20周年お祝いシリーズ
お祝い記念作品なので室青ベースとかじゃなくてがっつり室すみです。登場人物は室井
さん、すみれさん、青島くん。時間軸は特に決めていませんが広島後です。
バレンタインのお話です。
02.ショコラ・ロマンス

1.
雑誌にもよく紹介されている有名菓子店の前で場にそぐわないエレガントな黒のコートと擦れ違い、思わずすみれは振り返った。
やっぱり見間違いじゃない。
向こうも気付いたように片眉を上げる。
静かに目礼する男は、こんな場面でも礼儀を捨てていない。
「こんなとこで何してるの?まさかマイチョコ買う人なの?意外な一面だわ」
「・・・依頼していた贈答用を受け取りにきただけだ」
「つまりそんな雑用をまだやらされているのね」
「――」
言葉をまごつかせ肯定する室井にすみれはにこやかに笑って見せて駆け寄った。
ここは都内でも有名なホテルのスイーツショップで、帰宅時ともなった今は華やかな女性たちでごった返している。
店はシーズンに合わせバレンタイン用の期間限定品などがありガラス張りのショーケースに麗しく飾られていた。
そう言えばここは六本木からも近い。
「広島からは栄転だったと思ってたのに~。早く偉くなってよぅ、あれ、まだ時効来てないのよ」
無邪気に強請るすみれに、室井は無骨な表情を緩めない。
相変わらず何を考えているのか分からない男だ。
だがすみれに警戒心はなかった。
眉間を深く寄せ、上質な黒のコートを纏う男は一見冷徹で、高潔なあまり近寄りがたい印象を齎す。
事実、本店の出世レースを戦う以上そういう容赦ない面はあるのだろう。
だが長い付き合いの中でその裏に隠されている葛藤や情熱、権力に圧する粉骨を見聞きし
そういう部分に何となく素顔の室井が透けていると思っていた。
すみれが下から伺うように覗き込むと、戸惑うように夜の闇に溶け込む室井の瞳が僅かに深まった。
「君こそここで何を」
「この場でパンティ買うと思う?」
「・・・」
「来たるべき日に向けてチョコ買いに来たのよ」
「・・・渡す相手ができたのか」
「失礼ね。でも義理だから反論はしづらいわね」
「確かに数も多いようだが・・・」
室井の視線がすみれの抱えているカゴに落とされた。
「まさか刑事課の男所帯全てに渡すのか」
「それこそまさかね。青島くんだけよ」
「それは――」
先を続けられなくて室井が口籠る。
その緊張に気付き、すみれはふわりと笑みを乗せた。
「違うわよ?本命チョコとかじゃないわ。勘違いした?」
「・・・しかし」
「今年は質より量にしようって話なんだけど、あんまり安すぎるのもね」
「・・・」
「毎年楽しもうね~って約束しちゃったしね~」
「何倍返しだ」
「三倍」
「それ、青島のメリットは」
「さあ?」
「君たちは一体何をやっているんだ・・・キックバックを目的にしたチョコなんて聞いたことないぞ。いや、そもそも職場だぞ」
「あら。恋ってみんなどこかしらそうゆうもんよ?何も期待しないほうが可笑しいわ」
「・・・・」
悪戯気な黒目がちの瞳が室井を映してくりくりと瞬いた。
恋とは相手の心を欲しがる最大の傲慢である。
それを公に許される年一度の恋のイベントは、多くの女の子たちが相手を想い、焦がれ、甘酸っぱい期待をチョコに託す。
チョコは普段押さえている熱いものが塊となり、口に入れた瞬間留めなく溢れていく魅惑の宝石だ。
そんな小さな塊に一年に一度だけ、心の全てを委ねて願う恋の儀式。
濃くて、甘くて、ほんのり苦い。
おどけて告げたすみれの言葉に、室井が少し練達した瞳に惑いを乗せた。
何処か遠くを見つめているような深沈の瞳はノスタルジックな悟了を思わせる。
「あ、なんか地雷踏んじゃった?」
「いや」
清潔そうな笑みを滲ませ、室井が小さく肩で息をした。
その目が別に怒っているわけでも傷ついたわけでもないことを伝えていて
すみれは首を傾けて遠慮なく疑問を乗せる。
さらりとしたストレートの黒髪が肩を撫ぜた。
「すまない、自分も人のことはいえないと思ってな」
「恋の古傷思い出しちゃった?」
「逆だ。もうそんな風に色めき立つ恋など何年もしていない」
官僚の立場では、恋は理性の支配下であり、家柄と家柄が結びつく利害の契約だ。
潜在的に含蓄する利欲と権力の臆しない競争原理は辟易することも多いが
むしろそれを割り切りキャリアとして詰めていく算段に、とうに多くを望むことを止めた今となっては無味乾燥な慣習でしかない。
甘く滴る恋とは乖離した戦場であり、含まれる情も打算的で潔い面もある。
ただそれは義理とは言え人情豊かなやり取りをするチョコより性質が悪いかもしれなかった。
「官僚である以上、自由意思はあれどそこに人情なんてものは存在しない」
「いいじゃない、将来警視そーかんになるくらいの男と結婚したいわ」
「君らしいな」
「室井さんでもファーストキスに夢を見たタイプ?」
すみれは軽く戯言を乗せたが、室井は柔らかく悟った目尻を眇めただけだった。
もしかしたら言葉以上の重たいものがそこにはあるのかもしれない。
何となくそれ以上踏み込めなくて、すみれは夜空を見上げた。
都会では星もろくに見えない。
「でもチョコは貰えるんでしょう?結果オーライ」
「こんなエリートから外れた男では酔余の冗談だろう」
「なんだかチョコが一気に苦くなった気がするわね。気付いてないだけじゃない?」
「沢山貰っても持て余すだけだ」
「あげ甲斐のない人ね。それともモテるって自慢?」
「買い被るな。そんな器量の男じゃない」
自分を卑下しているようで何かを悟ってしまっているような室井の言葉は淡々と夜の街角に溶けた。
隣でクリーム色のライトの下で賑わう女の子の群れとは対照的な、そのコートの色そのものの雰囲気を持つ男の
円熟した達観を思わせる表情に、歳の差以上の差を思い知る。
室井には、近付けば近付くほど遠去かる壁があった。
気前よく口裏を合わせてくれていても、その本質を何なのか掴ませてはくれない。
歳の差とも性差とも言える価値観の違いに寂寥感を持ち、すみれは室井の端正な横顔を見つめた。
「結婚・・・するの?」
「相手がいない。だが、今は・・するつもりもない」
「一人の女に決めるのが嫌なの?」
「そんな若い時代は過ぎたな」
ふーんと相槌を打って地面に視線を落とす。自分のグレーのパンプスの横にある黒光りする磨かれた革靴に至るまで
室井の容姿に隙はない。
それでも、女を敵に回すような言い方をしたくせに、行儀良くすみれの雑談には付き合ってくれる。
「青島くんも・・・そんなこと言ってたな~」
「青島の場合はまた事情が違うだろう」
「そゆこと、青島くんとも話すんだ?」
「君たちの言う恋バナとやらはしないが、まあ、男の酒の席だ」
室井が密かに青島とだけはプライベートの付き合いがあることを、すみれは青島から聞いて知っていた。
本庁と所轄に利得の伴わぬ友好関係が築かれるなど有り得ないことだったのに
それをあっさり飛び越え閃光するような共鳴を見せた青島に、すみれは密かに尊敬にも似た感傷を抱いている。
捜査で共鳴し合い成し遂げた男たちは、個人的にもウマがあったらしい。
室井が話は終わりだというように、靴音を立ててすみれと向き合った。
それが話題を逸らすポーズであったことを、空気で悟る。
「本当に恋の甘いも酸いもいらないと思っている訳ではないだろう?」
「そこは・・・突きつめちゃうとこっちも後ろ暗いんだけど」
その昔、すみれにも婚約までいった話が破談になった過去がある。
古傷は腕の痣と共に、重荷ではなくとも痛む時には痛むのだ。
「恋に傷痕がある方がイイ女よ」
「強いな」
「女の子は強くあらねばならないのよ」
ふふんと胸を張ってみせれば、室井も僅かながら目尻を緩めたのが分かった。
室井が自分を見る目は時々妙に優しい。
親近感はきっと気のせいじゃない。
多分、青島ともども警戒心を解き、仲間だと認めてくれているからだ。
もう永遠に手に入らなくなってしまった普通の倖という世界は、欲しがることをやめた今でも周りが捨てさせてくれなくて
実体感のない泡沫はどこか独身を貫く男の寂寥感を共有させる。
艶治めいて夜に溶ける室井の虹彩を魅入りながら、すみれはお節介と気付きつつ口を開いた。
「恋をしたってキャリアに傷が付くわけじゃないわ」
「そうか。肝に命じておこう」
「あ。信じてないわね」
「そんなことはない。意地を張りたいだけだ」
「ん~、そこは似た者同士ね」
「かもな」
会話を終わらせ、室井が背中を向ける。
黒鞄と贈答品だと言っていた紙袋を左手に持ち、毅然と立ち去っていく後ろ姿をすみれは漫然と見つめていた。
他の男とは明らかに違う距離を持つ男だった。
それは室井のキャリアという立場のせいかもしれなかったし、或いはあの朴訥とした性格のせいかもしれなかった。
真っ直ぐに立ち去る背中は凛々しく高潔なまでに孤高だ。
だが美しいのは、その姿勢の良さだけではないだろう。
手元のカゴに目を落とす。
大量生産で安価に釣られて詰め込んだチョコとはちょっと違う気がした。
もし、もしもすみれがあげたらどんな顔をするんだろう。
そもそも自分は彼にあげたいんだろうか。
ふと思い付いた気紛れは、北風が荒ぶ街中に於いてもそこだけ熱を発しているように主張した。
なんとなくコートの胸元をきゅっと握り締める。
もっと近付いてみたい。もっと知ってみたい。
どきどきしていた。
まるで最初からそこにあって、火種を持っていたかのように息吹き、持て余すように膨れ上がる情動ははしたないほど熱っている。
悪戯を思い付いたような顔で、すみれはひゅっと息を弾ませた。
思った以上に思い付いた気紛れは、すみれの本音を突いていた。
抱えているものが大きいことは想像できても、その実態はあまりに遠い世界の出来事で
すみれには室井が縛られている苛酷さは良く分からなかった。
そんな男が柵のないチョコで少しだけでも解放されるのなら。
チョコは始まりの合図でもある。
すみれはきゅッと顔を上げ、ショーウィンドウを覗き込んだ。
2.
デスクの引き出しの一番下にはすみれの秘密が詰まっている。
じぃっと見つめていたすみれは、よし、と小さく口にした。
ぐるんとキャスター付きの椅子のまま回転すると、その勢いに驚いた背後の人間、つまりは青島がびくーっと椅子の上で背筋を伸ばした。
「なな何っ、すみれさんっ」
「兄ちゃん、ちょっと顔貸しな~」
「ええぇ~?すみれさん恐いよー?」
二人、屋上に連立って出る。
まだ風は冷たい季節だ。
コートを掻き込みながら青島が寒そうに背中を丸めた。
もふもふとしたコートに包まれた姿はまるでぬいぐるみみたいだ。
「なんか眩しい・・・」
「パソコンばっかり見つめているからよぅ」
「どうせ見つめるなら女の子がいいよね」
「はいはい」
すみれが鉄柵に腕を掛けて湾岸の街を瞳に映すと、隣に青島は逆向きで寄りかかるようにして伸びをした。
「どうかした?」
「う・・ん、」
「なんだよ?」
「最近、室井さん、来ないね」
「・・ああ。・・・まあ、出世するほど捜査には関わんなくなるでしょ、一所轄に用はなくなるよね。いいことなんじゃない?」
「さみし?」
乱れた髪を片手で押さえながら、すみれが小さく笑う。
「どうかな。確かに現場で会えなくなるのはちょっと物足りない気がする」
「正直者」
「本人に言うかよ」
「青島くんってさ、そういう意味なく強がりなとこあるよね」
「意味なく・・・」
「室井さんに格好つけたって今更みんなバレてんじゃないの」
「室井さんだからかっこつけたいんじゃん」
「そこがコドモ」
海風に飴色の髪を浮かせながら、青島が空に視線を投げ、くしゃりと笑う。
「この間もさ、呑んだときに出世しろ~出世しろ~って煽ててたら、おまえは俺を過労死させる気かって小突かれた」
「それが愛情だって向こうにも伝わってるんでしょ。他人のことばっかりだから。青島くんは」
「褒めてる?」
「褒めてない」
ぶぅとむくれてそっぽを向けるのは、青島との絶妙な距離感故だ。
この肘が触れるか触れないかの数センチの距離にときめいて、甘えられてきた。
癒しでもあり休息地でもあるここは、確かにすみれの大事な場所である。
出会ってから暴走しがちな青島を時に宥め、時に弾けそうな自分を留めてもらって、共に手を取って支え合ってきた。
夜道が恐いことも、火曜日が苦しいことも、みんな彼は知っている。
多くを知ってて貰えるというのは、反面、丁寧に伝える努力を忘れてしまいそうになる。
甘えて、委ねて、その先に二人が生みだすものは何なのだろう。
時に命を賭ける仕事だからこそ友人でもない異性でもない、独特の空間がここにはある。
でも室井は違う。
確かなものが何も無くて、雲の上のおとぎ話のようだ。
胸が締め付けられるような室井との距離は、もっと危うくて、あの闇色の瞳に呑み込まれそうになる。
そういうの、青島くんは感じないのかな。
「あんたたちも長いわよねぇ。室井さん、よく青島くんみたいなのと釣るんで飽きないよね。あ、面白がってるのかな?どう思う?」
「何年寄りみたいなこと言ってんの。まだまだこれからもっと、だよ」
「やだやだ、息合っちゃってます~な二人の浮世話」
「すみれさんが聞いたんだよ」
「そこまで聞いてないもん」
ぱふっと腕の上に顎を乗せたら、隣で青島がタイミングを見計らっていたように顔を寄せてきた。
「で、本題は」
どきんとする。
間近に迫った整った顔のせいではなく、見透かされていた戯言に。
柔らかい眼差しながら微塵も笑っていない瞳はただ心配だと告げていた。
固まったすみれに青島は少し前髪のかかった空を映す瞳を更に深めた。
「何か悩み事?」
「上手くやってんならそれでいい~って話」
「すみれさんって、自分の傷を受け止めることに精一杯で、それが原動力にもなってて、みんなを救いたいって考えてるとこあるだろ?」
「え?」
「自分みたいな思いしてほしくないって突っ走ってる」
「・・・どうしたの突然」
唐突に始まった話の方向性が見えなくてすみれが唖然としていると
その不安定な動揺に付けこむかのように、青島の強い視線が真っ直ぐにすみれを見た。
その頬に柔らかそうな栗色の髪が風に揺れる。
「でもそれってちょっと違うと思ってた。優しさの身変わりだ」
「・・っ、」
「すみれさんの救済を他人に求めちゃ駄目でしょ」
「だったら何よ・・・」
「違うよ、そうじゃなくて・・・」
警戒心露わにした野生の猫のように毛を逆立てて言ったら、思ったより低い声が出た。
見上げる肩の向こうには泣けるほど透き通る青空が広がっていた。
「だから、もっとずうずうしく?で、いいって話で・・・、ん?なんかちょっとチガウ?」
言いたいことが纏まらないように、青島がくしゃくしゃと髪を掻き混ぜて困ったように首を傾ける。
こういうところ、狡いと思う反面、青島の魅力でもあると思う。
他人に不信感を抱かせず、温情をストレートに伝えてくる。
その無垢な優しさは同時に強さでもある。
無邪気で温和な中に潜ませる強かな企みが、青島の狙いだ。分かってて、でもそれに絆される。
「何が言いたいの」
「だから――室井さんのこと。だから俺に聞いたんでしょ?」
「違うわ」
「意地っ張りだなぁ」
降参しましたというように、青島が両手を掲げた。
どこまでも優しい彼の他人への愛情はとても利他的だ。
甘えているのはきっと、すみれの方なのだろう。
じっと青島を見つめ、それから静かに視線を落とす。
大空に眼を向け、それから観念してすみれは口を開いた。
「別に何がどうってことはないんだけどね」
「うん」
「この間たまたま会ったの」
「うん」
「純粋なチョコ貰ったことないっていうから」
「純粋なチョコ」
「だから・・・権力とか立場とか関係無いやつ」
「分かってるよ。そうじゃなくてすみれさんに下心がないって方が不思議で」
「ちょっとっ」
「ごめん」
それで?と上目遣いで先を促される。
「青島くんの分を買うついでだったから、本当に気紛れで・・・」
「買ってみたと。いんじゃない?」
「どうだと思う?」
「やれるもんならやってみれば?」
ぶぅと膨れて見せる。それが出来ないから相談しているのに。
まさかそう返されるとは思っていなかった。
「相談する相手を間違えたようね」
「俺にするみたいに下心いっぱいですって渡しちゃえばいいのに」
「それしちゃダメだって流石に踏みとどまったわ」
青島がちらりと一度だけすみれを見た。
多分、一瞬にしてすみれの内憂を悟ったのだろう。相変わらず人を見る目と聡い感性だけは天下一品だ。
「だから――そういうとこ。もっと攻めるとこは攻めていいんじゃない。変なとこで奥手なんだから」
「女の子のイベントを喧嘩腰みたいに言わないでくれる?」
「ワイルドキャットがしおらしくするからだろ」
「あたしだって時と場合を選ぶわ」
くすりと青島が吐息だけで甘く笑った。
何となくそれが鼓膜にまで滴って、意地っ張りな自分を素直にさせる。
瞼を伏せたすみれの睫毛には太陽の陽射しを受けて光の粒が散っていた。
「・・・分かってるんだろ。室井さんの立場くらい。話はチョコ一つでも、噂で人を破滅させることも出来るし、所轄のノリに本店を巻き込むリスク・・・と
か」
「・・・うん」
公人である室井の周りで起きる現象は全て、そこにどんな純粋な想いが含蓄されているのであれ
上層部やライバルに悪意を持って利用され、時にキャリアの破滅まで誘引してしまう危険性がある。
数年前には、室井の二十年近く前の失恋と悲劇を煽りたてるかのようにゴシップ記事にされた。
「買っている時はたかがチョコって思っていたんだけど、いい歳した所轄の女がエリートキャリアに渡すってどうなのって色々考えちゃって」
頬杖を突いて、青島が気遣うようにすみれの顔を覗き込む。
「受け取る本人が理解していると思うし」
「そうかな・・・」
「いいじゃん、チョコくらい。喜ぶと思うけどな」
「そういう顔を、あたしにしてどうするの」
へらっと恐らくは室井を思い浮かべて笑ったのだろう青島の顔は柔らかく、恐らくこういう顔で室井を常々慕っているのだろうと思わせた。
心の底から何があっても室井を護るためなら飛びこめちゃうって顔だ。
きっと、それが今の自分には足りないものなのだ。
「それでもまだ恐い?」
「いざとなったら女の子には勇気が必要なの。だって今まで一度もあげたことないのよ。気を使わせないかな」
「意外と乙女なこと言うんだねぇ」
「青島くんっ」
楽しそうに笑って、青島が人差し指を立てた。
「わかった。じゃあすみれさん、俺の分も届けてきてよ。貰うのはやっぱ女の子の方が雰囲気出るし」
「ちょっと待って。青島くんが室井さんにチョコあげるの?」
「駄目なの?」
「駄目・・じゃ、ないけど。まさか毎年あげてたの?」
「駄目だった?」
「だから駄目じゃないけど」
質問がループしていることに気付き、すみれは額を押さえた。
この二人の不思議な繋がりに、今更言及したところでしょうがない。
「なにやってんのよ、あんたたちは・・・」
「半分は日頃の親愛の情ってとこでいいんじゃない?」
「あとの半分は」
「イヤガラセ」
うししと笑う青島は本当に楽しそうで、室井への曇らない好意が感じ取れた。
本当に通じ合い、信頼し、疑ってもいないんだなと思う。そして未来を託し合うことに何の躊躇も存在しない。
新宿北署の一件で、室井が逮捕された時だって青島はもう動揺することもうろたえることも、なかった。
誰より静かに、誰より強かに、事の成り行きを受け止めていた。
むしろ、室井がどう処分されるかというよりも、室井がどう判断するかを見定める雄姿で。
数奇な二人だとすみれは思う。
でも、同性である青島が気安くあげているのなら、合わせて渡すのはカムフラージュとして名案かもしれない。
「室井さんも青島くんのそのテンションに良く付き合うわね」
「そこはお互いさまだろ」
「どういう意味?」
「室井さんって実はちょっと意地悪だし。淡泊に見えて俺様流儀だし」
「・・・ぇ、そうなの?」
「そうだよ。すぐ人のことおちょくるし。時々子供扱いするしさ。4つしか違わねぇっての」
「それは青島くんがコドモだから」
「ジジイのお守は和久さんで充分だよ俺。なのに頭堅いし、一々口煩いこと言ってくるしさぁ・・」
「口下手に見えるけど?」
風がそよぐように青島がすみれに身を寄せてきた。
冬空を映す青島の蒼い瞳が挑発的に至近距離で笑みを湛える。
「聞きたい?」
「・・・どんなネタを掴んでいるの?」
柔らかく笑い、延々と始まった青島の愚痴は、すみれが初めて聞くものばかりだった。
なにそれ。そんな子供みたいな室井さんは知らない。
妙な反発心がすみれの中に湧き上がる。
悔しくて、追い掛けてみることにした。
青島にまんまと乗せられ背中を押されたことには気付いていない。
3.
本庁の排他的な気配にすみれはぶるっと武者震いをする。
都会の闇空に突き上げる灰色の堅牢はやはり威圧的で冷厳だ。
流石に用もないのに中まで入る気にはならず、ここで室井が出てくるのを待つつもりだった。
大まかな予定は本店パイプの真下から仕入れていたし
もし万が一不慮の事態が起これば、青島から連絡がくることになっている。
そんな杞憂もそこそこに三十分ほどすると室井の姿が正面フロアに捕えられた。
コートを着込み鞄も持っているので、退庁でないにしろ、一旦出てくるに違いない。
鼓動が飛び跳ねるように脈打っていた。
チョコ一つ渡すのに、こんなにドキドキしたことがあっただろうか。
初めて異性にチョコを手渡した時だって、ここまで緊張していなかった。
どうして。あたし。
初めは室井がどんな顔をするのか楽しみだった。
でも今脳裏を過ぎるのは、喜んで欲しいと思っているシンプルな願望だ。
彼を喜ばせたい。
だから、あの顔を曇らせるのが嫌なのだ。
迷惑そうに、或いは社交辞令のような顔を見せられるのが恐い。
すみれの渡したもので嬉しいって受け取って欲しいって思っている。
「・・ッ」
息が詰まった。思い余った手が震えている。
どうして、こんなにまで。あたし。
視界の端に室井の姿が入った。
近付いてくる。
規則正しい革靴の奏でる音。
どっきんと心臓が高鳴った。
すみれの視界が室井だけを映し取る。バッグを持つ手が自然と力んだ。
ある程度まで近付いた時すみれは赤いルージュを引いた口唇を引き結び一歩踏み出した。が、その足が直前で留まる。
室井を呼びとめる声が建物の中から聞こえた。
奥から一人の女性が走り寄ってきて、室井の前に立つ。
暗がりではあるが見たことがある女性だった。沖田だ。
彼女が手渡そうとしたものに、すみれの目が見開かれた。
ダークブラウンのシックな色合いの品の良い箱には同色のリボンが掛けられ夜風に揺れていた。遠目ではあるが、どう見ても有名ブランドのチョコだった。
室井も少し驚いた顔をしている。
手を振り断るように室井が一歩後退さった。沖田が必死に食い下がる。
もう一度。沖田が懇願するように手を差し出して。
次の瞬間。
室井は照れたように、顔を強張らせ、そして目元を綻ばせ、恭しく受け取った。
沖田も咲くような顔を見せている。
――受け取るんだ・・・。
あのチョコは、どう見ても先日言っていた権力や家柄の象徴ではなかった。
ピュアな愛情かどうかは分からなくとも、バレンタインに相応しい気持ちが詰められた小箱だ。
きっと、気紛れでチョコなんか思い付いたすみれなんかより、ずっと熱意のこもったチョコなのだ。
沖田は捜査統括指揮の失態でキャリアコースから失脚するところだったと聞く。
それを庇い救ったのが室井だったと風の噂は伝えていた。
あの時の銃創はすみれの肩を貫き、今も手酷い傷痕共に後遺症として身体に抱えている。
すみれの足が一歩下がる。
二人の光景を見ていた者は、すみれだけではなかったらしい。
建物の中から二人を冷やかし囃し立てるような声が風に乗って届き、沖田も照れ臭そうに諌めている。
チョコを渡す正当性、そこに受け入れられる基盤。
入り込めない浮き立つ空間。
鮮やかに描き出されるその場所は、すみれとは縁もない官僚の世界がそこにはあった。
グッと奥歯を噛み締めた。
何だかどす黒いものが胸中を渦巻いていて上手く息も出来ない。
くるりと踵を返し、すみれはその場から退散する。
この場に居たくなかった。
東北大学出身、過去に訓告処分、降格処分、不起訴処分を持ったキャリア官僚。
普通なら出世コースどころか、警察組織からも外れて当然の経歴だ。
だが強かに踏み堪え室井は地味ながらその環境を打破し先へ進んできた。
室井が見つめているものは前だけで後ろは振り返らない。
それがどんなに苛酷で凄惨な覚悟をもつものかは、過去に囚われているすみれだからこそ何となく感じとれていた。
否、それも妄想だったかもしれない。
後ろを向くすみれとは前を向いている室井が重なるわけがない。
何となく青島が言っていたことが、リフレインする。
〝自分みたいな思いしてほしくないって突っ走ってる〟
一体自分は室井の何を知った気になっていたのだろう。
所轄の浮かれた気分のまま、勝手に受け容れて貰えるとおこがましい勘違いをしていた。
実学主義で冷徹だった室井の本性を暴き、本当は不器用で純朴な男なのだと知らしめたのも
すみれではなく、青島だ。
室井をあそこまで開花させ表舞台に飛躍させたのは、青島なのだ。
付き合いはずっとすみれの方が古いのに、その長い時間は何を成せることもなかった。
沖田は女でもキャリアで、同じ立場で渡り合っている。
青島もまた、所轄という身分を越え、合理主義の室井に強く言えるだけの信念と実存哲学がある。
二人共、室井に認められ対立できるだけの実力があるからこそ、室井と付き合えるのだ。
なのに、あたしは。
踵を返し、すみれは夜道を走り出した。
ヒールが立てる忙しない音はまるで急かす後ろめたさのように夜のコンクリートに反響する。
一度も彼の素を暴くことは出来なかった。
つまりはすみれでは無理なのだ。
なのにどうして自分が一番近くにいるだなんて思い上がったことを思ったんだろう。
こんなんじゃ室井にも青島にも追い付けない。
自分一人が空周りしている。
ガタガタと身体が冬の大気に晒され震えていた。
寒いのはこの冬のせいだ。
ばかみたいだ。
行先など、何も思いつかなかった。
4.
『あ、室井さん?おっつかれさまでーす。待ってました!』
電話はコールと同時に繋がり、いつも以上に弾んだ声が返ってきて室井は眉間を顰めた。
『なんでだ?』
『言いたいことあるんじゃないかと』
『――週末の約束、変更してもらいたいんだが。少し予定がずれ込みそうなんだ』
『それは構いませんけど。・・・え。そっち?』
『さっきから何を言っているんだ?』
『だから~、今日そっちにすみれさん行ったでしょ』
『俺は会っていないが』
『・・・』
『今日は会議が長引いて先程本庁を出て今改札だ』
『え?じゃ、本当にすみれさんとは会ってないんですか?』
『ああ』
スマホの向こうの気配がスッと陰りを帯びた。
青島の言葉を反芻しながら室井も通行人を避けホームには行かず階段の手前で立ち止まる。
『っかしーなぁ・・・連絡来ないからてっきり二人でしけ込んじゃったのかと思ってたのに』
『だから何の、』
『じゃ、どこ行っちゃったんだろ・・・。あれ、これ、まずい、かも・・・』
要領の得ない青島の独り言に付き合うつもりもなく、室井はスマホを握り直し口調を改めた。
『順を追って話せ』
『だから・・・チョコを渡しに行ったんですよ、あんたに』
『また君のか』
『今年はすみれさんの分も上乗せで』
『――』
『なのに会ってないとなると――』
少し考え込む様に室井の黒鞄を持っている拳に力が入った。
タイミングが悪すぎて胸騒ぎがする。
『それ、何時頃の話だ?』
『こっちの仕事終わらせてからですから、ほんの一時間か二時間前ですよ』
『・・・、少し心当たりがある』
『何?』
多くの本庁を訪れる人間が正門を使うのは常識だ。待ち伏せするにも出入りが激しいエントランスが見渡せるそこは利便性の面からも相応しい。
だとしたら先程のやり取りを見られていたかもしれない。
渡すに渡せなくて、帰るに帰れなくなったか。
だがすみれが何故室井にチョコを渡そうなどと思い付いたのだろう。
もしかしてこの間の夜で気を使わせてしまったのだろうか。
女が男にチョコを渡す。昨今の風潮ではそのハードルは低く、価値も弱い。
その意味に深いものなど想像するだけ空疎であり、長いキャリア人生が無意味だと警告しているが、それでも室井は自戒を込めて瞼を伏せた。
少しだけ、甘やかな熱が室井の胸を燻らせた。
『要するに逃げだすようなことがあったんですね』
室井はぼんやりと目の前を通り過ぎる黒い人波を見送った。
だがチョコが実在するのは事実なのだ。
『彼女の行きそうな所に心当たりあるんだろう?教えてくれ』
『お、強気ですね。行ってなんとかなる自信あんですか』
『あるか』
室井がゆったりと薄い口唇から重たい息を吐く。
『君に任せた方がいいのは分かっている。こういうのは君の方が得意分野だろう、だが少し責任を感じている』
『責任』
『この間彼女と偶然街中で鉢合わせた』
『ああ、チョコの前で』
『聞いてるか。・・・そこで彼女を少し励ますつもりで焚きつけてしまった』
『ふーん』
少し曖昧な青島の相槌に、室井は責められているような拒絶されたような居た堪れなさを無意識に感じ取り、何となく言い訳がましく偶然だと繰り返した。
もしかしたら青島はもっと色々聞いているのかもしれないと思い、気恥ずかしさと、自分と彼女との距離の遠さに
改めて室井の胸が掻き回される。
口数少なくこちらの本音を嗅ぎ取ろうとするかのような青島の沈黙の背後では、刑事課の賑やかなざわめきが気楽な花を咲かせて受話器越しに室井の耳に届いて
いた。
『そのことで・・・どうして室井さんが責任感じんですか?』
『・・・、身に余ることはするもんじゃないな』
『そうでもないと思うけど』
青島とは、二人きりで酒を飲む機会を持つようになって久しい。
個人的に腹を割ってみると青島は陽気な性格とは裏腹に私生活では温和な男だった。
ちょこんと室井の前に腰を据え、口下手な室井から上手に話を聞きだせる営業スキルに長けていて、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ室井の話に静かにじっと耳を傾け
てくる。
その辛抱強い姿勢は口には決して乗せない室井への純粋な信頼と敬意を肌に伝えていた。
だから室井も青島には全幅の信頼を寄せられる。
『彼女を迎えに行きたい』
『責任・・だけで行くならすみれさん、余計傷つくと思いますけど』
『・・・、誘導尋問か。相変わらずそつがないな』
『これでも刑事なんで』
『俺は不合格ということか』
『だったら止める?』
『君の見る目は評価しているつもりだ』
もぉぉと何故か査定する青島の方が焦れたように面映さを覗かせる。
『そうやって必要なとこでも自尊感情押さえ込んでたら一生なんも手に入りませんよっ』
『君は行かせたいのか行かせたくないのか。どっちだ』
『はは、どっちだろ・・・』
青島の渇いた笑いは深刻な色彩を乗せてはいなかったが切実で何かを呑みこんだような深甚さがあった。
刑事課から移動したのだろうか。その背後が少し静かになる。
『俺と居ても・・・君の話ばかりだぞ彼女は』
『そなんですか?えぇ?すみれさん、ちっとも俺の前じゃそんな素振り見せないのに』
『信頼を置いているんだろう』
『ま、付き合いは伊達じゃないですからね』
そこは負けませんと、強気な茶目っ気が青島とすみれの時の長さを伝えてくる。
二人の仲間意識は熟知しているつもりだったし、そこに羨望と敬意を持ってもいた。
間に迷い込むつもりはなかったし、立ち入らないからこそ確立する魔性で嬌艶な距離感があった。
だからこそ出しゃばりたい今の躍動は室井の中に眠る情動を、越権行為と知りつつ、彼女を求めたい理由へと移り変わらせる。
何故だろう、今はものすごく、彼女に会いたい。
『俺たちの絆超えて行くつもりならそれなりの覚悟決めてってくださいよ』
『俺に宣戦布告させたいのか』
『だったら?』
『今の時間で刑事課に残っているということは、おまえ、今夜は夜勤で外に出られないんだろう』
『バレた』
くすっと笑った青島の吐息が耳に残る。
恐らく彼女と良く似た悪戯気な瞳を細めて笑っているのだろうと、室井の瞼の裏には容易に浮かんだ。
青島は室井を試したのではなく、意志確認したつもりなのだろう。
少し、青島に背中を押された気がした。
時に思うままに動くことが天賦の未来を連れてくると教えてくれたのも、この男だった。
悔しくも少しすっきりとした面持ちで室井は顔をあげ、前を強く見据える。
『それで・・・君は俺が彼女からチョコを貰っても構わないのか』
『室井さんじゃなかったら成敗したところ、かな』
小さく呟かれた声に思わず聞き返すと電話口の向こうで青島は悪戯っぽく笑って誤魔化した。
『ったく、しょうがないなもう・・・』
今回は特別ですからねと憎まれ口を叩くノイズ混じりの青島の口調は、柔らかく、そして少しだけ哀調だ。
元気な様子で装っても、室井の耳を誤魔化すことは出来ず、不安そうで寂しげな声色を含んでいる。
目を瞑り、室井は心の中で礼を言った。
そうして青島は幾つかの候補を口にした。
5.
自分の気持ちを隠してズルい手を使って。
大人ぶって分かった振りをして傍にいようと欲張るから、こういう目に遭うんだ。
また滲んできた視界を気丈に堪え、すみれは疼く目頭を指先で抑えた。
駅のベンチから一歩も動けない。
光は隅々まで奪い去られ、そのくせ人混みの気温だけは残したままで、凍るような風が足元を吹き抜ける。
ラッシュ時間も過ぎ去りつつあるホームは、電車が過ぎる度に閑散とした。
悴んだ手で行き場を失ったチョコが沈むバッグをぎゅっと握り締める。
ようやく気付いた自分の中の淡い気持ちは、あまりに久しぶりの感覚で、気付いたばかりの不安定な螺旋を内包したまま
粗ぶるままにすみれを奥底から縛りつけた。
気付いたと同時に失恋だなんて運命は意地悪だ。
本当はずっと、好きだったんだ。
あの凛とした意志の感じられる美しい存在感はすみれの意識を独り占めしていた。
年上には興味がないなんて予防線だ。
年配の落ち付いた空気を纏いながら、ふとした瞬間に見せる隙や愛嬌に魅せられた。
要領良くキャリアの道を渡り歩けない不器用な官僚に自分を重ね、憤りや不満を募らせるのも
彼の品位を重んじていたからだ。
この恋を叶えられなくてごめんね。
あれが欲しかった。
特別になりたかった。
昔散った恋の痛みよりも絶望的な色彩をした室井への恋情は、異性との交際にトラウマを抱えるすみれに
ある意味芽生えたばかりの片生で、残酷なまでに鮮烈に咲き乱れている。
もしかしたら一生消せないかもしれない。
こんな痛みを抱えて、あたしこの先どうしたらいいんだろう。
「恩田くんッ」
脳内と見紛う低く浸み渡る声がホームに響き、すみれはハッと顔を上げた。
まさか、と思いつつ視線を彷徨わせると、人垣の奥から黒いロングコートが近付いてくる。
咄嗟に掴んだバッグを握る指先に力が籠もった。
今は合わせる顔がないと思った。
「待ってくれ、恩田くんッ・・、」
走り出したすみれを追い掛け、室井が靴音を響かせて小走りに足を速める。
なんで彼がここにいるのだろう。どうしてあたしのことを追い掛けるの。
まるで自分のしたことの代償を払わされているかのような仕打ちに、すみれは口元を拳で押さえながらホームの奥へと抜けていく。
もう止めて欲しかった。
恋とはこんなに惨めでニガイものだっただろうか。
目尻から夜の大気に飛んだ粒はホームの寂びれた電灯を冷たく反射した。
「待ってくれ、恩田くんッ・・、・・ッ、ま・・っ、・・・すみれっ」
下の名前を軽々と呼ばれ、思わずすみれの足が止まった。
その隙に室井に背後に追い付かれる。
振り返ることも出来ず、竦んだ身体を叱咤し、すみれは強張った足先を必死に動かそうと身動いだ。
その気配を察知した室井がすかさずもう一度名を呼んだ。
距離は30cmもない。息遣いさえ耳をざわめかせるその空間を、だが室井は保持し、指先一つ、触れてはこなかった。
きっとこの僅かな空間が自分たちの限界であり、届かない所轄と官僚の相容れぬ平行線なのだ。
そのことにすみれはやっと気が付いた。
「何しに来たの?ごめんなさい、今日は帰って?」
「恩田くん、」
室井が何かを言い掛ける。
途端その先を聞くのが恐くなり、すみれは早口でまくし立てた。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい・・・っ、ここで逃げようなんて都合が良すぎるわよね。あたし何も分かってなかった、言いたいことだけ言って、理想を
押し付けていたわ」
「――いや、そんなことは」
「あたし知らなかったの。あ、でもそんなのいい歳して言い訳にもならないってこともよく分かってる」
「・・・待っ、私の話を――」
「いいの。ちょっとドジっちゃった。忘れてくれたら嬉しい。あ、室井さんどうせ忙しくてこんなこと――」
「恩田くん・・っ」
延々と続くすみれの早口に、室井が声色を変えて制した。
凛と響く低くて艶のある声が、すみれの鼓膜をじんと痺れさせる。
ああ、この声を聞くのが心地良かった。
ぶっきらぼうに付き合ってくれるのが楽しかった。
どうにもならなくなった感情がすみれの中からぶわっと湧いて、ついに堪えきれなくなった感情が涙となってすみれの喉を鳴らした。
子供みたいな反応しか出来なくて、それが益々すみれの羞恥と醜さを加速させる。
俯いたすみれの細い顎にさらさらと流れた細髪が歪む口元を覆ってくれた。
ゆっくりと息を吸って振り返る。
眉間に皺を寄せた険しい表情の男が、そこにいた。
闇色の瞳がすみれを心配げに見降ろし、何か言いたげなまま秘めて沈黙している。
「その、青島に少し、事情を聞いた」
「・・・そう」
「誤解をさせたのなら謝罪したい」
「誤解って何の?」
毒づいてオウム返しすれば、今度は室井の方が言葉を詰まらせた。
そのことが、社交辞令で室井がここまでやってきたことの証拠のようにすみれの目に映る。
律儀なこの男は始末を付けたくてのこのこと追い掛けてきたのか。
「・・・期待するだけ無駄なことってあるわよね。心配しなくても、もう、関わらないわ。室井さんの出世を邪魔するようなことも、しない」
「・・・」
「貴方が偉くなる日を待ち望む気持ちは本気」
「期待、とは?」
「・・・、なに?口止め?大丈夫、室井さんが誰と結婚したって応援するわ。安心して」
ホームの端は人影は無く、とっぷりと落ちた夜のヴェールが昼間の余韻も残さず寂然としていた。
目の前の男の肩が僅かに揺らぎ、歩幅を一つ詰める。
すみれの潤んだ大きな瞳に同じ色のストレートの髪が冬の風に靡いた。
何も言うこともなく息遣いさえ嗅ぎ取らせず、瞳を向けてくる。
芯まで凍えた身体はこの季節のせいじゃない。
全てを凍てつかせるままに足元まで悴んでいた。
心の奥まで見透かされているようで、気詰まりとなってすみれは小さく、なによ、と言った。
「君にそんなに謝られるようなことをされた覚えがない」
「う、ん・・・」
「出世のことを尻拭いして貰わなければならないほど君から見て私は不甲斐ないか。そちらの方が問題だ。ましてや口止めなどと」
キャリアは見た目の風格や威厳も重要である。
頼りない幼稚さや隙だらけの弱輩と見られてしまっては国家防衛すら危うい。
すみれがカツンとヒールを鳴らして一歩後退った。
それでもまだ距離は近い。
「不甲斐ないなんて思ってない。ただ分不相応なこと言っちゃって・・・こっちが恥ずかしくなっただけ」
「そうでもない。君の意見はいつも真摯に聞いていたつもりだ」
思考が弱気に暴走するすみれに、室井がそこに潜む脆弱性を感受し、自身の馴染み深い過去の手放した倖の欠片や失態に擦り替え追い詰めていく。
すみれの意思を置き去りに絡め取られる息苦しさはまるで恋だと勘違いさせた。
見つめられていることに鼓動が高鳴り、それは恐怖さえ住まわせ、すみれの消したい胸の疼きを誘発させてしまう。
造り物のようで、だが息を止めるだけの現実性を持っている疼きに、裏切り者の儚さまでも痛みとして明確にすみれに炙り出した。
もう嫌だ。ただ、苦しい。
「やっぱり、結婚しちゃえばいいのに」
「何故」
「貴方を支援する人が増えるわ」
「するとどうなる」
「こんなとこまで探さなきゃならない手間もなくなる」
「すまないが、官僚の婚儀とはそんな綺麗じゃない。君が思うほど簡単でもない。恋だの本命だの、そんなことは言っていられない世界なんだ」
不承不承、本音らしきものを零した室井に、すみれはその闇色の瞳の真意を探るように見つめた。
ようやく二人の視線が真正面から絡み合う。
「いずれ、権力争いは本格化する。その時には身近にある大切なものすら代償になる」
縦型社会のシステムは同時にキャリアを優遇し尊大する。
その悪習は強い保身体質を生み、官僚は多少のことがあっても過剰に護られてきた。
だが代用の効く所轄はその利権がない。何かあった時室井個人の力は勿論及ばないし、この警察社会の構造が所轄の人間を護ろうとしてはくれない。
大切なものほど護れない。
上の椅子に座るほど大切なものは護れなくなるのがこの組織のルールだ。
青島も勿論そうなのだが、未だに男社会である警察内では、女性のすみれを護りきるには今の室井の力では微力だった。
政治取引の上のやり方は誰より室井が熟知している。
何かあってからでは遅いのだ。
「そんなことに君を巻き込みたくなかった」
「だったら青島くんは?」
「青島は――・・、あいつはそれなり分かってるし、もう覚悟を決めてくれている。潰れる時は心中だろうが」
「そこが悔しいんだもん」
春の宵はただ冷たく二人を包み込む。
そんなことを改めて告げられたのも初めてで、すみれの瞳は憂いに揺らめいていた。
ルージュに光る口唇を細髪が擽る。
艶治なまでに不安定に揺らぐ眼差しは見る者の劣情を煽った。
すみれには、わからない。
男が社会で戦っていく意味も、約束した男たちが共に手を携えるのではなく単極的に反逆する意味も。
わからないことは、幸せなことなのかもしれない。
「君はそのままでいい」
「護られるだけのあたしじゃ、もう嫌なの」
単純に失いたくないと心が告げていた。
恋でなくてもいい。歯車の一つでいいから、すみれの役目を室井の中に存在させてほしかった。
実現不可能なものを欲しがっている自分はやっぱり子供なのだと思う。
「これ以上惨めにさせないで」
「恩田くん・・」
「こんな終わりもあるのね。必要とされるような、そんなあたしでありたかったわ」
高貴なこの人の傍に立つ未来の女はどんな顔をしているのだろう。
がさつで品のないあたしとはきっと正反対の女だ。
「室井さんが呆れてるの、わかる。子供扱いしたくなって当然だわ、色々話せなかったのもしょうがないわね」
「ちょっと待ってくれ」
「頼りにもならないし・・・、女ですらないもん・・っ」
「君を女性でないなんて思ったことは一度もない」
官僚ではなく一人の男として、あたしが女であったなら。
自分のことに夢中で何も分かってあげられなかった癖に矛盾した期待だけが空周りする。
気付いたばかりで勝手を知らぬ恋情は、だからこそ炎のように深淵で無情に揺らめいた。
「君のことは大切の思っていた」
「・・・いいのよもう」
震えるように漏らしたすみれの声音に、室井は意外そうに瞠目した。
円熟した薄い微笑にすみれは軽く眉を寄せる。
「君は知らないんだ・・」
「・・ぇ?」
「その・・・、楽しかったんだ。君といる間は余計なことを忘れて、軽口が叩けて、気が楽になっていた」
まるで懺悔するかのように、室井が頬を強張らせ視線を伏せながら白状する。
「君といる間は、自然でいられた」
「えぇ・・?」
ホームの端で室井の上擦った言い訳染みた声だけが通っていくのを、すみれは不思議な気持ちで見つめていた。
さきほどまでの凛とした高潔な雰囲気はなく、うろたえ強張る顔は良く知る室井の愛嬌ある一面だ。
それでも頬を緊張させ、必死に伝えようとしてくる。
不意に込み上げてきた強烈な愛おしさは、すみれの息さえ詰まらせた。
「救われていたのはこちらの方だ」
「沖田さんからチョコ貰ってた」
「ああ・・、だが」
「お似合いだったわ。あたしが入る隙間がないくらい」
「・・・、入りたいのか?」
「ちが・・っ」
上目遣いですみれが室井を睨み上げる。
遠い男も逸らさずに見つめてくる。
少なくとも室井がすみれをちゃんと見ていて、迷惑と思っていないことだけは伝わった。
今はそれで、充分だ。
穏やかなその視線にすみれもまたもう臍を曲げていないことを感じ取った室井も、大きく息を吐いてもう一度向き合う。
二人の視界が深く探り合うように、瞳の奥に潜む何かを求めるように、重なり合った。
「君が今夜何故ここにいるか、聞いてもいいか」
「知らなくていい、知らない方が幸せなことってあるもんよ」
「早合点はしたくない」
黙ったまま、すみれはその強い視線を堪能し、それから瞼を僅かに伏せた。
伝える言葉を持たないふくよかな口唇を噛み締める。
届かない灼ける疼きは言えない言葉を無防備に燻らせる。
もっと別な場所で、別のタイミングで聞けたなら、きっと凄く嬉しい言葉だったんだろう。
少なくとも、自分の気持ちに気付く前だったなら。
「君の隣で他愛のない話をしていた時間は私にとっては貴重だった。君は違うのか」
「・・・ずるい」
チョコの潜むバッグを隠すように後ろ手にすることですみれは室井の視界から遠ざけた。
また、一歩下がる。
そんなにあたしは強くない。
いつも護られてばかりの子供だった。
「さっき、期待と言った。君は私に何を期待して、何を諦めた?」
「あたしは所轄の人間だしね。湾岸署にいる時間が貴重で大切に決まっているでしょ」
「だからといって官僚が恋をしてはいけないと?」
「え?」
「――、これからの君との時間を望んでは駄目か」
「べっつに。そんなことしてくれなくてもいいもん。あたし、忘れるし」
忘れ方くらい、覚えているわ。
「悲しいことを言わないでくれ。突き放された気分になる」
「仲間・・・だと思っていた。こっちが身分違いだった。反省してる」
「・・ッ」
はっきりと告げたすみれの言葉に室井が息を呑んだのが分かった。
でももう傍になんかいられない。
体温さえ感じる距離にいたら、あたしはこの恋に押し潰される。
「お願い・・・最後まで嘘吐きなあたしでいさせて・・・」
それが、室井に対する最後の敬意だと思った。
そう思って俯いたすみれは室井の動きに気付かなかった。
ふと大気が揺らぎ視界が陰る。
明度が落ちた世界に、不審に思うままに視界を上げれば室井の顔が近付いて、掬いあげるように口唇に生温かい肉の感触が触れた。
「――!」
びくっとして息を止め、目を丸くしたすみれの頤を捕え、室井はすみれの口唇を深く奪う。
くいっと上向かせると、室井は顔を傾け逃がさぬように塞ぎ直した。
目の前に端正な輪郭の男の瞼が伏せられる。
うそ・・っ
小間切れに息を乱すすみれの花弁のような小さな口唇が痙攣したようにうち震える。
室井の薄い男の口唇がそれを押さえ込む様にみっちりと触れ合わせてきた。
神経質そうだった片手がすみれの肩に周り、男の力で引き寄せられる。
「・・ん・・っ・・、・・ッ」
震えるままに舌先で甘く輪郭を撫でられ、思わす喉が呻いた。
ふわりとすみれの黒髪が後ろに流れた。
外でこんなことをする人だとは思ってもいなかった。
甘やかで淫蕩な室井の口付けは巧みで成熟した大人の男のものだ。
ぴっちりと撫でつけられた髪に隙は見せず圧制的で廉直なままに、すみれの虚勢を恥辱のままに剥き出しにする。
思っていたよりずっと屈強な肉体で、無駄なく引き締まっている身体を身体で感じた。
そんな高潔な男に無防備に爛熟した身体を身動ぎすら許さないほどの腕に留められて。
まるで別人のような振る舞いに思考も追い付けず、ただ奪われる。
「ふぁ・・ッ、待っ、ろぃ、さッ、・・んん・・ッ」
息継ぎのタイミングで天を仰いだすみれの濡れた口唇を逃がさず追い、酸素すら奪う勢いで室井が深いキスを仕掛けてくる。
上擦る自分の声が辺りの空気を色めいたものに染め変えた。
言葉では伝えきれない室井の激情が伝わってくるようだった。
心臓が破裂しそうだ。
「・・ッ、・・、・・ふ・・・っ」
眉を切なげに潜め、その口唇の淫らな命令に従わされ、柔らかな肉を開かれる。
力が抜け室井の屈強な胸板に抱き寄せられるまま、すみれは上向いて凌辱する男の口唇を受けた。
注ぎ込まれる熱情がすみれにめまいのような酩酊感を起こし、初めて知る肉の感触も苛烈すぎて、もう良く分からない。
閉じた瞼が震え、キスに溺れるすみれを室井が伏せ目で視姦する。
長い黒髪が後ろに流れ、覚束なくなった足が平衡感覚を失った。
白いコートの裾が冬風に舞い、室井の黒のコートを縋るようにすみれの細い指先が掴む。
その仕草に気付き、室井がようやく少しだけ解放してくれた。
焦点がぼやけるほどの距離で視線を合わせ、室井の熱い息がすみれの唾液で濡れた赤らむ口唇にかかる。
「忘れられるものなら忘れてみろ」
「~~・・ッッ」
初めて室井が親愛なる知人ではなく一人の雄に見えた。
淫靡な反応を返した自分が室井の目に晒されていることさえ恥ずかしくなる。
されたことを思考が明確に理解し、すみれの頬が朱をはたいたように染め上がった。
その可愛い反応に室井が目を眇め、すみれの肩に回していた手に力を込める。
もう一度室井が屈んで口唇を寄せ、顔を斜めに傾けた。
「あ・・・っ、ぁ、あおしまくん・・・っ」
「――何故ここであいつの名を呼ぶ」
「ち・・っ、違うの!ぁ、あたし!頼まれていたものがあって・・・!」
キスの角度で固まったまま憮然とした表情に変わる室井の腕から抜け出し、すみれはバッグを探った。
行き場のなくなっていたチョコレート。
仄かな想いを詰め込んだ魅惑の塊。
無駄だと思っていたチョコは今、買った時よりも烈しく重たく紅蓮に燃え盛るような理由が付いて、献上されていく。
「――これ」
「・・・・」
室井が二つの小箱に目を落とし、恭しく受け取った。
「ありがとう」
「・・・受け取ってくれて・・・ありがと」
二つのチョコを大事そうに清潔そうな指先で一撫でしてから、室井は歓びを帯びた視線に変える。
キスをされたことで顔も上げられなくなったすみれが更に真っ赤な顔をして下を向いた。
まだ口唇にじんじんとした痺れが残っている。
「こっちが君のか。大事に食べる」
「よく、分かったね」
「青島のは毎年同じだ」
「そ、そう・・・。そのブランドが好みなの?」
「・・まあ、な」
「来年はそれにする」
「・・・これがいい。来年も、再来年も」
もっと大人の余裕のような悠然とした色気で男を魅了するような女でありたかったのに、まるで初恋に怯える少女みたいな反応しか出来ない。
すみれは思考も真っ白にただ俯いた。
「これを君の返事だと思っていいのか」
「へへ返事って・・・っっ、あたし何も聞かれてない・・・っ」
「・・・言わなきゃ駄目か」
柔らかく眇めるだけの室井は口を開かずただ瞳を深めてくる。
困ったようにおろおろと、すみれは視線を辺りに彷徨わせた。
夢の中にいるような浮遊感で思考が散漫としていた。
嘘みたいな展開が続いていて醒めてくれない。これは現実?
どうしていいか分からずに、結局、すみれは最後に縋るように室井を黙って見上げた。
すみれの長い睫毛に電灯が光の粒を散りばめ豊麗に光る。
室井の玲瓏な瞳が感情を抑えた耽美な色彩ですみれを映し、眉間を寄せる。
「そんな顔をするな。私の理性にも限度がある」
今度こそ真っ赤になったと思った。
冬の野外でありながらいつしか身体は芯まで熱い。
冷たい空気が火照った頬だけを冷やし、コートの裾を軽やかに巻き上げる。
電車が通り過ぎたばかりのホームは閑散として、人も消えていた。
名前を呼ぶその声に、想いが込められる。
「・・・・・好きだ」
一世一代の告白は厳かで、ずしりと重さを伝えるたった三文字に、年上の貫禄と真摯な恋情が乗せられ低音で響く。
耳から犯され蕩けていき、顔が益々赤くなってくるのがよく分かって、すみれは思わず顔をくしゃくしゃにして両手で口元を覆った。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。嬉しい。
「君とだけは恋に堕ちては駄目だと抑えてきた。でももう、持ちそうにない」
「・・っ」
「君と、恋人になりたい」
弾けそうな想いと並行し、室井を慕うからこそ飛び込んではいけない敷居が一層強くすみれを硬直させる。
「足・・・引っ張りたくないよ」
「君たちは揃って似たようなことを言う」
「君たち?」
「青島から幾つか君の行動パターンを教えて貰った。そして此処に辿り着いた。当たっているのが腹が立つ」
室井のなめらかで艶のある声はすみれに酩酊感すら起こしてくる。
「・・でっ、でも・・っ」
「昔一人の愛した女を失ったことがある。その時はもう二度と恋なんかするもんかと思った。だから」
「それは」
「失うのは、たくさんだ」
自分の心に潜む醜悪な願いと同じことを口にする男に、すみれは、ああ、と目を堅く閉じる。
この上ない愛おしさが湧き上がってきた。
立場が違っても思うことは同じなのかもしれない。
隙間を埋めることはあたしでも出来るかもしれない。
圧倒的な強さに憧れた。
遠くに住んでて時折降りてくる雲の上の人だった。
優しい頬笑みを見ているだけで幸せだった。
無残に散ることしか出来なかった自分の恋も今過去に変わる。
「正式に付き合って欲しい。君を自分のものだと確認したい」
「・・・他に誰のものだと思うのよ?」
憎まれ口は情けなくも震えた。
その顔を見て、室井がまた老成した笑みを目尻に添える。
「そんな顔をするな。君は男心が分かっていない」
「?」
「今そんな顔されたら無理矢理にでも奪っていくぞ」
「ッ」
「それともそれが好みか」
そう言って見下ろす瞳には今まで見たことのない色が確かにあった。
危機意識を敏感に察知し利に敏いここぞという判断は、官僚然として政治社会で渡り歩いていくだけの器量のようでもあった。
逃がしては貰えないのだと本能が理解する。
「ほんとだ・・・青島くんの言ってた通りだわ」
とっても意地悪で、強引だ。
「何がだ?」
「んーん。じゃ、仲直り、しよ」
細い顎を上げ、目の前の男のネクタイを引っ張ると、すみれはその薄い口唇を掠め取る。
驚いたように僅かに見開かれる黒曜石の瞳。
次の瞬間、加減のない力で引き寄せられた。
背が反る程抱き締められ、肩に顔を埋めた室井が耳元に堪え入るような吐息で頬を押し付けた。
「ちゃんと言葉で言え」
縋るように抱き締める男の匂いを嗅ぎながら、すみれはその仕立ての良いコートの背中に両手を回す。
小さなチョコレートが始まりだった。
女の子は誰でもこの魅惑の宝石に夢を見た。
そんな小さな塊に一年に一度だけ心の全てを委ねて願う恋の魔法。
濃くて、甘くて、少しだけ苦い。
喘ぐように上向いたすみれの口からふふと甘い笑みが漏れ、その視界を桃色の破片が舞った。
「狂い咲き、か・・・」
二人で寄り添ったまま何となく飛んでいく桃色の欠片を視線で見送る。
「青島に連絡入れてやれ。ものすごく心配していた」
そうかもしれない。
世話になっておきながら連絡も断ったままだ。
誰よりも先に報告したいことがいっぱいある。
「うん」
***
正面玄関を出た青島は夜空を仰いだ。
突き刺す様な大気の冷たさは身の裡から凍えさせてくる。
コートのポケットに悴んだ両手を突っ込んだ。
「・・はぁ・・」
ろくに星も見えない夜だ。
白い溜息はふんわりと浮かんで夜の闇に震えて散った。
happy end

踊る20周年おめでとうー!!今でも大好きですvvv
第二弾は室すみでした。
室井さんがすみれさんと恋に堕ちる馴れ初めとして青島くんとは違う理屈を描きたかったです。
室井さんを仕事として支えるという視点では青島くんに敵う筈もなく、室井さんの野心を焚き付けるものも青島くんだけに見える。
そこの繋がりが眩し過ぎてす
みれさんが室井さんの支えになるという角度ではどうしても無理がありますよね。
仕事とはかけ離れた所に癒しや楽しさを感じていたという線が室すみ王道なのかなと。男が女に求めるものを安らぎにしたら、それは家庭であり、恋の始まりか
もしれない。
室青派のひとには申し訳なかったですが、なんか可愛いって思って頂ければ幸いです。
20170315