登場人物は鳥飼さんと青島くん。室青の絡まないお話。室青ベース。支部に投稿したものです。
警報
何なんだ。この奇妙な反応は。
〝室井〟という名前を出しただけで空気が変わった。禍々しさを一掃する清涼な空気が一瞬だけ弾け、そこから閃光が走る。
鳥飼はもう一度青島を見るが、青島は何事も無かったかのように手元の資料と格闘していた。
パラパラとナンバリングする音が、誰もいなくなった会議室に空調の音に混じって無機質に広がる。
「――。つまり・・・・青島さんは室井さんと個人的に付き合いがあるんですね?」
「ん?知り合いなの?」
「貴方の関与を聞いているのですが」
「・・・俺たちにあるとしたら腐れ縁ってとこかな」
室井慎次警視監―――警察庁長官官房審議官。
庁内で名を知らぬ者はなく、最近広島から返り咲いた異色キャリアだ。
彼の〝悪評〟は有名で、尾鰭の付いた伝説が今も誠淑やかに囁かれている。
直接個人的に話したことはまだないが、本庁勤務になった時、奇妙な噂は嫌でも耳に入った。
トップ連中の間でも室井の奇行は鬼門のように受け継がれ、酒の席での戒めとして語り継がれている。
その時、必ず出てくるキーワードの一つが、この『湾岸署』だ。
〝室井と湾岸署を繋げるな。一気に土俵をひっくり返されるぞ〟
今回、サポーターとして湾岸署に行くことになった時も、久瀬にも小池にも忠告されたのが
事件を下手に拗らせると、(何故か)室井が出てくるぞ、というもので、その癒着を暗に匂わされた。
正確には、湾岸署の名も無き所轄刑事。確か名前が――
「青島さん、その資料の分別が終わったら、今度は私の方の別案件を手伝ってください」
「まだ働くの?もう9時よ?頑張るねー」
「返事は一言で」
「りょぉぉぉかい。です」
両手を上げて降参のポーズを見せる。
そもそも室井を注視する上層部の最大の起因も、この人物に集中していた。
無名の所轄刑事を叩いた所で、何故本庁にメリットが生じるのか分からない。
そこまで意識しなければならない男だろうか。
二人を繋げる副作用に、本庁がわざわざ動く理由が不可解で、正確には、何故室井に出しゃばらせるの か。
過去資料にまで目を通し、当時を振り返ったが、そこまで室井を警戒する所以は、正直な所、今一つ暈されていた。
上は、毛色の異なる人種を嫌う。
隙あらば纏めて一掃するためのネズミ捕りなのだろうと考えた。
「98年の副総監誘拐事件。あの時負傷した刑事って、青島さんなのでしょう?」
「んー、あ~・・まあ」
視線を外し、手元のファイルを捲りながら世間話を装って探ると、青島からも付き合い良く生返事が帰ってくる。
「03年の会社役員殺人事件もそうだ。室井さんが賭ける時、そこには必ず貴方がいましたね・・・。これは偶然というには出来過ぎている」
「偶然偶然。たまたまでしょ。そんなこともあるよ」
「当時の報告書にも、2000年近辺の室井警視正(当時)の派遣先は第一方面が多かったと記載してある」
「そんなことまで書いてあんのっ?」
「室井さんは何故あんな――・・・、利子の少ない賭けに出たんですかね?自殺行為だ」
所轄の尻拭いは確かに汚れ仕事だが、恩を売れるという意味でハイリスク・ハイリターンの投資株とも言える。
だがその僅かな黄金に目が眩んだ訳ではないことは、室井本人が一番分かっていたことだろう。
それを命じられる人種。つまり、トップ連中が何らかの危険因子を室井に抱いているという推測が成り立つ。
「大切なものを護るためなら、時にフライングは大事でしょー」
「そのためにキャリアを捨てたら本末転倒だ」
「室井さんはそこまで肩書きに固執してないさ」
少しずつ、青島のその場凌ぎの壁に隙が見えてくる。
こちらの張った蜘蛛の巣のような透明の罠に触発され、訂正させることで徐々に意思を見え隠れさせる。
見え透いた手口であるのに、手応えのない所轄のスキルに、鳥飼は辟易した顔を隠すのに苦労した。
「随分庇いますね。・・・・貴方なんでしょう?室井さんを担ぎ出したのは」
ちらっと視線だけあげて、青島がその胡桃色の瞳を輝かせる。
上目遣いであどけない仕草を思わせるその表情は金平糖のようで、まるで子供が親の機嫌を窺っているようだ。
とても年上とは思えない。
「貴方がいたから室井さんは賭ける気になった。いや、むしろ、貴方の戦略に彼が乗った。・・・違いますか?」
「・・・・それ知ってどうするの?」
鳥飼は、妖艶な笑みを浮かべた。
捕えた。実に簡単だ。
こんな簡単なものに、何故上層部も周りも、拘り続けるのだろう。
最終報告書には、事件の委細と関わった捜査員の名前、そして責任者の指示系統が事細かに列挙されている。
キャリアの面子を保つため、全ては統括者の指示の元、包括的に捜査は行われたよう、記載された。
一所轄の機転など、時代の裏の真実は、巨大な正義の前に消えるのが常だ。
「別に。ただ、何が上をそこまで室井さんに執着させているのか、興味ありまして」
「ふーん」
「出身派閥に属さない異色キャリアで抜けられる程、我々の仕事は甘くなかった筈だ。なのに彼の行動はイレギュラー過ぎる。あれでは叩いてくれと言っている
ようなものだ」
「有能な人材はどこでも良い顔されないもんよ」
「有能かどうかは所詮肩書きでしょう?」
「・・・・室井さんは警視総監になるよ」
「言い切るんですね」
「俺が賭けた男ですから」
何か明確な反論を述べてくるかと思いきや、余りに曖昧で益体も無い根拠が返り、鳥飼は豆鉄砲を食らった鳩のように少々拍子抜けする。
それともこれは、誤魔化されたのか。
それよりも、この彼もまた、盲信的に室井を擁護している姿勢が鼻に付いた。
「何でそんなに室井さんを気にするんですか?」
「気にしているのは俺、じゃなくて、補佐官。でしょ」
「・・・・・」
「さっきから室井さんの話ばっかりだ。知りたきゃ直接聞いてみなよ。ちょっとしかめっ面の大仏みたいだけどね。気さくなひとだよ」
ガタンとパイプ椅子を鳴らし、青島が立ち上がる。
終了~と軽口を叩きながら書類を纏め、鳥飼に差し出しつつ、下から自慢げに見上げてくる。
どうだ、と言わんばかりのその顔には無邪気さだけが宿り、胡桃色の瞳がキラリと回った。
――たかが書類整理で、何なんだ。
資料を受け取りながら穿った視線を向けると、青島がその口の端を悪戯っ子のように持ち上げる。
「室井さんの足。・・・引っ張るなよ」
「どういう意味でしょう?」
ニヤッと白い歯を覗かせ、指鉄砲を向け片目を細める顔には何の衒いもなく、鳥飼はただ惹き付けられ、当惑した。
「湾岸署は、総力を挙げて良い子の味方の応援団ですっ。・・・ばん」
最終報告書には、一所轄刑事とだけ記載され、彼の名は末梢されている。
その、取るに足らない雑魚刑事に、何故、上層部が手を拱き、そして室井もまた、彼に拘るのか。
時の喧噪の中で、必ず名前の出てくる人物。
鳥飼は室井よりこの青島の方に興味を持った。
****
「お疲れ様です、室井警視監」
「ご苦労様」
顔こそ知っているが、こうして面を突き合わせるのは初めてである。
エレベーターが目的階に着く前に、部下が一礼をして降りていき、期せずして、初めて鳥飼は室井と二人きりになった。
何やら時刻とファイルナンバーを命じていたから、恐らく彼らは資料室だ。
「――私のことを、ご存じではないと思いますが・・・」
「――、鳥飼誠一警視、だろ」
「光栄です」
エレベーターの昇降音が静かに響く中、視線だけ室井に向けると、室井は視線すら寄越さず、短く応えた。
ぴんと張った背筋に撚れ一つなく仕立てたスーツは高貴な印象を与え、寡黙に前を向く姿からは流石に好意的な印象は感じ取れない。
その凛然とした姿は、穏やかで地味な、面白味もなさそうな控えめな男の印象を醸し出した。
こんなオーラもない人物の、一体何が局長以下、警察主要幹部らの過度なまでの意識を集約させるのか。
この高潔な気配を持つ男と、あの湾岸署の陽気な清潔さを持つ男が、一体どんな繋がりを見せるのかも
容易には想像付かせなかった。
「今、補佐官として湾岸署に出向いているのですが・・・。・・・・逢いましたよ、青島さんに」
「・・・・・」
そうか、の一言もない。
流石、こちらはポーカーフェイスが徹底されている。やはり簡単には心理を読み取らせないか。
本庁に於ける人間関係など、所詮、腹探りのお遊びである。
鳥飼もまた、眉ひとつ動かさず、無駄な動きを一切覗かせない。
「二人きりで残業を命じまして――・・・・、大変ユニークな時間を過ごさせて頂きました」
「・・・・・」
「朗らかに色々と話してくれましたよ・・・・貴方のことも。とても・・・素直で活きの良い方ですね。ああいう強気な輩は・・・・」
そこで一旦言葉を区切り、鳥飼は声色を変える。
「こちらの嗜虐を擽る」
室井が横目で視線だけ鳥飼に向ける。
それを鳥飼もまた表情も変えずに見返しながら、言葉を続ける。
二人の視線が、黄ばんだ電灯の元で静かに交差した。
「無垢な野性は、逆に可愛い声で鳴かせてみたくなる。貴方もそうなんでしょう?」
「何故私に言う」
「随分可愛がっておられると聞きましたが」
「・・・唯の朋輩なだけだ」
短く会話を打ち切ると、室井はまた視線を外した。
その、お前など眼中にないという無味な態度が、拒絶感を強め、彼の冷徹さを形作る。
容易には懐に入らせない男の貴さと貫禄に、怯むのはまだ早い。
ふと、先日の湾岸署での雰囲気を思い出し、今、熾烈な心理攻防を仕掛ける空間との余りの違いを、何だか滑稽に思った。
「彼は貴方のことを今でも随分慕っているような口ぶりでしたが、それは彼の一方的な勘違いだと?」
「・・・・」
「いますよね・・・キャリアの肩書きにあやかろうと雌犬のように媚を売る・・・。それとも、今でも親交が?」
「君には関係のないことだ」
「でも、今、彼と関係があるのは、僕の方ですよ」
その切り返しに、室井が今度は顔ごと視線を向けた。
この人は無関心な装いを見せながら、反応は悪くない。甘いなと思う。
もしかしたらかなり感情・・・動揺を引き出せているのだろうか。
「私に何を言わせたい」
「今は、別に何も。ただ・・・彼は、潰すには勿体ない原石だ」
「君が彼の擁護をするとでも?」
若輩者にそれが出来るのかと言わんばかりの嘲笑の口ぶりの色に、鳥飼も思わず声色を変える。
「あの手の野生は、強情な分、懐に弱い。攻略は簡単ですよ・・・・ご存じでしょう?」
「あいつを本気にさせたら、俺たち官僚なんか役に立つか」
「やり方次第ですよ。手懐けてご覧にいれましょうか?」
「・・・・・」
室井の眉間が寄り、初めて黒目がちの双眼が捕り込む様に鳥飼を見た。
身体を向き合わせ、視線に委縮することなく受け止める。
「彼に、近づいても?」
「・・・私に許可を取ることじゃない」
「でも、可愛がっていたペットが横から奪われたら、普通、良い気はしない」
それには答えず、室井の眼光だけに、鋭さが走った。
先程までは潜めていた静なる威圧感がじわりと炙り出され、一定の距離を詰めさせない迫力が温和な渦中に火走る。
小柄で大人しそうな風貌にも関わらず、骨の髄まで凍らせるような冷気と闇が、権威の形を纏い泰然たる背後から立ち上った。
一気に解放されたその威力に、鳥飼は不覚にも息を呑む。
気のせいなんかじゃない。とんだ狸だ。
自在に気配を操り、爪を隠している。
派手さは無いのに圧倒的な威圧は、天性の上位の素質を本能的に承服させた。
成程、これなら確かに極上の器だ。
ここまで会話の主導権を譲っていたつもりであったのも、手の平か。
そして、煽るキーワードもやはり、〝青島〟か。
「捜査員は、人として扱え」
「――」
だが、それでも室井の口からは、あからさまに鳥飼の挑発に乗るような言葉は出て来なかった。
鳥飼は肌を逆立てながら口を開く。
「数多の感情からどれを掬い上げるかは所詮主観だ。人として扱うことで人に流されていては貴方の統括の才能を疑問視される・・・」
「私にその手腕はないと言いたいのか」
「差し出がましいようですが――彼がいなければ何も出来ないのは、貴方の方だったのでは?」
流石に05年新宿で起きた裁判騒動は管轄外で、青島は関わっていなかったようだが、その分、室井が仕掛けた大きな賭けは、今度は吉と出ていない。
もしかしたら室井は青島がいないと輝けない・・・その素質を制御できず平凡な才能に埋もれていくタイプな気がした。
「身内贔屓する慣例はキャリアだけで充分だ」
「彼も一捜査員の一人だなんて、とぼけるおつもりで?」
室井がしっとりとした漆黒の眼に鳥飼と捕えたまま、暫し冷やかな視線を送る。
もう、先程解放した気迫は成りを潜めている。
ただ、感情の襞を悟らせない美麗な顔が、鳥飼には逆に恐ろしいと思えた。
エレベーターの錆びた昇降音が二人の間を通り抜けていく。
「何故あいつだと、思う」
身体に残る緊張を解かぬままに、フッと鳥飼が、冷笑的に口の端を滲ませた。
その事実は隠そうとしない堂々たる包容力に、返って強い執着を覚える。
この男は、素知らぬ顔をして、誰よりも欲深な傲慢さで、ただ一人の相棒を手に収めている。
本当に関係のない相手なら、隠すことも庇うこともないのだ。
ここにきて、二人の仲を全く想像させないことは、室井なりの青島を護るツールであることに思い至った。
関わりが密になればなるほど、室井に掛かる火の粉は青島へ飛び火する。
キャリアである室井とは違い、所轄の替え玉など、幾らでも存在する。
つまり全ては青島を護るためだけに室井は動いており、最初から、誰にも渡す気などない、無言の意思表示だ。
「青島さんから聞いた、と言ったら?」
チロリと眉が持ち上がる。
まるで、青島がそんなことを言う訳がないことを承知しているかのように。
「――、あいつの素質を手に入れたくなったか」
「ええ――、非常に興味が湧きました」
「面白い、いいだろう」
玲瓏な空気が微かに陽炎のように揺れる。
古びた本庁のエレベーターが一段と暗さを増した。
「冷静、なんですね」
「鳥飼くん。君のやり方に口出しはしない。・・・が、忠告はしておく。青島の足は引っ張らない方が身のためだ」
「――。私では役不足だと?」
「引き摺られて火傷するのはこちらだと言っている。タイムロスは君も性に合わないだろう」
エレベーターが開き、真っ直ぐに去って行く男の背中を見送りながら、鳥飼は一抹の、何とも言えない感情の渦を噛み締めた。
一気に脂汗が吹き出し、身体の緊張が解ける。
気に食わなかった。
二人揃って同じことを言う。
鳥飼の挑発にも全く取り合わなかった余裕、そして、彼の気迫に不覚にも呑まれた怯みが、拍車を掛けて苛立たせた。
器とキャリアの違いが歴然だ。
だが、それと青島との関わりは別問題の筈だ。
人という存在を観念としてしか愛せない朴念仁かと思っていた。とんだ悪魔だ。
獲物を狙う雄の欲望は、恐らく他人より強靭だ。
もしかしたらそれ以上――雄の狂気染みた独占欲を内包しているのかもしれない。
「いい・・・根性してるじゃないですか・・・」
そんなに強い自信があるのか。
絶対に揺るがないと?この先も?
そんなのは子供のままごとだ。
傍に居る訳でもないのに確かに同じ空気を発する二人が、不快にも鳥飼を酷く悪逆な気分にさせた。
****
「もし貴方が言うように、全ては偶然で、結果は室井さんが引き寄せた強運なのだとしたら、貴方は唯のピエロだということに気が付かないんですか?」
「・・うん・・?」
青島が額に光る汗を袖で拭いながら、振り返る。
上着を脱ぎ、ワイシャツを袖で捲る姿は、そろそろ疲労の色が浮き始め
その顔は、人に力仕事させておきながら、自分は何小難しいこと考えてんの、とでも言いたげだ。
背丈より高く積み上げられた段ボールに寄りかかりながら、鳥飼は何食わぬ顔で、言葉を続ける。
「彼が実績のために貴方を利用しただけとも取れる。その結果、たまたまギャンブルが吉と出た」
「その結果、処分されたのは室井さんの方だよ」
「想定内だった可能性もある」
「そんな器用なひとじゃないよ」
「その証拠に、履歴が彼の出世を後押しした」
05年の失態にも関わらず、広島からのいきなりの警視監への昇任は確かに大役で、これまでの数々の実績を評価せざるを得なかったものだとしても
形式を重んじる警察としては異例すぎると考え られた。
しかし、と、鳥飼は考える。
本当にそれだけの素質が彼に合ったのか。
あれが上層部の権力争いの餌であった裏事情を含んでいたのは知られざる事実で
となれば、広島での実績だけでここまでの昇格は異例であることは当然、その後ろめたさが彼を手篭めにさせたか。手元に置くことで口止めをさせたか。
いずれにせよ、黒い利権が皮肉にも室井に有利に働く幕切れとなった。
堪えた者勝ちだった訳である。
「室井さんの努力と実力だろ」
もうすっかり馴染みとなった二人きりの残業で、不満を口にするどころか嬉々として命じられた事務作業をこなしている青島が
自分のことのように誇らしげに言う。
男の出世の後押しをしただろう青島のことを、まるで我が物顔のように囲い込む室井の態度が、癇に障る。
その恥辱な扱いを対等なものとして受け取っているらしい青島の態度も、符に落ちない。
もっと、自己主張しそうなタイプなのに。
青島が語る室井像が、目の当たりにした記憶と大分錯誤があることも、釈然としなかった。
ベリベリベリと、段ボールを開封する音が乱雑に聞こえる。
「腹を立てないんですか?」
「ん?何で?」
「男なら、手柄は自分のものにしたいでしょう?」
「べっつに?俺は室井さんの肥やしになれるなら、何でもいいよ」
「・・・・・」
何食わぬ顔でせっせとべりべり音を立て、解体した段ボールを一纏めに括る。
それを背後から鳥飼は無心に眺めた。
もうすっかり室井への忠誠心を隠すこともしなくなった男は、油断しているようで真実を語ってはいない。
徹底して自分からの一方的な敬愛だけを示唆し、室井との具体的な距離感を未だ口にすることのない態度は
粗放ながらも、立場を鑑みる気遣いが感じられた。
捕えたつもりでいたのに、まるで捕えられていなかった存在を目の当たりにさせられ
一人悦に入っていた自分を辱められる。
相手にされていない疎外感は、身勝手にも怒りのような強い執着を彼に立ち昇らせた。
「よいしょ」
段ボールを山ほど抱え、鳥飼を横切ろうとした青島の足元に、スッと片足を出す。
簡単に躓き、ふわりとその身体が前に傾く。
「・・んな・・っ!ちょ、・・・ぅわ・・・っ」
段ボールが手から零れ落ち、バサバサと派手な音を立ててタイルの床を扇状に滑り広がった。
その傾ぐ腕を引き寄せ、捻って胸元に引き寄せる。
「ふわ・・っ、・・ぁ、すみま――、・・ぇ・・ッ」
すかさず白いミーティングテーブルの上に捩じ伏せる。
肩を押さえて冷たいテーブルに青島の背中を押し付け圧し掛かった。
驚愕に見開かれている瞳は、蛍光灯を真上から反射し、夜の闇に星の光を散りばめているように瞬いた。
「あ、あの・・・?」
両手首を押さえ、鳥飼もその脇に腰を下ろし、見下ろす。
「実力で登れる猿山なら、尚更、貴方と危ない橋を渡る必要性に疑問が出てきますよね」
「・・・この間からなんなの?」
「分からないんですか・・・・?貴方がどんなに必死になっても、本庁という巨大正義の前には、貴方の名前すら残らないんですよ」
「・・・だから?」
「貴方は時代の流れに消される塵と同じだ。誰にも知られないし、気付かれないし、使い捨てられる・・・・・死んでしまっても」
「・・殺すなよ・・・・」
「そこまでの価値があるんですか・・・?」
「価値はそこじゃないだろ・・・」
鳥飼が、妖艶に口端を持ち上げる。
「組織論理とは、そういうものなんですよ、青島さん」
「・・・・」
上から見下ろす温もりを持たない視線にたじろぎ、青島が言葉を止める。
鳥飼の緑を帯びる黒髪が、目元までその真意を隠すかのように、落ちてきた。
青島の表情がようやくきゅっと引き締まる。
「良い年してわざわざ危険な橋を渡る気が知れない・・・、貴方に一体何の力があるというんだ・・・」
「室井さんが気に食わないのかよ?それとも自分自身に鬱屈してるとか?」
「僕は着実に積み上げてきた曇りの無いキャリアに満足してますよ」
「だったらそれでいいじゃない」
「経歴が人物を保障するなら、青島さんの大好きな室井さんは敗北者ですね」
「・・・っ、誰もがそんな紙の上の肩書で動いている訳じゃない・・・っ」
「そういうところが気に食わないんですよ。その年でまだそんな蒼いことを口に出来る――」
室井に対して雪辱したい想いが、彼へと向かう。
「一体、室井さんの何が良かったんですか?」
「・・・く・・・っ、んも・・・っ」
身を捩って抜け出そうとする青島の両手を取り、頭上に縫い付けた。
そう警戒する相手ではないのに、周りをざわめかせている気勢の事実が、妙に不穏な予感と、苦々しい鼓動の高まりを覚えさせられる。
青島の左腰のあたりに手を偲ばせ、そっと円を描くように擦り上げる。
「・・・っ、ゃ、め・・・っ」
「命を落とそうとしてまで、彼を赦すんですか?」
「昔の、ことだ・・・っ」
強気な瞳が美しい力を宿していた。
何故そうまで無償で人を慕えるのか。
その時気が付いた。
青島は、身勝手に捜査方針に逆らっているのではない。自分の意志さえ抑え込み、何かのために動いている。
その行動原理は社会への愛念かもしれないし、もっと強い思念かもしれない。室井のためだけの進呈かもしれない。
ただ、根底にあるのは利己ではなく、哀しくなるほどの利他だ。
誰かを護ろうと必死なのだ。
なんて稚拙で、若い感性なのだろう。
こんなものを、この年まで抱き続けられる人生に、心底呆れと妬みと・・・ほんの少しの羨望が渦を巻く。
青島が顔を横に向け、身体の抵抗を止めた。
大きく息を吐くことで、薄いワイシャツから火照る肉体が上下する。
乱れたワイシャツの襟元から僅かに肌が覗き、サラリと流れた髪からしゃぼんのような香りがして、ふわりと額を汗が流れ落ちた。
態勢の不利を悟ったらしい青島は、ただ鳥飼に無防備に身を預け、成り行きを委ねる。
「こんなことして何になるんだよ・・・・」
「この間、室井さんと直接お話する機会がありましてね。ご勝手に、とのことでしたので」
「・・・!」
室井の名前を出した途端、また青島の身体に緊張が走った。
室井よりずっと分かり易い。意識していることが、手の平から伝わる。
――寡黙で多くを語らなかった男の顔を思い浮かべる。
多分、こんなことはザラなのだ。
多くの輩が青島の目も眩む魂に導かれ、言い寄り、その度に取り戻してきている。だから室井にはもう、今更のことで、動じる 必要もない。
やれるものならやってみろという宣戦布告ではなく、青島が鳥飼の提案になど乗る訳が無いという端からの諦観だった。
一人、室井と青島の間で踊らされていたことに屈辱を覚え、何もかもを壊してやりたくなる。
信頼も、情愛も、執念も。
こんな繋がりが、一体何だと言うのだ。
「現場に出る捜査員なら、このくらいの不意討ちには対処できるようにしておいてください」
「・・・・すいません・・・」
だから馬鹿にされるのだと暗に叱咤を匂わせると、横を向いたまま、拗ねた子供のような語調が返ってきた。
じっと見下ろす。
緩められた襟元からスラリと反らした首筋が生き物のように脈打ち、汗ばむ肌が艶を深めた。
ふと、元々少し緩められている胸元の乱れや、覗く首筋のラインが、思いもしない色気を意識させた。
と同時に、室井と青島の奇妙な距離感に疑惑を抱かせる。
・・・・二人はどれ程親密な仲なのだろうか。
室井は、こんな青島の姿を目にしたことがあるのだろうか。
「約束って・・・・何なんですか?」
口から言葉が零れるように質問すると、青島があどけない瞳をゆっくりと戻した。
「・・・教えない」
べ、と紅い舌を見せる。
その動きを目で追いながら、庁内で室井の噂を聞く度に出るもう一つのその単語に想いを馳せる。
「貴方と室井さんの約束に、何の意味があるのですか?」
「さぁね。俺たちはただ、正しいことをしたいだけだ」
聞き覚えのある言霊に、鳥飼の思考が現実に戻され、身体に一瞬だけ戦慄が走った。
身の奥に鎮めた暗く澱んだ追憶が、どくんと膨れ上がる。
同じ言葉で象る青島の眼が、憎らしくも縋りたくもさせる。
両手を押さえ付けている指に力を込める。
鳥飼の緊張に気付いたのだろう、青島が訝しげな顔を向けた。
その無防備な思慕が、鳥飼を更に煽る。
「結局・・・室井さんと貴方は・・・どういう関係なんです?」
顔を近付けると嫌がるように逸らされたので、再び目の前に白いうなじが晒される。
今度は衝動に逆らわず、その熟れた果実のような躯に鼻を埋めた。
特徴的な煙草の匂いとしゃぼんの香り。
不意に感じる久方の他人の温もりと共に、思考が真っ白になる。
思わず、そこの奥の方、後ろ髪の生え際辺りに、強めに吸い付いた。
「・・・ッ・・・」
青島の呻きのような音が微かに届いてから、ゆっくりと舐め取り、耳元に囁く。
「これ、室井さん気付きますかね・・・・?」
青島の瞳が強い光を放ち、口を閉ざしたまま睨み上げてくる。
まるで星を呑み込んだ海のようなその瞳は、やはり鳥飼の本能を奥底から煽った。
不可侵の犯されざる者の、清涼なる気配が、虜にさせる。
この人を戴く世界もまた、消して生温いものではないだろうに。
それでも瞳に光を映す。
なんて美しい原石なのだろう。
何もかもが理解出来ない中で、かつて、自分も似たような甘い果実を口にし、支えにしていた追憶がセピア色のモーションを起こさせた。
遠く過ぎ去った取り戻せないガラスの欠片。
いつまでも信じ続けていたかった、慈悲の温もり。
信じ続ける彼の正義の幼さも、甘ったるい酒のようだ。
人を甘く酔わせる。彼そのもの。
「貴方がそんなだから、鳴かせたくなるんですよ」
これは嫉妬なのだろうか。
理屈ではなく、警笛すべきは室井ではなく青島の方だと、本能が告げる。
手の内にありながらも手に入らない幼い欲望に、鳥飼は妖艶な笑みを浮かべた。
それを見た青島が、少しだけ瞳を深めたのに気付く。
「青島さん。ここで傷ついた顔をするのは卑怯ですよ」
「本当に泣いているのは・・・・あんただろ・・・」
「・・ぇ・・?」
「凄く、何かが虚ろだ・・・・何にそんなに傷ついたんだ?俺に言ってみなよ」
その言葉は、鳥飼の中心を見事に掠めた。
どこで気付かれたのか。
梁の奥の泣き出したまま叫喚している子供が、滂沱する。
気付いて欲しい。でも誰も気付いてない。
虚ろなのは見た目でも人生でもなく、この身体の中身がからっぽなのだ。
一番大事なものが、無慈悲に欠けてしまったあの日から。
置き去りにされた迷子の子供は、救われる術を天に求める。
「何を言って・・・・」
「大丈夫。怯えなくても・・・話、聞くくらいですけどね・・・・俺、聞きますから」
「・・・・・」
「救えるとは約束できないけど、でも、」
「・・・・ッ」
下から、透明な飴色の瞳が、真っ直ぐに鳥飼を映している。
勘の鋭さに慄くと同時に、何か熱いものが身体の深部から奔出した。
この人が欲しい。確実に自分だけのものにしたい。この人の世界に自分を存在させたい。
理性も道理もなく、心が枯渇を気付かせる。
鳥飼の瞳の奥には深い色が溢れていた。
それはもう、理屈ではなかった。
室井に対する対抗心などではなく、この人自身が欲しいと切に心が叫んでいた。
そうしたら、少しは自分の中に巣食う空疎な闇が報われる気がした。
力任せに押さえ付けて口付けた。
〝一気に土俵をひっくり返される〟
その本当の意味を、今ようやく理解する。
「・・ぅ・・ふ・・・、・・ん・・ぅ・ッ・・、んん・・・っ・・・」
背中を反らしながら逃げを打つ口唇を、真上から蹂躙する。
踠くたび、しゃぼんと煙草の匂いに咽返りそうになる。
青島の少し宙に浮いた脚が、デスクを蹴っている音を何処か遠くに聞いた。
勝手にしろというのなら、奪い取る。
室井に命を賭け、慈愛に満ちた情を与える、その熱がただ羨ましかった。
どうして室井を導くこの宝玉が、自分には与えられなかったのか。
懐に入れられたら、啼泣する心も少しは救われるだろうか。
この身が楽に、なれるだろうか。
捕らわれる。この強い太陽のような光に。
もうとっくに自分はこの二人の光の間に出来る深い闇に捕らわれていたと知った。多分、青島と向き合ったあの刹那から。
抱いていた嫉妬が何か別の物に形を変え、脳の奥に警報がけたたましく鳴り響いているのが聞こえたが、もう鳥飼の耳には何も届くことはなかった。
これが、泡沫の回遊になるだなんて、この時は思いもせずに。

20150826