寄稿作品
踊る大捜査線/室青同人誌発行お祝い作品。WEB再録
時間軸はODFから数年。室井さんと青島くんは一度は恋仲になりましたが別れて今は上司と部下です。
ある意味、踊るの究極の二人を書いてしまった気がします。
―寄稿に寄せて―
踊る大捜査線が始まったのは1997年でした。
地上波放送から始まり、その後スペシャル、映画と物語は進み、2012年にラスト宣言をするまで、多くの人を熱狂させ
当時はお化けコンテンツと呼ばれるほど盛況を見せた、日本映画史の一端を担ってきた作品です。
平成の東京で起こった現実とドラマに点在する全ての点は、踊るファンたちが今でもある種の郷愁を感じる由縁でもあります。
拙い文章ではありますが、踊る世界の欠片に触れ、今も色褪せない青島俊作と室井慎次いう二人の戦いの記録と魅力に
末永く魅せられてくださったら嬉しいです。
2021年5月吉日 みんと
桜便り

白いだけの素っ気ない封書で、春の便りが室井の元にも届く。
通常は桜の開花を告げる音信を指すが、ここ室井の場合はそれだけじゃなく。
「ん、ネクタイ曲がっちゃってます・・」
「ああ、悪い。いつものより布地がしっかりとしててな・・」
「胸板がちょっとサイズ合ってないんじゃない?」
「もういい、そこまでは映らない」
「俺ん中では、室井さんは家ん中でも外でもきっちりかっちりしてる人です」
白蝶貝のカフスを調整していた室井が顎を心持ち上げる手前で、青島がネクタイの結び目を丁寧に直していく。
「・・ほら、もぉ」
「・・・・・・・・・なんか、その、・・・・夫婦みたいだな」
青島が、思いっきり変な顔をした。
*―*―*―*―*
警察庁長官官房組織改革審議委員会が発足し、数年が過ぎた。
今尚燻り続ける派閥組織は、発足の切欠となった2012年12月の警察不祥事の払拭を期待している。
そんな中、因習的との批判を避け世間に媚びる委員会は、中枢に於いてどこか威容だった。
その最大の目玉が、トップダウン方式の改変策だ。
国防にも通じる綱領が、ついにこの日、日の目を見る。
本日午前十時よりホテルニューオータニ・鳳凰の間にて予定されている会見セレモニーだ。
開会と同時に一斉に開かれるカーテンが四百年余の歴史を有す日本庭園を映し出し、宴のプロローグを印象的に飾るプログラムは
主要マスコミを招待してあり、大手テレビ各社によって中継される。
水と緑が織りなす窓外に広がる森閑の造形、華やかなロココ調シャンデリアと融合し、ここは華麗でありながら歴史を思馳せる宮廷のようであり
新たな組織として世間の評価を一新させるだろう。
そして、この公式発表を手土産とし、室井に警視総監への内定が下る段取りとなっている。
「いよいよだ」
「正義なんてのは胸に秘めとくぐらいが丁度いいのにね~」
熱心にネクタイを直し終えた青島がぽんっと室井の胸を小突いて、口端を持ち上げた。
その面差しは眩しそうに眇められ、揶揄いを楽しむように揺れる。
警視総監という地位は、明朗として最高権力であり、このピラミッド型組織の根強い頂点だった。
つまり今日が、二人が十数年待ち望んだ、あの『約束の日』だった。
発表する綱領の最終稿には、末端現場に一部権限を与えるような一文も盛り込まれている。
まだ若輩だった二人が、蒼き蕾を共にし、あの大階段で誓いを結び、誠しめやかに挑み続けた願いが、今、実現の道を歩み始める。
「・・カッコイイですよ」
ジャケットまで凛と羽織り、金ボタンも全て止めた室井が、朝陽を背に振り返る。
その姿を青島は柔らかな微笑みで見納めた。
「生意気言うんじゃ、ね」
「ははっ」
常用のスリーピースもハイブランドだったが、今日この日は、室井は最も格式が高いとされるドレスコードを指定した。
豊麗で美妙な警察礼服の正装は、警察官としての品格を保ちながらも、室井の洗練されたボディラインを引き立て
しなやかな美徳と、高級感に劣らぬ貴族的な麗しさに溢れていた。
日常仕事で着用する制服とは異なる儀礼服であり、金の勲章が付き、シルバータイが麗しさを齎す。
室井を造形するそれら全ては悠然とした威厳に満ち、紆余曲折した男の歴史を力強さとして物語る。
「くるんって回ってよ。こうやって、さ」
両手を広げ、ダンスを踊るように自分がくるんと回って、青島が笑う。
その無邪気な姿に向けられる室井の視線は、貫禄と柔和の奥に深い情愛を溜め、慣れ親しんだ交情にも似た自然さで、滅多に崩れぬ渋面を滲ませた。
腕時計に目を落とし、まだ少し時間があることを確認すると、室井は青島に近づき、背後で足を止めた。
青島の座るソファの背凭れに尻を据え、背中合わせに室井が寄り添う。
室井はゆっくりと眼鏡を外した。
「君には苦労を掛けた」
「待ちくたびれちゃうとこでしたよ」
お互い背中に気配を感じながら、くすりと笑む冗談は、若き日のはしゃぎすぎた情熱を思い起こさせる。
「昔に戻りたいって思ったことあるか?」
「・・ないね」
横柄な態度で足を組み、室井を肩越しに見上げる瞳をしっかりと捕らえる。
ここまで青島と来れたことが、室井には誇らしかった。
分厚い報告書を完成させたことじゃない、自分たちが歩んで来た道の誇らしさだ。
青島と共に過ごした時間は、決して短くはない。
衝突、慟哭、宿命が波紋を広げる渦の中で、如何なる時でも、室井の中には青島がいた。
熱情に惑い、別れ、それでもそこに青島がいた安堵感は、今も室井を誇らしくさせる。
遥か昔、あの大階段で約束をしてから、青島は室井のすべてだった。
「君はこれからどうするつもりだ?」
「さあね~?世話の焼ける仲間も送り出せたしねぇ」
「一応――職権で君の昇進もできなくはないが?」
「うーわー、それ室井さんの口から聞きたくなかった~」
朗らかに声を弾ませる青島に、室井も馴染んだ笑みを見せる。
堅物な室井がこの先、こんな冗談を口にしたり、感情を表に出すことは、もう、ない。
二人きりだからこそ見せられる、重罪を犯した囚人だけが知り得るような、秘密の共有だ。
敵しかいない。指示を仰ぐトップもなく、ただ追いかけられる。憎悪の標的となり、足元を掬う。それが、ここから先、涼やかな顔を湛えて室井が生きる立場で
ある。
「ま、適当にやってくんじゃない?ミイラになるまで」
「ミイラか」
後生だとばかりに軽口を叩く二人は、惜しむように笑みを零した。
青島には絶対敵わないと、恋を失い、どこかで敗北を受け入れたことで、室井は大人になり、人生の矛先が定まった。
誰にも知られてはいけない、室井だけの羅針盤が青島だ。
コンコンと控えめにノックをする音が響く。
僅か開いた扉から、沖田が顔を覗かせた。
「失礼致します。・・あら青島刑事、いらしてたのですね」
「いらしてたんですよ」
「ふふっ、・・室井さん、そろそろお時間だそうですよ。ご準備はいかがですか」
「出来ている。ありがとう」
一礼をして沖田は慎ましく扉を閉める。
最後の時間だと、沖田も気を利かせたのだろう。
去り際、小さく手を振る青島に、親し気に片手を上げて見せた沖田も、控えめながらも、真珠のピアスを付け化粧も濃い目だった。
彼女も補佐として新城と共に本日の会見には同席する予定だ。
セレモニーにコストを掛け過ぎではと渋る室井に、このくらいのインパクトが必要だと言い張ったのも彼女だ。
別部屋では今頃新城もまた、室井に託された原稿を手に、特上の正装で窮屈にしていることだろう。
そんな晴れの舞台のこの日、何故所轄刑事の青島がここ警察庁執務室にいるのかというと。
「沖田さん、相変わらず美っ人だね~。スタイル変わんねぇ~」
「どこを見ている」
「足?」
しれっと答える男の雑談に、室井はどこか聞き覚えがある文句だなと思いながら顰め面を向けた。
「やっぱ俺、場違いじゃない?」
「君が、主役だと思っている」
「ばぁーか」
照れ臭そうに天井を向くシャイな青島こそが、あの約束の日を起点とするこの歴史的瞬間の仕掛け人である。
意外と照れ屋であることが、社交的で人懐こい青島の裏の素顔だと知っている室井は
変わらない相棒に、触れようとして伸ばしかけた手を留め、瞼を伏せて密かに笑んだ。
マスコミへの情報解禁は直前まで伏せた。
この状況で青島をここへ呼び出すことは多少のリスクはあったが、室井は敢えてその危険を冒した。
今日だけはと、決めていた。
室井が組織改革審議委員会の長になってからメディアに顔を出す機会も増えると同時に、周辺を嗅ぎまわるゴシップ記者も増えている。
この先、警視総監ともなれば、傷のある経歴と共に、室井の交遊関係、つまりは人知れず影武者となって支えてきた腹心の青島のことまで
赤裸々に暴かれていく可能性が高い。
あの仄暗い背徳と禁忌の追憶を、興味本位で晒されたくはない。
ただ、それでも、一番大事なこの日に、二人で迎えられないなんて、そんな悲しい結末にはしたくなかった。
誰よりも青島に晴れ姿を見て欲しかった。
この瞬間を共有しなければ、二人で戦った意味がなかった。
それを青島も分かっているようで、室井の直接の呼び出しに、照れ臭そうに頷き、こっそりと来てくれた。
「では、行ってくる」
「・・はい」
青島が声を少しだけ掠らせ、頷く。そしてゆっくりと立ち上がる。
黙ったまま、二人は見つめ合った。
多分、今、気持ちは同じなのだと心が共鳴する。
自分たちは成し遂げた。そして今、交差していた人生が煌びやかに輪郭を失っていく。
何も言わず、ただ見つめ続けるだけで、その他のものは全て消失していた。
どんな言葉も軽薄な気がした。
もう触れていい相手ではない。腐れ縁の楔も消える。ただ我武者羅に、直向きに、この日を探して生きてきた。二人で。
感無量のまま、室井も青島に向き合った。
「ありがとうございました」
「よしてくれ。自分のために尽力したんだ」
「俺は、今、あんたがここにいて、うれしいです」
「・・ああ」
そんなのは、こちらの台詞だ。
「間違えんなよ」
トップとして大事なことを。
「見ていてくれ」
君に恥じない生き方を。
青島がだぶだぶの袖口から拳を出すので、室井も少し躊躇った後、拳を突き出した。
こつん、と当たる。
小さな衝撃は、ゴールの場所で、別れの合図だった。
男の去り際に余計な言葉はいらないとばかりに、青島は颯爽とコートの裾を翻す。
「さてっと。んじゃ、俺は帰りますかね。あんたの檜舞台はちゃんと見てますから。階段でけつまずかないように」
「やかましい」
青島がポケットに両手を突っ込んだ後、ちょっとだけ天上を見上げた。
ふと、春先なのに冷えた風が舞い込み、室井の足元を心許なく擦り抜ける。
室井は、ショルダーバッグを下げ、身支度を終えた青島の背中をじっと見た。
「青島、」
「ん~?」
普段通りの男に、溢れる気持ちは、切なさなんかじゃ語れない。
「会場まで、来ないか?」
「それはさすがにね・・、それに、テレビの方がちゃんと見れるって」
午前の清涼な部屋に仄かに差し込む朝陽が、窓越しの整った顔立ちに陰翳を付けて、瀟洒に俯く。
すらりとした男の見慣れたモスグリーンが、いつかの幻影と重なった。
もう、これで最後だ。
本当に、遠い人になる。
行儀悪く青島がソファを跨ぎ、扉へ向かって歩き出す。
最後に片手を頭上に掲げ、ちょこんと手を振ってくる。
「ちゃんとね、顔見れただけで、じゅーぶん」
じゃあね、という青島の言葉に、室井は胸が痛むほどに詰まる。
不意に湧き上がった不可解な衝動を、室井は抑えられなかった。
誰かの元へと戻る青島に、すれ違いざまに腕を掴む。
「・・最後の我侭だ」
抑えきれぬ衝動に身を任せ、片手でその肩を抱き込み、室井は残る手で青島の顎を引き上げた。
そのままもう深く口づける。
ふくよかな口唇は弾力があり――幾度も重ねてはきたが――こんなに甘く室井を誘うことはなかった。
僅かに香る紫煙と、知っている石鹸の香り。久しぶりに触れた熟れた甘みは男を根こそぎ狂わせるほどの毒を滴らせる。
そのまま小さく口唇を啄み、そっと舌を忍び込ませた。
「――!」
様々な過去が去来していた。
罵倒し合った若き時代、肌を重ね衝動に走った禁忌、降格異動と背徳に隠された歳月、睦まじく爛れた夜をやがて終わらせ
二人で決め込んだ未来に、挑んだ。
賭け値無しの勝負は、男の大儀を十分に満たしてくれた。
全部、過去形だ。
終わりなのだ。二人の時代も、二人の腐れ縁も。共に戦った青春も。
影武者となり、隠れ蓑となり、別れても、裏切っても、最後まで室井の相棒でいてくれたのが青島だった。
このまま室井が会場へと向かったら、青島にはそこが幕切れとなる。
二人の時間はもう重なっていない。
不意にキスをされた青島は、抗うことも忘れて、室井の口唇を受け止めていた。
逆光で薄緑に浮かぶ影は重なり合い、秘めやかに想いを注ぎ、熱を与え続ける。
「・・・」
「・・・」
胸が詰まって言葉など、何も出なかった。
一人では到底此処へは辿り着けなかった。
青島がいてくれたから。
青島が、傍らにいると知っていたから。
言い訳も弁解も出来ない室井は、それでも強かな手が青島を放せず、口付けの余韻を乗せた乱れた息遣いで青島を見つめた。
焦点がぼやけるほどの距離で、青島の髪を梳き上げ、頬を爆ぜ、耳に手を掛け、額を押し付ける。
濡れたような瞳も、かすかに憂いた口唇も、可憐で純真な愛らしさも、室井を追い込んだ。
数十年、いたずらに青島を苦しめ続けた男が・・・気持ちを知っていながら手を離した男が、今更なにを。
「・・何だよ、傍に居て欲しいの?」
「そうだ」
熱に掠れた声で素直に肯定したら、青島は小さく唸った。
「式典、そんなに緊張してンの?」
「している」
君がいなきゃ、この先一歩も進めない。
今日のこの日までは、青島は室井のものだった。
青島にとって、室井が特別じゃなくなる。
そのたった一つの繋がりが、消えるのが、こんなにも怖い。
「青島」
官房審議官となった時、身辺を清潔に保つことが、上が出した条件だった。
「やり直さないか、俺たちも」
目を見開いて、青島が息を呑んだ。
「式典、放り出すつもり?俺、ダスティン・ホフマンにはなれませんけど」
「ならなくていい。いや、君は彼よりハンサムだと思っている」
少し不安そうな目を揺るがせつつも、青島はぎこちない微苦笑を見せた。
どこか室井の真意が読み取れていない顔から、いつもの饒舌が消えている。
あの日始まった二人の最後が、こんなキスで終わるとは思いもしていなかっただろう、お互いに。
まだ不安そうな目をしている青島の目を、つ・・と見つめ、室井は動揺も油断もない態度で、本気であることを訴える。
「じゃあ、イマサラって返すのが正解かな?」
「恋人を寝取られた男に投げる言葉としては、最適だろうな」
先に進まなければならなかった。
それは室井も同じだった。その時お互いどちらがどんな決断をしようとも、今更過去を責める気にはなれなかった。
別れ話は、あまりに呆気なかった。
自分たちは大切なものを見誤らなかった。
別れてから、室井は上が指定する女性と寝てきたし、青島も誰かと夜を共にしていると伝え聞いた。
その相手が女ではなく男である以上、室井の元に戻る気はないという意思表示だと理解した。
お互い、相手のことに口出しするマナー違反はしなかった。
茶化せるほど、冷静でもなかった。
顔は向けなかったが、青島が小さく舌打ちを洩らしたのが室井の耳にも届く。
飽き足らない手が青島を掴み、名残惜しさを隠すこともなく、室井は再び切羽詰まった口づけを落としていく。
反らす顎を捕らえ、上向かせ、しっかりと塞いで縫い留める。
髪を掻き混ぜ、熱に掠れた吐息を注ぎ、漆黒の眼に焔を燈した。指を絡め、時を止めた。
最後だから、後生だから。青島もそんな無体な行為を甘んじてくれた。
繋いだままの手をぷらぷらと振っていた青島の指先が、きゅっと堅く握られる。
「知ってんでしょ、俺に、付き合ってる男、いるってことくらい」
「行かせ・・たくはないな」
「奪い返してみる?」
「受けて立とう」
「あの映画のラストシーンなんて、らしくないですよ」
困ったように笑う人懐こい笑みは、当時と変わらず、朝の清涼な陽の下で見ると、凶悪的に妍冶だった。
それは室井の重たい口を素直に開かせる。
「本当に。心まで奪われたか?」
「!」
ほぼ確信めいた言い方に、青島が不満げな顔を見せる。
卑怯な言い方をする自分に自嘲して、室井がゆっくりと青島を引き寄せれば、今度は微かな抵抗をされた。
「操を立ててくれるくらいは、期待した」
「そんなの期待したのかよ」
「いや、ただの嫉妬だ」
「一生処女はごめんだったんでね」
至近距離でその透明な瞳を室井がじっと覗き込む。
あの頃とは違う、あの頃にはない、瞳の色に、堰き止めていたものは容易く決壊した。
「なんか、ズルイ。室井さん、俺で遊んでます?」
「多分俺はおまえが思っているよりも欲張りなんだ」
「・・クールなとこに憧れたんですけどね」
「生憎だったな」
「大誤算」
青島がこの先どう振舞うかは、愚かにも今になって室井を震えさせた。
ましてや、室井が青島を捨てることになる顛末に、堪え切れない。
そうだった。俺は青島がいなくては生きていけないのに、何故これで終わりになると思えたのだろう。
「入ります。お車の準備が整いました」
不躾なノックの音と同時に扉が大きく開かれ、二人に時間切れを気付かせた。
パッと足を引いた青島が赤らむ目尻で俯くのとは対照的に、室井は扉に怜悧な眼差しで応える。
「――分かった」
苦みを潰す室井の横で、青島があれ?という顔をした。
何だ?と室井が思う間もなく、来訪者はツカツカと驕慢な足で室内に踏み入ってくる。
室井の補佐として仕える中野は、いない。
この部屋へ、了解もなしに扉を開けたこと、承諾もなしに立ち入ったこと、今全ての不審な点が室井に鋭い警戒を走らせた。
室井が眉間に皺を寄せる横で、青年が青島の腕を手荒く引き寄せた。
「用は済みましたね?」
いきなり想い人を盗られ、室井が奥歯を強く噛み締める。
室井から引き剥がすような態度にも、礼儀を欠く行動にも、そこにはあからさまな敵意が透けていた。
まだ話も途中だ。
「階級と所属を」
「名乗るほどの身分じゃない。それにもう、お時間もありませんよ」
どうぞ、というように、優雅な手付きで扉に向かって促される。
丁重な扱いとは裏腹に、とっとと出ていけという威嚇であることは明白だった。
「彼を、渡せ」
「お断りします」
「狙いは何だ」
「は?狙い?恋人を連れ去るのに?そもそも勝負する資格のない男に引き留める権利があるとでも?」
その言葉の意味するところの数多を察した室井の目がスッと険しくなった。
雄の獣欲すら仄めかせる生々しい香りに、青年は青島を盾に勝ち誇った目を向ける。
乱暴に青島を後ろ手に捻り上げると、顎を捉え、上向かせた。
晒された色付くうなじが朝陽を受け、長い睫毛が陰を揺らし、その躰の味を知っていると室井を挑発、扇情させてくる。
仰け反らせた耳朶に、赤い舌を散らつかせながら、青年は生物の急所である青島の喉仏に白い歯を立てた。
「――!」
青島と目は合わない。
つまり、助けは求めておらず、しかも、これが計画性のあるものだと青島が理解していることに他ならない。
狙いは室井ではなく、室井の前で青島本人を攫うことか。
青島の頭部を片手で軽々と鷲掴みにすると、乱した髪の間から耳を咬み、青年はひっそりと笑った。
その乱暴な扱いに、青島が切なげに眉を寄せ、顔を背けることで、二人の男の目にその長いうなじを晒す。
隠し持つ武器を露骨に悟らせない癖に、隙なく室井を足止めする青年の剛腕に、室井は彼の階級を悟った。
「・・ッ・・」
この男の目は、妬みと色情に狂わされた雄の目だ。
青島の肌が緊張で汗ばみ、艶めき、今の所有権は誰にあるのか、あからさまに主張していた。
今、その肌に触れる男に、暴かれていく嬌態を目の当たりにしたことで、室井は制御できぬほどの怒りと、自分の本心をはっきりと自覚した。
一歩を踏み出さぬことは己の怯懦ではないのか。
青島のためだなんて言い訳することは、懊悩なのではないのか。
やはり今だ。
今しかない。
トン――!
億劫そうに開け放しの扉を革靴でノックする音が不意に沈黙を破り、全員が一斉に顔を向けた。
「お取り込み中ですか」
「新城・・」
「密談は密室で行うべきだ」
壁に寄りかかり、腕を組み、胡散臭そうに不手際だらけの男を舐め回すように観察した後、新城は鼻で一蹴した。
「誰の許可を得た」
「!」
「生憎だが、此処は神聖な場所だ。その人に・・室井警視監に選ばれた人間しか拝謁を許されない」
暗にお前は選ばれていないという新城の嫌味に、青年は怒りに舌打ちする。
途端、新城の視線は興味を失ったように離れ、羽交い締めで囚われている青島に向けられた。
「またお前か、青島」
「新城さん、かっこいいじゃん、その格好」
「煩い」
新城もまた、格式の高いドレスコードに身を包み、その品格と風格を誇示していた。
神聖でありながら威容な二人の男が居合わせる部屋は圧倒的で、冷厳な視線が身分違いの青年を容赦なく貫いていく。
「まだいたのか。目障りだ」
「!」
「さっさと持ち場へ戻れ!尤も――まだあればの話だがな」
窮余となった青年が、青島を盾に射程距離を取って胸ポケットにサッと手を忍ばせた。
刹那、部屋の中に僅かな緊張が走るが、青年は目当ての物が見つからなかったらしく、ごそごそごと慌てた手付きで動揺し始める。
「探し物がなかったりしてー?」
青島が後ろにちょこんと首を傾げる姿に、青年がハッと目を見開く。
「きのー見ちゃって」
乱れた髪の奥から邪気も毒気も失わせる笑みで、青島がてへっと笑う。
空いてる方の手でポケットからボトルを取り出し、これでしょ?とウィンクしてみせる。
「今どき催涙スプレーなんて、何する気?」
「このッ、男に股開いて媚びる下衆がッ!」
「どーせ俺に近づいたのも、室井さんに付け入るためだったんでしょ?何か仕掛けるんなら今日だもんね?ばっればれ」
「ふざけるな・・!」
素知らぬ顔で青島が紅い舌を出す。
ギリギリと締め上げられる青島の手首は、コートの下で痣になるほど赤くなっていたが、青島は素知らぬ顔を貫く。
その不敵な顔に、生年がもう一度口を開こうとした時。
「巫山戯ているのはどちらだ。本日何の辞令が下るか、知らないとは言わせない」
新城が非情な威勢で、さっさと去れ、と顎をしゃくった。
新城から放たれる高潔な血筋と気高い風貌、汚らわしいものを見る目付き、野太い声音に、青年は言葉を失い
背後に控える室井の壮麗な気配に、圧倒され怖じ気づく。
膝を震わせ、一歩下がり、視線を彷徨わす。
踵を返し、だが、青島の手は放さず、連れ去ろうと引き摺り寄せた。
「来いッ、懲らしめてやるッ!」
「・・ァ・・ッ」
青島が小さく叫び、連れ立ち、新城の脇を抜ける、その一瞬。
擦り抜け間際、新城が上から一刀両断するように、持っていた分厚いファイルを縦に振り落とした。
狼藉者の手首に向かって。
「イッッ!!」
「公務執行妨害の汚名を取るか、負け犬に成るか、選ばせてやる。丁度ここは警察だ」
新城が粗雑にバランスを崩した青年の脛を横に蹴り上げ、戒めから青島が解放される。
打たれた手首を擦りながら、青年が床に這いつくばった。
仁王立ちする新城の冷徹な視線に晒され、土下座する体勢を支える手は覚束ない。
惨めにも立ち上がり、悪態を残し、心許なく逃げ去っていく。
新城が、隣で口を開けたまま固まっている青島に、ニヒルに口端を持ち上げた。
「いつ見てもトラブルメーカーだな」
「ちょっとした余興・・ってことには」
「随分と手荒な歓迎だ。・・・だが嫌いじゃない」
同時に座り込んでいた青島に新城は手を差し出し、素直に青島もそれを掴んだ。
新城がぐいっと引き起こしてやる。
「お礼、言っときます。いちお」
「貴様みたいな人間には、しつこい手綱が必要なんだ。例えば、そこに控える男のような」
背後で事の成り行きを見守っていた室井に、新城は一度だけ視線を向けると、扉に手を掛ける。
「五分です。ケリをつけてください」
*ー*ー*ー*ー*ー*ー
扉の前で、青島が所在なさそうに俯いていた。
長い睫が目元に影を作り、ただ、美しい男だと室井は思った。
透明感ある丸い瞳も、ぷっくりと膨らむ口唇も、童顔だが目鼻立ちの整う容姿は、硬質な美の造形をしているのに
ひとたび動き出せば、強烈な正義感と眩さをまとって、誰をも魅了してしまう。
捉えどころのない衷心は、遥か昔から一途で純粋だった。
黙ったまま室井は青島の目の前まで来て、立ち止まった。
敢えて口を閉ざしたままでいれば、青島の方が狼狽えた。
「なんか・・ばれちゃった・・?」
「ああ」
青島とあの青年が深い仲になったこと、その理由は、先程の会話から推察できた。
池神派と安住派という旧組織の二大派閥を失った警察組織は今、権力を失った中堅層が虎視眈々と出方を窺っている。
甘い汁を奪われた恨みを、崩落させた室井に向かわせる輩は少なくない。
伸ばした指先は、情けなくも震えていた。
くしゃり・・と柔らかく髪を掻き混ぜれば、青島は切なさを綯交ぜにした顔をする。
あまりに、本当にあまりに儚く美しく青島が微笑するので、胸を抉られて、室井は青島から目を落とした。
おまえの人生、本当にそれで良かったのか?
落とした視線の先に入った青島の手首を恐々取り上げると、そこには手錠のように、掴まれていた指先が赤痣となっていた。
室井の清廉な指先が、たどたどしく触れる。
「今度は違う返事をくれるだろうか」
ゆっくりと引き寄せ、壊れ物を扱う仕草で腕に仕舞い込み、零れるまま吐き出した照れ臭い言葉は、仕草にそぐわず、ぶっきらぼうとなった。
「よくも何十年も騙してくれたなという気分だ」
「警視総監にまでなれた男が・・・何言ってんの」
「トップになっても、一番欲しいものが手に入るわけじゃないんだな・・」
室井の肩に額を押し付ける青島の零す言葉が、室井の首筋を柔らかく擽る。
「なら・・なにが、ほしいの」
答える代わりに、室井は青島の頭を五指で囲い、情動に走った先程とは違う豊かな腕で、だが余裕のない嫉妬と情熱を隠さない大人の腕で
しなやかに抱き締めた。
仰ぎ見た青島の瞳に映り込むものは、室井の真黒い瞳と、端正で成熟した男の顔だ。
そこに満ちているのは、渇望と、憧憬と、青島だけを求め続けた室井の愛情だった。
「おまえは、何が欲しいんだ」
青島が口唇を震わせ、きつく噛み締める。
「こんな処が、室井慎次と付き合うってことだと思ってます」
「そんな無鉄砲さに同伴することが、青島俊作の彼氏になるということだと思っている。ついでに、恋敵の多さにもだ」
しっとりと見つめ合い、室井は青島の言葉を待った。
震える瞳が愛しさに濡れ、室井を見つめている。室井の真黒い瞳は凛としたまま、青島を視界から離さなかった。
「いっしょに、居させてくれますか」
絞り出したような小さな返事と共に青島の目尻を濡らす雫を室井は指でそっと拭った。
今、さだめに絡め取られたのだと思った。こいつと、共に歩むさだめに。
もういい加減、素直に生きることも赦してはもらえないだろうか。
「足りない」
立ち尽くす室井の胸に、青島がやんわりと首に両手を回して収まってくる。
「今も、あんたが、すき・・・」
すぅっと掠めるように、青島の口唇が室井に軽く落ちた。
ふわりと花びらのように触れた桜色の口唇が、きゅ、と引き上がる。
弾かれたように、室井が青島を掻き抱いた。
強すぎる男の力に腰から引き寄せられ、軽く仰け反る態勢となった青島は、そのまま甘えるように身体を室井に任せ
気付いた時には、もう止めようもない激しさで互いの口唇が重なっていく。
情動が命じるまま、闇雲に奪い合うだけの余裕も技巧もない口接で、何度も角度を変え、擦り合わせ、痺れるくらいに舌を絡ませる。
溢れる唾液を飲み干し、吐息を吸い、奥に熱を潜ませた。
どれほど強く口唇を合わせても、余すことなく口腔を貪っても、満たされない。
真っ白になっている頭に浮かぶのは、まだ足りないという強烈な渇望だけだ。
足りない理由を知っている。お互いに。
強く引きすぎたために仰け反った青島は、激しい口接に膝が支えることを放棄し、床に膝立ちとなった。
跪き仰ぐその両足の間に室井は太腿を差し入れ、強引に割り裂き、隙間がないほど身体を密着させる。
室井も膝を折り、腰を片手で抱き込むと、青島が不安定な態勢を支えるため、室井にしがみついてきた。
その間も室井は捕えた口唇を離さない。
力の抜けきった指先が、丁寧に撫で上げた筈の室井の短髪を愛おし気に掻き回す。
これまでの青島なら躊躇っただろう無意識のその行為に晒され、室井は奥深くまで挿し込んだ舌で何度も口腔を愛撫した。
「・・ん・・・っ、・・ふ、ぅ・・っ」
切迫した息遣いの向こうで、口付けに没頭する青島の目許は朱を差したように上気していた。
俄かに雄を扇情する。
薄っすらと浮かぶ涙が桜色に染まる目許を濡らす。
「俺の全部、おまえにやった。何もかも・・とうの昔にだ」
崩れた身体をソファに押し付け、圧し掛かり、自分をきつく拘束する男に無意識に酸素を追って顎を反らす青島を、再び噛みつくようにその口唇を奪う。
室井の前髪も崩れ、汗ばみ、狂おしいほどの感情が迸っていた。
「・・ん・・ッ、・・苦、し・・っ」
口付けの凶悪的な甘さと酸素不足で仰ぎ、哀願する指先に背中を叩かれて、室井はようやく口付けを少しだけ解いた。
タイミングを計る余裕もない口付けのせいで、どちらの息も激しく上がっている。
「畜生・・・なんだよもぉ」
柔らかな髪は乱れ切り、影を纏って頬に落ち、僅かに開いて喘ぐ口唇は真っ赤に腫れ、唾液を光らせる。
兇悪的なほど婀娜めいた姿で、粗雑な言葉を吐くと青島は顔を覆った。
桜色の頬が照れを伝え、指先から覗く瞳が嬉しそうに揺らめく。その手が震えている。
「むかしっから、そうだったよねあんた・・」
恨み節のような憎まれ口は、折角別れてやったのにという苦情も透ける。
また繰り返すのかと責める強さと比例して、溢れ出る想いに滴る瞳が室井を見上げた。
「やっぱり、ずるい・・」
火照る身体の奥で室井の心臓がドクンと脈動した。
好きとはこんな過激な感情だっただろうか。
何が“そう”で、何が狡いのかも、今は甘い雫となって、室井を放蕩させる。
錯綜する感情を制御しきれぬまま、これを鎮める術など今更思いつかなかった。
睫毛を伏せ、うっすらと桜色の口唇を開いた青島に、室井も引き寄せられるままもう一度キスを仕掛けた――その時。
「室井さん、ここのプログラムですが、やはりこの組織論に説得力を持たせるには――」
新城が扉を開けたまま、能面となる。
着衣を乱され押し倒された青島と、そこに圧し掛かり腕を取る室井の光景に、新城は油断して扉を開けたことを激しく後悔した。
明らかに呆れた瞳には、まだ口説き落としていないのかと室井を責める色と、見飽きた痴話喧嘩にうんざりしている色が、ありありと混在する。
「トロイッ」
「ああああのっ、しんじょーさん、これはッ」
慌てて弁解しようと新城の背中に青島が追い縋る。
室井ががしっと腕を掴み、それを阻んだ。
「行くな!」
「だって!」
引き戻し、キスに乱された羞恥か、キスを見られた羞恥のせいか、火照る首筋に、吸い付くようなキスを与えると
だが、室井は顔を上げた。
「そうじゃない。青島、次のステップに進みたいと思っている」
こう言えばさすがに伝わったかと、どうだ?と室井が青島の顔を覗き込むと、しばらく濡れた目で室井の顔を探るように見つめていたが
青島はちろっと室井を見て、艶美ににやっと笑った。
「だーめ」
「?」
どういうことだ?二度振られたのか俺は?
意外な返答に、室井が言葉を継げずにいると、青島はするりと室井の腕を抜け出した。
拳で口許を拭い、立ち上がり、くるんと背を向ける。
「そんな告白じゃだめです。もっとロマンチックに、映画みたいに、俺んことどきどきさせてください。こっちだってこれだけ待たされたんですから」
室井は無言で天を仰いだ。
こいつ、俺が口下手なことを知っていて、それを強請るのか。
さっき自分はダスティン・ホフマンにはなれないと言ってなかったか?
「俺が室井さんの告白を受け入れたくなるか、それとも俺が逃げ切っちゃうか。ここまで来たら、競争です」
「ちょ・・っと待て」
これはそういう話なのか?
聞く耳持たず、青島の指先が室井の腕に縋るように添い、ネクタイをきゅっと握って崩すと、至近距離で悪戯な瞳が瞬いた。
「期待しちゃってますんで。それに」
青島が頬に触れるだけのキスを浚って逃げていく。
「ミイラになるのはごめんだしね?」
「!」
「そんときは、エスコートしてやるよ。お望みどおりに。でも――行き先は保証しませんよ、また」
去り際、指鉄砲を室井に付き付け、ばぁん、と紅い口唇が動いた。
扉が閉ざされた時、室井は張り詰めていた息と共にソファに崩れ落ちた。
は、と息を吐いて、室井は額に手を翳した。その口許ははっきりと笑みの形を象っている。
やってくれる。
だから室井は青島の虜なのだ。
手が震えている。
心が震えている。
穏やかな春の中で、突如吹き荒れた春嵐のように、一瞬で全てが灼き焦げた。
抱き締めた感触と、甘い匂いが、まだ室井のてのひらに残っている。
口唇がまだあの熱を憶えている。
また、二人で走り出せるのだ。
自らを捕らえる甘い呪縛に酔い痴れて、理性より先に身体が反応して、全身を鋭い感覚が走り抜けた。
「・・参ったな・・」
凍てつく冬から始まった物語の途中で、慈しむように、恋しがるように、春を待った。
もう歴史は繰り返さない。
ここから始まっていく新しい時代と古きさだめが、ふたりを導く豊かな未来へ、どうか、どうか続いていくことを祈りながら。
本日の主役を迎える足音が近づいてくる。
窓の外には、寸分違わぬ朝陽が麗らかに射していた。
青島が座っていたソファの上には、桜の花が一輪、落ちていた。
痛いほどの静謐の中で、嫋やかに、涼しげに、朝陽に咲いていた。
Happy end

20210529 初稿
20230127 再録に辺り加筆修正
桜
日本では学校も企業も、社会の節目が4月スタートであり、特に列島の中央に位置する東京は、卒業式・入学式・入社式が桜の開花シーズンに当たることから
桜の花は門出の象徴のように受け取られます。品種はソメイヨシノ。
また、日本の警察のほか、多くの日本の国家機関のシンボルマークとして用いられる旭日章(きょくじつしょう)は、昇る朝日と陽射しをかたどった
紋章で
別名、桜の代紋ともいいます。