ゆっくりと工藤の手に指を掛け、その手を室井が振り解くようにして、重ねられる。
細い指先は、思った通りに冷えていた。
そうして、室井は、ただ静かに工藤を真っ直ぐに視線を向けた。
荒削りの感情は消え失せたが、失わないその瞳に宿る焔の強さに圧倒される。
手放す気もなければ、むざむざと忘れさせる気もないのだ。
・・・・・誰だ、室井を冷淡な深層令嬢などと言ったのは。
若い連中の陰口に心の中で毒づく。
とんでもない。
強欲で貪欲な飢えの深さを向けるのは、その人物にだけなんだ。
その強固な意志が肌に突き刺すように伝わってくる。
雄の野性の欲望を露わにする獣染みた飢えが、火花を散らす。
彼は大人しく護られる側ではない。上位に立つ者を捕食し制圧するだけの、列記たる王者だ。
この魂に魅入られる。
この漆黒の宇宙のような瞳で見つめさせ、自分だけにその獰猛な感情を向けさせたくなった。
この綺麗なままに開花した魂に引き寄せられ、その漆黒の瞳に映りながら、染め上げたい。
雄対雄で仇するから激昂する。
組み敷いて、めちゃめちゃに貪ってしまいたい獰猛さに湧き立てられた。
必死に堪えるその躯を暴いて、この手で手折らせ、本音で泣かせてやりたい。
澄ました貌を崩してみたい。
その男にだけ見せるのであろう、その剥き出しの本性を。
どうしてこの眼に映るのが、俺じゃないんだ・・・!
改めて、先程まで工藤が感じていた、放っておけない、などという気易い同情ではなく
今、もっと狂猛に、もっと狂暴に、目の前の男が欲しいという残酷ながらピュアな欲望が、心身を切り裂いた。
よくは分からないけど、ただ、欲しい。
この歳になって、こんなにもモラルも矜持も投げ打って、何かを欲したのは、初めてだった。
「――・・・・」
もう、工藤には何も言える言葉はなかった。
悔しさだけが胸の片隅に痣を残す。
時は既に遅く、室井は俺を見ない。無理矢理奪うには、まだ、気持ちが新しすぎて。
室井の、そいつを想う強さに気圧される。そして、だからこそ、この室井という男がより一層欲しいのだと知った。
これは、悔しさなのだろうか。
すっかりと濘悪の取れた瞳で、男が二人、額を付けて顔を見合わす。
「この件が片付いたら・・・逢いに行くんだろ?」
「青島にか?・・・蹴り返されなきゃいいが・・・」
「えぇ?キャリア様を蹴飛ばすのかよ?」
「ああ、あいつは存外、容赦ないぞ」
「ははっ、そりゃ、すげぇじゃじゃ馬だ」
シャツをたくしあげていた手を引き寄せ、額が付く程の距離で囁く言葉は、睦言のように柔らかく。
「君なら、きっと気が合うぞ」
「俺に言わせりゃ、アンチャンも相当なじゃじゃ馬だけどな。大人しい顔 してんのに・・・」
「人を見た目で判断すると痛い目を見るんじゃなかったか」
数刻前、工藤が発した言葉をなぞられる。
工藤はニヤリと口を引き上げ、ぺろっと自分の口唇を舐めた。
「真実を知りたいんだな・・?」
消え入りそうな語尾。でも濡れた視線は俺を捉えて逸らさない。
「本当の犯人を、知りたいんだな?!」
「・・・ああ・・・」
熱い吐息が口唇に触れあう距離で、二人の視線が交差した。
***
最終決戦の舞台へ、いざ扉が開かれる。
カラカラとなる引き戸を開くと、眩しい光が目に射し込んできて、思わず眼を細めた。
「工藤刑事」
「あん?」
「幕切れは派手に行くが。付いて来れるか」
「・・・・上等だよアンチャン。一花咲かせてやろうじゃねぇの」
ゾクリと背筋が這い上がる。
かつて、仕事でこんな昂奮を覚えたことなどなかった。
何て潔く、格好良いのか。
こんな男、見たことが無い。
こんな痺れる仕事を見せられたこともなかった。
人の上に立つ資質の眩しさに、身も心も奪われる。
惚れ込むとはこういうことか。
工藤は室井へ向けて拳を突き出した。
意図を察し、室井も軽くそこに拳を当てる。
今、確かに俺たちは同じ熱さを感じていた。
こんな男が唯一心奪われた存在。唯一、懐まで赦し、その全てを、恐らくは躰まで赦す、可愛がる存在。
烈しい男が、烈しさのままに欲する男。
一体彼はどんな人物なのか。
二人出会った偶然を、夢見る幼さも砕くこの街で見つけた愛は、消えないように追いかけるのがセオリーだ。
苛烈な嫉妬心にも似た躍動感と、焦燥感が身体中を駆け巡る。
久しく覚えないアドレナリンが走り抜ける。
その人物を、一目見てみたいと思った。

20150911