ショートショート~あ
の日のキスを10題
5000HIT記念にキスキスキス!「あの日のキスを」/「きみが泣くから」から一つずつ組み合わせて5つの小話を。5題連作。
終了ジャンルでFINAL後に立ちあげたサイトでしたのにまさか5000行くとは!感謝を込めて。五作完成。2016/11/3~2016/11/12
01.
気紛れなキス(
またひとりで、君が泣く)

スクランブル交差点の向こう側で君が泣いているのを見た。
雨の中、乱反射するヘッドライトに照らされて、ボロ雑巾宛らに冬の雨に打たれた身体を晒し、細く長い手足が銀色に縁取られる。
びしょ濡れの身体から雫が飛び散っているのに、何故かそれは泣いていると分かった。
ぽろぽろと零れるものはなく、その強い瞳に零れそうなほどの水滴を溜め、一点を強く見据えている。
赤信号で止まっている車窓からこちらが凝視しているのも気付かない。
その瞳にまたカ―ライトが射し込んで宝石のように煌めいた。
こんな風に泣くなんて、少し意外だった。
いつも太陽のような笑顔を振り撒き、時に嵐のような強靭さで私を射抜き、時に静謐のような凪ぎを湛えて、全てを癒す。
明るさと陽気さが与える、陽だまりの様な顔しか見たことがない。
そんな男だと思っていた。
信号が変わり、車が発進する。
黒々とした影が蠢く中に、流れに逆らい君は立ち竦んでいた。
思わず目で追って、後ろ髪を引かれる思いで小さくなる姿を瞼に焼き付ける。
何で泣いているのだろう。
何をすれば彼があんな風に泣くのだろう。
それは見る者の心を締め付け、氷のように凍てつかせる美しい雫だった。
「止めてくれ」
ウィンカーを出し車が脇に停車する。
ここで待機するよう言いつけ、外へ出た。
「30分で戻る。戻らなければケータイを鳴らせ」
バタンと扉を閉めると急速に北風が吹きつけ、気温差に首を竦める。鷲掴んでいたコートに袖を通し、蝙蝠傘を差した。
夕暮れの街角は人が疎らで銀杏並木を金色に染め上げた葉が今は地面に敷き詰められている。
その上を冬の冷たい雨が打ち付ける。
白く吐く息が藍色の空へと溶けた。
元居た場所にはもう青島の姿はなかった。
見間違いか幻惑のような晦渋さが視界を覆う。
辺りをぐるりと見渡すと、地下鉄の入口に向かうモスグリーンのコートが見えた。
ハッとして、そちらへ足を向け走り出す。
ただ、あの涙が妙に胸をざわめかせる。
室井が1mの距離まで近付くと銀杏の樹の下でそれを見上げている青島の姿があった。
今日は非番だったのか、スキニ―ジーンズを履いている長い足が上まで細く濡れそぼり、変色している。
白色電灯の下でまだ僅かに枝に残る黄色の葉が雨を射してキラキラと揺れる。
合わせて青島の細く淡い色の髪の毛が風に舞って幾つも雫を落とした。
何と言って声を掛けたら良いのか分からないでいると、不意に青島が俯いた。
ごしごしと目元を袖口で拭っている。
見えないけれど、まだ、あんな風に泣いているのだと思った。
「それからどうするつもりだ」
「・・っ!」
驚きに見開かれた瞳で青島が勢いよく振り返り、室井を見つけて更に口も開いた。
「なんだそのお化けでも見たような顔は」
「だだだって、室井さん?ほんとに室井さん・・・?」
「他に誰に見える」
「・・・なんでこんなとこにいるんだ・・・」
「東京に住んでいる人間が東京に出没してどう疑問になるか言ってみろ」
「・・・だって・・・」
パァーンと響くクラクションに一瞬視線が外れる。
「ここで何している」
「あんたこそ何してんですか」
「車から、君が見えたから」
問われ、理由ともならないような理由を口にした。
それしか言葉が思い付かなかった。
何をしに来たのか。それさえも明確な理由を持たず、用もないのに呼びとめる言い訳も持たず
ただ、胸の奥に宿る衝動に従ってしまった自分自身へ取り留め無さに、それは気紛れとしか言いようがなかった。
不確かな感情に、室井の漆黒の瞳には咎められているかのような怯みが浮かんだ。
合わせたように青島の蜂蜜色に濡れる瞳も僅かな困惑を乗せる。
ただ、その溢れそうな水滴を湛える瞳が耐えられなくて。
居たたまれず青島の二の腕を引き、路地裏へと連れ込む。
「ちょ、ちょっと!室井さんっ?」
黙って奥へ押し込み背中で表通りから姿を隠してやると、意図を察した青島が切なげに笑ってみせた。
それにも返答せず、室井はポケットからハンカチを取り出し差し出した。
軽く傘も傾ける。
不思議そうに室井の手と顔を交互に見る青島に、室井はいい加減照れくさくなり闇色の瞳を閉じる。
「洗ってある」
「・・・んな心配してないっつーの」
濡れた髪を鬱陶しそうに目元まで垂らした奥で瞳が細められ、ぶっきらぼうに青島がハンカチを受け取る。
「ああぁあぁぁ~もぉぉぉ・・っ!」
両手で天然のシャワーを浴びるように髪を掻き上げると、青島は天に向かって吠えた。
仰け反る喉元と、二の腕が天に向き、仕草に伴って光りの粒が舞う大気がライトを受ける。
まるで彫刻のように美しく画になる男の輪郭を、室井はただその目に焼き付けた。
細く綺麗なボディラインがシャツの上からその肉付きを想像させる。
水飛沫に打たれ、色艶を増した肌が熟れたように光っていた。
また溢れだす涙を両手で掴んだハンカチでぐちゃぐちゃに包み、青島が俯いて目元を押さえる。
「かっこわりぃぃ~・・・・っっ」
「・・・・」
「・・・っ、・・う、・・こんな、とこっ・・・見られたくないっつーの・・・」
俯いたことでぽたぽたと流れ落ちる雫が青島の顎のラインを辿り、緩く閉められただけの鎖骨へと沁み込んでいく。
「・・なんとか言って下さいよぅ」
「・・・・」
「もぉぉぉ・・・、・・ふぇっ、・・・ぅ、んぅぅ・・・」
なんもなしかよ、と悪態を継ぎながら堪え切れなくなったものをハンカチで必死に押さえる青島が、初めて4つ年下の人間に見えた。
歯痒さに押し潰されて、心の葛藤と現実の厳しさに耐えるしかない内なる抵抗の姿はそれだけで魂を凛とさせる。
きっとそんな風に、今まで表だけを見せていた彼の裏側にはもっと秘密が隠されているのだと漠然と理解した。
室井が居なかったら、彼はこの後一人で泣くのだろう。
誰にも頼らずに。
そう思ったら、なんか悔しくなった。
あれ程までに強烈に眩んだ世界を室井に広げて見せ、虜にするが如く鮮やかに奥底まで火傷しそうな残渣を残しておきながら
自分はこんなにもあっさりと曖昧な輪郭だけを見せて波のように消えてしまう。
興味無いと言わんばかりにこちらが焦れるのを待ち
室井にだけじっとりと濡れた感触で震わせた癖に、そっちは純潔なままに豊かな情愛と陽だまりのような信頼で救済してみせる。
なんか、狡い、と思った。
思ったままに室井の腕が向かっていて、青島の後頭部をぐいと引き寄せる。
自分の右肩に押し付けさせた。
「・・ぁ・・っ、・・なんっ・・ですか、もぉ、同情っすか・・・っ」
「なんでもいい・・・この際」
「なんだよそれ・・・っ、・・ふ、・・ぅく・・っ」
青島の思った以上に柔らかい髪が室井の指先を擽り、小間切れた息遣いが熱く首筋をそよぐ。
ぐっしょりと濡れた服が伝わって、男なのにその骨格を妙に頼りなく感じさせた。
強張った身体は冬の大気と同じくらい冷え切っていた。
どのくらい、あの場所に立ち尽くしていたのか。
「何、泣いてるんだ」
「・・・泣いて、ません」
青島ははただ肩を震わせた。
鼻をすすりながら言い返してくる聞かん気に、室井の眼差しが和らいだ。
どうして泣いてるのか。
その理由を問いただしてもきっと口を割ったりはしないのだろう。
「助けて欲しかったら素直に言え」
「・・・っぁ、んぅ、・・ざけんな、・・・っ・・」
「意地っ張りだな」
「・・・意地、じゃなくて・・・プライドの、モンダイです」
「だから、泣くな。三十路越えの刑事が」
「なっ、・・・泣いてない・・・、もん・・・」
「・・・・」
「・・・っ、・・放っておきゃあ、いいのに・・・、なんで・・っ」
青島の声が外面のものから素面のものへと変わってゆく。
目の前には雨が小さな粒となって白く舞っていた。
「さぁ・・・ただ・・・、そうだな、今夜このまま手を放したら、きっと君は――またひとりで泣くんだと思う」
「~~っっ・・・・」
堪え切れなくなったのか、青島の両手が室井の背中に躊躇いがちに回り、裾をきゅっと握ったのが分かった。
二人の吐く白い息が混ざり、こんな夜に巡り合った奇跡に、ただ言葉を閉ざした。
夜の街が雨の音と遠くを走る走行音に取り囲まれ、ネオンに照らされる。
「そやって・・・、ぅくっ・・、女、口説くん、です、か」
「馬鹿を言う」
「馬鹿、言いました・・・、だから、室井さんも馬鹿言わないで・・・。俺、見なかった、ことに・・・」
「・・・・」
「今夜、は・・・捨ててって・・・ください・・・」
「嫌だ」
室井はその場を動かなかった。
青島もまた、室井の肩に額を押し付け、身を寄せたままだった。
ぽろぽろと涙が零れ、それに合わせて堪え切れない嗚咽を、それでも声を殺して息を殺す。
「泣くな、青島」
堪らず、そっと片手で抱きしめた。
これからの事なんて考えられない。
追い掛けてどう慰めるかも意図があったわけではない。
プライベートまで関わることで、自分のキャリアに何らかの影を落とす可能性を常に考える立場も、今は脳裏を過ぎらなかった。
青島の柔らかい髪の毛をくしゃりと握る。
今、青島が室井の胸で泣いているのは事実だ。
今この瞬間、彼を支えているのは室井で、今この瞬間だけは自分のものだ。
それだけのことが、室井を沁み入らせた。
支えて貰うばかりだった自分が青島の中で肯定されている気がする。
公の舞台で勝気な顔だけを見せられるのも悪くないが、今はずっと身近で同志だと思えた。
何故雨に打たれた彼に心が痛んだのか、その理由がようやく分かった気がした。
今度は逃がさない。
強請るように名を呼び急かすと、小さな声で青島が、もうちょっとだけ、と囁いた。
「――」
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・なんとか・・・言えよ」
黙ってしまった室井を訝しげに問い、青島が促すように室井のスーツの裾をきゅっと引っ張った。
まだ額を室井の肩口に押さえ付けたままに息を乱す。
「・・・室井、さん・・・?」
「想像以上の破壊力だな」
「ぇ・・?」
意図が分からず、そっと顔を上げ、離れようとした青島の、目の前のふくよかな口唇を軽く塞いだ。
自然に身体が動いてた。
もうちょっとだけと、初めて青島が室井自身を求めたその威力は絶大で、室井の思考を停止させた。
涙も熱も全部が愛おしい。
彼を占めるのは、喜びも悲しみも、全部自分でありたい。
善も悪も、全てを独占したいのだと、はっきりと自覚した。
それはまるで、その先の運命さえ共有するかのように。
気紛れで追い掛け、気紛れで重ねた口唇が、止まらない。
重なる熱がもっと欲しくて、室井はふっくらとした口唇を舐め、甘噛みする。
目の前で驚きに見開かれる瞳から、名残り涙が雨と共に落ちていくのが、なんて美しく映るのか。
やがてそれが震えるように閉じられる。
片手で後頭部を上向かせ、口唇を擦り合わせる角度を変えた。
舌でその輪郭を辿り、薄っすらと開いたままの割れ目から覗く白い歯を焦らすように愛撫する。
胸に宿る締め付けられる痛みに理由など見出せないまま、吐息まで奪って深く重ねた。
運命共同体のように時間と心を共有してきたのに、今更一人、もう、逃げ出すなんて許せなくなった。許したくなかった。
誰に向けかも分からない涙など根こそぎ奪い取ってしまいたい。
弱っている青島が不謹慎にも愛しく思え、同時に自分以外のことで涙を零す彼にやっぱり苛立ちが募る。
室井の全てを侵略しておきながら、肝心なことは隠す彼が腹立だしい。
ぐいと引き寄せ、傘を放り出す。
後頭部と腰を囲み、濡れそぼった身体を腕の中に閉じ込めた。
もうとっくに青島は自分のものであるという傲慢さに冒されていて、彼を他人のものになどする気もなかったことを悟る。
それを彼にも分からせたい。
キャリアの重さに絶望に、彼を連れていく。
甘い雫を啜るように弾力を愉しんだ。
重なり合う熱が、これ以上ないくらい自然な気がした。
青島の口から溢れる熱い吐息が室井の肌を擽り、その先の官能さえ容易に想起させた。
雨に打たれていても、躯はすごく熱っていた。
ゆっくりと重ねていた口唇を解放する。
熱い唾液が雨の味に変わる。
離れた熱が冬の大気に晒され、より物足りなさを残した。
「・・・、な・・に、何の・・・つもり・・・?」
「さぁな」
「さぁなって」
「私以外のことで泣くな。間違えてんじゃない」
「・・・な・・っなっ、な・・・っ?」
「――」
はて、これは一体どういう衝動だったのか。
目の前でうろたえている青島を見て、甚く満たされたものがあった。
驚かすつもりはないが驚かしてしまったことで、あんなに美しかった涙などすっかり引っ込んでしまっている。
それだけが少し残念に思えた。
20161103
02.
二回目のキス(僕の代わりに 、君が泣く)

本庁で君が笑っているのを見た。
深いネイビーのダークスーツに身を包み、らしくなくネクタイをきっちり締めあげている。
居心地が悪いのか結び目を頻りに気にしながら眉を潜め、手渡されている用紙を難しい顔をして覗き込んでいた。
手前では統括官らしき人物が何やら声高に説明をしている。
何でここにいるんだろうと訝しげに目で追っていると、その視線に気付いた青島がふっと顔を上げた。
「!」
途端にぐるんと顔を背けられる。
「・・・・」
室井の眉間が深く寄せられる。
用を言いつけていた中野が資料を抱えて戻ってきた。
「お待たせしました。やっと見つかりましたよ。・・・結構紛れちゃうもんですねぇ」
「まだ資料を埋もれさせているのか」
「みたいです」
「――あれは?」
視線を向けながら青島のいる群衆を指摘すると、中野も視線を向け領得したように頷いた。
「ああ、何か・・・所轄に応援頼んだらしいです」
「所轄に応援?」
「捜査じゃないですよ。要は権威主義でない警察機構の友好アピールの一貫らしいです」
「具体的には」
「さあ・・・詳しくは聞いてはいませんが、地区感謝祭みたいのを所轄単位ではなく本庁主導で、大規模なの、やるみたいです。要はお祭りですかねぇ」
「資本主義経済の下では格差社会と独占を生むことも分かっていない連中がか」
「階級主義に対する外部の鎮圧を狙ってるんじゃないですか。・・・・あ、青島さんだ」
中野が青島の存在に気付き目を細める。
合わせるように室井もまた視線を向けた。
この集団が何をするかは良く分からなかったが、イベント好きな青島には適役だと押し付けられたんだろうと察する。
ぼうっと二人で眺めていると、また青島がこちらの視線に気付いた。
目が合った、と思った瞬間に、思いっきり顔ごと逸らされる。
――今、完全に拒絶された。
「あれ、今無視されました?」
「・・・・」
「どうしたんだろう・・・、もしかしてなんか喧嘩してます?」
中野が不思議そうにぼやいて尋ねてくるのを、室井も複雑な気持ちで半眼で見返した。
*****
タイミングというのは幸運であり悪運である。
室井が退庁しようとした時、隣のエレベーターから同時に青島が降りてきた。
いつものコートが視界を横切って、するりと遠ざかる。
綺麗なフェイスラインですらっとした体型の見た目も良い男は、集団の中でも一際目を引いた。
他所轄から選抜された者同士、笑顔を浮かべ共に談笑している。
エントランスホールを横切ると、先に地下鉄方面の正門へと向かい、待ち伏せた。
時折笑い合い楽しむ様子がとっぷりと陽が暮れた中、風伝いにここまで届いた。
いつもの笑顔だ。
どこかホッとしつつ、疎外感を覚える。
瞳にも映らない距離感は室井に泥みの喪失感を連鎖する。
あんな風に自分は友情を育んだことがない。
常に伸るか反るかの舞台だった。
自分で選択した道だから羨ましいとも妬ましいとも思わないが、青島の存在する世界が自分とはまったく異なるということだけは理解する。
やがて群れは掃け、青島一人がこちらへ向かってきた。
ショルダーバッグを肩から引っ提げ、てくてくとステップを踏むリズムは軽く、合わせてコートと髪の毛がふわふわ踊る。
手前まで来た時、室井は木の影からスッと身を起こした。
「ひぇ・・っ、わ、なんで・・ッ」
「君は私を見ると驚くことしか出来ないのか」
「あ、あぁあ~、いやぁ、・・・お疲れ様でぇ~~~す・・・」
こびり付いたような笑みを乗せて青島が室井を素通りしようとする。
擦れ違いざまのその二の腕を掴んだ。
「何故逃げる」
「・・逃げて――ません」
至近距離で交わる視線はそれだけで強い熱を感じさせた。
だが青島はうっと詰まった顔で顎を逸らすと、またそっぽを向いてしまった。
「おい、こら。さっきも無視しただろう。やりにくい」
「放してくださいよ・・・」
「何故目を合わせない」
「・・・べっつに・・・」
不貞腐れたままに、青島が明後日の方角に視線を投げたまま、足元の石ころを爪先で弄ぶ。
室井を見ない瞳が苛立たしくもあり、悲しくもある。
元々好かれる体質ではない人間だから、それを青島にやられると辛い。
何故だろう、愛想など不要なものだったのに、青島に対しては孤独であるということと拒絶が同義になる。
「放してくださいって・・」
「放せば逃げるだろ」
「・・んん~、もぅ、・・っ」
「理由を言え」
「~~っっ、だって・・・あんた・・・ッ」
問答無用で畳み掛けていると、青島がついに顔を崩した。
今度は嫌がるように手を振りほどこうとする。何やら歯切れの悪い戸惑いを乗せている瞳は尚室井を映さない。
「はっきり言え」
「だからッ、・・・何で分かんないんだよ、あんた、この間、俺に何したよ・・・・!?」
「・・・・」
「お、俺に、あんなことッ、・・・しといて、どういうつもりなのか、とか・・・」
困ったように目線を泳がせ、拳を口元に宛てがい、青島がうろたえる。
どうしようもなく狼狽していて、そのくせ強気な瞳が拗ねたように揺れていて、丁度通りかかったヘッドライトをあの夜のように反射した。
その頬が少し桜色に染まっているのを見て、室井は絶句した。
「なんだそれは・・・」
なんって可愛い反応を見せるんだ。
男なのに初心な恥じらいが甘酸っぱく、虚を突かれる。
まさかそんな理由だとは思わず、呆れたように室井は肩の力を抜いた。
思わず零すように呟くと、次第に染め上がる頬を膨らませ、青島が上目使いに室井を窺ってきた。
くるりと身体を回転させ、室井は自分の背後にあった木の幹に、今度は青島の背中をトンと押し付ける。
「あんなことって――これか」
幹に肘を突き、顔を傾け、口唇が触れんばかりの距離で寸止める。
青島が息を殺して硬直した。
帰宅ラッシュの時間帯とはいえ、ビル街と公園が続くこのオフィス街は驚くほど人通りがない。
鬱蒼と茂った常葉樹が、心の隙間を細波立てるようにざわざわと揺れた。
「は・・・、は、なしてください、よっ」
威嚇してくる強がる瞳が闇に映え、野生の獣のような純正さを湛える。
瞳に映らないことが苦しかった。なのに、瞳に映らなくてもこんなにも青島の中は室井でいっぱいで、今度は身に余る熱に息苦しくなる。
あの夜の残り香は、外からは見えないところで濃厚に漂っている。
「厭だったか」
薄っすらと口唇を寄せたその距離で、室井が瞼を伏せて小さく問いかけた。
風に揺れる青島の髪が室井の頬を掠め、湿った息遣いが室井の口唇を誘った。
「・・ぁ・・、ィ、厭・・とか、じゃなく・・・、」
キス如きでうろたえるような初心な面持ちをしていない室井が態度を崩さずにいると
今度は切なげに呻く声が弱弱しく、青島が目を伏せる。
「か、顔見るのも恥ずかしいに決まってんでしょ、・・・あんなとこ、見られてっし・・・どうしてくれんだよ・・・・」
「意外に可愛いこと言うんだな」
卑しいほど濁る欲望が満ち、無防備な青島に沸々と歯向かうそれは、苛立ちに近かった。
キャリアの絶望に彼を連れていくことを願う道連れは、だが二人で世間も社会も置き去りにしたような身勝手な情愛の欲望に堕ちることとは違うつもりだった。
なのに青島にこんな反応を見せられたら、底の底まで連れ去り閉じ込めてしまいたくなる。
可愛すぎて、どうしようもないほど愛しくて、何処に辿り着けば良いのか決められないまま困惑の中に引き摺りこんでしまいたくなる。
「馬鹿にしてんの?」
熱情は伝染するのだろうか。
逃げ場を断たれたまま、必死に顔を背けてうろたえていた青島が、冷たい夜風に冴えるように、不意に眼光を深めた。
眉間を渋らせ、きつく睨み上げてくる眼差しは、爛れた欲望を断ち切り、純潔にも似た高揚感だけを高め、それをいっそ淫らな顔に変えたい男の劣情を加速す
る。
泣きたいような苦しさに見舞われ、室井は月灯りに浮かぶ青島を目に焼き付けた。
ただ静かで。
髪に散りばめられた光の音さえ聞こえそうで。
輪郭を辿るには強くない光の中で、中途半端に二人の距離が薄闇に沈む。
禁忌を犯し、本分を忘れてしまうわけにはいかない己の立場を充分に承知した上で、室井はただ燻る苛立ちに耐えた。
「いや――、」
口唇が触れそうな距離のままに室井は妖しく囁いた。
「また気紛れ・・・?いい加減に」
「――君が笑っているなら、それでいい」
「・・・っっ」
耳元に届くくらいの大きさで、そっと言う。
貪欲な渇望も、青島の笑顔の前ではどうでも良くなる。
ある意味では崩れ落ちるほどの愉悦を与えながら、青島の瞳を通して、室井は輪郭を造り、息吹を得る。
その先に何の答えが見えなくても。
室井が小さく呟いた言葉に、青島は目を見開き言葉を失っていた。
口端を滲ませるだけの苦笑を覗かせ、室井は瞼を伏せる。
今は室井を映すその闇空に染まる蒼の瞳を、一人にすれば海を湛え、今度はあの夜のキスに泣くんだろうか。
「ハンカチは、いつでもいい」
この苛立ちは、あの日感じた物とはもう違う。
室井の中の問題だ。
「だから、今夜、逢いたくなかったのに・・・」
ややして、青島が目尻を染めて俯いた。
漏らした吐息の淡さで声が掠れ、二人の間に落とされた。
俯く頬が真っ赤に熟れて、なんとも言えない表情をしていた。
なんて顔、してんだ。
そっと、風に乱れた青島の髪を梳いた。
「このまま君を連れ去ってしまえたらな」
「・・・・・・・狡い、です」
「かもしれないが、それが賢明だ」
「どういうつもりだったか――聞いてもいいですか」
「それも、聞かない方がいい」
気紛れなキスで見失った距離感が、これが何のための哀しみなのかを曖昧にしていく。
今になってこんな風に行き場を失った欠片に気付くとは、予想もしていなかった。
緩く首を振り、青島が両手で室井の胸板を押す。
「ちゃんと・・・言って、くださいよ」
「言ったって始まらないものもある」
「聞くだけ。聞いてやりますから。・・・・ちゃんと」
「――・・・」
前髪が乱れ、額に掛かる奥から苛烈な焔を乗せた瞳が瞬いていた。
青島の瞳に余裕なく勇む室井の顔が映り込んでいる。
それをじっと見つめた。
「君に。・・・ならば私が望むことは、ひとつだけだ。――この先も、そこにいてくれ。それだけでいい。そこで、私だけを見ていて欲しい」
「――」
「他には何も、望まない」
室井の純粋な恐怖はいつだって消失と同義だ。大切なものはいつもこの手から擦り抜ける。
どんなに頑張っても、頑張るほどに失う過去は素質の無さを告げる警告か。
結局行き場を失ったまま、決められたレールを走るしかないのだ。
「いる、だけで・・・」
「君が私の支えだ」
「支えって・・・何の。これから幾らでも他に――・・・、奥さんが出来ればまた」
「官僚の結婚は政略結婚だ。家と家が結びつく。生活に・・・安らぎは求めない」
「・・・・」
「この道を進む者は、温かな家庭なんて幻想は誰も見ない」
鬱蒼と茂った常葉樹が、また心の隙間を細波立てるようにざわざわと揺れていた。
荘厳に告げた未来図は、言葉を奪い沈黙に委ねられた。
静謐なまでの視線の交差の中で、息衝く想いは確かに熱を孕み、目の前の男の肩が僅かに竦んだ。
「んだよ、何でもかんでも一人で決めやがって」
青島の目が苦しそうに歪んで揺れている。
その瞳に、勘違いしそうになる。
熱っぽく見つめると、青島が泣きそうな熱い瞳で見返してきた。
お互いを見つめる絡まる視線に、心臓が痛いくらい鳴っていた。
「おまえに、・・・会えてよかった」
「・・っ」
「おまえが見つけてくれたから、私はこの先を歩いていける」
「・・んだよそれ・・・っ、人はっ、支え合って生きるってもっと傍で生きることで・・・!あんたを癒したり励ましたりする、そんなひと、は・・・ッ!?」
「――そんな相手、ひとりいればたくさんだ」
「ッ」
青島が見てくれればそれだけで生きていけると思った。
口付けて、刻みつけて、だけど囲わない男を、卑劣だと罵られても、その怒りさえ、今は糧になる。
青島さえ、見ていてくれるなら。
「私を、軽蔑するか」
「――俺・・・は」
青島が小さく震え戦慄いた。
「嫌いなら、もっと楽だったよ」
ざわりと木立が凪ぎに鳴いた。
「何、す――・・・」
信号が変わり、大通りに車が一台もなくなった消音を合図に、室井は身を寄せ遠慮なく口唇を重ねた。
二度目のキスは、甘く滴る味がする。
言い掛けた青島の言葉が言い終わる前に室井の口唇に全部吸い込まれていく。
ん・・っと甘く喉を鳴らす声がして、ゾクリと肌が栗立った。
青島が掴んでいた室井の肩の手を解き、指を絡めて握り返す。
「ん・・っ、ま・・っ・・、・・・んぅ・・・っ」
理由なんて、どうでもいい、今、青島が腕の中にいる。
至近距離に立つことで鼻孔を擽る彼の匂いと微かな煙草の匂いに
そして、直向きな情熱を湛え、純潔だけを乗せる透明な瞳に
室井は躯の裡から痺れる程の滾りを覚えた。
重なる口唇から熱が伝わり、想いの丈を注ぎ込む。
言えない想いを熱に込めて舌を押し込んだ。
「・・ふ・・ぅ、・・・っ」
青島がきつく目を閉じ、室井の手に縋る様子に、更に劣情を煽られた。
今この瞬間だけを。
一人で泣く彼が、悔しかった。それだけだった。
それだけだったのに、気紛れでしたあのキスが、室井の中の浅ましい渇望を掬いあげてしまって、引き返せなくさせてくる。
何もかも告げるわけにもいかず、その頼りない瞳に不意に込み上げてきた物に室井は呑み込まれそうになった。
理性で押さえ込めば、執着は痛みを伴い突き刺さる。
他の誰にも心奪われて欲しくなかった。
でもそれが許されないから。
茂みに隠された空間で、今は二人だけで、この気持ちもまたここだけで、きっと密に燃えて消える。
濡れた口唇で頬を滑り、その赤く染まった耳に室井は軽く口唇を押し当てた。
熱った顔で、蕩けるような瞳に室井だけを映し、微かに濡れている。
「・・むろっ・・・さん・・ッ」
「こんな可愛い顔、私以外の誰にも見せたくない・・・」
「――俺ッ」
唾液で妖しく光る青島の口唇を、室井はそっと長い指を乗せて口止める。
「・・っ、・・ぅ・・っ、言わせても、くんない・・・っ」
ポロリと青島の目から雫が零れ落ちた。
それを敬虔な想いで室井は見つめていた。
自分の変わりに自分の未来に涙を零してくれる人がいる。それは人生の於いて最上級の褒美であると思った。
紛れもなく、青島が今度は室井のために零した涙は何より美しかった。
気紛れなキスで始まった時間が、気紛れな恋を連れてくる。
20161105
03. 下手くそなキス( 笑顔の裏で、君が泣く)

初めて入る殺伐とした部屋は君の匂いがした。
抗うことも拒絶することも多分許してくれた。
強要したふりで、私に選ばせたのだと思う。
二人で酒呑むくらいいいでしょと一方的な誘い文句を怯えた瞳で告げる青島に、断る術を全て奪取され、心の歪みを見透かされた気になって
自棄ではないが許容でもなく、案内を受けた。
ワンルームのアパートは、それこそベッドもキッチンもバストイレまで一繋がりで目のやり場に困る。
これならば官舎を希望した方が良かったかとも思うが、自分のテリトリーに青島を誘うことは、それこそ問題だ。
「・・・、聞かないんだな、何も」
「会話くらい、選びますよ俺だって」
ふっと零れた苦笑の溜息が室井のグラスに落とされる。
ビールから始まった酒は、今は室井が持ち込んだ日本酒へと変わっていた。
後ろのベッドを背もたれに、二人並び、ガラスのグラスを傾ける。
向かい合って座らなかったのも、正面から向き合わせない青島なりの気遣いだったのかもしれない。
「君は呑み方が意外に綺麗だな。酒を覚えたのはいつだ」
「高校んとき。あとは営業で」
「日本の法律を知らないのか」
「護ってました?」
「――」
気紛れ色をした誘い文句に、話すことは無くとも関係を断ち切りたくないのは室井の方で
室井は自嘲気味に口元を歪める。
徒然に話す青島の話はどれも優しく他愛ないもので、話し方のせいだろうか、心ざわめかすことなく興味を引きたてられ
そして核心に触れない不透明な言葉遊びに追い詰められたのも、室井だった。
その分、曖昧にする核心がチリチリと空気を焼いた。
直ぐ隣に青島がいるこの閉鎖空間が、強烈な陶酔感を室井に呼び起こす。
「初めてでしたね、割と短くない付き合いなのにこうやって二人きりで呑むの」
「そうだったな・・・」
「これから・・・は、こうして呑める、んですかね・・・?」
「・・・時間があればな」
流し眼で青島を気怠く見遣った。
綺麗な顎のライン、酒でふっくらと潤っている口唇、伏せられた長く黒い睫毛。
俯く瞳に映り込む透明の液体の幻は、遥かな大地を見ているようで遠く儚く、男の情欲を誘う。
艶冶さを滴らせる色男というのはこういうのを言うのかもしれない。
そんな目で青島を見たことは無かったのに、一度触れた口唇は妖しく主張をし、このプライベートの空間が不自然な気負いのなさを青島から立ち上らせる。
じっと視線を奪われていたら、青島も視線を向けた。
きっと、この先決してこの夜を再現させるつもりがない社交辞令であることは、気付かれた。
やっぱりねという色を浮かべ青島が何かを言い掛ける。
だがそれが音になることはなく、閉ざされた言霊はそのまま瞳色となった。
昔から言葉よりも視線の方が確かなものが伝わってしまう。
今となってはそれが少し、煩わしい。
その甘ったるい誘惑に吸い寄せられるように肩が触れ合い、視線が引き合った。
流されるように顔を寄せると、何度か戸惑いを浮かべた瞳が軽く伏せられ、キスを待った。
望み通りに薄っすらと開く口唇を塞いでやる。
酒と唾液の混じったぬめりが滑りを良くし、甘く滴る。
影になる、ふくよかな弾力が更なる欲望を煽った。
滾る心を見透かされたくなくて、怯むことなく擦り合わせ、押し潰すような勢いに少し上擦る口唇を、漏れる吐息ごと奪う。
室井の接吻を受け、伏せ目がちの青島の瞳が電灯を反射し濡れたように光る。
ゆっくりと瞼が震えるその奥に潜む焦点が室井を定めると、物言わずただ見つめ上げてきた。
美しい瞳は蒼に染まる。
芯の底まで見透かされそうだ。
前髪に隠されるのが勿体なくて、そっと開いた手で梳き上げた。
「逃げないのか」
「逃がしてくれんの・・・」
薄っすらと離れた口唇が掠れた声を乗せ擽り合う。
「あんたに従うだけだ。・・・最初から」
「いいのか、それで」
青島の瞳が眇められる。
室井はそっと頤に手を掛け、固定した。
親指で、その口唇の輪郭を辿る。
「私と来るということがどういうことか、分かっているのか」
「・・・・、分かって、ない、のかもしれないです。でも、あんたを置いてくなんて・・・したくない・・・」
青島に触れる指の先まで熱を発し、このまま喉仏を引き裂きたくなる。
獰猛な情欲に支配された躯は居場所を失い、煮詰まっていた。青島が見せる深く直向きな情愛とは対照的に。
触れる程に遠ざかる。
滑稽だなと思い、室井は手を外した。
「なら、まず、おまえ、結婚しろ」
「どういう脈略?」
「君が誰もが羨む幸せに生きて、そんな人間が私を見てくれることで、自分が評価された気持ちになれる」
「そんなとこで自己評価しないでください」
ゆっくりと前を見据えたまま、室井はグラスを下唇に宛て、酒を流し込んだ。
「駄目だ。私を支えるつもりなら、子を儲け、普通の幸せってやつを手に入れて見せろ」
「ヤですよ、そんな」
「我儘言うな」
胡坐を掻いた足に両手でグラスを乗せ、青島がそっと溜息を落とす。
勝ち気な眼差しが光る。
「何も言わなかった人間に、何か指図出来るんですか」
「・・・・」
「俺は俺のやり方で結婚も仕事も勝手にしますから」
「それで君の幸せはどこにある」
「んじゃ、あんたの幸せは?」
「私の幸せはおまえとは無関係の場所で成立している」
「俺たち、相棒じゃなかったの」
「・・・・朽ちた腐れ縁だろ」
平行線の会話の虚しさに、青島の飲みかけのグラスを奪い、室井の方に肩を向けた。
さっきからお互い確定的な言葉は口にしていない。
これが、恋の話なのか仕事の話なのか。
狡いのはどちらなのだろうか。
雁字搦めとなった二人の今は、きっと出会った頃より歪んでしまっているのだろう。
「そんなとこまで君を染めたくない。言うことを聞いてくれ」
「キスしといてその言い草?」
「どう解釈しようと君の勝手だ」
「・・ッ」
瞬間、ぐいとネクタイを強く引っ張られ、室井の身体が傾いだ。
迸るような火花が青島の身体から発せられたように錯覚する。
青島の顔が至近距離に寄せられ、熱く灼けるように射抜かれる。
怒りにも似たその情動も、ただただ、美しい。
「どこにも行くなって言ったのは・・・あんただ・・・」
切羽詰まった熱を孕む息がお互いの口唇に吹きかかり、滾る視線が交差する。
あまりに綺麗で、あまりに清楚で、泣きたくなる。
「綺麗な恋愛しかしてこなかったおまえには、官僚の恋愛事情など分からない」
「腰抜け野郎のごっこ遊びなんか、どうでもいい」
「私の生き方を愚弄する気か」
「男なら!・・・忘れられないように刻みつけろよ」
「君と共に約束を果たすその場所が私のゴールだ。きっと私は世界一の幸せ者になれる」
「見限られんのが怖いの?ほんとの腰抜けじゃん」
「何かを護るためには捨てなきゃならないものなど幾らだってあるんだ」
「本気で欲しいなら、本気で狙えよ・・!」
「・・ッ」
「奪ってみせろ・・・っ」
「ッ!!」
分かりきった挑発に、心よりも躯が反応して、室井は腰を浮かせ、青島の肩を乱暴に押し退けた。
拍子に空き缶が幾つかカラカラと転がっていく。
挑発されているのは分かっていた。
誘惑であることにも気付いていた。
分かっていたのに、止められなかった。
策略に乗ってしまったとか、いつも青島のペースに嵌まるとか、そんなことを後悔する、その前に。
「おまえにために我慢してたのに――!これはおまえのためでもあるんだ!これ以上私に踏み込むな・・!」
「俺のためとか、ふざけんな・・っ」
何が哀しいのかも判然とはしていなかった。
届かない想いが息を荒立て詰まらせる。
分かりもしないで容易く奪える世界で生きる彼が、裏切りに思えた。
嵐の後のように湧き立った波動が消え、二人の呼吸だけが息衝く。
青島の目が哀しみに濡れ、ネクタイを引き寄せたまま室井を凝視していた。
過ぎた発言をしたことに思い至り、心の中で軽く舌打ちしながら、それでも室井は視線は外さなかった。
正面からお互い膝立ちのまま睨みあう。
「生きる世界が、違うんだ。・・・最初から」
叫んだ青島の少し高めの悲痛な声が耳の奥で木霊していた。
それが胸の奥に棘のように突き刺さっていた。
青島がふいっとネクタイを掴んでいた手を放す。
「もう、いいよ・・・」
「青島、私は――」
「いいって・・・、言わなくて、いいです。すいません、言わせたいわけじゃない。そうじゃなくて、俺はただ・・あんたが――」
「・・・・」
ぎこちなく凍り付いた空気は気まずさだけを残した。
「なんで・・・なんで、そんなこと言うんだよ・・・」
言葉を途切らせ、顔を背けて青島が哀しげに呟く。
拳で口元を押さえ、少し目が赤らんでいて、込み上げる何かを堪えるように、はぁと漏らすその息が途切れた。
奥歯を噛み締め、息を凝らす。室井は拳を強く握った。
次の瞬間、その腕を引き、力任せに抱き留める。
バランスを崩し傾いできた髪が靡いて、そのまま、驚いて半開きの口唇を熱く塞いだ。
「んぅ・・ッ、ふ・・ぅ・・・ッ」
最初から激しく口唇を擦り合わせる。
歯が当たり、少し痛みを覚えたが、怯まず強く擦り合わせた。
頬を包み、後頭部を押さえ込むと、一気に舌を押し込んだ。
「んん・・っ・・・んぅ・・っ」
悪かった。傷つけたいわけじゃない――言えない言葉が消えない痣となって口唇へ注ぎ込まれる。
先程の戯れのキスではない。これまでの慈愛のキスではない。
獰猛な雄の性愛の動きのままに、尤も奥深いところまで奪い、制圧を求める。
濃密な色合いを帯びた熱い舌が青島の意志など構わず徐々に深く犯していく。
官僚の道を邁進する人間は、叩けば出る埃は付けるべきじゃない。
手を繋いだ所で室井の中途半端な立場では所轄の青島を護りきれるとは思えない。
でも手放せない。
泣かせることしか出来ない。
共に人生を賭けてきた。だからといって、こんな恋などという危ういものに再び二人で堕ちることは、現実的じゃない。
そんなこと、百も承知だ――。
丹念に喉の奥を弄り、柔肉を堪能し、擦り上げる。
怯んでいたのは一瞬で、青島も顎を上げて口唇を擦り合わせてきた。
押し付け返してくる青島の口唇を塞ぎ、熱に飢える舌を突き出し、お互い獣のように挑み合った。痛みさえ心地良く、噛みつくように奪い合う。
その度に飢えたような息と甘い唾液が溢れた。
室井の唾液と混じり合い、それを青島が喉を鳴らして呑み込む音に、何とも言えない悦楽を覚える。
「ん・・ぁ・・・、ふ・・っ、」
挑み合うような口接は、だが、余りに強い勢力に、青島の身体が仰け反っていく。
膝頭で青島の脚を割ると、室井は欲望のままにその腰を自分に引き寄せた。
バランスを保とうとして必然的に彷徨っていた青島の両手が室井の首に回る。
きつく眉頭を寄せ、それを必死に受け止める青島が綺麗な背筋を反り返し、そこを支えるように片手を侍らせた。
細い髪がさらりと流れ、微かな煙草の残り香を伝える。
「ん、は・っ、・・ぅ・・・っ、ん、んぅっ」
角度を変えて口を塞ぎ直し、舌をねっとりと絡め取った。
無垢に応える舌を痛いほど吸い合う。
技巧も愛もない下手くそなキスだと思った。
素の室井を剥き出しにし、本能のままに雄としての劣情を加速させていく。
それに構う余裕はもうない。
理論も理屈も、理性で組み立てた様々なものは全て崩壊していた。
自然に上がっていた息が苛烈な熱を孕み、シャツ越しに触れ合う肌も過敏になっていく。
咽ぶ声を漏らし、青島の手が室井の後髪を乱暴に鷲掴んだ。
それにさえ煽られ、舌を淫らに触れ合わせ、逃げて奥に縮こまっていく舌を無理に引き出した。
シャツの上から弄るようにボディラインを確かめる。
密着した身体が燃えるように熱く、溶けあってしまいそうだった。
刺激に室井の肌がそそけ立ち、何度も歯を立てつつ捏ね、遊玩し、青島はその激しさに咽び、震えた。
カクリと青島の膝が倒れ、ベッドの下に崩れ込む。
重力のままに腕で支え、ベッドサイドに青島の身体を縫い付けた。
自然に胸を突き出しその背筋が弧を描く。
じわりと上昇していく体温に際限ない欲深を知る。
甘い唾液と肉の熱さが、引きちぎってしまいたい苛烈な欲を生み、汗ばんできた肌が擦れて栗立った。
酸素を欲して、青島が顔を頑是なく振るが、もう止められそうにない。
それさえも許さないとばかりに口唇を熱く塞ぎ、強く掻き回していく。
「んっ、く、ぅ、・・んん・・っ、ふ・・ッ、・・・ッ、」
室井の勢いに、ついに主導権を手放した青島が、戯弄に翻弄され小刻みに四肢を震わせた。
覚束ない喉声が耳から煽情し、どこまでも侵食されていく錯覚がいっそ恐れを呼び覚ます。
その淫蕩で甘い嬌態に、傲慢な悦楽の味を知り、これが欲しいのだとはっきり自覚した。
呑み込みきれなくなった唾液が口端から溢れて光り、煽情される。
「・・ぁ、は・・・っ、ゃめ・・・・、んぅっ」
苦情を言い掛けた口唇を奪い、押し付けた身体の自由を身体で制すると、完全に青島は重力を失った。
カクンと落ちた躯を床に組み敷き、乗り上げると、整ったラインは床の上で淫猥な曲線を描く。
シャツが捲れ、素肌が少し露出する。
抱え込んだ躯を執拗に嬲った。
吸い付くような肌触りと、少し汗ばんだ肌理の細かさ、甘い香り。息苦しさから漏れる目元の雫。
仰け反る白い喉元の骨格の美しさが端正な芸術のように痙攣する。
その熟れた躯が少し震えていることに気付くと、室井の中の劣情が更に煽られた。
少しだけ、歔り啼くような声が上がり、ようやく室井は我に返った。
じっとりとした視線と強い酒の匂いと、この部屋の彼の匂いが咽返るように室井に浸みこんでいた。
荒い息を吐きながら、お互いを至近距離で映した。
悔しそうに青島が顔を歪ませる。
蕩けたような瞳は隠し切れていない。
「いつからだ」
「――内緒、です」
鮮やかに瞳が光る。
その美しさが辛かった。
「なんで――笑っているんだ」
「だって・・・あんたが此処にいるし・・・」
それでいいんじゃないと、荒い息の奥から青島が無垢な瞳で苦笑する。
この先、この笑顔の裏でどんなに泣いても、もう室井にはその涙を見せないのだろう。
幸せなだけじゃ、許して貰えない。
どこかそんな風に自分を諌めて生きてきた。
だが絶対的と言える重たい記憶と代償を以って、室井はとうに信念や信頼というもので彼に決意していた。軽々しい思いではなかった。
生半可じゃなかったその覚悟に、今更迷う彼が眩しく、でも悔しかった。
その立場に、後悔と悔恨を覚えたのは、初めてかもしれない。
「・・・、傍に・・・いさせて・・・」
青島がふっとどこか幼い切なさが浮かぶ瞳を向けてきた。
表面張力で湛える水面に電灯が反射する瞳で哀願してくる声は、室井に委ねつつも心細そうに待つ。
室井の喉が干からびたように強張った。
「・・・これ以上、心にも躯にも、おまえを憶えさせたくないんだ・・・」
心の奥まで沁みてしまった熱に冒される寸前、まるで子供が親に頼み込むように室井は白状した。
不確かで輪郭を伴ってもいなかった室井の中の瑞々しい脈動が急速に造形を辿り、一つの要素を紡ぎ出していく。
「肌寒くなったから。寂しいから。理由なんて幾らでも転がっているもんですよ」
明確な答えを出してやれない関係に、ただそれでいいと笑う青島の、その瞳が眩しくて、室井は目を閉じた。
着崩れて露わになっていた首筋に顔を埋め、所有の証を強く刻む。
見えない涙の痕を拭うように。
きっと、恋愛下手な室井の粗雑なキスの意味などとっくに悟られているのだろう。
あの気紛れなキスで、青島の本音にも触れることになってしまった。
下手くそな愛し方しかできない男を、求めず受け止めてしまう男の寛容に、言葉さえ失う。
危機感を募らせ、自分の欲を押し付けるだけで、顧みてやることは何も無く。
そんな惨めな扱いで良いのかという問い掛けも、言葉を持たず。
この先も、そんな下手な恋しかさせてやれない。
終わらせることと続けることの境目が自分でも分からなくなっていく。
小さく喉奥から微かな声が洩れた気がして、室井が顔を上げる。
そこに頬を朱に染め上げた青島がびっくりしたような顔で見上げてきた。
「も、もしかして、痕、付けた・・・んすか?」
「・・・・」
「まじ・・・か」
コツンと額を合わせる。
「おまえ、少し無防備すぎないか」
「ぇ」
「誰にでも押し切られたら許すのか」
「ば・・っ、馬鹿言わないでくださいよ・・っ、あんた、だから・・・っ」
真っ赤に染まり、うろたえた顔。
両手に指を絡ませ、両脇に縫い付ける。
「今のはおまえが悪い・・・優しく出来なくなる」
「ふえ・・っ?」
「そんな可愛い顔しても駄目だ」
言い終わると同時にその口唇を斜めに塞ぐ。
何度も何度も口付けていると、青島が次第に躯の強張りを解き弛緩させ、とろんとした表情になる。
「・・・ぁ・・・・、ん、むろぃ、さ・・・」
「もっと・・・みたい・・・」
俺は馬鹿だ。
始まりは気紛れのキスだった。
それでも青島はとっくに覚悟を決めて、室井の気持ちを見抜いてしまって、恐らくはいつかくる予感も受け容れて
その上で、それでもいいから今欲しいなら掴んでいいよと飛びこんでくれている。
その甘い誘惑に、負けそうになる。
「ふ・・っ、ん・・、・・・ぁ・・・」
「可愛い顔をする」
「ゃ、も・・・っ、言う、な・・っ、」
「反則だ」
「意味わかん・・っ、ちょ、も・・・っ、ゃ、ぅん・・っ」
「もっと・・見せてくれ・・・」
「なに、・・んん・・・っ、」
きっと、時期が来たら室井の返事も待たずにさっさと姿を消してしまう。
鮮やかにその残像だけを室井の脳裏に遺して。
苦しんで苦しんで我慢して、傷ついた果てに生きたその道をそれでも幸せだったと微笑むだろう男に、込み上げるものが押さえきれない。
その哀しい生き様を、触れるのも怖くなるほど愛しさが溢れる。
両手を押さえ付けたまま甘い口付けを繰り返していると、もどかしいのか、羞恥なのか、青島が涙目になって室井を映してきた。
漏れる息遣いに途端に色付く気配に、強請るような貌を思わせ、くらりとする。
未来に怯え、未来を保守し、竦んでいただけの室井では、この恋に勝てる筈もなく。
「んっ、も、放せって・・・ば・・っ」
「いやだ」
その笑顔を崩してしまいたい。
笑顔の裏に隠された本音は室井だけのものだから。
あの涙をもう一度。
20161107
04.不意打ちのキス( 誰かを想って、君が泣く)

君の涙はアイシテルと告げていて、独占する悦びに息を止めた。
「なんか追われてる犯人みたい~」
「真面目にやれ」
「どお?」
「大分掃けた。そろそろいいか」
「ん。こっちも異常なし」
「よし、行くぞ。・・・ほら、もっと帽子を深くかぶれ」
室井が背中合わせに立っていた青島を振り返り、ベースボールキャップの鍔を深く被らせる。
へへと笑った青島の顔が奥に隠された。
「次の信号が変わったら合図だ」
「了解っ」
青島が黒のサングラスを掛ける。
・・・3.2.1。
信号が変わる。
人波が途絶えたその瞬間を狙い、室井は青島の手を引いた。
「・・ぅわっ・・・」
驚く青島を余所にしっかりと手を握り締め、室井はホテル正面ホールへと走り進む。
ハロウィンも終わったホテル前広場はもう来月のクリスマスシーズンに備え、街路樹にイルミネーションが巻き付けられていた。
藍色の空気に浮かぶシャンパンゴールドの星屑の中を、手を繋いで走り抜ける。
カップルが寄り添い、クリスマスソングが謳う。
どこまでも続き頭上まで連なる光の道に幻想的な夜が染まった。
室井が握った手を握り返し、青島がキャップを押さえながら追いかける。
人波を器用に避けて、やがて広場の端からホテル沿いに迂回する。
裏口へ回っていく。予めそこが開いていることは確認済みだ。
身体を滑り込ませると一目散にエレベーターホールに向かう。
運良くポーンとのんびりとした音が聞こえ、エレベーターが一台到着したようだった。
角を曲がれば閉まりかける扉。
二人で中へ傾れ込む。
「はぁっ、はっ、はぁ・・・っ」
荒く息を突きながら、インジケーターを睨みつける。
途中階を全て通過し目的階へ。
週末なのに誰とも克ち合わずにここまで来れた。後少しだ。
到着するとまず室井が後ろ手に青島を隠し、顔を出して廊下に人がいないかを確認する。
手は繋いだままだ。
室井の背中に寄り添うような青島がキャップを引き、顔を落として身を隠す。
・・・誰もいなそうだ。
室井は胸ポケットからルームカードを取り出すと、青島の手を引き、部屋へと小走りに向かった。
廊下はしんと鎮まり返っている。
さっとカードを差し解錠する。
まず青島を押し込んでから、もう一度辺りに視線を走らせ、室井も部屋へと潜り込んだ。
ガチャンと硬質のロック音がして、二人は顔を見合わせる。
青島がサングラスを少しずらして上から室井を窺った。
荒い息を吐いたまま、扉に背中を押し当て、視線がぶつかって。
「・・っぷ、・・ふ、・・っははっ」
青島が先に吹き出し、つられて室井も目元を手の平で覆って顎を逸らした。
その口元は苦みに滲んでいる。
「金輪際こんな綱渡りはご免だ・・・」
「自分から言い出した癖に」
「・・・・」
不服そうな視線で、室井が青島に横目を向ける。
部屋の灯りは最初から点けっぱなしだ。
キャップの下から前髪に隠れた青島の瞳が悪戯っぽく笑った。
「げーのーじんってこんな気分?」
「・・・・」
ほぼ同時に向き合い手を伸ばせば青島がサングラスを投げ捨て飛び込んでくる。
「お久しぶりですね、室井さんっ」
「ああ」
「会いたかった!・・・ですっ」
その返事はリップキスで返した。
まだ少し息が整っていない青島が、キスを嫌がりながらも嬉しそうに背中を逸らす。
室井の首にじゃれついたまま、擽ったそうに目を細めた。
その背中を支え、室井はそれでもしつこくキスを降り注がせていく。
「んんっ、はは・・っ、んも、くすぐった・・・っ、ぅん・・、はぁ・・っ」
邪魔なキャップが、反り返ることでふわりと背後に落ちて、少し汗ばんだ青島の髪が後ろに流れた。
ダンスを踊るような千鳥足で、それでも楽しそうな青島に、ただ室井の心は占められる。
覚束ない足取りが縺れ合って、やがてベッドの上に二人折り重なって沈み込む。
ベッドのスプリングでバウンドする身体を押さえ込み、室井は本格的に口唇を塞いだ。
深いキスに変わり、部屋に甘い吐息が浮かぶ。
青島の手が室井の首にしっかりと回り、引き寄せた。
ここは地方の安ホテルだった。
室井は今、東京郊外のこの地区に仕事で滞在している。
本来ならば今週末で終了する筈だった研修会が長引き、来週までもつれ込むことになっていた。
一旦帰っても良かったが手間でもあるし移動時間が惜しい。しかし土日はやることもない。
暇さえあれば掛けるようになった電話で青島を誘ってみたら、逢いたいと言ってくれた。
まさか官僚が多数滞在するこの地区に所轄の人間をプライベートで連れ込む所を見られるわけにもいかず
変装して来いとだけ、告げた。
「ぅ、・・・んん・・っ、」
「逃げるな・・・」
気紛れなキスから始まった関係は名もないままに二人を宙ぶらりんのまま欺いていた。
時間を練っては会って同じ時間を過ごしている。
休みが重なれば大抵青島の部屋で過ごした。
それが一体何と言う間柄なのかは決めつけられないまま、不透明な輪郭を描くこの距離に浸り、甘えている。
口付ける温度が、ただ、シンプルな肯定を齎していた。
しかしこの仕事のせいでもう一ヶ月近く会っていなかった。
久しぶりの体温と匂いに歯止めが効かないのは、室井の方だ。
「ふぅ・・・、ん、は、・・ぅん・・っ」
甘やかな吐息が朱に染まり、深々と静謐な大気に零れ落ちる。
柔らかく濡れたものを探り当て、何度も吸い上げていると、青島が甘い喉声を上げ、膝を立てた。
反射的にゾクリと室井の肌がそそけ立つ。
変装して来いと指令を出したせいで、今日の青島はスーツを着ていない。あのモッズコートでもない。
私服の彼は少し大きめの黒のライダースジャケットをばふっと羽織って、ウールのワイドパンツを履いていた。
ベースボールキャップにサングラス。エンジニアブーツ。
黒を基調に仕立てられた私服は、いつもの彼とは違う雰囲気で、大人シックに着飾る体型はすらりとしたラインが妙に婀娜っぽく映る。
メンズファッションとしてかなり格好良く着こなしているのだが、正直可愛いと思ってしまったのは心の内に留める。
覚束ない腕を避けベッドに押し付けると、室井は口唇を頬から耳へ滑らせた。
太腿が当たり、靴を履いたままの脚がベッドの上で交差する。
室井は膝で脚を割り、間に身体を滑り込ませた。
ホワイトシャツを第二ボタンまで開けてあるせいで目の前に色付く首筋に顔を埋め、軽く吸いついた。
「・・ろぃ、さん・・・っ、」
「青島・・・」
吸い付きながら名を口にしたら、厭になるほど掠れて熱を帯びた音となった。
その低い声に青島が身体を竦ませる。
「耳、相変わらず弱いな・・・。それとも私の声に反応したのか・・・?」
「~~っっ」
不貞腐れたような顔をしている青島の瞳は言い当てられたことを証明している。
それでも悪戯気な光彩を瞬かせ、緩やかなキスを繰り返す男を愛しげに見上げてくる。
目を眇めると、室井は耳朶を甘噛みした。
微かに嬌声らしきものが漏れたその口唇を、飽きもせずに弾力を愉しんだ。
もうすっかりと慣れてきた馴染みの煙草の残り香とその蜂蜜のような瞳に溺れそうになる自分を半ば諦観で室井は受け容れる。
どうせ抗った所で、手放せるわけがないことは身を以って知っている。
この瞳に盲目的な情愛を零してしまいそうになる。
小さな時間が積み重なり、ますます室井の中に彼の存在が鮮やかに刻まれていく。
それは些細なことながら、まるで棘のように奥底に突き刺さり、自分から青島を奪っていく全てのものが恐怖の対象に変色した。
自然と室井の眉間の皺が薄れ、口元に淡い笑みを刻み付けている様子を青島は不思議そうに指先で辿った。
プライベートだから降りている室井の短髪が、額を擽り影を作る。
「皺。ない」
大人の深い笑みを浮かべ、室井が青島の柔らかい髪を梳く。
漆黒の双眸は切ないばかりの想いを孕み、この愛おしい者へと注がれた。
「あんた、そんな風に笑えるんだ。・・・ちょっとびっくり」
自分の額を彷徨う手を取り、室井はその丸っこい子供みたいな指先に軽くキスを落とした。
びっくり、以上の顔に変わった青島に甚く満足しながらも、その先を更に口含む。
舌を使ってねっとりと舐め回した。
「・・っ、・・ぁ・・・、ぁ、の・・ッ」
「おまえが俺の知らない俺まで引き摺り出すんだ・・・」
かつての恋人にも柔らかい表情は見せていたとは思うが、喜怒哀楽、人間全ての感情を意思すら飛び越え鮮麗に仕掛けられるのは、青島だけだった。
いつの間にか、初めて一人称が変わっていることにも青島が、言葉を奪われ、陶然と笑う室井の下で息を殺す。
言葉以上に意味深な闇色の宇宙がそこに広がった。
青島の頬を両手で掴み情熱的に口付ける。
もっと深く。もっと奥まで。
誘う様に薄く開かれた口内へ熱った舌を捩じり込めば、淫靡な感触に室井の肌がそそけ立った。
戸惑いなく室井の舌に応えてくる青島の舌を絡め取ると、甘い吐息が熱に浮かぶ。
誘惑の色香を滲ませたような息遣いに、カッと芯から熱くなった。
「ぅん・・・っ、・・ふぁ・・・・」
水音を立てて掻き回し、角度を変え、舌先で口腔の底まで擽るように刺激し、くたりとベッドに沈んだ躯を
同時に鎖骨から下へ、胸元へ、深く開いたシャツの間から堪え切れなかった指を侵入させる。
「ん・・・ぅ、、ぁ、・・・ふ・・・っ」
緩く青島が首を振るが、解放させる気はなかった。
鍛えられた鋼のような室井の躯が、青島の覚束ない動きを押さえ込む。
残りのボタンをひとつ、ふたつゆっくりと外し出す。
「・・・いい、か・・・?」
口唇が触れ合ったまま、室井は思わず哀願していた。
ややして、その意味に気付いた青島が今度ははっきりと身体を緊張させた。
室井の二の腕を掴み、見上げてくる瞳は不安と疑心が混じっている。
「そろそろ・・・我慢できそうにない」
「・・ぇ・・、で、でも・・・」
「厭か」
「ッ、・・・で、でも・・・オトコ、同士・・・」
「分かってる」
「っ、・・ぁ・・、えと、それって・・・、いや、あの」
どもりながら目を泳がせる青島はきっとここまで想定はしていなかったのだろう。
ましてや求められるという意味の本当の性質の悪さと淫靡さに、意識がなかったと言う方が正しいのかもしれない。
室井だって、触れ合うまで欲しがることの本当の意味を知らなかった。
情欲の眼差しの前に曝され彷徨う心を手繰り寄せるように、青島が怯みを見せる。
指先で身体を辿ると、無駄のない姿態がビクリと顫える感触が指先を通じて伝わった。
「君が、・・全部、欲しいんだ」
「っっ、こ、こ、こういうのは・・・その、お互いの気持ちが・・その、揃った時と言いますか、・・・こう、ぐわぁっと盛り上がる瞬間が・・・」
「そんなの待ってられない」
「ぅ」
徐々に真っ赤に染め上がっていく青島をじっと見降ろした。
室井の言葉尻から悟る抱かれる立場への受諾もまた、警戒のひとつだろう。
「男の部屋へのこのこやって来て何もしないっていう恋愛を?」
「~~っっ」
皮肉としては的中していただろう。
青島は今度こそ真っ赤になった。
ふっと滲む微笑を浮かべ、室井は小さく低く囁いた。
「おまえしか、欲しくない・・・」
透明の宇宙を湛えた瞳が切なそうに染まり、室井を映し込んだ。
そこに嫌悪感は浮かんでいなかった。ただ、未知に対する不安と恐怖と、そして僅かな羞恥。
青島が堪え入るように瞼を落とすと、その動きに合わせて室井は顔を寄せ、そっと口唇を重ねる。
青島の手がまた室井の首に回って、きゅっと抱きついてきた。
「・・・いいな・・・?」
震える瞼がゆっくりと上がる。
「シャワー・・・を。その、・・・準備、とか、・・・・・しないと」
「出来るか」
「・・・たぶん」
「洗浄・・・・だけで、いい、解すのは、俺がやる」
「ッ」
「それは、俺の役目だ」
「・・・・・・・・はい」
最後の方は消え入りそうな声だった。
****
シャワーが止まる音がして、いよいよバスルームの扉が開く。
そこにはトランクスにシャツだけ羽織った青島が気恥ずかしげに立っていた。
少し照明を落としていたせいで、陰影が身体を淫猥に象る。
濡れてうねった淡色の髪はこっくりとした色に染まり、雫をビーズのように散りばめていた。
疼きを持て余し、怺える術も知らない若造のように、室井は動悸に喘いだ。
青島がゆっくりと近付いてきて、ベッドに腰掛ける室井の傍に心許なさそうに立ち尽くす。
シャツのボタンは中央だけが数個留められているだけだ。
濡れた小麦色の肌が熟れた果実のような芳香を放っている。
ごくりと喉を鳴らした。
「・・ぁ・・・、ご、ごめん、なさい、・・・その、彼シャツとか・・俺の背丈じゃ・・・出来そうにないし・・・」
「そんなの、いい・・・」
「オトコを煽る方法とか・・・誘い方も・・・知らない、から・・・その」
ぐいと手首を掴んで引き寄せた。
くるりと身体を回転させベッドに押し倒す。
強張ったままの青島の躯から石鹸の匂いが発ち上がり、爛れた情欲を知る。
「後悔するな」
「あんたこそ・・・・後悔しないですか・・・?」
「これだけ煽られて、オアズケを喰らって、まだ我慢出来る男がいたらお目に掛かりたい」
「俺・・・煽った・・・?」
「・・・無自覚なのも性質が悪いな」
何か言いたそうにしてるが、青島は口を開かない。
不安気に揺れる目のまま、やがて室井の肩に顔をうずめてきた。
「どうした」
「・・・・」
「甘えん坊か。・・・悪くないが・・・だから可愛すぎて調子狂うと言っている。壊されたいのか」
「俺だって・・・緊張くらい、する・・・」
優しくしたい思いと酷く凌駕したい本能が苛烈な情動となって熱を生みだしていく。
知らなかった気持ちを青島が言葉ではなく伝えてくる。
シーツを擦る音がやけに大きく聞こえた。
顔を上げさせ、頤を親指で上向かせると、キスを仕掛ける。
触れるその直前、青島が囁いた。
「電気・・・消してください・・・」
室井は黙ってベッドヘッドのランプだけにする。
ベッドに沈み込むと同時に、真上からその口唇を重ねた。
曖昧に揺らぐ薄闇に沈む躯をさわさわと薄手のシャツの中に差し込んだ手でなぞっていく。
シャワーで熱った躯はまだしっとりとしていて、手の平に吸いついた。
肌理が細かく若い肌は触り心地が格別で、想像以上だった。
引き締まったボディラインを弄りながら、舌を突き出し口腔を舐めあげる。
縋るように青島が室井の首にしがみ付く。
目も眩むような嬌態に、思わず噛みつくように口付けた。
腰を引き寄せ、ヒップラインを揉むように弄った。
布地の上から緩やかに誘う淫らな感触に、青島は細く身震いをして横を向く。
晒された細長い首筋が妖艶に挑発する。
「きれいだ・・・」
首筋を辿るように舌を這わせ、胸元から鎖骨を撫で上げる。胸の尖りが指先に触れ、摘むように嬲った。
んっと小さな声がする。
もっと蕩けてしまえばいいと思う。
耳を甘く噛み、頬に口付けた。
反り立つ熱根を堅くさせながら室井は青島の太腿にそれを擦りつけ、横目で探ると、長い睫毛が黒々と震えていた。
互いの情熱が触れ合う感触に眩暈がする。
「泣くな」
「・・・泣いて・・・ない・・・」
強がって言う言葉が不安を露わしている。
やっぱり早すぎたかと思い、慰めるようにキスをした。
口腔を柔らかく掻き回し、そっと放す。
どうしようか悩んでいるような青島の指先がやがて室井の頬に宛てられた。
蕩けるような顔をして、青島がほぅっと息を朱に染めた。
「しあ・・・わせ、で、泣けることって、ある、んだなぁ・・・」
室井の躯が硬直した。
不意打ちだった。
何も告げない男に、それでもこうして抱かれ刻まれることを、倖と表現してくれる。
この無償の愛に繕う術はなく、逃げる野卑もはしたなく。
思わず嬲っていた手を止める。
言葉を失った。
全てが負けた気になる。
想われて抱き合うことにこんなに幸せを感じるなんて思わなかった。
誰かを想って口付けるキスの甘さも、誰かに想われて抱く熱も、初めて知るような瑞々しさを持つ。
固まってしまった室井に気付き、青島がしまったという顔をした。
「・・ぁ・・っ、俺・・っ」
瞳に浮かぶ水滴が綺麗な反射を見せ、逸らされる。
その頤に手を掛け、強引に引き戻す。
室井の下から抜け出そうとする躯を力で縫い付けた。
言わせなかったのは、室井だ。
狡いと言われても、聞きたくなった。
告げたくなった。
今更、始まりを仕切り直すことは赦されるだろうか。
泣きたいような胸の痛みに、室井は漆黒の瞳をただ強めるだけで奥歯を噛み締める。
告げるわけにはいかない。でもせめて。
青島が緩く首を振って逃げようと踠く。
「いい。・・・言っていい。言ってくれ」
「・・ッ。ごめ、俺、そんなつもりじゃ・・・」
「いいんだ、もう。・・・青島。・・・・聞きたい」
「・・ッ!・・・ふ・・っ、・・・ぅ・・っ」
堪え切れない想いが喉奥から潰れたように溢れてくる。
誰かを想って流す涙は果てしなく珠玉で
誰かに想われて溢れる心は世界で一番美しい。
自分にだけ告げられる、聞くことのできる言葉がここにある。
聞かせてくれ。愛の言葉を。
20161109
05.さよならのキス ( 恋を知って、君が泣く)

結ばれたあの夜のことを私は一生忘れないだろう。
あれから三日、青島はそのまま室井が宿泊しているこの部屋に留まった。
室井も外へ出ていない。
ルームサービスで全てを済ませ、ルームメイクもリネンやアメニティだけを補給してもらい、辞退した。
抱いて抱いて、抱き潰すほどに貪った色付いた躯は昼夜もなく、熱だけを残し、束の間の幻想を与えてくれた。
瑞々しい素肌に眩暈がするほどの背徳の悦びに壊されて、恐らくそれは室井だけで、青島は痛みの方が強かったとは思うのだが
激しく苛烈な熱と感覚に、手段に構っていられる余裕など欠片もないことを、ただ、理解した。
週末をここで過ごし、週明けの本日、月曜日、室井だけが現地へ赴いた。
今夜、隙を見て帰京させる。
「室井さんはまだ泊まるんですか?」
「明日か明後日には帰れそうだ」
「俺がいないベッドは寂しい?」
「・・・・・帰ったら電話する。寂しいのはおまえだろ」
揄う筈が揄われ、青島が頬を膨らませる。
それをフッと横目で笑って、室井は小さなパッケージを片手で乱雑に投げた。
ヒュッと風を切る音が流れる。
パシッと手を伸ばし青島が空を掻くように受け止めた。
「なにこれ。・・・ポッキー?」
「やる。残りものだ」
さっきエレベーターホールで待っている時、ホテル従業員が宜しかったらと言って粗品を配っていた。
週末に開催されていたイベントで試供された残りだという。
普段は断るのだが、警察関係者とは知らずランダムに渡しているようなので、説明も面倒で受け取った。
「キャンペーンだとか言っていたが。・・よくは知らん」
「・・・、ああ、なるほど」
「ん?」
「先週末が何の日だったか分かります?」
「金曜日か?・・・平日だろ」
「はずれ。ポッキーの日です。多分前のショッピングモールで何かやってたんじゃないですかね?全国で参加型のイベントとかやってるみたいだし」
「ポッキーをみんなで食べ合うのか」
「身も蓋もない・・・、それでもいいですけど・・・」
そう言って青島が言葉尻を色めかせる。
その瞳が悪戯気にきらりと光った。
「ポッキーゲーム、したことない?」
包み紙からポッキーを一本取り出し、青島が咥えた。
白い歯の奥から紅い舌がちらりと覗く。
さぁどうする?といわんばかりの挑発的な瞳は蠱惑的で、簡単に空気の色を変えられた。
暫く青島を見ていた室井が不意に動く。
後頭部に手を掛け、そのままベッドにその背中を押し付けた。
ぱふんとスプリングにバウンドし、沈む二つの躯。
覆い被さった状態で、片膝を乗せ、室井は薄く口唇を開き、反対側から同じように小さく齧りついた。
ポッキーの距離13.7cmで二人の視線が挑戦的に絡み合う。
「さっさと食べろ」
「先手、譲りますよ」
「冗談、おまえが先に喰え」
「はぁっ?室井ひゃんが喰ってよ」
「ふざけるな、さっさとしろ」
硬直状態に入る。お互い一歩も譲らない。
室井の影となった青島の瞳が微かな灯りを吸って無数に散りばめられているのを、覗き込んだ。
睨みあうように出方を窺う心理駆け引きを水面下に、表向きは静観して続く。
「こーゆうのは年上から」
「おまえが言い出したことだ」
「そんなのゲームに乗った時点で同罪れす」
硬直状態は続く。
ガタンと、北風が古いホテルを軋ませた瞬間、意識の逸れた青島の頬を鷲掴み
室井が動いた。
ポッキーをカリッと半分齧り、もう半分も口に入れ
そのまま口付ける。
不意打ちに、青島の目がまんまるになっている。
チョコレートでコーティングされていたポッキーは全部が室井の口の中で溶け
塞がれた青島の口唇の甘さにも室井は陶然となる。
顔を傾けしっかりと重ねた。
この甘い口唇が、甘く滴るような快楽の中で、室井が腰を突き上げる度、甘ったるい嬌声を漏らし、好きだと何度も告げてきた。
その度に痺れるような電気が室井を細胞から潤し、息苦しくなって
反り返る背中を掻き寄せ、ただ夢中で腰を振っていたことが脳裏に爛れて蘇る。
それでも、室井は好きだとはどうしても言えなかった。
官僚の立場を捨てきれなかった。
捨てたら青島をそれこそ傷つけると思った。青島に対する裏切りになるから。そして、立場を捨てたら彼を護れなくなることも、分かっていた。
告げてしまったら、ここまで築きあげてきた様々なものが音を立てて崩れていく気がした。
目の前で青島の眉が切なげに潜められ、軽く顎を引こうとする。それを赦さず塞ぎ直した。
それでも、告げさせてやることの男の寛容を、室井は胸に刻む。
告げてやれなくても、言わせてやることは男のケジメであると思った。
言わせてやれるだけの付加価値に芽生える男の義務は、同時に誰かの人生を背負う覚悟でもある。
どこに寄り道しても、迷っても、自分の帰る場所は彼だと決めた覚悟だ。
言わせ、その言葉を背負うことで、溢れる自信と包容力に気高く生きる男の背中になる。
この男と共に、生涯を生き抜いてやる。
後悔は、していなかった。
いつか、この胸の内を全て晒せる日が来るといいと、今は思う。
「~~っっ、ずるいっ」
「勝負は君の勝ちだろ」
「全然勝った気がしない・・・」
ちょっと頬を桃色に染めながらも、青島がベッドの上で上半身を起こし、後ろ手に手を付いて窓の外に視線を投げる。
「ちぇぇぇ~、・・・ま、いっか。室井さんとポッキーゲームできんの俺くらいだろうし」
言わせてやれる男の寛容が、男を成長させるのだと、室井は初めて気が付いた。
そうして男は強くなる。
その背中に決して譲れない物を背負い、貫禄を備えてひとつ先に行く。
ただ一人のために。
窓の外はとっぷりと夜の帳が落ち、北風が窓を叩いていた。
「思い残すことはなくなったし、そろそろ帰ろっかな」
「躯、平気か」
「うん、もうだいぶ。心配ないですよ」
この週末、まるでセックスを覚えたての少年のように、室井は青島の躯を隅々まで堪能した。
室井が帰る前までに身支度を整え終えている彼の服の下には、三日前にはない情痕が幾つも至る所に色濃く残っている。
当然のことながらバックバージンであった青島は翌朝から立ち上がれなくなり、その無抵抗で色気あるラインに煽られ、更に情動に浸ってしまった。
エンジニアブーツの紐を閉じ、青島がライダースジャケットを手に取る。
「室井さん、俺がここ出たら――」
「うん?」
「・・・・・・・ぁ、ん、いや何でも」
口籠る青島が、ぱふんと帽子を斜めに被っておどけて見せた。
「んじゃ」
「送ろう」
「危険なことすんなよ、いらないですよ」
確かに連立って出たらここに青島がいたことが周辺にばれる危険性は高い。
致し方ないもどかしさに室井は眉間を寄せた。
それに軽く笑って、そして次の瞬間、青島が風のように動いて、室井の二の腕を軽く掴む。
甘い匂いが芳って、青島が室井の口唇を掠め取った。
「!」
「・・・大好き・・・」
青島からの不意打ちのキスに、反応を忘れる。
思えば青島からしてもらったのは、これが初めてだということにも気付く。
ゆっくりと、濡れたそれが離れて、口唇の温度差に冷たさを意識した。
前髪で覆い隠されたその表情が見えないことが、少し胸に刺さった。
「それだけ、忘れんな」
掠れ声でそれだけ言うと、青島は背を向ける。
瞬間、胸騒ぎがした。
どういうことだろう。確定的な言葉は何も使っていないのに、今生の別れのようだ。
涙と共にうわ言のように何度も好きだと告げてきた口唇。
甘く熱い汗濡れた小麦色の肌。
室井を埋め込んで、腫れあがっていた熟れた秘肛。
握り返してきた熱い手の平と、たまらない、とでもいうように青島は何度も首を横に振って。
あれほど奥底まで繋がり、必死に室井に縋って絡み合った長く美しい四肢は今は服に隠され。
熱く擦り切れる火傷しそうな夜を刻み、今この部屋を後にする。
惜しみない足取りで、青島が扉へと向かう。
その振り返らない背中に、同じく背負う男の気配が室井を共振させた。
刹那、閃きのように理解する。
愛を告げさせてやるだけでは駄目なのだ。
愛され倖を完成させた室井とは違い、青島は片恋のまま、暗ませられる。不完全で自由であるからこそ、赦された余白がある。
いや、青島にしてみれば、これは、これ幸いなのだ。
愛を告げない室井を悪者にしなくて済む。
してやられたと思った。
愛などいらないと、物分かりの良い寛容な態度を見せ、室井に告げさせないことで、逃げ道を作って見せた。
室井には従順な純愛を見せつけ、愛を与えるだけの未完成な悲恋歌に成り済まして見せながらも
この恋の罪状を全て一人で背負って逃亡する気だ。
所轄の逸れ者に誘われ嵌められた哀れな官僚。――演出された舞台で、世間が、上層部が、どっちを信じるかなんて火を見るより明らかだ。
「青島ッ、ちょっと待てッ」
「・・ッ、待ちませんッ」
青島が足を早める。下半身が覚束ない足取りは不安定で、時折よろめく。
小走りに扉へ向かうその背中に、室井は予感を確信させる。
悔しさに近い苛立ちが巻き起こる。
いつだってコイツに負けている筈はないのだというその意地が、室井を立たせ開花させ、ここまで来たのに。
なんで。
届かない背中に大声で叫んだ。
「好きだ!おまえが好きだ!だから一人で背負いこもうなんてするな!」
護ってるつもりだったのに、護られている。
「俺は君に惚れている!惚れた奴に恋を押し付けるだけの!そんなくだらない男にするな!」
怯んだ青島の背中に追い付き、その腕を取る。
思いっきり引き寄せ、背後から抱き締める。
「わ・・っ、くっ、ちょ・・っ」
「残念だったな。その計画は俺が潰す」
「な、何言ってん・・・」
「誤魔化されてなんかやるもんか。この罪は、二人で背負っていくものだ。俺と、君の、ふたりでだ・・ッ」
「ちが、ちがいますよ・・・俺が誘っ――・・・」
「違わない。そんな哀しい決断をするな。俺にもその罪の半分を、いっそ全部を烙印してくれていい」
「・・・んなこと・・・・できるわけ・・・」
抵抗も虚しくなってきた青島が腕の中で戸惑いを浮かべているのを背中から感じ取る。
その首筋に鼻先を埋め、回す腕を強めた。
「すまなかった・・・」
保守的になっていたことで、一番大事なものを忘れていた。
青島は、護られたいんじゃない。一緒に戦ってくれる、唯一の同志なのだ。
ただ一人だと想った人間が自分を認めてくれるその数奇さを、自分は台無しにするところだった。
きちんと告げなければ何も始まらない。
こいつを本当の意味で護りたいならば、もっともっと強くならなければならない。
「なん・・っ・・で・・っ、なんでっ!気付くんだよ・・・今更・・・っ」
「言わせるだけで、卑怯だった」
「逃げ、きれる・・・筈、だったのに・・・!」
「この罪も代償も、責任は分かってるつもりだ」
「・・・っ」
黙って俯いてしまった青島を、腕を解き、振り向かせ、その髪に五指を差し入れる。
噛み締めている口唇を解くように、口付けた。
応えてこない口唇を、願うように、祈るように重ねていく。
目尻に浮かぶ雫を親指で拭った。
「・・・あんた、今なら逃げれるんですよ・・・?」
「おまえには本当に余裕がなくなる・・・」
室井は答えず、もう一度柔らかく口唇を塞ぐと、その腕の中に正面から青島を閉じ込めた。
「俺を勝手に置いていくな」
「・・・言う相手、間違えんなよ・・・それは未来の」
「間違えて、ない。俺は最初からおまえとしか運命を賭けない」
言葉とは裏腹に、青島の指先が室井の背中に回る。
ああ、なんか、今夜も帰せそうにないなと思いながら、室井はその後頭部をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「行くな・・・行かないでくれ、どこにも」
「曖昧なオトナの関係って選択肢、悪くないと思うんですけど」
「浮気する気か」
「う、ぅ、うわ、浮気・・・//////」
「恋人、だろ」
びくりと青島が室井の腕の中で反応した。
そっと顔を覗き込めば、紅く染まった頬。照れたような目尻。潤んだ瞳で上目遣いに見上げる視線。
室井の方が正視に耐えない。
なんって可愛い顔するんだ。
「・・・・い、いつから」
「たった今からだ」
「室井さん・・・、俺に惚れてんの」
「だからそう言っている」
「認めんの」
「ああ」
「・・・いつから」
「それもか」
いつから・・・と、言われても。
この曖昧で、でも確かな感情が室井の中に発芽したのは、そう言えばいつからなのか。
出会って、衝突して、遠ざかっては近付いて。流れる時の中で、いつしか失くせないほどまでに成長していた。
まるで春になれば花が咲くように。
寄せた波が打ち返すように。
「おまえこそ、いつだ」
「・・・ぇ・・・?・・・お、俺は・・・っ、ぇと、その、・・・・狡いですよ、聞いてんのは俺ですよ」
「答えられないじゃないか」
「室井さんが言ったら・・・言ってもいい」
「狡くないか」
「ズルくない」
抱き合った至近距離で、しょうもない意地の張り合いをする。
この状況の馬鹿馬鹿しさに、馴染みの距離感が戻るのを感じた。
一つ息を吐いて。
室井は漆黒の瞳を深めた。合わせて空気が密度を高め、それを肌に聡く察し、青島が息を呑む。
「青島」
「・・・はい」
「俺の・・・傍から離れるな」
「・・・・」
「答えろ」
「それ・・・、家庭に安らぎを求めない身代わり、ってこと」
「不倫させるつもりなはい」
「・・・女には勝てないよ」
「随分と物分かりの良いふりをする。俺はおまえのその涙ひとつ、誰にも渡したくないのに」
「じゃ、どうすんの」
恋に溺れて明日を失って、それでも消えない想いを糧に金も地位も名誉も捨てるというのか。
強気な語気は不安の裏側だ。
責めるというよりは、青島の言葉はどこか懺悔に聞こえた。
「どうせ逃げ切れなかったクチだろ、君も」
「・・・こんなの、やめた方がいい」
「終わらせたいのなら、それもまた、二人でだ。・・・だから、来い」
「オトナ・・・。やっぱ俺はコドモですかね。そこまで・・・踏み込めない」
青島が目を泳がせ、小刻みに肩を震わせる。
「・・・、もっかい・・・・言って、もらえませんか・・・最後に・・・」
その願いに、室井は腹を括る。
青島の瞳に宿る熱が行き場を失い、でも鎮火も拒んだ残り火のように映えていて、それは室井に眩暈のような錯覚を起こさせた。
終わらない輪廻のような無限の恋を自覚する。
「本当は、あの夜交差点で泣く君を見た時から、どうしようもなく悔しかったんだ。君は俺のものだ。誰にも渡さない。・・・そう最初に言った通りだっ
た」
「・・・・」
「俺は、君の涙に弱い・・・」
青島が小さく微笑んだ。
黙って聞いていた青島の目が喜びと哀しみで、何とも言えない色をして瞬いていた。
なんて美しいのだろう。
これから始まる長い旅路が過酷なものとなることは、お互い身に浸みていた。
軽はずみに恋に踏み出した所で、世間の風は厳しく警察機構の弾圧は甚大だ。
国家相手に逃げ切れるほど容易い話じゃない。
胸に秘める愛の純潔だけでどうにか出来るものではないのに、その胸が反発するように熱く震える。
身勝手な欲望はいつだって理不尽だ。
だが携える手はきつく握られる。
手を引いて引き寄せる。
顔を傾けそのまま甘い口唇に重ねる。
青島が息を呑んで目をきつく閉じた。
目尻から堪え切れない雫が流れて。
「こゆことすんの・・・奥さん、の他には、俺だけに・・・して・・・」
「・・・・」
「最後は俺んとこに、帰ってきてよ・・・、ずっと、傍にいるから・・・」
その嗚咽のようなその吐息を柔らかく塞いだ。
やっぱり、人目を憚り、罪を忍ぶような、そんな下手くそな恋しかさせてやれない。
どうしてこんな風に惹き合ってしまったのだろう。
どうして同じ割り切れぬ思いを共鳴してここにいるのだろう。
こんな想いさえなければ、俺たちはこんな決断をせずに済んだ。
おんなじなのだ。
だけどここからは二人で。
どうしてだか二人なら、それも悪くないと思わせられる。その覚悟が出来るのも青島だけだ。
終わらない疼きを持て余し、膨れ上がる熱に怯え、それでも引き合う運命に怖がっているのは、おんなじならば。
気紛れなキスで始まっても、例え偶然の出会いでも、その時からこうなることは決まっていたのだと室井は思う。
「・・・断る」
「できない、・・・なら、気付かなかったふりをしてよ・・・」
「逃げるのか」
感極まったかのように、流されるままだった青島が顔を振ってキスを解く。
絆されることに不満げな顔をして、室井を涙目で睨んでくる。
なんて愛おしく狂おしいのだろう。
今日この決断を馬鹿な迷いだと、遠い未来で後悔する日が来るだろうか。
若気の至りだったと遠き日に振り返るはめになるのだろうか。
ここで決断しなくとも長い道のりの中で幾度も同じ問いを繰り返すことになるのだと思う。
重なり合い捩じれ合う人生がそこで共鳴している。
だったら。
「この気持ちの行く末を、見てみたくないか」
室井が説得の趣旨を変える。
答えなど、知るはずもなく。
ただ彷徨う心が片割れを探して求め合うから。
「終わらせ方を・・・知ってるんですか・・・」
心細そうな青島の声に、室井はいっそ悪魔的に凶悪なほど高雅な笑みを浮かべた。
青島が目を見開いて息を呑む。
その純朴な透明の瞳に、厳かに宣誓する。
「進むぞ、先へ」
堕ちて、たまるか。
結末が破滅でも、一緒なら構わない。そこから始めていけるのだという稚拙な指針も勇者のように。この恋に終わりなんてきっとない。
「黙って俺に付いて来い」
「――・・・」
気配に呑まれ、顔を染める青島が、やがて、しょうがないなという風に口端を結んだ。
小さく泣き笑いの形に歪んだ口唇が俯き、背中を引き寄せれば、更に深いところまでゆっくりと抱き込んだ影が重なった。
「うんと言ってくれるな青島。・・・頼む」
「・・・、あんたこそ・・、もっかい言ってくださいよ・・・」
歩幅が狭まって、重なり合っていく。
好きと言うだけじゃ、もう足りないものを背負って。
まっさらな場所から何度だって始めていける。君となら。
とりあえず初めは、あの日のキスからもう一度。
「・・・あんたと、切れちゃうのが・・・いちばん怖かった」
室井は薄っすらと微笑んでいた。
もう、あの涙を見ても、胸が苦しくなることはないだろう。
「今夜も、帰さない・・・」
どう転ぶか分からない未来を、怯え、躊躇い、間違いながら、それでも選んで人は歩いていく。
信じて、倖を欲しがって、現実を生き抜いていく。
せめて今が倖であれと心に願いながら。
20161112
happy end

後発の参加組ですが室青ファンとして先輩ファンの方々に温かく迎え容れてくださり本当に感謝です。ここまで室青に浸れているのも皆様のお陰です。これから
も(私の萌えが尽きるまで)宜しくお願い致
します。
一週間お付き合い下さいましてありがとうございました!
キスシチュを探してググっていたら「キスお題ったー」診断メーカーなるものがあって試しに「俊作」と入れた結果。
『俊作さんにオススメのキス題。
シチュ:「倉庫」、表情:「泣き顔」、ポイント:「抱き締める」、「自分からしようと思ったら奪われた」です。』
一回の挑戦でこれが出るってどうなの。やっぱり青島くんってそうなの。倉庫って新木場か。本気でこれ使おうかと思った。