25周年お祝いシリーズ
お祝い記念作品なので室青ベースとかじゃなくてがっつり青すみです。登場人物は青島くん、す
みれさん、室井さん。
青すみで馴れ初め話。時間軸はODF直後。すみれさん視点。
12.瑠璃のブーケ

1.
彼の第一印象は青だった。
透きとおるような海色の世界でいつも笑っているひとだ。
海の青
空の蒼
夕凪の碧
それから、青春と涙の藍
多様な色が混ざってもう一度澄んだような、深い深い瑠璃の色
「帰るの?」
「何か用事言い付けたい?」
振り返った青島が、少年のような悪戯っ子の笑みを見せた。
いつまで経っても、この幼さというか無邪気さは変わらない。でもそれが曲者である。
若いよなぁと思いながら、すみれは視線を明後日の方角に反らした。
「なるほどね、おっけ」
視線だけで察したすみれのおねだりに、青島が上目遣いで屋上の方を指差し探ってくる。
すみれが立ち上がれば、青島も後に続いた。
「何飲む?」
「この自販機とも長い付き合いになったわ」
「庶民ってこと?」
「だって今日の特捜の仕出し弁当、米沢牛よ?」
「見たの?!」
「見・え・た・の!・・・オジサンたちにも潤いの補給が必要なのかしらね」
「・・ああ、コラーゲン」
「違う!心の方よっ!」
「それ、安月給の俺に言っても無理」
「そこは根性見せなさいよぅ」
自販機に二つ並ぶ影が揺れ、益体もない言葉に二つの落下音が弾んだ。
すみれが細い顎を反らして得意顔を作ると、青島が柔らかい笑みで小首を傾げて哂う。
そのせいで揺らいだ柔らかい髪がふわりと潮風に流れて、すみれの目がそれを追った。
やっぱり、狡い。
がめつい我儘も、可愛い女の甘えとしてくれるのは、男の器量だと思う。
「おっつかれ」
屋上のベンチに二人で並んで座り、同時にプルトップを引っ張った。
カシュっという二つの協和音が、夕陽で染まる誰もいない夕凪にでわざとらしくすみれの感傷に水を差す。
まるで何もなかったみたいな、いつもの勤務風景だ。
でもこれは期限付きだった。
すみれはもう、ここの人間ではなくなる。
公共バスを私用で破損させ、一般人を巻き込んだあれだけの大騒ぎにしておいて、流石に里帰りにバックレるのは、許されなかった。
調書、始末書、謝罪文、改めての辞表、契約解消手続き。
個人が企業を止めるには、押印一つでさらっと水に流せる話じゃない。
それら各種手続きのため、すみれはまだ東京に留まっていた。
こっち居るならいいじゃないと、良く解らない理由で魚住さんに強請られ、年が明けてから盗犯係で事務作業を手伝っている。
でも本当は、魚住さんがすみれのために心痛めてくれたことを、知っている。
もう、現場には出ない。
あの日二人で見た夕陽と同じ色に染まる眼前の海は、穏やかにさざ波を立てていた。
最後の日に泣きたくなくて、逃げるように飛び出した。
なのにまたここに戻ってきているなんて、あたしの人生って意地悪だわ。
「春になったら今年こそ桜、行きたくない?」
「春は通報頻発シーズン」
「で、夏は花火」
「夏はきらい」
「・・ただの時候の挨拶でしょうが」
「青島くんと社交辞令する仲なの?」
「・・・それは、良い意味に取ってもいいやつ?」
「どうでしょ?」
普通に話せている自分に、すみれは少しほっとした。
ちろっと横目で盗み見る。
こうやって、ずぅーっと隣で見てきたんだよなぁと想い馳せば、それは果てない悠久の甘味で、すみれの胸奥をきゅっと潰した。
少しだけしょっぱくて、くすぐったいこの距離が、あたしは好きだった。
だから分かってしまうことがある。
“警察、辞めないよね?”
あんな風に言って、あんなに強い力で抱き留めてくれたのに。
シルエットが一つになって溶けあっちゃうほど確かめ合った彼は、その後何事もなかったかのようにあたしの前から消えた。
特別だと思った高揚感は化かした事実だけ浮き彫りにして、指先から零れ落ちた。
そうしてすみれには、いつもの馴染みの同僚が残された。
「送別会、達磨でやろうかって話、出てるよ」
「あの店も、よく潰れなかったわねぇ」
すみれの手続きが終わったら、みんなで見送りに行くと話が進んでいた。
久しぶりの昔話で盛り上がっていた。
「ね、青島くんっていつも真っ直ぐ帰る人?」
「走り回ってへとへとの人間には遊ぶ体力もないのよ」
「桜どころじゃないじゃないの」
「・・そこは行っとこうよ」
「女の子は色々とやることあんの」
「・・・・狡くない?」
「ない」
ちぇーと言いながらコートを両手でポンポンと探り、煙草の在りかを見つけ出す青島を、すみれはぼんやりと見つめた。
綺麗なフェイスラインの横顔が、夕陽に染まる。
なんか、遠いなと思った。
「・・ねぇ、何か、あった?」
すみれが単刀直入に口に出せば、青島が視線を向ける。
下手に気を使う言い回しの方が、多分、青島を傷つける。
「あったよね?」
ここ数日、すみれは機会を窺っていた。
自分のことに手一杯で周りを見る余裕もなかったあの当時を振り返れば、何かあったのはすみれさんの方だよねと切り返されそうではある。
思うまま行動したことで、どうにもならない未来に、自分なりに少しは折り合いが付けられたのだろうか。
最後の心残りは、目の前の彼だけだ。
「何さ、とーとつに」
・・・・戻ってきてから、少しだけ青島の様子がおかしい。
普通に仕事をこなしてるし、普通に笑っているが、一人でパソコンに向き合っている時とか、電話切った後とか
何気ない時に、ふと、どうしようもない哀しみが浮かぶ眼をする。
なんで?あたしがあんなことしたから?軽蔑したの?
見ているこっちが苦しくなるくらいの鋭角な痛みは、巧みに見慣れたモスグリーンのコートに覆われ、掴み取らせない。
「じゃあ、何?」
「何って・・・何?こっちが聞きたいよ」
「隠すの?」
「言いだしたの、すみれさん」
煙草を咥えながら指差して笑うその顔は、無邪気で人懐っこい。
でも、底が見えないくらい、瞳が切なさに満ちているのを、彼は気付いていないのだろうか。
そこに、すみれを触れさせてもくれないことも。
あの夜から、あの事故が二人の間で話題に乗ることは、ない。
吸っていい?と目で聞いてくる青島に、一本だけよと指で返せば、一本だけなの?と返ってくる。
カチっと冷たい金属音。
ジッポで火を点け、伏せ目がちに青島が煙草を灯らせた。
良く見る仕草だったのに、今は少しだけ円熟した大人の男に見えた。
「ねぇ降参。教えて?気になるの」
「降参て」
「心配してるんじゃない」
くしゃりと青島が笑って、コテンと首を傾げる。
青島は誰にでも優しくて、気を回すひとだから、その分ポーカーフェイスがめちゃめちゃ上手い。
人に甘えて、振り回して、渦を巻き起こし、いつの間にか中心から消えている。
だけどそれも、外面なのだ。
「後生じゃないの。あたしにまでカッコ付けたい?」
「そりゃあ、オトコですから」
「背中預ける仲間にまで気を使っていたらまた刺されるわよ」
「またっていうな。・・ってか、俺、そんなになんかいつもと違う?」
「う・・ん、ちょっとまいってるかんじ?他の人は気付いてないと思うけど」
「そ・・か」
あ。今のは少し降参したって目だ。
青島くんって、本当にこうやって人に甘えるのも、上手いんだよな。
「ちょっとね、寝不足気味なんだよね」
「ああ、青島くんて寝方、下手よね、いっつも思ってた」
「女の子がね、男の寝床覗くもんじゃないよ」
「男なら仮眠も華麗に決めて」
「無茶ブリだな・・」
「無茶ブリしているのは、あたしじゃなくて、上」
「・・・・ま、ね」
隙だらけな男な分、問い詰められそうだったが、それはしない。
ちゃんと、青島の口から話して欲しかった。
というか、何だか理路整然と問い詰めたら、泣いてしまいそうな、そんな脆さがあるような気がしたのだ。
多分、青島は気付かれることを望んでいない。
この言葉遊びの裏に隠された真の意図は、見透かされたくない本音だ。
触れたら、破裂して崩れてしまいそうな儚さは、すみれの母性と慕情を駆り立て、自分が特別じゃなかったと罵っている。
ふるりとすみれの白い肌が鳥肌立った。
それを認めたら、この長く重い思い出全てが無意味になる。あたしの人生の半分が無駄になる。
すみれはわざと声調を変えて、空を見た。
「あとはー、借金しちゃったとか、法を犯したとか重大なこと?病気?やだ、また死にそうなの!?」
「飛びすぎ・・。何勝手に俺を殺してんの」
「だぁって、それ以外に青島くんみたいな単細胞、悩ますことってある?」
「ひでぇ」
「内緒にする方が悪いんだもん」
世界が変わっても、こうして残された僅かなものに過度な意味と期待を与えてしまうのは、弱さなんだろうか。
それは、ひょっとしたら、貴重で頑丈で、気高いものなんじゃないか。
そのちょっとの誇りの欠片は、弱かったあたしの戦利品だったのに。
「あたしが聞いちゃダメなことだった?」
「答えるのが前提?」
不意に切り返され、すみれは少し動揺した。
掠れたような青島の呟きに、息苦しさのような甘い疼きに喉が痞え、すみれはこっそり息継ぎをする。
あの夜から、やっぱり二人の間で何かは変わっていて、それはじわじわと時限装置みたいにすみれの奥で爛れていく。
「俺は聞いてやれなかった。俺こそ――そうやって、聞けばよかったね」
あの日以来初めて青島の口から漏れた語感は、思った以上に鋭利で、すみれの胸を抉った。
すみれが何故青島には黙って消えようとしていたのか、その意味を、青島なりに考えただろう。
傷痕を持つ彼に、傷を理由に諦める姿を、見せたくなかった。
すみれが傷を理由に人生を手放すのは二度目だ。それを知る青島は、きっと、絶対、すみれより泣く。
彼には少年のような面影を残したまま、男の世界を走り抜けて欲しい。
深く澄んだ海のような彼を、すみれのせいで濁したくはない。
「それは、関係ないよ」
「いつまで先輩ヅラしてるの?少しは頼れよ」
「青島くんもね」
ぐっと顔を近づけてすみれが言い切ると、青島がしまったという顔をした。
言えば言うほど今はブーメランである。
少し幼い年上の無防備な表情は、出会った頃から変わらない。
「・・じゃ、何でそんな顔してるのよ?・・・困る」
「・・ぇ・・」
「青島くんが元気じゃないと、あたしが困るの!」
すみれの頬がぷっくりと膨れた。
じぃっと下から睨み上げてやれば、案の定青島は狼狽える。
「えと・・困るって・・そんな顔って・・」
「何かを気にして悩んでる」
「気にしてなんか」
「うそ!絶対、何か、隠してる!」
しばし見つめ合い、挑み合う。
フッと青島が声を出さずに息だけで笑った。
その輪郭が描く影の造形に、すみれの心臓が飛び跳ねる。
「刑事の勘?」
「野性の勘」
「野性かよ」
敵わないなぁ、という顔をして、青島が視線を外し、両肘を膝に乗せて少し前かがみになった。
指先で煙草を弄ぶ。
長い足を投げ出す男臭さと、その甘さを残す吐息にクラクラとした酩酊感が襲い、すみれは顔を背けた。
やだ、なんか今日の青島くん、大人っぽいっていうかアンニュイっていうか、すごく、オトコに見える。
「ほんとにね、疲れてるだけだって」
「何よぅ、あたしじゃ不服だって言うの~?」
青島の焦げ茶色の瞳が、悔恨に染まり、そのくせ済まなそうに眉尻が下がった。
二人きりで人気のない屋上。
外は暗くなってきて、宙が藍色に染まり始め。
勤務時間外の男女。
こんなシチュエーションを用意しても、駄目なんだ。
認めて貰えていないような疎外感が痛烈に押し寄せ、すみれは口唇を嚙んで俯いた。
自分を全否定された気がした。
都合よく流れるすみれの黒髪が、その顔を隠してくれる。
「あ・・っと、その、」
しくじった、と言うような殺した息は二つで、すみれの隣では青島がくしゃりと髪を掻き回す。
二人の間に不文律が増えていく。
彼の憂鬱が仕事のことではないとなると、すみれにはお手上げだった。
ここまで徹底されているとなると、これは――ワザとなのだ。
青島自身が、オープンな距離感を、求めていない。
青島にとって、すみれは何なのだろう。
あたしたちは、こんなに脆い仲だったの?
意見をぶつけあったり、意志を支え合ったり、力尽きるまで自慢気に同僚を演じてきたけど、それって今何物にもなっていない。
女だから受け容れて貰えないのだろうか。
男だったら、気を許してくれた?
これが最後なのに。
ふと、室井の顔が浮かんだ。
あの武骨なキャリアを、青島が盲目的にまで信頼し、慕っていることを傍で見てきた。
そこまで盲信させる何かが、すみれには見えなくても、青島には見えるのだろう。
裏切られても、冷たくされても、直向きに追い掛けていく。
思えば、誰にも心を開かない青島が他人に見せる、唯一の執着だった。
室井もまた、腹心を得たかのように、青島を意識しているのが分かった。
お互い重要な存在と成長していく様子を一番間近で見たすみれとしては、理想形であり、羨ましくも、妬ましくもある。
ああいう人になら、青島は心を開くのだろうか。
幾度か躊躇った青島の手がすみれの頭に回され、そっぽを向いた挙句、一度だけ、そっと乗せられた。
そのてのひらは、熱い。
「すみれさん、俺のこと気にしてるんだ?」
腕の隙間から顔を向ければ、日没の海に溶けた瞳がすみれを映し込んでいた。
手を延ばせば届くけど、抱き合うには遠い半端な距離は、まるで今の二人そのものだ。
思う以上に距離感を見失った視線を振り切れず、今までで一番哀調を帯びた瞳に、すみれの眉間が寄る。
「だったら何よ」
「んー、ちょっと・・かなり?うれしいなって」
なんか、泣きたくなった。
「余計な気を使わせるんじゃないわよ、しゃんとしなさいよ、不安になるでしょー!」
「湾岸署のワイルドキャット、健在じゃないの」
「それは伝説にしてやる予定なの」
「じゃ、今度デート、しませんかね?」
「青島くんの思考回路が分からないわ」
「伝説に俺も乗らせて」
「男って性質悪いわ」
女の狡さを棚に上げ、批難を口にする。
「それこそ後生じゃん。一回くらいさ、二人でデートしてみませんか」
どお?と改めて繰り返された言葉はすみれの耳を熱らせ、青島の凛とした顔を反らさせ、二人の視線が逆向きで、宙を揺れる。
誘いに乗ったら、あたし達は何か変われる?
その眼に映っている哀しみの行方を、教えてくれる?
ほんと、あたし、駄目だな・・・。
一人に、されたくない。
一人になる覚悟で飛び出した癖に、見知らぬふりをしたすみれの深部がツキンと疼く。
いぃ~だ、と舌を出してみたら、青島があははと声を立てて笑い、身軽にベンチから立ち上がった。
長い足が一度踏みこみ、シュッと空気を切り裂き空き缶をゴミ箱に放り投げて見せると
それは小気味良い音を立ててダストボックスに吸い込まれていった。
「ナイッシュ!」
自画自賛し、青島がガッツポーズを決めた。
モッズコートが軽やかに潮風に舞う。
「んじゃ!お疲れ!デート、考えとけよ!」
敬礼してから、人差し指を向け去っていく青島を、すみれは見送った。
ひょいひょいと足軽に去って行く寒そうな背中は、やがて扉の向こうへ消える。
結局はぐらかされた。あたしも、また、はぐらかした。
踏み込めていないのはどっちなんだろう。
青島に、すみれの心配が伝わっていないとは思えなかった。
酷く察しの良い男だ。
そして、同僚として認めていないとすみれが感じてしまうこともフォローして、女を持ち上げるような台詞を入れる。
そうすることで、すみれの反応を利用し、自分から矛先を逸らす意図もあったのだろう。
つまり、すみれじゃ駄目なんだ。心配かけまいと、返って気を使わせてしまう。
「・・ッ・・」
熱いものが眦から零れそうになっていることに気付き、すみれは指でそっと払った。
だから、これ以上踏み込めないのだ。踏み込ませてくれないのは、青島の方だ。
出会ってから、もう、ずっと。
もう、ここで青島と認めあったり喧嘩したり触れ合ったりすることは、なくなるのに。
もしかしたら青島も、本気ですみれが最後まで乗ってくるとは思っていないのかもしれない。
言葉にしたら、きっとこの空間が壊されて、あたしたちは一人になる。
嘘を演じるということは、青島にとってもこの空間が、最後の逃げ場なのだ。
それは、この残酷で無慈悲な結末の、一握りの温もりだった。
アンバランスな距離感は崩れない。
ずっと、ずっと、こんなに傍にいるのに、それはとても遠い。
気付いてよ、青島くん。
寂しいよ、青島くん。
抱いてよ、青島くん。もう一度。
どうすれば、貴方はあたしを見てくれるのだろう。
誰なら、青島を救ってあげられるのだろう。
誰なら。
「優しくすんなよ・・」
尖らした口から洩れた文句を、今は拾う人もいない。
最後に見る海は、途方もなく広がり空との境を失っていた。
カタンと背後で靴音がする。
青島が何か忘れ物をしたのかと、立ち上がり様に振り向けば、ここには居ない筈の、今は一番逢いたくない人物が、そこに立っていた。
2.
「何しに来たの」
泣き顔を見られてしまったことで、ついすみれの口調はつっけんどんになる。
高雅な男も、女の泣き処を見ても顔色一つ崩さない。
少しの沈黙を与えただけで、室井はそれでも無関心を貫いた。
こういうところ、青島くんと違って生粋のキャリアだわ。
「青島くんなら今出ていったわよ」
「労災の申請書を渡しに来た」
「わざわざ?」
あの事件を踏み台に、室井は警察の抜本的な改革を担う中枢となった。
それは、若かりし頃、青島と約束した未来そのものだ。
査問委員会に始まり、降格に左遷に異動と、青島と関わってから室井の経歴も賑やかとなったが、結局最後に華を勝ち取るのだから
騒ぎを大きくしただけのすみれとは違う。
「労災、下ろしてくれるの?」
「如何なる事情を鑑みても、職務中の事案なので、申請だけはしてみろという話だ」
「如何なる事情ってところに悪意を感じるわ」
「事実だろう」
「そういうとこがヤなのよ」
口唇を尖らせる顔も、行儀悪く肘をつく姿勢も、もうしおらしくする必要はないんだと思って、すみれもぞんざいな態度を崩さない。
それでも、この男が昔からくだらないノンキャリの愚痴を、馬鹿にしたり告げ口したりしないことも計算した上での
これも一種の甘えなのだ。
すみれの中で、意地を張って耐えていた何かがぷつりと切れる。
「放っておいてくれないかしら・・・っ、なんで今・・っ、貴方なの・・」
一番近くで、深いポジションにいるんだと思っていた。
だが、そんなのは、博愛な彼のほんの一部でしかなかったのだ。
そのことに、ショックを受けた。
そんなことにショックを受けている自分に、嫌気が差した。
手にいれる勇気もないくせに、欲しがるだけ欲しがって。
なのに、遠くで座っていただけで手に入れているこの男が、憎らしい。
「提出期限にはまだ時間がある。ただこちらでも審査があるので提出はなるべく早めに」
「まるで審判を下しにきた死神だわ」
黒いコートに黒い髪。漆黒の眼は謹厳と高貴を失わず、何の慈悲も持たずに鎌を振り下ろす。
でも、それでいいのかもしれない。
室井がスッとA4の白い封書をすみれの隣に置いた。
そのまま立ち去るかと思った。
だが、あろうことか、室井は青島が座っていた場所に腰を下ろした。
「忙しいんじゃないの」
「車が渋滞していたことにする」
「流石にこんな女を放っておくだけの常識知らずではなくなったのね」
相手が誰であれ、冷徹な態度を崩さない室井にしてはかなり大胆な行動に、すみれは横目で室井のガチガチの顔を盗み見る。
昔は泣いている女性を見ても無視していた欠陥男だった。
泣き落とす被疑者を人間としてみない、冷淡に裁きを持てる本店キャリアだ。
それを変えたのは、多分、唯一無二の約束をした腐れ縁の彼のおかげなのだろう。
「君が元気ないと、戸惑う」
自分と似たようなことを口にする男に、すみれはようやく少しだけ顔を傾ける。
そのすみれの瞳に、海を反射した滴がまた一つ筋を描いた。
室井は伏目で察知するだけで、腕を組んで海を眺め続ける。
体温は感じない距離を残したまま、二つの背中が明度を落としていく大気に、溶け込んだ。
「理由、聞かないのね」
「・・・」
その沈黙は肯定だった。
「もしかして、知ってるのね?あたしの気持ちも、青島くんの気持ちも。何で今、あたしが・・」
「――」
「で?哀れに思って、今度はそこから飛び降りるとでも思った?」
「前例がある」
あ。皮肉のつもりが、自分の破天荒な行動のせいで嫌味にならなかった・・。
口を開けて、すみれが失敗したという顔を向けると、室井が目だけを眇めた。
室井にしては性質の悪いその顔は、共通の悪事と失態を知っている眼だ。
「そうだな・・、まあ、多少は聞いている。でもそれを、私の口から言うのはルール違反だろう」
唯一心の内を知っているらしい男の言葉に、すみれの中に残るのは哀愁と、ちょっぴりの嫉妬だった。
室井さんはあたしの知らない青島くんを知っている。
すみれでは、青島個人のプライベートとなると、情報が足りなさすぎた。
でもこの男は違う。
すみれよりもっと深いところで繋がっていて、その絆には永遠が保証されている。
海を見つめるすみれの頬に、髪が何度も頬を打った。
「もっと、何か、出来たのかな・・あたしには、逃げることしか、なかった・・」
「人生の中で、これだけ長い時間と死線を共にした人間は、彼だけだろう?」
「それ、ダイヤモンドと鉛筆の芯くらい違うわ」
青島だけは冗談にも苦情にも乗ってくれた。
スリアミをあしらえず、いつも聞き役に捕まっていた。
和久が、昔より楽しそうに愚痴を零している姿を、よく目にしていた。
些細なことにも色々気を回し、アフターケアも抜かりがなかった。
沢山の彼が目まぐるしく打ち寄せる。
居心地の良さは、青島が造り出す魔法だったのだろうか。それともすみれの捨てきれない想いが見せた幻想だったのだろうか。
最早鎖もなくなった馴染みの空間で、隣に座る男ではない、居た筈の残り香を探すだけで、すみれの左半身が熱くなる。
これが恋なのだ。
断ち切れない想いと、受け容れて欲しかった我儘、相手を意のままにしたい独占欲が綯い交ぜとなって
濁った感情が窒息するが如くすみれの胸に澱んでいく。
醜さと悪意に満ち、傲慢と幼さで腐敗していく。
若く瑞々しい煌めきだけ残した淡い想いなど、どれも本気の恋の入り口に過ぎなかったことを知る。
勝手に別れを決めたあの恋にも、ごめんなさいと気持ちが喚いた。
恋を、あんな風に断ち切っては、いけない。
「バチが当たったのかな」
「罰が当たる世の中なら我々は失業だ」
ロマンの欠片もない言葉に、海を見つめるすみれの顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「あたし、がめついなぁ」
「そんなのは、私もだ」
「でも、あたしの人生の半分くらい、青島くんがいるの」
「それも、おんなじだ」
同じ人間に出会って、変わって、色付いて、まるで室井とすみれは鏡合わせのように映っている。
「終わっちゃう。あたしと青島くんが、終わっちゃう・・」
すみれの声は、震えて潮騒に溶けた。
この海の街で彼と出会った。
たくさんの思い出をくれた。
怖がりのあたしの背中を押してくれた。
今のあたしは何でも欲しいおねだりをする子供と同じだった。
自分は何様のつもりだったのだろう。
仲間を取られてしまったような、心の支えを失ってしまったような、そんな喪失感が想像以上にすみれを孤独へと打ちのめし
どれだけ自分が青島に依存し、大切な存在へと変わっていっていたかを、思い知らされた。
その喪失感が、膨れ上がり過ぎて、重たい。
「一途過ぎる想いは時々、人の息の根を止める。心の耳を塞いでいたら、自分の悲鳴が聞こえない」
すみれが顔を上げる。
初めて正面から室井の目を見つめた。
「・・・あたし、青島くんが、すき」
じっと、他のすべての色を拒む漆黒の瞳がすみれを暫し見据え、見定めていた。
数多の星を宿したようなすみれの目に、涙が溢れる。
「言う相手が、違う。もし私が君に惚れていたら大惨事だ」
「貴方こそ、その台詞はあたしに言うべきものじゃないわ」
もし室井がすみれに惚れていても、こんな台詞くらいで室井はすみれを諦めない。
でも青島がすみれを好きだったとしたら、青島は室井のためにすみれを簡単に諦める。
「酷い男に聞こえる」
「そうね」
誤魔化しているのは、みんなおんなじだ。
あたしたちは、嘘と知ってて日常という嘘を演じ続けた。
本音を出せる程強くないから、この関係を演じてきたのだ。
「室井さん、も、伝えた?」
「・・それも、青島に聞くといい」
その口ぶりが余裕を感じさせ、そもそもこの男がライバルなんじゃないかという気さえして、すみれはぶすくれた顔を隠さない。
何をしでかすか分からない女というレッテルを貼られた雪辱は、実に座り心地が悪いものだ。
「室井さんはさ、青島くんを連れていこうとは思わなかったの?」
「それは――違うだろう。アレにとって出世は昼飯だし、肩書は誰かの拍手で充分だ。大勢の人の役に立てればいいと思っている。
唯一の頂点を目指す我々とは、最初から目指す方角が逆だ」
「ふぅん、色々分かっちゃってるんだ、彼のこと」
どうだろうな?という風に、室井が片眉を上げて、誇らしげな顔を見せる。
「室井さんには隠されてることいっぱいありそう」
「・・そんなの、あるに決まってるだろう」
「二人の間にとても敵いそうにないわ」
「私からそう簡単に奪えるとは思わない方がいい」
敢えて挑発的な物言いをして付き合ってくれる室井に、可笑しくなって、すみれは室井の顔を下から覗き込む。
強張った顔を向け、室井が顎を反らした。
「室井さんってほんっと青島くんのこと好きよね」
意外だという顔をされて、すみれは人差し指を突きつけた。
「なにそれ、気付いてないって顔?」
「人に言われたのが初めてなんだ」
見つめ合う二人には、まだ温もりのない冬の潮風が通り抜ける。
海に微かに残る最後の残光が、星屑のように瞬いていた。
急速に冷えていく大気に、それでもまだ足が動かない。
室井がマフラーを取り、すみれにスッと差し出した。
「こういうとき、普通はコートを差し出さない?」
室井が黙々とコートも脱ぎだす。
「素直ねぇ」
「傷は冷やさない方がいい。青島にドヤされるんだ」
差し出されたコートを見つめ、それからすみれはもう一度室井を見る。
彼の昔の友人とか、すみれは知らないし、あまり、特別な人なんて話してもくれない。
・・・室井さんとお酒呑んだって話は時々聞いた。
この仏頂面堅物キャリアと向き合って一体どんな会話をするんだか。・・・・あ、それ、ちょっと興味ある。
「いいな・・」
それが、今のすみれには羨ましい。
すみれはそっと凍える指を延ばし、室井のコートを受け取った。
「あたしには、なぁんにも話してくれなかったなぁ」
「・・・」
「でも、それはあたしもだわ。お互い様なら、やっぱりこれは、自業自得なのよね」
ほんの僅かな誇りがあったって、やっぱり駄目なのだ。
恋はそれだけで全てを掻っ攫う。
一握りの誇りなど、ただ、自分を誤魔化し慰めていただけだ。
見る度に囚われて、触れる度に惹かれていった心が、見過ごされ、今になって相手を欲深に求めて軋んでいる。
すみれにとって、青島は重要だからこそ、青島にも隠し事はしてほしくないと強請った。
せめて、無二の関係を傲慢にも意識して欲しかった。
そんなの全部、すみれの傲慢であり、強請る程に、青島を困らせ追い込んでいくことしかならない。
「気付くことと言葉にすることは、違う。君だから見えたものもあっただろう?」
室井の声は、すみれを諭すというよりも、自らに言い含めるようだった。
そんな口下手な男の後で、じっと静かに見守り続けた彼。
壮大な約束を背負った二人の孤独な戦いは、静謐で誠実な黙秘の中で完結した。
「良いじゃないか。負けでも。だったらその気持ちを伝えてやれ。どのみち終わると思うなら、その幕引きを誰の手で引いて欲しいかを考えろ」
「つまり、その質問の室井さんの答えは、青島くんなのね」
沈黙は、やはり肯定なのだろう。
そうまで言い切れる室井が羨ましく見えた。
「本音出せる程強くないのよ、あたし」
「でも、欲しくなったんだろう?」
「・・・・・うん」
不器用な自分たちが、哀れで切なく、同じだと思えた。
二人で過ごしたキラキラしてたつもりの時間が、可哀想に思えた。
澄んだ水のような鮮やかな碧。
真夏の陽差しに強く反射する青空のような濃い蒼。
海のように少し緑みがかった深い瑠璃。
脳裏に浮かぶ青島は海と煙草の匂いをさせて、透明な青はどこまでもどこまでも澄んでいく。
「それに、このままだと、君の最後の景色は私ということになってしまうが」
「・・・」
すみれはまあるい目をぱちくりとさせて、口を開けた。
二人きりの屋上。彼のコート。ムーディな夜景。
確かに随分とロマンティックなシチュエーションである。
「それはタイヘン・・」
それは、室井なりの励ましであり、冗談なのだろう。
それでも、少しだけ、すみれは気が楽になった。そして、少しだけ、勇気が出た。
いつの間にか涙は乾いていた。
燻らせた熱が、出口を失っても未だすみれの中で生きている。
人生二度目の恋の勝負だ。
私を殺せない私を殺してもらおう。
「でもね。最後の景色は、青島くんじゃないなら、貴方がいいわ」
室井が口端を滲ませ、キランと漆黒を強めた。
「だが、引き金を引いた後のことは、知らないぞ」
3.
「青島くんッッ」
「はははいっっ!?」
両手で参りましたのポーズをしながら、青島がすみれの意気込みに押されて上半身を反らした。
「顔、コワイです」
「戦いの時は女の子も顔が怖くなるの!」
「はい・・、って、ぇ、戦う!?」
「ちょっとツラ貸しな」
「どどどどこまで・・?」
すみれは、むんずと青島の手首を掴むと、青島を連れ出した。
「ちょっ、・・と待ってよ、すみれさんっ」
すみれは顔だけ振り返り、もう一語一語、言葉をハッキリと区切って、ばん、と指鉄砲を突き付けた。
「来・る・の・よッ」
***
ひと気のない海辺まで来て、すみれは立ち止まった。
ぐりんと振り返って、腰に手を当てる。
白いAラインのコートが夜にくるりと輪を描いた。
「話があるの」
「でしょうね・・」
少しだけ強い口調になってしまった。
だがそれを青島は柔らかく視線で流す。
見つめ合えば、青島が怒ってはいないことが見て取れた。
強引なことしちゃったけど、もう後には引けない。
「あたしね、このまま、大分に帰る」
「ぇ、でも」
「送り出されるのは苦手なの」
馴染みの誰もがすみれのために尽力していた。
温かく迎え入れてくれた。
そんな人の気遣いをすべて無駄にする。
それだけの罪を代償に、すみれは勝負に出る。
「今度は、青島くんにだけは、言っておく」
「待ってよ」
「だから、今ここで、青島くんがあたしを送り出して」
「出来るわけないだろ・・」
海風が彼の綺麗な瞳を隠し、夜に惑わせる。
ぼんやりと零れるように言葉を紡ぐ青島に、すみれは紅い口唇を噛んだ。
こんなことでもなければ踏み出せなかった、あたしたちが、馬鹿だ。
潮騒は泣きたくなるように胸の襞を煽ってくる。
「みんな泣いちゃうよ」
「あたしが泣いちゃうの」
「お別れってそーゆーものでしょ。だから、」
一歩下がる。
距離を動かし、じっと見つめ返すすみれの瞳に宿る本気に、青島がその先に次ぐ言葉を失った。
優しい男だ。
多くを告げないのは、すみれを気遣ってのことでもあり、誰かを思い遣ってのことなのだ。
決して利己的感情で動く男ではない。
同時に多くを告げないすみれの覚悟にも気付いただろう。
踏み出したことで剥き出しとなった心に、今、痛いほど感情の礫が降ってくる。
「んなこと、させっかよ」
焦がれる想いを凌駕して、すみれの胸が詰まった。
でも、溢れた感情は、濁って、澱んで、もう行き場がない。
「あたし、青島くんとこの海の景色だけ、ずっと覚えてる・・!」
また一歩、すみれが後退る。
声は少し潮風に掻き消される。
砂浜に足跡が逆さまにみっつ残された。
「どうしても?」
「どうしても」
「俺は、すみれさんの全部、一生忘れない自信あるよ」
広大な海のグラデーションが闇のカーテンのように二人を閉ざして、夜空の向こう側に描く色彩の美しさに目が眩んだ気がした。
灯りの落ちない都会では、夜空は黒じゃなくて濃い藍色だ。
その中で、すらりとした背丈と長い手足の均整の取れた輪郭が、海色に透ける。
「それ、忘れていいよ」
「むりだよ・・!」
この笑顔に、ずっと癒されて、そして騙されてきたんだよな、と思う。
恋に傷ついた過去も、ストーカーに翻弄された過去も、銃創に負けた過去も、みんな彼と共に、越えてきた。
彼が、すみれの救世主であることには変わりはないのだ。
「忘れちゃいたいほど、俺んこと、重たかった?」
「男のくせに思い出引きずらないの!」
揄ったつもりなのだろうが、肯定的な反応をされて、青島の方が絶句していた。
辛そうな青島の顔に、なんだか全てが伝わってくる。
「あたしたち、ずっと一緒だったね。認めたくないけど、それがほんとだった。ここから先は一人でも大丈夫なようになりたいの」
「待てって、すみれさん」
「だから。充電させて」
「・・・どうやって」
ただじっと青島を見据えた。
これは練習ではないしゲームでもない。
女の子の本気の勝負なのだ。
すみれの逃がす気の無い気迫がようやく伝わったのだろうか・・・いえ、多分最初から伝わっていて
だが、もうかわすことが限界だと悟ったのだろう、青島が、口唇を引き結んだ。
一歩、今度は青島が近づく。
「また会う気なんて、ないだろ」
言い当て、物語の続きを強請る青島の瞳に、すみれの胸が破裂した。
「そうだよ、だから」
「行くなよ」
断罪する言葉に、風が、動いた。
「・・ィッ」
青島の胸倉を掴み上げ、思い切り引き下ろすと同時に、すみれは細い顎を上向かせ、青島に自分の口唇を重ねた。
柔らかく押し当て、目を閉ざすすみれの黒い細髪が波打ち際で幾重にも月明かりを飾る。
触れた途端溢れる煙草の残り香と石鹸の香りと刺すような熱が、すみれを酩酊に襲う。
驚き、見開いたままの青島の瞳を見たくなくて、目を閉じた。
この期に及んですみれを気遣う青島が、切ない。
引き留める言葉なんて、いらない。
蒼に包まれるシルエットが禁忌的な波音に重なり、細い肩は震え、すみれに忘れられない刻み込む熱に、息を止めた。
「・・・」
青島の息遣いまで聞こえてきそうだった。
焦点さえぼやける初めての距離で、少し乱れ、戸惑って、青島が照れくさそうな顔をする。
「こんなことされて、怒らないの」
「・・わかんない・・」
青島らしい曖昧な応えに、思わず強張っていたすみれの口が、自嘲に歪む。
それを見た青島が、頬を朱に染めて、視線を逸らした。
横を向いて、目を瞑り、息を切らし、次の瞬間、今度は青島がすみれの口唇を塞いだ。
「っ」
すみれの頬を両手で掴み、軽く掬い上げ、壊れ物を扱うかのように、口唇を塞いでくる。
顔を大きく横に倒し、手慣れている口接は海の味がして、壊れるほど熱い。思わず縋るようにその手を掴んだ。
息継ぎのタイミングさえ奪われて、柔らかく吸い付いてくる紅いぬめりに、煙草の苦味が微かに煽る。
「・・ん・・っ・・」
すみれが洩らした甘い吐息が熱を孕み、青島がキスの角度を変えた。
柔らかく擦り合わされ、先走るすみれを丁寧に諫め、大人の男のキスに酔わせてくる。
きっと、ニ度、はない。
途端、その美しい幕切れに、耐えられなくなったのは、むしろすみれの方だった。
縋る指先が震えている。
上から覆い被さるように奪われ、崩れそうな足元がふらついた。
甘いねっとりとした唾液が混ざり合い、淫らな水音を二人で奏でる、その官能に、その先の情動が鮮やかに浮き上がる。
滴るような狂熱に浮かされ、見上げた瞳にすみれは魅入られる。
少し潤んだ視界で青島が顔を歪め、すみれの肩を押し、少し身を離すと、拳でその口元を覆った。
「――ごめん」
「・・謝るくらいなら最初からしないで」
「・・・」
「そこで黙るの」
必死な思いで上擦った言葉は、余りにか細く震えた。
潮風が送るいつもの、すみれが知っている青島の香りは、すみれの鼻の奥をツンとさせる。
「そこで黙るのはずるいよ」
不貞腐れたように腕で乱暴に口唇を拭う仕草からは、確かに拒絶は感じない。
こんな風に何でも他人の情を受け止めてしまう青島が、無防備に、そして儚く見えた。
こんな風に、自分以外の人間にまで、親しげな情を見せて欲しくなかった。
逃げなきゃいけないのに、逃がしてもくれない。
「青島くん」
「・・ッ」
「厭じゃ、なかった?」
聞いて、そのまますみれの瞳からぽろぽろと雫が幾つも溢れていく。
その顔に、青島が絶句し、それから小さく目尻を歪め舌打ちした後、男の力ですみれは引き寄せられた。
大きな手の平で、あやすように頭をその肩に押し付けられる。
「・・ッ、・・あたしはあんなにめちゃめちゃに動いたのに、青島くんはあたしを追いかけて大分まで来てくれない・・っ」
君が愛した世界なら生きてみていい。そう思えた初めてのひとだったのに。
「充電・・・出来た?」
「・・できない・・っ」
「今度は俺の番でいい?」
「・・ぇ・・?」
ふわりと空気が動き、青島の手がすみれの後頭部に回されると、今度は上向かされ、真上から口唇を塞がれた。
すみれの口唇を掬い上げるように青島の口唇がぴったりと密着し、先程よりも狂おしい熱を注ぎ込まれる。
強烈な酩酊感がすみれを襲い、顎を反らして与えられるその熱にすみれは打ち震えた。
「!」
こんな青島くん、知らない。
身体を密着させ、何度も何度も唾液でぬめる口唇を擦り合わせる。
溢れる熱い吐息が二人の呼吸を乱して、波音に混じる水音に、言えない言葉を注ぎ込んだ。
すっごい。キスってそれだけであたしのぜんぶを熱くした。
潮風に乗って、青島から煙草と石鹸のような香りが漂い、背伸びしたすみれの足元に砂が舞う。
「・・触れたかった・・」
「ん・・っ、その声、ずるい・・」
止まらない。止められない。積年の想いが溢れて零れて破裂する。
「あ、おしまくん、だって、傷のこと、あたしに、言ってくれなかった・・ッ」
手が回され、これ以上ないくらい密着する熱が、狂おしい。
「・・っ、忘れ、ないで・・っ、あ・・おしまくん・・っ」
青島はすみれの忘我の叫びに口付けで応えてくれた。
後頭部に指を差し込み、すみれが願うまま深く舌を埋め込まれる。
触れ合わせるだけで痛む心のままに、口腔を探られ、すみれは注ぎ込まれる熱に顔を歪めた。
無意識にすみれの両手が青島の背中にしがみつけば、よりキスは深くなる。
これで、終わりに出来るの?あたし。
彼を離せるの?
なんでこんなキスしてくるの。
すみれがキスの濃度と恐怖からふるりと震えれば、自らの思考に脅え竦むその腕を引かれ、力任せに抱き潰す程に囲われる。
あの事故の夜よりも情熱的に、狂おしく抱き寄せる青島の手はこれでもかってほど愛しさに溢れているように錯覚させた。
酸素も足りなくなって、眉を寄せるが、後頭部を押さえられ、密着する熱に陶然となっていく。
くらくらとして、青島に隅々まで貪られ、呼吸さえも危うくなったすみれの力が抜けて、受け止めるように青島の両手がすみれの背中に回った。
キスが解けても、青島の口唇が柔らかくすみれの頬からこめかみを辿っていく。
乱れた息を隠せず熱に浮かされた瞳で、すみれは青島を見上げ、堪えるものを呑み込んだ。
何かを堪えるような強い瞳が、この期に及んで美しいと思えた。
離れたくない。
さらさらと流れるストレートの髪が、都合良く顔を隠してくれる。
だけど、青島にはきっと、この惨めな感情さえも見透かしてしまうんだろう。・・・・こんなに近くにいたら。
すみれは踵を返した。
「ちが・・っ、ちがうんだ、待ってよすみれさんっ」
空かさず、何か誤解されたと感じ取った青島がすみれの手を掴む。
「離してッ」
「だから・・っっ」
それでどうするの。どうなるの。
正しい答えが、分からない。
でも胸の奥が潰れそうに痛い。
青島の腕には、抗えない。
でも背後を振り返れず、すみれは動けなくなる。
「怖かったんだ・・!」
「?」
「俺が!怖かったの!」
あんなに狂おしく交わした口唇がまだジンジンと熱い。
同じ強さで胸の奥がジンと痛んだ。
「すみれさんにあそこまでさせて、俺、ショックだった。あんなことさせて、それにどう応えるのが正しいのかも分からなくて」
切羽詰まった青島の声は、夜空に透けていく。
「情けないけど、その時俺が思ったのは、これでやっと堂々と結婚を申し込めるってことだった」
潮騒が奏でるのは全ての過去への贖罪だ。
それでも青島から語られる過去はどれも優しい色になる。
「一生一緒にいられる保証が出来る。でもそれがすみれさんが愛してるとまで言った仕事と引き換えになることがどうしても辛くて」
とくんと、すみれの心臓が鳴った。
「どうしたって辛くて」
すみれはゆっくりと振り返った。
こっちを向けとも命じなかった優しい男の指先からゆっくりと力が抜け、甘い呪縛は解き放たれた。
同じ傷痕に苦しみ、狂わされ、幾つもの未来を諦めてきた同士だから、誰よりも痛みに同調する。
青島の優しさはすみれに対する慕情じゃない。
同じ傷が奏でるシンパシーだ。
青島の想いは、真っすぐすぎて、すみれにはどうしたら良いのか分からなくなる。
「言い訳なんて出来るかよ」
傷があるから、触れられない。
傷があるから、近づけない。
過ぎた筈の痛覚は今もこびり付いて、さざ波に乗って何度も何度も過去を打ち付ける。
でも、逃げて封印するしかなかったすみれとは違う答えを見せてくれた青島に、すみれの心が痛烈に叫んだ。
「ずっと特別だった。ずっと、独り占めしたかった」
「青島くん、あたしのこと、すきなの・・?」
「たまには俺のだって見せびらかしたくなる衝動に負ける時、あったよ」
嘘でしょう?
キスより衝撃的な告白に、すみれは両手で口元を覆った。
あわあわする男の顔は、夜でも分かるほど真っ赤だ。
「もしかして、ずっと、悩んでたことって、これ?」
「~~っ、そうだよ」
青島が拳で顔を半分隠し、横を向いた。
青島ならきっと、すみれを慮り、自己感情を飲み下すと思えた。そして、その通りの引き際を演じて見せた。
寂しさに惑わされ、二人のこれまでの絆と時間を護ってくれていた。
一度付いた傷が、どんなふうに蝕んでいくのかを、このひとは身をもって知っているのだ。
ずっと負い目にしてきた傷痕は、あたしを今も責め立てる。
でも、忌み嫌い、傷つき泣いた過去が、傷を知っているから、あたしは本当の彼に寄り添える。
「ぃ、今更何言ってんのってかんじですけど――・・」
見上げた青島の輪郭が藍色の夜空に溶けて、海の色に縁どられた。
あまりに綺麗で、あまりに汚れなくて、泣けてきて、それはすみれの冷たい過去まで震撼した。
「ずっと、悔やんで生きていくのかと思った・・」
「そんなこと、させませんけど」
過去はあたしをどうしたって逃がしてはくれなかったのに、今は囚われたい。
あたし、このひとが好きだ。
あんなに否定し続けてきた過去までが愛おしい。
このひとに捧げる過去が、あたしに瑠璃色の祝福をくれる。
「今日、来んの、すっごく勇気いったの・・・色んなこと考えたの」
「・・何で」
「行っていいのかなとか、勝手なことばかりで迷惑だろうなとか」
「・・・」
「寂しいだけの気持ち、押し付けて、これまでが台無しだなとか」
すみれは羞恥でくちゃくちゃになった顔をゆっくりと青島に向ける。
そっぽを向いたままだった青島が、ちろっと見て、また反らして、それでもすみれが引かないでいると、口元を引き結んだまま、視線だけ送る。
頼りないその瞳を覗き込むと、青島の瞳には、だが自分の方が泣きそうに縋る顔が映り込んでいた。
参ったなという顔で青島が苦笑しようとして、それも失敗する。
「俺だって。・・いっつも考えてたよ。隣にいてくれたことに、俺、甘えていいんかなとか」
「・・・」
「こうして、カラダに触れてしまうこととかも」
「・・・随分理性的な言葉じゃん」
「寂しかったのは俺もですもん。でも一緒に居るだけで良かったんだよ」
「初めて、聞く言葉だ・・」
すみれは込み上げる感情を堪えた。
あたしの傷も痛みも夢も恋もみんな感じる。
こんなひと、いる?
あたし、このひと手放しちゃ駄目じゃない。
「普段は笑っちゃうくらいロマンチストなくせに、夢想家気取りの現実家なの?」
「だめ、かな?」
もっと我儘に、もっと大胆に恋情をぶつけてくれても良いのに、戸惑ったような透明の瞳でいつもすみれを映すから
引き留め、引き寄せ、その甘い蜜に虜になる。
どこまでも、割り切れない狡さが、あたしを甘く蕩けさせていく。
乙女心を煽るには、極上の逸材だ。
「ちゃんと、言って」
「・・すきだよ」
「・・・」
海風で湿った前髪の奥から悪戯っぽい、どこか得意げなくりくりした瞳が艶めく。
あっさりと白状した青島に、すみれも見交わす瞳を正視できない。
両手を広げて、青島がすみれの一番好きな笑顔を見せた。
おいでって意味だ。
すみれが初めて微笑み、それから、ちょっとだけ息を吸って、次は迷いなく青島の胸へと飛び込んだ。
白のコートがモスグリーンのコートに重なって、すみれの髪が波打って。
ぎゅうっと、しっかりと受け止めてくれる腕から、海と煙草と石鹸の匂いがすみれを歓迎する。
「やっとつかまえた。俺だけの花嫁さん」
「あたしのだんなさま?」
「待ってて。俺んこと。真っ赤な薔薇で浚いに行ってやっから」
「・・海の色がいい」
この海の街で出会ったから。
海の色をした貴方が、あたしが生きた全ての時間に瑠璃色の祝福をくれる。
傷痕から目を背け続けたすみれの人生が、今、彼の存在で逆転する。
その心理にやはり聡く気付いた青島がすみれを顔を上げさせ、男の指先で頬を撫ぜた。
醇美な男の指先に、それだけですみれの心臓は逸り、加速する。
「俺をぜんぶ、すみれさんにやる・・!」
サラリと言わないで欲しい。こっちはこんなに振り回されて焦らされて、あっさり好きって言えちゃう軟派なとこも悔しい。
「充電、できた?」
男の仕草で髪を梳かれ、指先に巻かれたすみれの髪に、青島が横目でキスをする。
ぽぽぽとすみれの頬が染まった。
「・・むかつく。青島くんのくせに」
「そ?」
「ずるい・・、くやしいほど、すき」
「俺も」
言わされた仕掛けも恋したのも、あたしの負けだ。でも、気障が似合う男にこれ以上ないくらい、くらくらしてる。
観念したすみれの無垢な顔は今までになく少女のようにあどけない。
数多の光を宿すすみれの直向きな瞳に、青島の眼が雄の色香を乗せて眇められる。
「ほんと、こんな荒業に出られた女は初めて」
「青島くんがわるいんだもん」
「危なっかしくて目が離せないよ」
“だが、引き金を引いた後のことは、知らないぞ”
キランと漆黒を強めた室井の声が聞こえた気がした。
「もっかい、い?」
顎を捉えられ、さっきまで狼狽えていた青島らしからぬ、切羽詰まったような言葉の色に、すみれは清艶に微笑んだ。
瑠璃色の波打ち際で、背伸びしてキスを待つ。
その距離僅か――
ここまでくるのにどれだけ時間をかけただろう。
想いの供養に対してはゆっくりと余韻を感じ、整えることができる時間が必要だった。
今、闇に閉ざされた瑠璃色の海に、ブーケを捧げる。
おまけ~後日談~
「はい、室井さん、申請書。よろしくね」
「元気そうに見える」
「もう聞いているんでしょ」
「君からはまだだ」
鞄に書類を仕舞い、室井はエレベーターのボタンを押した。
黙ったまま隣に立つだけのすみれに、室井も前を向いたままだった。
ただ隣に立ち、エレベーターが到着するのを待つ。
「君たちの婚約を心から祝福する」
「あら、そうなの?」
「これで肩の荷が下りる」
室井は散々だったいつかの夜を思い出す。
屋上で二人の会話が耳に入った。これは拗れたなと思った。
だからいつもの店に顔を出せば、案の定そこには酔いつぶれ寸前の青島がいた。
―えぐえぐえぐ。すみれさぁぁん
―そんなこと俺に聞かされてもな・・
―えぐえぐえぐ。一緒にいたかったぁぁ
―俺にどうしろってんだ・・
―勝手にお見合いもしちゃったくせにぃぃ
―またそこからか・・
happy end

当サイト初の青すみ馴れ初め話。
最後までちゃんと書いたのは初。
青島くんと室井さんは、思考や主観が似ているので共鳴するわけですが、すみれさんとはそういうのはない。
その意味ではすみれさんは絶対室井さんには敵わないわけで。
なので、室すみでは室井さんがすみれさんを必要とする理由は、キャリアとノンキャリの立場違いもあり、癒しとか救いで描きました。
すみれさんが室井さんを選ぶ理由は、やっぱり優良物件だし、弱さ見ちゃってるし。
青すみになると、青島くんがすみれさんを必要とする理由ってないんですよね。
ただすみれさんにしてみれば、最初から傷痕に振り回された人生だったので、青島くんの生き方そのものが希望だったんじゃないかなと。
どちらも傷痕に人生を左右されてきたので、生きる上では一番分かり合える相手だと思っている。それを慰めものにはしなくなかったです。
自分とは違う答えを出す彼に惹かれて、魅せられた、そんな彼女の物語の結末に花束を贈りたかったです。